58.彼の母親について少し
控室に最後まで残っていた熊野女史と挨拶を交わすと、姉と父が僕の様子を伺うようにこっちを見た。
どういう関係の人間なのか、僕に説明を求めているのだろう。
「熊野様、紹介が遅れて申し訳ありません。
こちら、うちの父と姉です。」
「これはこれは、東亀がお世話になっております。」
わざとらしく仰々しい定型句を白々しく父親が口にする。
その横では姉が軽く会釈をした。
「それで、こちらは、熊野様。
ちょっと前に本家のことを仕事で調べた関係で、この間やりとりしたんだ。」
「本家の関係?」
姉が眼光鋭く切り返すと、熊野女史は柔らかく笑った。
その表情は、まだ日本が豊かだった時代を通り過ぎて還暦を迎えた女の余裕と、本家に翻弄された身の上の切なさの両方を思わせた。
「熊野と申します。
浮世家の末の息子の産みの母でございます。」
月見之介の母親だと名乗る彼女の口上に呆気に取られて絶句した父と姉に断り、僕は熊野女史を控室から連れ出した。
少し遠くから、良く通る声がしめやかに話しているのが聞こえた。
住職の声か何かで、葬式の始まりを告げているのだろう。
会場となっている寺の本堂を避けるため、少し入り組んだ作りの裏手の通路を進むうちに、住職の声が読経を始めたが、通路を進むうちにどんどんと遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
勝手口にあったつっかけサンダルを拝借して薄暗い建物の外に出ると、視界が明るく開けて、春の陽の光が僕らを包んだ。
埃っぽい空気を吐き出したくて、伸びをしながら深呼吸をすると、うぐいすの鳴き声がどこかから聞こえて、何でこんなところに来たのか、一瞬忘れてしまいそうになった。
「あの、もう式が始まったようなんですが。」
熊野女史は春の陽気に早速ほだされた僕に気まずそうに言った。
「そうですね。
まあ、でも、参列者が多いですから、焼香するだけで1時間くらいかかりますよ。
ちょっとしたらさりげない風を装って戻りましょう。」
熊野女史は少し考える素振りを見せ、それから何を言うでもなく首を縦に振った。
考えるのを止めたのだろう。
「急に連れ出して申し訳なかったです。
ただ、うちの家族も月見之介さんにはあまりいい印象を持っていないものですから、とりあえず引き離した方がよいかと思いまして。」
「そうですか、それは、軽率でした。
失礼いたしました。」
「いえ、こちらも、今日熊野様と会うことは想定していなかったので。」
ただの世間話のつもりでそんなことを言うと、熊野女史はもう一度、もの悲しさを感じさせる柔らかい表情でほほ笑んだ。
「おっしゃる通りです。
浮世家の方に呼ばれたわけではなく、一般の弔問客として伺いました。」
「そうですか、それはそれは。」
何を言っていいのかわからず、僕は曖昧に相槌を打った。
熊野女史は、それを聞いてか聞かずか、見知った顔がいて思わず声をかけてしまったと言い、申し訳なさそうな顔を見せた。
「知っている人はいるにはいるのですが、私は浮世家というより、故人との個人的な関係のある人間と見なされておりまして、むしろ歓迎されていないと言いますか、何と言いますか。」
「なるほど。」
もう一度、わかったような相槌を打ちながら僕は頭を巡らせた。
確かに、次の当主になることが見込まれている人間の兄弟の母親で、しかもその兄弟が婚外子だとくれば、次期当主がわざわざ葬式に呼ぶ理由もあるようには思えなかった。
「つまり、乗り込んできたと、そういうことですか。
あえて乱暴な言い方とすると。」
「そうですね。」
口角を少しだけ、よく見ていないと気付かないくらいほんの少し緩ませながら、熊野女史は答えた。
「『その葬式、ちょっと待った!』と叫んで、お寺の住職さんの読経をやめさせようというわけではないですが。」
「結婚式でもそんな演出滅多にないのに、葬式でそれはちょっと面白いですね。」
熊野女史の口から出たとは思えない言い草に、僕が笑いながら軽口を返すと、彼女の顔の表情は一層柔らかくなった。
だが、その途端に彼女の表情が曇り、感情が見えなくなった。
彼女の視線はこちらを向いてはいるものの、酷く遠くのどこかを見ているような、そんな印象を思わせた。
「うちの息子のは、何もないままでしょう?
