砂漠巨獣8
「バオオオオオオオオオオンッ!」
作戦会議を終えたスピカ達の意識を塗り潰すように、バハムートの雄叫びを上げた。
もうバハムートは船に間近まで接近している。バハムートにスピカ達の作戦を止めよう等と考える頭はないだろうが、人間達にとっては短期決戦に持ち込まれるのが一番好ましくない。
まずは一旦距離を取らなければ。しかしどうすれば良いのか? 大砲も通じない相手に、スピカのみならずカペラや船員達も作戦など思い付かない。
「があああああああああああっ!」
ただ一人、ウラヌスだけは行動を起こした――――船にいる人間達がひっくり返るほどの大声で。
圧倒的な身体能力の持ち主であるウラヌスは、肺活量も人間を超えていた。その肺活量を活かして発せられた声も人間離れしたもの。
ただの大声と言えばそれまで。しかし突然の大声に驚くのは人間だけではない。
バハムートも同じだ。
「バォウッ!?」
恐怖で錯乱しているバハムートにとって、その大声は身体を強張らせる理由足り得る。転倒こそしなかったが、強張らせた身体では前に進めない。
その間に船は大きく前進。バハムートとの距離を再び稼ぐ。
「おお、意外となんとかなったな!」
ちなみにこの結果はウラヌスにとっても予想外だったようで、彼女自身驚いていたが。
「な、なんて声だ……」という声があちこちから上がるも、ウラヌスのお陰で助かったのは間違いない。賞賛の眼差しがウラヌスに集まる。
とはいえバハムートはすぐに船を追い始めたため、暢気に話し合っている暇はない。
「(これで我に返ってくれれば最高だったけど、そうはならないか……!)」
錯乱したバハムートに、この船がどう見えているのか。それは分からないが、この様子だと『脅威』の全てを破壊するまで止まりそうにない。
甘い期待は全て捨てる。確実に、絶対に、バハムートは倒さねばならない。
では、どうするのが最適か? スピカが考えるに、まずは傷口を作り出すべきだと思う。
この薬は基本、体内に直接打ち込んで使うものだ。獣の骨を削って作り出した容器の先は尖っており、これを(可能なら太い血管に直接)突き刺して体内に薬液を送り込む。効果が出るまでの時間はほんの数十秒程度。極めて急速な反応故に負担は大きいが、セルケトの毒自体が即効性なためこうして使わなければ間に合わない。経口でも効果は出なくもないが、弱い上に効き目が出るのは数十分後。これでは役に立たない。
バハムート相手にも同じだ。数十分後に効いたところで、その頃にはスピカ達全員が砂漠の上を歩いているだろう。傷口に薬を叩き込む以外にない。無論、錯乱している野生のバハムートが大人しく傷口に薬を塗らせてくれる筈もなく、そもそも傷口を作らせてくれるとは思えないが。
しかし希望がない訳ではない。
「(多分傷口は何処かにある筈……!)」
バハムートの恐慌状態を考えるに、生命の危機を感じた筈だ。
どんな存在と出会ったかは分からないが、仮にそれが生物なら、単に鉢合わせただけではここまで恐怖はするまい。襲われ、例えば爪で引っ掻かれたりして、初めて恐怖になる筈。ならば何処かに生傷があると考えるのが自然である。
その傷口に薬液を流し込めば、こちらの勝ちという訳だ。
とはいえ野生動物であるバハムートにとっても、傷口を晒す行為は生命に関わるもの。恐怖で錯乱しているとはいえ、迂闊に見せてくれるものではない。そもそも何処に傷があるか分からないという問題もある。
