25.せめて上手に口説いてくれ
一人であればその辺でモーテルにでも入り一泊したところだが、アルミケースの中身に興味津々の同行者ができてしまったことで、早く先に進むことにした。
断崖絶壁の脇を通り過ぎる片道一車線の下道を走っていくつもりだったが、予定を変更して高速に乗った。
さすがに高速道路は舗装もしっかりしていて、スピードを出すことができた。
エンセナダまで2時間弱かけて移動し、そこで高速を降りる。
子供は喚き疲れたのかすっかり眠っている。
結束バンドをつけたままなので、うっ血してしまうかもしれない。
それに、トイレにも行かせてやる必要もある。
だが、それもアルミケースを処分してからだ。
エンセナダでガソリンスタンドに寄り、甘いコーヒーを2つとペットボトル入りの水を4本買う。
スペイン語がわからなくても、ボディランゲージでなんとかなった。
子供はその間ずっと助手席で眠っていた。
あるいは、起きていて、逃げ出すタイミングを見計らっていたのかもしれないが、特にその辺りは気にしないことにした。
眠気覚ましにコーヒーを飲み、車を北東に走らせる。
荒野の遥か、山なのか巨大な砂丘なのか、わからないような景色の奥が徐々に色を変えていく。
野がゆっくりと色づいて、それから酷く無骨で殺風景な姿を徐々に晒していく。
だがそれもやがて、標高が上がっていくごとに緑が増え、やがて荒野は雑木林に変わる。
景色に見とれながら、のんびり車を走らせたいところだったが、路面は未舗装で、しかもどこに段差や穴が空いているかわからないので、少しの距離を進むのに時間がかかる。
そのせいで、目的地に着くころにはすっかり陽が高くなっていた。
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後から調べたところによると、ヴァジェ・デ・グアダルーペは、僕が訪れた頃には既に世界中の美食家と酒好きの連中が一目置いている地域になっていた。
1980年代に高品質なワインを作りたいと思っていた熱意のある生産者たちの思いは長いようで短い十数年の試行錯誤を経て結実し、メキシコのワインの産地といえばグアダルーペだと言っても過言ではないくらいの生産実績を上げるようになった。
量だけではなく、質の方でも評価は高まってきており、国境の外へと輸出される本数も増えているとか、いないとか。
完全に成り行きでそこまで行くことになった上、前の夜にあった騒動のせいでどんなところに自分が行くのか調べられていなかったことが、今更ながら悔やまれる。
本当なら仕事の合間にワイナリーの試飲ツアーに参加したり、地元の名産を使ったワインによく合う料理を堪能したり、ということがあってもおかしくなかったのに。
こういう気持ちは自分が思っているよりもどうも大きいようで、何年も後になってから奇妙な形で突然フラッシュバックしてくる。
例えば、蟹沢さんと中華料理を食べた後に入ったバーでグアダルーペ産のワインに行き当たり、それを飲んだその日の夜、何故か月見之介とグアダルーペを訪れる夢を見る、というような形で。
夢の中で月見之介は、カミーラというバーテンダーに熱を上げて、一所懸命に口説くのだが、カミーラはそれを一向に意に介さない。
カウンターの片隅に陣取り、熱心にカミーラに話しかける月見之介を、彼女はアクセントの強い英語で軽くあしらう。
月見之介の話に頷き、笑い、キーワードを聞き返し、ちょっとした感想を口にする。
月見之介は彼女の行動一つひとつに夢中になって、だがあまりに上手く転がされるものだからちょっと怖気づく。
するとカミーラはそれを察して、月見之介に自分の方へ近づくように言い、耳元で囁く。
「もっと上手に口説いてくれたら、後でワインに付き合ってもいいけど。」
そうして消えそうなまでに弱まっていた月見之介の情熱の炎は再び燃え盛り、上手に口説こうとまた言葉を続けるのだった。
言葉数が多いければ上手な口説き方になるというものではないのだが、月見之介にはそんなことは当然思い当たらない。
そうこうしているうちに、月見之介は何故かテキーラを飲まされ始め、何回かショットを喉の奥に流し込み、そして椅子の上から崩れ落ちようとする。
カミーラは小さな手で月見之介の頬を支え、床へ落ちていきそうだった月見之介を上手くカウンターの上に軟着陸させる。
