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54.バックアップ

 2021年になるとRNAワクチンが実用化されて、ようやく感染症の流行への対処にも、明るい兆しが見え始めた。

 その後もしばらく、じっと身を潜めるような日々は続いたけれど、年末を前に蔓延防止措置は解除されて、ようやく人と会っても世間体が悪くならなさそうな雰囲気になった。

蟹沢さんと実際に顔を合わせて酒を飲んだのもこの時期のことだった。


「オンラインでほぼ毎日話してるのにさ、まるまる2年も顔を合わせて話したことがないっていうのは、また随分変な感じだったよな。」


 中華街で天心をつつきながら、ビールを飲み下す蟹沢さんはそんなことを言った。

 まるで新型コロナウイルスの流行はもう終わったみたいな話ぶりだった。

 きっと彼は一度も感染していないのだろうなと僕は思いつつ、バヒア・トルトゥガスでの調査終了の判断の裏話を聞いた。

 前述のとおり金の話で、事務所としてはあれより長く人員ひとりを割り当てて、金になるのかならないのかわかりゃしない案件を追いかけさせるわけには行かなかったんだと、そういう説明だった。

 僕は納得行かないながらも、まだ月見之介の遺体が日本に送られてくる素振りが何もないのだと、両親と電話をした時に聞いた話をした。


「でも書類は依頼人に届いたんだよな?」

「ええ、でもそこにはいつ頃どういう形態で送られてくるって話が一切書いてないらしいですよ。

向こうにも外務省経由で問い合わせてもらっていたけれど、話が動いたらこっちから連絡するの一点張りだそうです。

全然相手にされていないみたいです。」

「やっぱりな。

あの時ピンと来たんだ。

こりゃまずいって、ね。

もしあのまま亀やんがメキシコにいたら、未だに日本に帰れてなかったかもしれないね。」


 僕は返事をせず、空いていた蟹沢さんのグラスに瓶からビールを注いだ。


「それとも、あのままメキシコにいたかった?

亀やんが気に入ったんなら、またメキシコの案件取ってくるけど。」

「最近はそんなに案件もないでしょう?」

「どうかな。

今年の年始に駐在員はまた任地に戻っているから、案件がないわけでもないよ。

うちで積極的にとってないだけだね。

大体、企業がらみの話ばっかりだし。」

「というと?」

「リモートワーク全盛のご時世だから、従業員の管理が大変なんだってさ。

以前は四半期ごとに海外支社に監査がてら出張者が行ってて、何となく管理ができていたけど、今じゃもうその辺りは全然ダメらしい。」

「日本企業の駐在員の話ですよね?

もともとそんなに管理ができていたようには見えませんでしたけど。」

「そうは言っても、定期的に人の目が入るってのはやっぱり意味があったみたいだよ。

従業員同士で示し合わせて、おかしな稟議をなあなあで通すとか、そういうのはある程度まで防止できてたみたいだし。

現地職員に対するハラスメントとかもあったりするしね。

あと、風紀の乱れとか。」

「何にしても、救いのない話ですね。」

「メキシコの日本企業の案件もぽつぽつあるって話だよ。

亀やんがやる気あるなら取ってくるけど?」

「蟹沢さんめっちゃメキシコ推してきますね。

ちょっと考えさせてください。

そもそも言葉が話せませんので。」

「その割には、ずいぶんしっかり現地で情報取ってこれてたよね。」

「たまたま通訳の人間が見つかったんですよ。」

「浮浪者の子どもだったっけ?

ラッキーだったよね。」

「最初、普通に強盗でしたけどね、あの子ども。

あそこで身ぐるみ剥がれてても、全然おかしくなかったです。」

「まあまあ、結果ラッキーだったってことで。」


 蟹沢さんと食事を終えた後、無理を言って貸してもらった事務所のノートパソコンを持って家に帰った。

 すっかり寒くなっていた部屋のガスファンヒーターのスイッチを入れて、手洗いうがいを終えると、早速ノートパソコンの電源を点ける。

 画面ロック解除のメニューを選んで、メキシコから帰ってきて以降、ずっと触っていなかった月見之介のiPhoneをUSBケーブルで接続する。

 それから、うちの事務所で業務用に使っているiPhoneのパスワードロック解除専門のソフトウェアを立ち上げると、シンプルなユーザー・インターフェースが表示された。

 画面の指示に従って操作すると、iPhoneを初期化できる。

 初期化した後、Apple IDの入力画面に移る。

 自分の携帯でもう10年近く使っているGmailの履歴を確認する。

 自分から自分へ送ったメールを表示すると、何年も前、まだ僕が大学にいて、月見之介が初めてiPhoneを購入した時に設定したApple IDとパスワードが見つかった。

 なるべく期待しないようにしながら、iPhoneの小さなソフトウェアキーボードで入力すると、あっけなくログインできた。

 そのまま順にそって進んでいくと、難なくiCloudからバックアップを復元することができた。

 最後のバックアップの日は2019年12月、僕がバヒア・トルトゥガスに到着した日付だった。

 月見之介が死んだ後も、スマートフォンは情報をアップロードし続けているのだと思うと、あまりぞっとしなかった。

 しばらく放置しておいたら、WhatsAppやInstagramが自動でダウンロードされたけれど、ログインはできなかった。

 撮影されている写真を確認してみると、日付の新しい順に、たくさんの写真が並んでいた。

 バヒア・トルトゥガスで会った、正気を失いかけている女の半裸の写真から始まり、バハカリフォルニアの荒野の写真、巨大なサボテンの写真が続く。

 やがて海辺の写真が目に付くようになり、次に子供たちの写真。

 見覚えのある若いアメリカ人たちの写真もあった。

 照らされて黄金色に反射する海を背景に、まぶしそうに目を細めるパコとサブリナ。

 どこか別の海辺でテントを張って、焚火を囲む人たち。クロスバイクに乗って荒野を行く若者。

 エンセナダの町。

 ティファナのいかがわしい通り。

 メキシコじゃ見かけない、いかめしい無機質なつくりの建物。

 サンディエゴ-ティファナ国境。

 サンディエゴの長距離バス(グレイバウンド)乗り場。

 また別の、メキシコじゃ見かけない、いかめしい無機質なつくりの建物。

 ハリウッドのサインを正面から見据えた風景。

 飛行機。

 サンフランシスコ。

 サンノゼ。

 健啖家のナタリア、受付の向こうで座って、まじめな表情。

 ミシェルと、よく知らない別の女、2人ともスーツ姿。

 ミシェル、笑顔を浮かべて。

 ミシェル、唇を尖らせて。

 ミシェルと月見之介、2人とも笑っている。

 ミシェルと月見之介、顔を寄せ合って、まるでキスをし始める1秒前のように親密に。

 そこまで写真を確認したら、何だか無性に飲まないとやっていられない気分になって、冷蔵庫からビールを取り出して勢い任せに缶をあおった。

 蟹沢さんと食事していた時もある程度飲んではいたけれど、急に全然飲み足りないような気になったので。

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