それを考えると、何だかいてもたってもいられなくなってしまって。」
熊野女史は絞り出すように言って、それから押し黙った。
春の暖かなのどけさをかきまぜるように、気まぐれな晴風が突然強く吹いて、境内に舞い落ちていた桜の花びらが宙に舞った。
「遺体も、届く様子がないらしいですね。
小耳に挟みました。」
「船便で送るとか送らないとか、そんなやりとりをメキシコの方としていると聞きましたが、なんとも。」
その時点で月見之介が死んでから丸2年が経っていたが、死体がメキシコから送られる気配はまだ微塵もなかったらしい。
やっとのことで手配された船便で送られてきた棺桶の中で、月見之介の遺体はドライアイスの煙になって消えてしまったという話を僕が聞いたのはもう少し後のことだった。
「息子が帰ってきたら、ちゃんと葬儀をやろうと、そういう話をしていたんです。
でも、そんな矢先に、当の本人がコロナで倒れるなんて。
私、腹が立って腹が立って。
本当に、昔からそう。
何から何まで話が違うんだから。」
「あの、熊野様?
そうおっしゃいますと?」
「故人の話ですよ、あのホラ吹き。
いつも場当たり的なことばかり言うんですから。」
「というのは、つまり、今日の式の?」
「ええ、浮世家の、亡くなった当主の話です。」
「あ、左様ですか。
それはなんとも。」
遠くを見て塞ぎ込んだかと思っていたら、急に怒り出した熊野女史を宥めながら、どうやら僕は思い違いをしていたのかもしれないと考えた。
「あの、熊野様。
つかぬことをお伺いしても?」
「はい、何なりと。」
「私が聞いていたところによると、熊野様は月見之介を産んでからしばらく産休を取得し、2年後に月見之介を養子に出して、それから以前の勤務先だった役所に復職し、そこを10年勤めた後に辞めて行方不明になったということでしたが、違いましたか?」
熊野女史の表情が、悪いものでも食べたかのように歪んだ。
「一体それを誰から聞いたんですか?」
「月見之介がそう話すのを聞いたという人とメキシコで調査をしていた時分に会いまして。
あれ?
でも、そうすると計算が合わない。」
「計算というのは?」
「月見之介が8歳か9歳の時に、一度熊野様に会いに、当時の勤務先に行っているらしいんです。
隣町の役場だと聞いています。
その半年後にはそこからいなくなっていたとも。」
「あの子がそんなことを。」
「はい。」
「塔谷さん。」
「はい?」
熊野女史の声のトーンに怒気が含まれていたせいで、思わず僕は間の抜けた言葉で聞き返した。
「その話、どうして報告書には記載がないのでしょうか?」
「いえ、それは。
調査の本筋には無関係ですから。」
「なぜこの前お会いした時に、その話を教えてくれなかったのでしょうか?」
「いえ、その、つまりですね、その時は熊野様が月見之介さんのお母様だとはにわかには信じられずですね。」
「信じられないだなんて。
そうお伝えしたじゃないですか。」
「いえ、まあ、そうなんですが。」
「酷いですね、お金までしっかりお支払いしているのに。」
「いえ、でも、それは本家から出たお金だとおっしゃってましたよね?」
「信じられない。
お金までお支払いしているのに。」
非難めいたトーンで同じことを二度口にした熊野女史の気迫にたじろいで、僕は瞬きを二度、三度と繰り返した。
彼女の視線は遠くから僕の方に戻ってきて、しっかりとこちらを見ている。
眉毛がほんの少し内向きに歪んでいる彼女の表情が、屁理屈をこねて僕のことを詰る月見之介のことを思い出させた。
怒っている表情が似ているせいか、親子というのは本当なのかもしれないと、その時ようやく思い始めた。
「でも、そうなんですね。
あの子、私に会いに来てくれたことがあったんだ…」
「ええ、そういう話です。
で、半年後にはいなくなっていたと。」
「そうですね。多分、ちょうどそのくらいに仕事を辞めたんだと思います。」
「そうですか。
又聞きですが、家族の介護で離職したと聞いてますj。」
