3.美と愛と幸せという言葉たちが存在する理由
僕はその時まで、南米の美人を探しに、これから南へ向かうと月見之介が言い出すと思っていた。
それをどう上手く説得して帰国させようかと考えを巡らせていたのだが、意外なことにその月見之介自身が僕の帰国を促した。
「東亀よ。
俺のことはもう放っておいてくれ。
俺はこの長い旅の最後の最後で、とうとう真実の愛を見つけたのだ。
乱れに乱れ切った性生活を送ってきたおまえにはわからないだろうがな。」
太陽が低くなり、風の肌寒さが気になりだしたワシントン・スクエアからオーチャード・ガーデン・ホテルまで月見之介を引きずって帰り着いた後、近場のアイリッシュ・パブでフィッシュ・アンド・チップスをつまみながら軽く飲んでいる時に、さりげない風を装って帰国の希望について聞いてみたところ、月見之介は当たり前のようにそう言った。
ちなみに、僕は乱れに乱れ切った性生活など送っていないし、それはこの1年の長い旅行の中に限って言えば本当に全く女性とお近づきになる機会などなかったので、とんだ誹謗中傷だったのが、話を進めるためにもとりあえずは黙っておいた。
「今日、俺は運命に出会った。
おまえも見ただろう。
ミシェルのあの佇まいを。
あの、存在しているだけで、喜びがあふれるようなこの感情。
彼女はそう、俺のこの胸の皮膚を食い破り、その奥へ深く潜り込んだ小さな可愛く可憐なノミなのだ。」
ただでさえ自己評価が低くなりがちな日本人なのに、長いこと本家に虐げられてきた分家の末っ子だった僕には、存在しているだけで喜びがあふれるようなことがあった試しはなかったが、好都合なので言いたいように言わせておいた。
運命の恋に出会えた奇跡に夢中の月見之介が生返事をする横で、2週間以内の単独帰国を了承させ、手持ちの現金とクレジットカードと、それと月見之介の私物のうち、預かっていたものを全てその場で引き渡した。
後々本家から月見之介を放り出して勝手に帰ってきたと言われないためにも、月見之介自身が僕の同行をこれ以上望まないことを明言する様子をスマートフォンで撮影した。
それが終わると頭の沸いた発言を繰り返す月見之介に詰め寄って、僕が一人で帰国する前に一度3人で食事をすることを了承させた。
連絡先さえ教えてくれればこっちで段取りをすると僕は言ったのだが、そんなことをすれば何もできない男だと思われてしまうからと、自分でiPhoneを操作し、3日後の夜の早い時間にアポイントメントを取った。
月見之介とは10年以上の付き合いだったが、そんなことをするところを見たのは初めてだった。
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ゴールデンゲートパークの南側にある地元の人向けのバーがある。
待ち合わせ場所になっていたその店は、夜には混み合うものの、夕方はまだ人の入りが少なかった。
店は開いているものの、店員もまだ完全には準備が整っておらず、入店と当時に凝った料理は時間がかかると念を押された。
珍しいことに月見之介は店員に向かって鷹揚に頷き、それからカリフォルニアのクラフトビールとポテトフライを注文した。
「ミシェルは少し遅れるとのことだ。
まあ、魅力的な女性は準備に時間がかかるものだから、それも仕方のないことだろう。」
鼻の下にビールの泡を付けたまま月見之介はそんなことを言った。
その時既に僕はこの月見之介が別人のそっくりさんであることを疑っていたが、月見之介の真贋鑑定よりもミシェルがどんな人なのかについて、少しでも情報を得ておくことを優先した。
「それで、彼女、ミシェル、どんな人なんですか?」
「東亀よ、おまえは頭が悪いな。
一目見れば、彼女が天使であることは明らかだというのに。
おまえはこの30年近くの人生で、今まで一体何をして、何を見てきたのだ?」
僕の人生の大半は月見之介の面倒を見ることに費やされてきたのだが、それを言っても始まらないので指摘しなかった。
月見之介はそんな僕をよそに、夢を見るような口調で言葉を継いだ。
「天使だ。
そう、天使なのだ、ミシェルは。
あの瞳、あの姿形、あの声、あのアクセント。
彼女の微笑みを称えた表情が、少し憂いを帯びた無表情に変わる様を見た時、俺はようやくこの世界に美と愛と幸せという言葉たちが存在する理由を理解できたのだ。
俺は何故彼女に翼が生えていないのか、人類の進化の方向性を決めたどこかの誰かを小一時間問い詰めたい気分だ。」
「誰だか知りませんが、ミシェル以外の天使みたいでない皆さんが翼を持つことで恥ずかしがらなくてもいいように、気を遣ってくださったんでしょう。
まあ、とにかく、百歩譲って天使だとして、彼女、一体どこの出身の人なんですか?」
「東亀よ、おまえはそんなこともわからないのか?
