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39.カミーラ

「おまえが本当のことを言えば、国境の向こうに行くことも可能だ。

おまえ次第だ。

話すか、話さないか。

それともここで別れるか。

話をするなら、ロス・カボスへの道中で聞こう。

どんな結論になるにせよ、おまえが決めろ。」


 中国人(チーノ)と呼ぶと怒るトーキが、こんなような意味のことを下手な英語で言ったのは、ロス・カボスに向かう、その当日のことだった。

 物心ついた時から思い出せる限り遡っても、『おまえが決めろ』と言われたのはどうもこの時が初めてだったように思う。

 それまで、私に関係するあれやこれやは、全て他の誰かの好きなように決められてきた。

 そもそも、私は『おまえ』でも『あんた』でも『あなた』でもなく、どちらかと言えば『子供(チカ)』だとか『(ムヘール)』だとか『これ(エスタ)』や『あれ(エサ)』でしかなかった。

 この体と顔にはカミーラ・カミネロ・モノスという名前がついているのを頭ではわかっていたものの、それが自分のものだと思えるようになるのには、随分と長い時間が必要だった。

 トーキに『おまえ』と呼ばれていた数週間では足りないくらいの長い時間。

 私が私であるという感覚はもともと希薄だった。

 カミーラは私のことだという感覚は、後天的に獲得されたものでしかない。

 だからだろう。

 『どこから来て、何者で、どこへ行こうとしているのか』なんて、教理問答そのままのことを聞かれて、上手く答えられなかった。

 いや、もっと言えば、誰が上手く答えられると言うのか?

 その数週間、一緒にいただけのトーキが相手だから答えられなかったというわけではない。

 たとえ名前と意識と身体が不可分に強く結びついている人であったとしても、誰がそんな原理的な質問に上手に答えられるというのだろうか?

