50.フィルターバブルド・エコーチェンバー
惨めさは視線を内向きにして、膜を作る。
自分の体を覆ってしまう、無色透明の膜だ。
その中に空気が溜まる。
膜に捕まって逃げ場を失った空気。
私が吐いた空気。
嗚咽と涙と悔しさが溶けた呼気。
私はその膜が作る泡の中で、思う存分、自分のことを可哀想だと思う。
自分のために、自分の惨めさに、自分の短慮に、自分の馬鹿さ加減に、惨めにさせられて、息を吐き、また吸い込む。
ラ・パスの町の通りを、フラフラと歩いて、11月の夜の空気を吸い込む。
たくさんの人達が産んだあの熱気はもうここにはない。
海からの風に溶かされて、どこかに行ってしまった。
そのまま私は、意識を失ったように暗い中を歩き続けたら、太陽が夜空の端から見えてくる頃、彼に会った。
いや、会ったというか、彼を見つけた。
最初は路上に、誰かの汚れた服が捨てられてるんだと思った。
踏みつけれて、泥だらけで、元々何の色だったのかわからないほど黒ずんでいる。
でも、それも良く見ていると、血が黒ずんだところだったり、青痣だったりと、意味を成してくる。
人の体には思えない一部分から目を離し全体を見るようにすると、人間の輪郭が見えてきたけれど、それも傷だらけで、私は息を飲んだ。
傷だらけの人間の、目らしきものが瞬いて、英語で呻いた。
「助けて。
助けてくれ。」
もう今すぐにでも死んでしまっておかしくなさそうだった彼を、どうして助けることにしたのか、今考えてもわからない。
それでも私は彼を抱きかかえて、体を起こさせようとした。
彼は痛みのせいか、大きな声をあげて、私はそのせいで彼の体を地面に打ち付けてしまった。
何度かそうするうちに、どうにかして彼も立ち上がって、私が貸した肩に寄りかかって、どうにか歩き出せた。
私は大学から少し離れた自分のアパートに彼を連れていって、そこで簡単な手当をした。
右目の下にできていた傷口を洗い、消毒液をつけて、ガーゼで傷を覆った。
右手は誰かに踏み抜かれたのか、親指と人差し指が酷く腫れていて、青くなっていた。
打撲用の塗り薬を縫ってみたものの、酷く痛がるので、インクの切れたボールペンを添え木代わりにして、関節が動かないように固定して、包帯でぐるぐる巻きにした。
足は何か所か傷があるものの、それほど大事には至っていないようだった。
怪我のない左手で後頭部を抑えて呻くので、同じように手で触ってみたところ、凄く腫れていて、指先には固まりかけた血が滲んだ。
消毒液で湿らせたガーゼで血のついていると思われる辺りを軽くこすると、彼は小さく悲鳴を上げた。
傷の処置が一通り終わると、私は彼の背中をさすって、ゆっくりと彼をベッドの上に寝かした。
「ゆっくり休んで。
色々聞かなきゃいけないことはあるけど、傷が治ってからでいいから。」
彼は口をパクパクさせて、何か言おうとしたけれど、私を見ていた目の奥が不意に濁って、焦点が合わなくなり、ゆっくりと身体の力を抜いて、眠った。
夜通し歩いて疲れていた私は、彼が寝息を立てるのをしばらく見ていたけれど、そのうち眠気に勝てなくなって、彼の横に少しだけ余っていたベッドのスペースに潜り込んで、目を瞑った。
次に目を開けた時、私の胸の中に彼が顔を埋めて、泣いていた。
一日中眠っていたらしく、カーテンの隙間から除く窓の外には、もうすっかり夜が降りていた。
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数日すると出血は止まったけれど、彼の体は思うように良くならなかった。
足の傷はすぐに良くなって、立って歩けるようになったけれど、しばらくそのままでいると酷い頭痛がして、結局また寝込んでしまう有様だった。
右手の指の腫れは良くなっていく気配がなくて、添え木で指を固定していなくても、痛みでものをつかむことがまったくできなかった。
左手は問題なく動くかと思ったのだが、左の脇腹から背中にかけて何度も殴られ蹴られたからなのか、左腕を持ち上げると左脇が引きつって、痛みが出た。
彼はずっと熱を出していて、昼夜問わず眠っていた。
食事はほとんど食べず、無理に食べさせようとすると、涙目になって首を振った。
日毎に彼は衰弱しているのが目に見えてわかった。
「少しは食べないと、体、良くならないよ。」
私がそう言うと、また彼は首を振った。
そして私を恨めしそうな目で見て、口を開いた。
「もう行かなくちゃ。
ここにいると、連中に捕まっちまう。」
「連中って?」
「警察とか。」
「あなた、何か悪いことしたの?