僕はその様子をじっと見ている。
そして不意に、カミーラはその時初めて僕がいることに気づいたようにこちらに視線を向けて、困ったような表情をする。
「せめて上手に口説いてくれないと、ねえ?」
そう言ったのはカミーラだったのか僕はよくわからないまま、浅い眠りから覚める。
目覚めたら、当たり前のことだが、そこはヴァジェ・デ・グアダルーペではなかった。
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「もしもしー?」
まだ朝の早い時間で、ナンシーが起きているか半信半疑だったが、3コール目には電話がつながり、ナンシーが間延びした声で言うのが聞こえる。
挨拶もそこそこに目的地に着いたことを説明すると、あるレストランに行くように指示をされた。
レストランに車を乗りつけると、屈強な男たちに車が取り囲まれる。
僕はパワーウィンドウを少し下ろして、ナンシーに教えられた相手の名前を告げる。
その頃には我らが小さな通訳も目覚めていたが、目覚めたら山間を走っていたと思ったら、車が停まり、屈強な男たちに突然取り囲まれて戦々恐々としている。
僕は子供を落ち着かせようと思い、そっちを見てとりあえず大きく頷いて見せたが、ひょっとしたらあまり意味がなかったかもしれない。
「待たせたね。」
やがてレストランの奥から背の高くない、いかにもメキシコと言った風情のよく焼けたひげ面の男が現れた。
僕はナンシーに言われてここに来たことを告げ、相手に断った上でナンシーにもう一度電話をかける。
それからはナンシーと相手の男がビデオ通話で話し、問題なくアルミケースをその場で引き渡すことになった。
僕は運転席から降り、後部座席と後ろのハッチを目一杯開けて、屈強な男たちに20個のアルミケースを示した。
男たちは無表情でアルミケースを抱え、レストランの中に運びこんでいく。
僕はそれを見ながら、子供に背中を見せるように言い、結束バンドを外す。
悪態をつきながら忙しなく腕と手首を動かしている子供を見る限り、うっ血していたりということはなさそうだった。
アルミケースの最後の1個が運ばれていったタイミングで、僕はひげ面の男に話しかけた。
「全く脈絡のない、ナンシーは無関係の話なんですが、一つお願いがあるんです。」
ひげ面の男は眉間に皺を寄せたまま、鷹揚に頷く。
「助手席のこの子、仕事を探しているんです。
こちらのレストランか、この辺のワイナリーで働き口ってあったりしませんかね?」
それを聞いて、ひげ面の男は、結束バンドで拘束されたままの子供に目をやる。
そのままじっと子供の顔を見ていた彼は、やがて、子供の手首を取り、前腕の内側に、奇妙なタトゥーが入っていることを確認し、ゆっくりと首を振った。
「この子はこの街では雇えないだろう。
なるべく人目につかないうちに、ここから出ていった方がいい。」
「というのは?」
ひげ面の男はあごひげを右手で触り、子供の方をあごで示す。
「おまえさん、自分で話さないのかね?
それとも言葉ができないか?」
「うるせーな、わかってるよ。」
子供はそこだけ英語で言い、それからスペイン語でひげ面の男と言葉を少し交わす。
それは本当に数回の言葉のやりとりで、何が何だかわからないままに終わり、ひげ面の男は僕に向き直る。
「ナンシーによろしく言っておいてくれ。
近いうちに、寿司に合うワインを持って遊びに行くから、と。
それとあんたにも、幸運を。
どこから来て、何者で、これからどこへ行こうとしているのかは知らないが。」
僕がその時ヴァジェ・デ・グアダルーペでしたのはそれだけだ。
子供とひげ面の男とのやりとりは気になったものの、アルミケースを無事に始末できたことに安心しきっていた。
だから、エンセナダへと戻る道を走る車の中、助手席に座って黙りこくっている子供が実はカミーラという名前の少女で、幼過ぎて上手に口説きたい対象にならないどころか、できる限り早く穏便にどこかへ行ってほしいタイプの同行者であることを聞きだすことを怠った。
怠ったと言っても、そんなことは普通なかなか思いつかないので、そういうものだと言われてしまえば、そうなのだが。
もしこの段階でその辺りのことが分かっていれば、この先の旅程はもう少し穏便なものになったかもしれなかったが、それはそれで、別の話だ。




