55.熊野母
本家の当主がコロナウイルスにかかって、もう長くないという話を聞いたのは、2022年の年始のことだった。
新年の挨拶がてら、実家へ電話をかけたら、両親が口ごもるので、問いただそうとしたら、電話口に姉が出て、本家の当主がコロナにかかっていると教えてくれた。
「咳が止まらなくなって、町の病院に運び込まれて、面会謝絶だって。
胸が痛くて、気管支炎も併発してて、熱も出てて、ひゅうひゅう言ってるって。」
姉はそれだけ言った。
その後ろで、もごもご言っていた両親が黙ったのが、不思議と電話口の反対側からでもわかった。
僕もまた黙ってしまった。
なんて返せばいいのかわからなかった。
正直に言えば、長きに渡り君臨してきた前時代的な専制君主の崩御を祝う民衆のような気分だったが、人間一人が死にそうになっているのをあからさまに喜ぶのは気が引けた。
「なるほど、本家の主筋のみなさんはそれは忙しいだろうね。」
「どうだか。
あそこの長男、見るからにはしゃいじゃって。
こないだも用もないのに私に電話かけてきたよ。
一族の結束がどうのこうのとか言って。
私はもう本籍も違う、よその家に行った他人だって言ってやって電話切ったけど。
あんたのところにも電話なかったの?」
僕は携帯電話にかかってくる電話は、明らかに誰からとわからない限り取らないことにしていると伝えた。
「そりゃ随分身勝手な話だね。
お兄のところにも会いたいって電話かかってきたらしいけど、コロナを伝染すようなことになったら本家に申し訳が立たないからって断ったって。
ここしばらく、調子なんか崩したことないくせにね。」
「それもまたなかなか。」
「うちのお父さんとお母さんだけみたいよ、本家に何か言われて右往左往してるの。
はっきり言って断ってやればいいのに。」
「間違いないな。」
そんな調子で一しきり軽口を叩いた後、姉の子供たちの声が聞こえてきて、その話題は終わった。
かつて、僕に会えなくて寂しいと言ってくれた甥っ子と姪っ子は、コロナのせいで長い間顔を見せない僕のことを、もはやすっかり忘れ去ってしまったみたいだった。
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その翌々週、2022年の最初の月が終わる前、僕は何故か本家の当主が入院しているという病院の待合室にいた。
携帯電話を見て、帰りのバスの時間を調べ終わると、手持ち無沙汰になった。
面会までに時間がかかりそうだったので、両親と姉に連絡を入れる。
両親からは返事がなかったけれど、姉からは、どうして急に病院に行くことになったのか問いただすメッセージが返ってきていた。
「塔谷さん?」
返信の文面を考えながら、スマートフォンの画面をスワイプしていると、女の声が僕の苗字を呼んだ。
声のした方に顔を向けると、ダウンを着込んで、ニット帽を被った背の低い女がこっちを見ていた。
「熊野です。
あの、浮世家の方から、こちらでお会いにするように言われてまして。
お待たせしてしまったみたいですね。」
「ああ、いえ。
大丈夫です。
塔谷東亀です。
よろしくお願いします。」
女に促されて病院の喫茶スペースに移動する。
ガラス張りの窓で、外の光をたっぷり取り入れるような設計になっていたが、その日は生憎の曇り空で、まだ午後の早い時間だというのに屋外は薄暗く、そのせいで抑えた室内の光が寒々しかった。
マスクとビニール手袋をつけた若いウェイターがやってくると、彼女はメニューを見ることなくコーヒーを頼んだ。
僕も同じものを頼むと、ウェイターが僕らのテーブルから離れた。
「今日はどちらからお越しになったんですか?」
「横浜の方から来ました。
勤務先がそっちで、住まいもその近辺でして。」
「そうなんですね。
ご足労いただいてしまって、すみません。」
「いえ。
お住まいはこちらの方なんですか?」