一人では見付けられるか分からない。なら、数の力に頼るのが一番良いだろう。
「カペラ! みんな! バハムートの何処かに傷がないか探して! 特に普通なら見えない位置を注意!」
「分かった! 皆も頼むぞ!」
「「了解!」」
スピカの要望に、カペラと傭兵達が答える。誰もが船から身を乗り出し、迫りくるバハムートの姿を観察する。
……スピカは大きく目を見開き、注意深くバハムートを見た。
全身くまなく見た、とは言えない。しかしそれでも、出来る限りバハムートの身体を観察した。カペラや船員達も同じ筈だ。何十という目が、命懸けで観察している。
しかし誰も、傷の存在を語らない。
誰一人として怠けていた訳ではあるまい。ただ、バハムートの傷跡が自分達ではどうやっても見えない位置にあるのだろう。いや、もしかするとそもそも傷がないのかも知れない。傷がある、というのはあくまでもスピカの予想なのだから。
ないものはない。人間がどれだけ祈ろうと、どれだけ頭を働かせようと、現実はひっくり返らない。
「(考えろ考えろ考えろ! どうやれば傷口に薬を練り込める!? それさえ出来れば、それさえ……!)」
バハムートを睨み、考えを巡らせるも、答えは出てこない。逆にバハムートの血走った瞳を見てしまい、怯むように後退りしてしまう。
そしてバハムートは止まらない。猛然と、こちらを見ているかすら分からない虚ろで狂った眼のまま、一直線に船へと突撃してくる。
「も、もう駄目だぁ!」
「ここまでか……!」
若い船員が悲鳴を上げ、傭兵の一部が達観した声を漏らす。迫りくる死を前に、ついに誰もが諦めを抱く。
だが、スピカは知っている。ただ一人、自分と同じく最後まで諦める気など毛頭ない奴がいる事を。
「ウラヌス!」
「おうともっ!」
『相棒』の名をスピカが叫べば、ウラヌスは期待通りの力強い返事をしてくれた。
「今から作戦を伝える! 失敗した時だけじゃなく、成功しても死ぬかも知れないけど……やってくれる?」
「ふふん、任せろ! 命を賭した戦いは、戦士にとって誉れだ!」
死を匂わせても、ウラヌスに迷いはない。
彼女ならばそう答えると、スピカは分かっていた。見方次第ではウラヌスの気持ちを利用しているようにも思える自分の言動に、スピカは僅かに胸が痛む。
だが、他の手は思い付かない。
ならば皆が生き残るために、最善を尽くすのみ!
「良し! 頼んだ!」
「頼まれた!」
スピカの言葉に応えるべく、ウラヌスはその場から――――跳躍。
突撃してくるバハムートに向かって、船から飛び降りた!
常軌を逸した行動に、船に乗る誰もが目を丸くする。自殺行為だと言わんばかりに口を開ける者、見ていられないと目を覆う者。反応は様々だが、いずれも悲観的な反応だ。
だが、スピカだけは違う。
スピカは知っている。ウラヌスの拳は、例え巨獣相手も負けるものではないと。
鼻っ柱に打ち込まれた鉄拳により、バハムートが僅かでも怯んだとしても、スピカにとっては想定通りだ。
「バウゥンッ!? ウ……バアァッ!」
巨獣バハムートが人間一人の拳で怯む。その異様な光景は、しかし一秒と続かない。
目が悪くとも殴られれば『相手』の位置は分かる。バハムートは大きく頭を下げ、突き上げるように身体を跳ねてウラヌスに攻撃を行う!
