42.有翼猿
カミーラ・カミネロ・モノスと名乗った通訳の子供は、フロントスクリーンを真っすぐ見つめながら話した。
話をする前までは僕の方を睨むように見るばかりだったのに、もうずっと、前ばかり見ている。
バハ・カリフォルニアの、変わり映えしない風景が僕らの前には広がっている。
砂漠と荒野の間くらいに見える景色の中、巨大なサボテンがあちこちにそびえている。
メンテナンスが行き届いているとはお世辞にも言えないアスファルトが、その真ん中を割るように、長く伸びる。
僕の運転するランドクルーザーのタイヤがアスファルトと擦れて、大きなロードノイズを響かせる。
ずっと先、地平線まで続くアスファルトは、どこかで底抜けに青い空に混じって消えてしまっていた。
何かの映画のタイトルで、包み込むような空とか、そんな表現のものがあった。
そんなことを思い出すくらいに、空間を占める空の青さに圧倒された。
僕は怖さを紛らすようにアクセルを少し踏み込み、それから一呼吸置いて、踏んだ足を少し戻した。
ランドクルーザーはそれに合わせて加速し、それからスピードを緩める。
ドローンがこの上空を飛んでいたら、雄大すぎる自然の中を、陸に上がってしまった亀がのろのろと進むように見えているだろう。
「あの赤毛のアメリカ人と会ったのは、そんな経緯だ。
あいつは国境の手前で足止めを食ってる子供に対して支援するNPOの職員だった。
何なんだか、NPOってのは。
金持ちのアメリカ人ってのは、何でそんなことしようと思うんだろうな。」
僕はパコと一緒にいたサブリナのことを思い出した。
カミーラが言うところの、金持ちの家に美人として生まれて、自己啓発の一環として慈善活動に従事するようなタイプ。
カミーラの話をまとめると、彼女自身もそんなアメリカ人の家の子供だったはずだ。
ただ、色々な巡り合わせの結果、随分違う風になってしまった。
おまえとは違う、おまえとも違う。
カミーラ・カミネロ・モノスと名乗る通訳の子供は、カミーラ・カミネロ・モノスではなかった。
本当の名前は、彼女自身も含めて誰も知らない。
「まあ、こんなところだ。
こっちじゃ珍しくもない、くだらねー話だよ。」
カミーラは吐き捨てるように言った。
「ジェラルミンケースをレストランに届けに行った時のことなんだが。
ひげ面の男にケースを引き渡した後、おまえをレストランで働かせてもらえないかって頼んだ。
覚えてるか?」
「結束バンドで拘束されてた時のことだろ?
ああいうのは、やられた方はなかなか簡単には忘れられねえよ、胸糞悪い。」
「あの男、おまえの手首の内側にあるタトゥーを見てたよな?
あれは何なんだ?」
「これか?」
カミーラは左手を持ち上げてタトゥーを見えるようにする。
しっぽの長い動物が前へ手を伸ばす様が、古代文明の壁画の絵のように、横向きで奥行なく描かれている。
手の上に、捧げるように載せられているのは果物だ。
林檎のようにも見える。
それだけ見えれば、猿を横から描いたかのような絵だが、それだけでは終わっていなかった。
猿には大きな羽が生えていて、それがしっかりと拡げられていた。
「シウダーで物乞いしていた時に知り合ったアル中のホームレスがそういうのが得意で、食い物やったら無料でやってくれるって言うから、その時仲間だった奴ら全員で入れた。」
「シウダー?」
「メキシコシティだよ、中国人。」
カミーラは皮肉気に言って笑った。
数日間一緒に行動していたが、カミーラが笑うのを見るのはそれが初めてだった。
「おまえが事情に詳しいかどうかは知らねーけど、こっちじゃタトゥーを入れるのは、結構一般的なんだよ。
年の近い兄弟がギャングだと、その身内ってことで、10とか11で、ギャングのタトゥーを入れられる。
素人がデザインした、酷い絵面の。
ガキの落書きの方がマシかもしれないくらい、下手くそなやつだ。
でもそんなものが入った体じゃ、まともに生きていけやしねえ。
仕事ももらえねえし、家もねえ。
国境の北側を目指すにしても、ギャングのメンバーが入れてるタトゥーがありゃギャングだってことになる。
邪魔でしかねえ。
だから、それを塗りつぶす何かが必要だった。
で、まあ、仲間が入れるんだから、全員入れようってことで、入れた。」
カミーラは左の手首に入った有翼猿のタトゥーを、指でなぞった。
「ジェラルミンケースのひげ面のおっさんには、どこのギャングなのかって聞かれたよ。
MS-13なのか、それともLa 18なのかって。
そんなのと同じだとは思われたくねーんだけどな。」
MS-13もLa 18も何なのかわからなかったが、僕はとりあえず頷いた。
「ま、そういうわけだ。どこから来て、誰で、どこへ行くのかって、クソみたいなこと聞くなよ。
話したとおりだ。
ただのアメリカ人のガキだよ。
国境の向こうで誘拐されて、それから売女になるために育てられた。
体を売る前に逃げ出して、女ってわからないように髪を剃った。
逃げるようにしてシウダーまで来て、結局また金持ちのアメリカ人の世話になってる。
ようやくそこから抜け出れそうだと思ったら国境の手前で足止めを食って、今度は中国人の小間使いだ。
ふざけるな、クソ野郎。
どこへ行くのかだって?