「それはね、方便なんですよ。」
「方便?」
「ええ。」
「つまり、嘘ってことですか?」
「ええ、まあ。」
「それは、聞いていた話と違いますね。
元々又聞きですので、何とも言えませんが。」
「塔谷さんだって、本当のことを言っていないじゃないですか。
お互い様ですよ。」
「嘘をつくのと、本当のことを言っていないのは大分違うと思いますが。」
「まあ、それはともかく。
そうなんです、仕事を辞めて、行政書士になりました。
公務員の特認制度を利用したんです。」
「特認制度?」
「はい。
17年、公務員をやると、行政書士に登録できる資格が得られるんです。
それで、そのくらいの時期に登録しました。」
「初耳ですね。」
「最初から、そういうつもりでこっちの役場にお世話になったんです。
想像もしていなかった紆余曲折がいろいろと折り重なりましたが、何とか元々の目標だけは形になりました。」
「紆余曲折ですか。」
「ええ。
自分が母親になるなんて、予定になかったんですよ。
しかも、籍も入れずに。」
「どうしてまた、予定のないことが起きてしまったんですかね?」
「どうしてって?」
熊野女史は、信じられないものを見るような目で僕を見た。
「塔谷さん、お子さんは?」
「子供ですか?
いません、もちろん。」
「ご結婚も?」
「はい、予定も見込みもありません。」
「ああ、そうですか。」
「え?」
「今の塔谷さんにはおわかりにはならないと思いますよ。」
熊野女史は微笑んで、そう言った。
後から考えると、彼女は失笑していたのだと思う。
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「なあ亀やん、映画の『オール・アバウト・マイ・マザー』って見た?
芸術映画っぽい、なんかちょっと分かりにくい感じのやつなんだけど。」
葬式の後、思いがけず熊野女史に会った話を蟹沢さんに雑談がてら報告すると、電話の向こう側で蟹沢さんはちょっと笑って、それから唐突にそう言った。
「いえ、見てないです。」
「そっか、亀やん見てないか。
そっかそっか。」
「あの、蟹沢さん?
今、映画の話してないんですが。」
「もちろんわかってるよ。
熊野先生の話だよね?」
「先生?」
「そうそう、行政書士の熊野先生。」
「蟹沢さんはご存じだったんですか?」
「うん。
この前亀やんに会いたいって連絡をもらった時に、メールの署名に、行政書士って書いてあったからね。
話を聞きたいだけってわかるまでは、専門職が厄介事をもってきたかと思って冷や冷やしたよ。」
「何で教えてくれなかったんですか?」
「それ、逆に、何で聞かなったの?
俺にじゃなくて、熊野先生に直接聞いても良かったのに。」
そこまで話して、この間熊野女史に会った時は、彼女の仕事について一切聞かなかったことを思い出した。
「まあとにかくさ、亀やん。
『オール・アバウト・マイ・マザー』、見てみるといいよ。
熊野女史に最初に会った時、亀やんはどう思ったのか知らないけどさ、人に歴史ありってこと、わかると思うよ。
この仕事ってさ、家出人の捜索とか、浮気調査とか手掛けるじゃん?
それで、それなりに色々わかったような気になることも多いけど、実際のところ、人間ひとりのことなんて、多少調べただけじゃわかんないもんだよ。
内面の話は特にそう。
それが子供を産んでる母親だっていうなら、そりゃ猶更よくわかんなくて当然だよ。
ほんの少しのことだって、わかろうとして、でもわからなくて、興信所を使う人が、うちの商売が成り立つくらいにはこの世の中にたくさんいるんだから。
亀やんだって、思い当たること、あるでしょ?」
蟹沢さんの言葉は、いつになく迂遠で、はっきりしなかった。
結局、蟹沢さんが何を言いたいのかは、今になるまでよくわかっていない。
失笑していた熊野女史が言いたかったことも。
それは2022年の春の頃のことだった。
勧められた映画も見ないまま、もうあれから随分経つ。