仮に直撃を受けたなら、如何に猛獣染みた力を持つウラヌスでもただでは済まない。ウラヌスは殴った着後、バハムートに敢えて掴み掛かり密着する事で、『殴られる』という事態は避けるが……しかしバハムートの力をもろに受ける体勢で長く保てる筈もない。
「ぬ、お、おぉぉおおおっ!?」
ウラヌスは野太い声を発しながら、バハムートの後ろへ放り投げられてしまった。
「おい! お前の仲間が……!」
ウラヌスの身に起きた事はスピカ以外も目撃している。カペラもその一人で、スピカに詰め寄ってきた。
しかしスピカの返答は、カペラに対し腕を突き出して止める事。
同時に、真剣な眼差しで一点を見つめる。
カペラはスピカの見ている先に『答え』があると気付いたのだろう。それ以上の追求はせず、スピカと同じ方をカペラは見つめた。とはいえ一見してそこに広がるのは砂の大地。迫りくるバハムートより重視すべきものがあるようには見えまい。
実際のところ、スピカにも見えてはいない。ただ、彼女は知っているだけ。
そこをウラヌスが全力で走っている事を。
「ぬおおおおおあああああああああああっ! 待て待て待て待てぇええええっ!」
空気を震わせるほど激しい雄叫びが、砂漠の大地に響き渡る。
スピカにウラヌスの姿は見えていない。だが、彼女が大仰に走っている事は分かる。バハムートを追い駆けるように。
何故ならスピカがそう指示を出したのだから。
暑さに弱いウラヌスにとって、灼熱の砂漠を全力疾走するのは極めて危険な行いだ。いくら砂漠都市より涼しいとはいえ、比較の問題でしかない。比喩でなく、命を剤っているだろう。
それでもウラヌスは最後まで走ってくれている筈。戦士の誇りが、彼女を突き動かしているに違いない。
スピカに出来るのは、彼女の行動により起きる『展開』を見逃さない事。
「(さぁ、どう出る……!)」
スピカはバハムートを睨む。どんな小さな動きも見逃さないために。
最初、バハムートに変化はない。確実に、着実に、船との距離を詰めてくる。
されどその動きが、鈍り始めた。
小さな目が、頻繁に後ろを向こうとしている。
身体がそわそわと動き、落ち着きがない。
血走る目は一層色合いを刻する。身体がぶるぶる震えている。気になって気になって仕方ないと言わんばかりに。
「バオオォォウンッ!」
ついにバハムートは振り向いた。
走るウラヌスに顔を向けたのだ。錯乱により狂気に染まった形相で、ただ背後を走る小さな『人間』を見るために。
尤も、狂気に染まった瞳はバハムートの頭部の側面にある。故に振り向いた頭に嵌るその目が見るのは、自分の身体の横にあるもの――――今まで自分が追っていた、人間達の船。加えて視力も大して良くないため、ろくに物が判別出来ない。
もしも見えていたなら、驚愕によりその目を大きく見開いたかも知れない。
「思った通り……やっぱり、振り返ったわね」
弓矢を構える、スピカの姿が映るのだから。
バハムートの表皮は頑強だ。大砲の直撃を受けても、剣を突き立てようとも、ウラヌスがぶん殴ろうと、掠り傷すら負わない。新しく傷口を作りそこから薬を送り込む、という作戦は不可能だ。
そんな無敵の身体の中で、唯一柔らかいのが目玉である。
獣の目は柔らかい。全身を鱗に覆われたドラゴンだろうと、屈強な筋肉を持つクマだろうと、目だけは人の指で貫けるぐらい軟弱なものだ。バハムートの目も、恐らくそこまで頑丈ではない。弓矢でも貫ける筈だとスピカは考えていた。
しかしバハムートの目は、顔の左右に離れて付いている。これでは正面からだと非常に狙い辛い。おまけに(人間と比べれば遥かに巨大なものの)目が小さく、当てる事そのものが難しい。
弓矢で目玉を射るのに最適な状態は、至近距離で、バハムートが真横を向いている事。
つまり攻撃の直前で、不意に横を向いた状態が好ましい。普通ならばあり得ない事だ。されどこのバハムートならば、それが起こり得る。
何故なら、怖がっているから。
「(背後から気配がして、無視なんて出来る訳がない)」
バハムートは相当怖かったに違いない。後ろから、なんだか分からないが猛烈な勢いで迫る何かがいるのだから。
普段のバハムートなら、ウラヌス程度の出す足音など気にもしないだろう。気にしたとしても『用』を済ませてから振り返る筈だ。しかし今のバハムートは錯乱状態。怯えた人間が草の揺れる音に慄くように、小さな足音だって過剰に気になってしまう。それは生物としては当然の性。確認せずにはいられない。錯乱状態で合理的な動きも出来る訳がなく、反射的に動いてしまう。
全て、スピカの思惑通りだ。
「これなら、狙える!」
求めていた『立ち位置』から、スピカは渾身の力で矢を放った!
放たれた矢を、バハムートは視認出来ない。彼の小さな目は弓矢を捉えていないのだから。
たっぷりの薬液を塗り込んだ矢が、バハムートの目を貫く!