「ええ。
もうこっちに越してきて、30年以上になります。」
女はニット帽を取り、ダウンジャケットのジッパーを開けた。
マスクは付けたままだったが、それでも目の周りの皺から、60前後であることが推して知れた。
ウェイターがやってきて、コーヒーを2つ、テーブルに置いた。
女は礼を言い、それから備え付けのミルクと砂糖を無造作にコーヒーの中に入れた。
「実はですね、よく要件を伺わないままでして、できればちょっとその、用向きを確認させていただけるとありがたいんですけれども。」
できるだけきつく聞こえないように、言葉を選んで僕が言うと、彼女は頷いた。
「ええ、存じております。
なるべく余計なことはお伝えしないように、お願いしたものですから。
要領を得ない話なのに、こちらにお越しいただいて、本当にありがとうございます。」
僕は返事をせず、マスクをずらしてコーヒーに口をつけた。
視界の端に、マスクをつけたウェイターが2人、こちらを向いたまま、何かこそこそと話しているのが見えた。
コロナが流行り始めた2年前のように、田舎に帰省する人間を病原菌のように扱う風潮はもはやなくなっていたけれど、どうにも気になった。
「それで、今日塔谷さんに来ていただいたのは、息子のことなんです。」
「はい、上司の蟹沢から聞いております。
息子さんのことでうちの事務所に依頼したいということですよね?
以前本家から依頼があって、家出人の捜索をやらせていただいたからと理解してます。
もしかしたら聞いておられるかもしれませんが、うちの事務所、コロナの前は国外の人探しや調査で仕事をしていました。
でも、もう今はあんまりやっていないんです。
案件もほとんどないですし、何より調査に出掛けるための交通費が高くて、経費がすごくかかるようになってしまいました。
なので、御期待に添えないかと思います。」
「あの、違うんです。」
本家から蟹沢さん経由で連絡が入り、会うだけで相談料がもらえるからどうしても行ってきて欲しいと懇願される形で、こんなところまで来た苛立ちが混じった僕の言葉を、熊野と名乗る女は遮って、言った。
「新しい依頼というのではなくて、息子というのは、違うんです。」
「と、おっしゃいますと?」
「2019年に調査していただいた浮世月見之介です。」
「はい?」
月見之介の名前が出てくると思っていなかった僕は眉を顰めた。
僕の目の前にいる女は、申し訳なさそうに苦笑した。
「息子なんです。」
「息子?」
「はい。」
思わず僕は体を乗り出し、彼女の目元をまじまじと見た。
ソーシャルディスタンスが意識されるご時世でそんなことをする僕を見て、視界の端のウェイターが目を丸くするのがわかった。
「月見之介は、私の息子です。」
「ええと、そうすると、あなたは?」
「月見之介の母親になります。」
「戸籍上は違いますよね?」
「血縁上は母親です。」
「あの、失礼ですけど、お気は確かですか?」
「ええ、もちろん。
何なら、浮世家の人に確認いただいて大丈夫です。」
彼女はそう言い切り、手際よくマスクをずらし、何食わぬ顔でコーヒーに口をつけた。
僕は息を吞んだまま絶句していると、スマートフォンから着信音が鳴りだした。
姉からの着信で、普段だったら仕事中に家族からの通話には出ないのだが、間を持たせるために女に断り電話に出ると、姉が一方的にまくしたてた。
「東亀?
なんか本家から変な連絡来てるんだけど。
あんたが今から会う人、身元確認済みだって伝えてくれって。
一体何の話なの?
あんた大丈夫なの?」
電話口で、一言も発しない僕を見て、熊野母も同じように言った。
「あの、塔谷さん、大丈夫ですか?」
大丈夫かどうか、僕が僕自身に聞きたかった。
あけましておめでとうございます。
あれこれ物騒な事件が続きますが、皆様の無事と安全をお祈り申し上げます。