天使だから、天国から来たに決まっている。」
「そんなことを聞いているんじゃないんですけどね。」
そんなやりとりの末に、ミシェルが現れたのは、月見之介が2本目のビール瓶を空にするのとほとんど同時だった。
丸い形のサングラスをかけてゆったりとした足取りで店の前へと歩いてくると、コケティッシュとでも言うべきわざとらしさで首を傾げ、店内に視線をめぐらした。
月見之介はミシェルに気づくと大きな笑みを浮かべて手を挙げた。
ミシェルは月見之介に微笑み返し、サングラスをずらして頭の上に引っかける。
白く色落ちしたブルージーンズを履いた足のさらに下、ヒールのないサンダルの先に覗く足の爪は青い色に塗られている。
ノースリーブのブラウスは白い。
半世紀近く前のアメリカ生まれ、カリフォルニア育ちのイメージを地で行くそのスタイルは、月見之介や僕がやればただのギャグでしかないだろう。
だが、ミシェルの格好は不思議と似合っていて、サンフランシスコの雰囲気にマッチしていた。
「こんにちは、月見之介。
お誘いありがとう。」
ミシェルは、明らかにそれとわかる舌っ足らずなフレンチアクセントで言った。
「ミシェル、来てくれてありがとう。
また会えて嬉しいよ。」
そう言う月見之介の、普段は全く違う奇妙に気取ったアクセントのせいで、僕は笑いをこらえるのに苦労した。
「遅れてごめんね。
出かけに大家さんに捕まっちゃって。」
「全然構わない。
相手が君なら待つ時間すらも楽しめるよ。」
アクセントどうこうの問題を軽く超えてくる月見之介の頭の沸いた物言いに僕は俯いた。
そうしていなければ、2人が交わす熱い視線に失笑を禁じ得なかっただろう。
「ところで、こちらの方は誰なの?
ちょっとご自身のことで忙しそうだけれど。」
笑いを噛み殺すことに成功した僕がようやく顔を上げると、こっちに視線をやりながらミシェルは月見之介に聞いた。
月見之介は、ミシェルの関心が自分から僕の方に移ったのが気に入らなかったこか、眉を顰めた。
「こいつは東亀というんだ。
俺のいとこだ。」
「あら、そうなの。
こんにちは、東亀、初めまして。
私はミシェル。
ボルドーから旅行に来たの。」
僕は曖昧に微笑んで無理やり頷く。
月見之介はそれを見て、首を振る。
「すまない、ミシェル。
こういう時、こいつは気の利いた事を言えないやつでね。
英語が話せないわけじゃないんだが。」
それはマニラのBGCにあるアホみたいに高くて不味いビアバーで初めてジョサに会った時に、僕が月見之介について彼女に説明した言葉とほとんど同じだった。
その時の月見之介はまだ英語を流暢に話せなかったし、ジョサの目の前で小言を言いたてるのもみっともないと思ったのか、何も言わなかったのだが、どうやら僕が何を言ったのかはしっかりと理解していて、その上で根に持たれていたようだった。
「すみません、月見之介さん、ミシェルさん。
塔谷東亀と言います。
月見之介さんと一緒に日本から来ました。
お会いできて光栄です。」
いかにもいつも僕のせいで月見之介が苦労している風な物言いに呆れつつも、僕は話を合わせた。
僕の自己紹介が終わると、ミシェルはふわりと羽が空に舞うかのような、淡い儚さを覚えさせる微笑みを浮かべて、「アンシャンテ」と言った。
羽が空に舞うかのような淡い儚さというのが何なのか、言っている自分でも正直よく分からなかったが、とにかくあざとさと自然体と不可思議な女らしさを全部入れて砂糖と一緒にミキサーにかけたかのような、そんな印象を感じざるをえなかった。
「おい、東亀よ。
何を見とれているのだ。
そんな不躾な視線はミシェルに失礼だろう。」
いつもは的を得ない月見之介の言葉だったが、今回ばかりは多少の理があった。
「すみません、アンシャンテって、どういう意味だろうと考えてしまって。
フランス語はわからないので、気を取られてしまいました。」
「ふふ、いいの。
『会えて嬉しい』って意味なんだ。」
「そうなんですね、こちらこそです。」
本当はミシェルの人柄と狙いを見極めるなり、月見之介に気をつけるよう釘を刺すなりするつもりで設けた席だったのが、すっかりペースを乱されてしまってそれどころじゃなかった。
ぎこちない会話をいくつか続けた後、それこそ月見之介に失礼だと指摘されかねない不自然さでミシェルと連絡先を交換したいと言った時には、僕はすっかり冷や汗をかいていた。
「実は、僕はちょっとの間、月見之介さんとは別行動になるんです。
月見之介さんは忙しい方なので、連絡がつかないってことも十分考えられてしまいましてね。
できれば、保険としてミシェルさんの連絡先を伺いたいんですが。」
「へえ、そうなの?
どこに行くの?」
「ツーリングバイクを買って、ルート66をシカゴまでのんびり行こうかと。
自転車で走るのにはいい道だという話もちらほら聞きますし。」
僕が口から出したでまかせは深掘りされることなく、酷く下手なやり取りではあったものの連絡先を交換できた僕は、用事があったのを思い出したと唐突に言い出し、2人を残してその場を後にした。
「失礼だ」とか、「まったく躾がなっていない」だとか月見之介は言っていたが、ミシェルと2人きりになれるのを内心喜んでいるのが見え見えで、その正直さを微笑ましいとすら思ってしまった。
月見之介に対してそんな感情を抱くのはそれが初めてだったから、そう思ったことはとりわけ印象に残っている。
もちろん、それが僕が月見之介を見た最後だったことも大きいのだが、その時はそんなことになるとは夢にも思っていなかった。