「バギィイイィアアアアッ!?」
目を射抜かれたバハムートは悲鳴と共に大きく仰け反る。苦しみから体勢を崩し、その場で転倒。
その際、振り回した尾が船を打つ。
バハムートの尾は帆柱に激突。帆を支えていた柱が一本、めきめきと音を鳴らして倒れた。更に柱は船の甲板を砕き、深くめり込む。
船舶の一部が砕けた事で、船体が大きく傾いた。スピカは素早くその場に座り込むが、船体の急激な傾きに伴う衝撃で身体が浮かび上がった。こうなっては座ったところで安定なんて得られない。
「くっ……!」
スピカは咄嗟に、垂れ下がったロープを掴む。しかしスピカの力では体重を支えられず、衝撃でその手を離してしまう。
スピカは船から放り出され、砂漠の海に墜落。乾ききったふかふかな砂は墜落の衝撃を和らげてくれたため、数メトルの高さから落ちても怪我をせずに済んだ。スピカ以外にも何人か落ちてきたが、誰もがすぐに立ち上がる。人間の方はなんとか無事だ。
されど船が受けた損傷は大きい。
船は大きく傾き、段々と減速。零れ落ちた錨により、動きを止めた。錨が落ちるまでは進んでいたので、引き上げたらまた砂漠を進めるかも知れないが、帆の一部が折れたとあっては大した速度は出せまい。バハムートの追撃を躱せるのはここまでか。
そのバハムートは、激しく暴れ回っている。
目を射抜かれたのだ。悶え苦しむ事自体は当然だろう。だが、口から泡を吹き、胸ビレをビクビクと震わせるのは明らかに異様。痛み以外の理由で苦しんでいた。
薬の効果だ。スピカはそう確信した。
とはいえ効果があるのは作戦の前提に過ぎない。問題は、これで死ぬのかどうか。
頼むから死んでくれ。スピカは必死に祈りながら、バハムートを見つめる。すると、その祈りが通じたのだろうか。
バハムートはスピカの方を見た。
そして身体を左右に揺らしながら、スピカ目指して突進してくる!
「ちょ、嘘でしょ!?」
現実逃避など滅多にしないスピカが、否定の言葉を叫ぶ。だがバハムートは構わず、猛然と突進し続ける。
自分が攻撃したと何故気付いたのか? どうやって自分の位置を割り出した? 次々と浮かぶ疑問がスピカの足を鈍らせる。一緒に落ちた船員や傭兵も、砂に足を取られて立ち上がれず。そうこうしているうちにバハムートはスピカ達の眼前まで迫り――――
ずどんっ、と音を立てる激しさで、その場に崩れ落ちた。スピカの真正面、ほんの数メトルの位置で。
「…………………………えっと」
動けなかったスピカの口から漏れる、困惑の声。
バハムートは『敵』を前にしても、もう動かない。頑強な身体は急に萎み、くたくたと液状化したように潰れる。半開きの口からは泡と共に舌が出ているが、一番大事であろう呼気は一向に出てこない。
そしてスピカが射抜かなかった方の目が、段々と白く濁り始めた。
見た目だけで生物の生死を判断するのは、極めて危険な行いだ。それで『痛い目』に遭った冒険家の話は、文字通り飽きるほど聞いている。しかしそれでも、これまで様々な生物の死に様を見てきたスピカは直感的に理解した。
このバハムートはもう、動かない。
砂漠の王者は、今、亡骸と化したのだ。
「……ふ、ふへ、は、は」
その事実を前にして、スピカはその場にへたり込む。勝利の余韻に浸る事も、作戦通りにいったと勝ち誇る事もしない。ただ乾いた笑いが口から漏れ出て、目をぴくぴくと痙攣させるばかり。
更に呼吸が乱れ、心臓がバクバクと音が聞こえるほど波打っていた。このままでは死んでしまうのではないかと思うほどに。
今になって実感する、自分の身体を満たしていた恐怖の反応。自覚していなかっただけで、自分の身体もかなり恐怖に取り憑かれていたらしい。
やはり勝つのは冷静な方だなと、自分の気持ちに気付かないぐらい焦っていた事実に言い訳をしながら、間抜けにもこのまま死なないようにスピカは少しずつ息を整えるのだった。