ふざけるなよ、偽善者面しやがって。
逃げて、縮こまって、やべえ奴が来たらビビッてガキ同士でつるんで、それでもダメなら手近な奴を見殺しにして、必要があれば身代わりに仕立て上げた。
やらなきゃやられる時は、本当にダメな時は、もうどうしようもないから、こっちからやった。
そうやって今までやってきたんだよ、クソ野郎。
馬鹿にするな、本当に。
ふざけるなよ。」
カミーラの言葉は尻上がりに激しさを増していった。
そのせいで、話し終えた時、彼女はすっかり肩で息をしていた。
「そりゃ、いいな。
今まで大変だった。
そりゃ素晴らしい、今まで生き残って。
それはとりあえずおめでとう。
それで、おまえは今からどこに行って、何をしたいんだ?」
「中国人!
おまえは、人の話を!!」
最後まで言い切らずカミーラは黙った。
カミーラの喘ぐような呼吸は少しずつ小さくなっていって、やがてランドクルーザーがひっきりなしに立てるロードノイズの中に紛れて聞こえなくなった。
「なあ、カミーラ。
おまえの話、教えてくれてありがとう。
おまえがアメリカ人で、だから英語も話せるっていうのはよくわかったよ。
でも、そんなもんなんだよ。
みんな、クソみたいなとこで、クソみたいな生き方をしながら、どっかの誰かが何かしてくれないかって思ってる。
宝くじでも当たらないか、とか、100万ドル道で拾わないか、とか、そういうことだ。
そんなことを考えながら、大概の奴は、身の程をわきまえて、周りの連中に言われたことだけやって、後は適当に文句を言いながら、そう遠くないうちにやってくる惨めな死に様を、諦めて年単位で待つんだ。
アルコールとか、ギャンブルとか、ドラッグとかをやって時間を潰すんだよ。
もしそれが嫌なら、おまえが、自分はそうじゃないって言うんなら、これからどこに行って、自分が何をしたいのか、自分で決めなきゃいけない。
だから僕は、どこに行きたいのか聞いてる。
そのために、カミーラ、おまえが、何だったら、どこまでやれるのか聞いてる。
バヒア・デ・ロス・アンヘレスで会ったパコは、ドラッグの密輸を何往復もやったって言ってたよ。
ふざけるな、カミーラ。
文句ばっかり言うのを止めろ。
おまえはどうなんだ?
カミーラ、おまえは、何ならどこまでできる?」
フロントスクリーンから視線を一瞬外して、カミーラの方に目をやると、彼女は面食らった顔をしていた。
僕はできるだけ嫌味に聞こえるように鼻で笑って見せた。
「どうなんだ、カミーラ。
そのタトゥーは飾りなのか?
アメリカ人御用達のNPOで飼われてるペットの登録証明じゃないんだろう?
知恵の実を食べた翼の生えた猿なら、せいぜい賢く飛んで見せろよ。」
「ふざけるな、中国人。
おまえに言われなくても、何だってやってやるよ。」
再び鼻息を荒くするカミーラの横で、子供の元気がいいのはいいことだと、僕は内心ほくそ笑みながら、ロス・カボス・デ・サン・ルカスまでの距離が書いてある道路標識をよく見ようと目を凝らした。
ようやくカミーラがちゃんと仲間になった!