 今になって振り返って考えてみても、95%信頼区間の意味と限界について答えろと言われる方が、まだずっといい。



 順を追って話すのはどうにも難しい。

 昔の記憶というのは日々失われていき、カミーラという名前が私に馴染んでいく。

 その馴染み方が深まっていくほどに、カミーラになる前の私の記憶は薄れていってしまうように思える。

 薄れつつある記憶の中の私は、冬の寒さに震えながら雪の中を歩いていた。

 私の手を取る誰かの指はしっとりと暖かくて、その眼差しは思いやりに溢れていたように思う。

 顔の大部分に影が差していて、どんな顔だったのかは良く見えなかった。

 それは母だったのか、父だったのか、それとも家族の誰かだったのか。

 その次の記憶の中で、私は泣いていた。

 誰かの腕に抱かれていて、怖くて叫ぼうとする口を無理やり塞がれていた。

 私を抱く腕は、じめじめとしていて、汗ばんで、その眼差しは感情に溢れていたり、溢れていなかったりした。

 感情に溢れていた時の眼は、興奮と苛立ちとがない交ぜになっていた。

 感情に溢れていない時の眼は、酷く冷たく、無関心だった。

 それは、違う眼差しの人たちだったということなのかもしれない。

 共通していたのは、私のことを雑に扱ったということだけ。

 車を何日も乗り継ぎ、どこかの荒野にぽつんと立つ大きな家に連れていかれた。

 その家には敷地内にいくつも建物が建っていたけれど、周りには何もなかった。

 家の中は、何もなく、ただひたすらに広い空間が広がっていた。

 その中にハンモックがいくつも吊るされていて、私と同じくらいの年齢の子たちが何人も横になっていた。

 みんな一様に戸惑っていて、怯えていた。

 みんな同じように攫われてきたのは、容易に想像がついた。

 夜になると食事が与えられる。

 マッシュドポテトとチキン。

 ジャンバラヤ、ガンボ。

 シーフード。

 食事の係の人間はルイジアナかどこかの出身だったのかもしれない。

 何人かはアレルギーの発作を起こして、体中を真っ赤に腫らしながら食べていた。

 1週間が経ち、家の中の全てのハンモックが埋まろうかという頃に、大きなキャンピングカーに乗った男達が現れた。

 大きな体の、背の高いブロンドの男ばかり。

 片手でソードオフショットガンを持ち、筒先は自分の肩に乗せている。

 その肩口から首元にかけて、しっかりと入れ墨が入っている。

 もう何の模様なのかもわからないくらいに、光沢のない黒と灰色が、もともとの白い肌を埋め尽くしている。

 その男は私たちに大人しくキャンピングカーに分乗するようにと言った。

 1人、連れてこられたばかりの男の子、金髪の、透き通るような綺麗な肌の、天使みたいな子がぐずって、泣いて、叫んで、それからみんなの前で平手打ちで殴られた。

 

「大人しくしろって言ってんだろ。

1回でわかれよ、面倒くせえ。

泣くのもわめくのもやめろ。

ガキのおまえらが何を叫ぼうが、何も変わらねえ。

明日の朝には、おまえらのことなんか誰も知らねえところへ行くんだ。

おまえが誰か誰も知らねえ。

おまえがどうでも誰も気にしねえ。

泣いても叫んでも殴られても殺されても、誰も何も思わない、そんなところだよ。

わかったら黙ってろ。

わからねえならもう一発殴ってやるよ。」


 天使みたいな可愛い男の子は、それからもう何も言わなくなった。

 キャンピングカー1台当たり、何人が乗ったのか、もう今は思い出せない。

 ただ、凄く狭かったことは覚えている。

 夜の遅い時間に出発して、眠くなって、他の子に折り重なるように眠って、目が覚めたらもう朝だった。

 後から考えると、そうやって私は北から南に国境を超えた。

 金髪の大柄なタトゥーの男は正しかった。

 その時既に、私は泣いても叫んでも殴られても殺されても、誰にも気にされないところにいた。



 私たちは南へ南へと進んでいった。

 キャンピングカーから降りて、何人かが別の車に乗せられていなくなる。

 私は天使みたいな男の子と一緒の車に乗せられた。

 今度はキャンピングカーではなく、車体が後ろに少し長い、箱みたいな普通の車だ。

 金髪のタトゥーの男たちから、日焼けした紙の黒い、短髪の男たちに引き渡された。

 その男たちが話す言葉は英語ではなくて、私たちは泣いてもわめいても、話しかけられることすらなくなった。

 殴られた子はいたのかもしれない。

 私は殴られなかった。

 天使みたいな男の子も殴られなかった。

 でもその時までに、私はもう、誰が泣いても叫んでも殴られても、何も気にならなくなっていた。



 そういうことを何度か繰り返して、車を乗り継ぎ、ボートを乗り継ぎ、辿り着いたのは海沿いの古ぼけた一件屋だった。

 キャンピングカーに乗る前に連れていかれた、ハンモックだらけの家に似ていた家だ。

 港のある町から少し離れたところに建っているその家は高い塀で囲まれていて、中には整えられた庭があった。

 敷地の中にはいくつもの建物があった。

 一見すると教会のように見える建物の裏にコンクリートで新しく増築された部分が、綺麗に治らなかった傷跡のようにこびりついていた。

 私はその中の、じめじめした地下室の一番奥の二段ベッドを宛がわれた。

 ベッドの枕元のフレームには、小さなシールが貼ってあって、そこにはカミーラと書いてあった。

 後になって、『子供(チカ)』だとか『(ムヘール)』だとか『これ(エスタ)』や『あれ(エサ)』と呼ばれることに慣れ切って数年が経ち、ようやく言葉が話せるようになった頃、カミーラとは誰なのかと私が周りの人に聞いた時、みんな面食らった顔をして、それから笑った。


「カミーラって、あんたの名前だろ?

変なことを聞くもんだね。」


 そういうわけで、私はいつの間にかカミーラになっていた。

 自分が来たのは雪の降る国境の向こうのどこかだけれど、それがどこだったのかは良く知らない。

 カミーラである実感も薄く、どこに行こうとしているのかもさっぱりわからないままだった。

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