それとも活動家?」
「ただの浮浪者だ。
家がないから、警察に捕まると、留置所にぶち込まれる。」
「何で家がないの?」
私は聞いたけど、彼は答えなかった。
私はため息をついて、彼の背中側に回って、ウェットティッシュ代わりに使っている赤ちゃんのおしり拭きを何枚か取り出して彼の体をこすった。
「体、拭いてあげるよ。
その傷じゃシャワー浴びれないから。」
彼は酷く情けなさそうな顔で、肩越しにこっちを見たけれど、文句は言わなかった。
「どこから来たのか、聞かないんだな。」
上半身を済ませて、彼の足を拭いている私に彼は言った。
「だってあなた、質問に答えないじゃない?
何で家がないのかって聞いたのに。
外国人だっていうのはわかるけど。
あ、立膝になって。
そう。」
億劫そうに、のろのろと足が持ち上がる。
私は膝の裏におしり拭きをあてがって拭いた。
「なあ、頼みがあるんだ。」
「何?
どっか拭き足りないところでもあった?」
「そうじゃないんだ。
そうじゃなくて、西に行きたい。
連れて行ってくれないか?」
「その体のあなたを?
けがも良くなっていないのに?」
「ああ、そうだ。」
「西って言うけど、どこ?」
「そうだな、海が見えるところがいいかな。」
「海ならラ・パスにもあるでしょう?」
「ここよりもっと西がいいんだ。
連れてってくれたら、何でもするよ。」
足を拭き終わった私は、目線を彼の顔に投げる。
焦点のあった彼の目は、私を真っすぐに見返る。
でも目の奥は、熱に浮かされているのか、少し濁っているように見える。
「何でも?」
「うん、何でも。」
「無理すると体に障るよ?」
「いいんだ。
できるだけ早く行きたい。」
夜になって、二人一緒に狭いベッドに横になると、半ば眠って夢を見ていた私の胸に顔を埋めて彼は泣いた。
夢の中で、私は、自分を取り巻く無色透明の膜が、私と一緒になって彼を包みこむのを見た。
膜の内側は、この間まで私が吐き出した惨めさで一杯だったけれど、今は痛みにうめき声をあげる彼の声と、私の胸の上で流す涙が混じり合って、滑稽さを感じさせる不幸のショーケースみたいになった。
膜が作った泡の中で、私たちは涙を流し、惨めに思い、「助けて欲しい」と言いあって、その残響音のうるささに耳を塞いだ。
膜の内側、泡の中なら、私たちは好きなだけ泣き喚いて、助けを求めて、それでも助けられない自分たちのことを、ずっと可哀想に思えるに違いないと、夢の終わりに辿り着いた私は思い、それから何でもすると約束した彼に何をしてもらおうかと考えを巡らせながら目を覚ました。
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次の日の朝、私たちはバスとヒッチハイクでバヒア・トルトゥガスへ向かった。
彼の体は移動の負担に耐え切れなかったのか、彼はバヒア・トルトゥガスに着いてから最期の日までの間、一度としてベッドから起き上がることはなかった。




