23.ロードトラブル
国境のゲートをくぐり、放射線検査を受け、それからしばらく車を走らせるとそこは既にメキシコだった。
ろくな出国審査がないのはアメリカのどの国境でも同じだが、南へ向かうという事実が言いようのない高揚感を胸の内に沸かせる。
もっと暖かいところへ行くのだと逸る気持ちを抑えて、事前に調べておいたイミグレーション・オフィスへ向かう。
アメリカ人でない自分がもしメキシコでトラブルにあった時に、妙に多額の現金を持っている上にビザもないというのでは不味いだろうと思い、180日の観光ビザを取得しておこうと思ったのだ。
そのために車の中に現金が詰まったアルミケースを数時間放置することになったのは誤算だったが、それはもう政府機関の敷地で、警備員までいるところでは何も起こらないと割り切るしかなかった。
結果的に何も起こらないまま、数百ペソを支払ってビザを取得した時には、冷や汗と脂汗が出過ぎてすっかり具合が悪くなっていたのは笑えなかったが。
屋台でタコスを買って、不器用に頬張りながら運転していると、治安の悪いという噂のティファナの町をもう少しで抜けようかというところに差しかかる。
状態の悪い路面に注意しながら車を走らせると、町の外れのちょっとした空き地に、小学生くらいの痩せた子供達がたむろしていて、じっと車の流れを睨んでいる。
あと何時間もすれば日が暮れるけれど、その後この子供達はどうするのだろうか?
僕はそんなことを考えかけて、それが彼らを憐れむような感情であるかもしれないと気づき、意識的に考えるのをやめた。
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人間の思考が未来に起こる出来事に影響を与えるというのは、随分実存主義的に過ぎる考えだ。
常日頃の自分なら冷笑的にそう言い切るのだが、その状況が自分に降りかかってくるようなら話は別だ。
日が暮れて数時間後、あまり身なりがいいとは言えない子供達数人と一緒になって、僕はピックアップトラックの後ろに乗っていた。
あまり状態の良くない路面をガタガタ言いながら走る年代物のシボレー・シルバラードの後ろにはロープが伸びていて、それがさっきまで僕が運転していたトヨタのランドクルーザーのバンパー下に繋がれている。
「エンジンオイルが足りないようですね。」
ティファナを出てすぐのところで突然エンジンの調子が悪くなり、路肩に車を停めてボンネットの中を覗き込んでいた僕を見かねて声をかけてきてくれた、ひげが伸びすぎて顔の輪郭が見えなくなっている赤毛の男が言った。
途方に暮れていた僕は、まるで荒野で宗教的指導者に巡り合った迷える子羊のように、ほとんどその男の言うがままに頷き、ボンネットを閉め、ロープをランドクルーザーに巻き付け、車のギアをニュートラルにした。
試しに男がピックアップトラックを前に進めてみると、年老いたロバのように弱々しく車は前に進みだした時には、神の奇跡だと思ったほどだった。
そのくらい切羽詰まっていたせいで、促されるままにピックアップトラックの荷台に乗り込んだ時まで、そこにちらついていた何対もの白い眼に気づくことができなかった。
前述のとおり、それは数時間前の自分が憐れんでいた子供達と似たような背格好の少年少女達で、彼らはこちらを好奇心と嘲りと、そこに少しの同情を含んだ眼差しで僕の方を見ていた。
いつの間にか憐れまれていたのは僕になっていた。
子供達は飛んでくる砂から身を守るために、できるだけ姿勢を低くして、布で口と鼻を覆うように教えてくれた。
僕は言われた通りにしながら、ティファナの街の灯とその向こう、おそらくサンディエゴだろうと思われるより大きくて強い光が遠ざかっていくのを見ていた。
ナンシーから車を預かった時、車のコンディションがいいとは思ったものの、タイヤの溝もエンジンオイルの量も確認しなかったことに今更思い至り、苦い感情を噛みしめる。
そうこうしているうちにピックアップトラックは加減速とアップダウンを繰り返し、暗い闇の中に沈んで見えない山や丘や谷を超え、道すがらに子供達を一人ひとり下ろしていった。
30分と少しで子供達の大半がいなくなり、最後に残った一人と僕は、どこかの街のガソリンスタンドで降ろされた。
「ガソリンスタンドのサービスステーションでエンジンオイルを買いなさい。
そうすれば、あなたの車は元通りに走れるようになるでしょう。」
毛むくじゃらの赤毛の男は、その見た目からは考えられないくらい厳かな口調で言った。
「と言われましても、言葉が、スペイン語が不得意でして。」
男はそれを聞くと、最後に残った子供に何か言づけた。
「この子がガソリンスタンドのスタッフにスペイン語で説明してくれます。
車が治ったら、この子を家まで送ってあげてください。
この街の外れに住んでいます。
車で行けば、ここから5分とかからないところです。」
それだけ言い残して毛むくじゃらの赤毛男は去っていった。
僕は、まだ治っていないランドクルーザーと、その子供と取り残された。
シボレー・シルバラードが砂埃を立て流れ走り去っていくのを見送り、何をするともなく子供の方を見ると、向こうも僕のことを見ていた。
僕は頭を掻き、スペイン語の知っている単語を掻き集めて何か言おうとし、結局何が適切な単語なのかわからずに諦めた。
英語を話し始めた頃にこんなことがよくあったなと思いながら、とりあえず子供に向かって頷くと、その子もまた頷き返し、それからガソリンスタンドに併設されている店舗を指差した。
僕もまた、もう一度頷き、それから2人で一緒に店舗へと向かっていった。
店舗の中は白々しい蛍光灯に照らされていて、カー用品と雑貨と清涼飲料とスナック菓子が所狭しと並んでいた。
カウンターの向こうでぼんやりとスマートフォンを眺めている男に向かって子供が何かを言うと、僕の方を向いて、彼は流暢な英語で何が必要なのか聞いた。
「エンジンオイルが欲しいんです。
どうも、なくなってしまったみたいで。」
僕の言葉を聞いて、彼はスペイン語で店舗の奥に何事かを大声で言いつけた。
すると、店の奥からニキビだらけの若い男が面倒くさそうに何事か言いながら出てきた。
店主は言葉を被せるように、さらに何事か若い男に言うと、英語で僕に事務的に言った。
「うちの弟が車を見るから、そこまで連れて行ってくれ。」
それだけ言うとスマートフォンの画面の向こうにある何かと交信するのに没頭してしまったカウンターの男を残して、僕と子供と若い男はランドクルーザーのところまで戻った。
若い男は僕にボンネットを開けるよう指示し、僕は素直にそれに従った。
それから、運転席のところにあるメーターを確認し、子供に向かってスペイン語で何か言った。
子供はそれを聞くと再び店舗の方へと向かった。
「あんた、もの好きだな。」
それまでスペイン語でしかものを言っていなかった若い男が突然英語で僕に話しかけた。
「どういうつもりなのか知らないが、あんなのを連れまわして。」
「あんなのっていうのは?
僕はあの子と今日初めて会った。
エンジントラブルで助けてもらった車に乗せてもらったら、そこにあの子がいたんだ。」
「ありゃ、ティファナで物乞いをやってる子供だろう?
アメリカ人相手に情けをかけてもらうプロだ。」
確かにそうかもしれないと思い、僕は何も言い返せなかった。
「慈善行為の好きなアメリカ人に漬け込んでここからティファナに出かけては、毎日いくらかの小銭を稼いで帰ってくる。
誰がその商売の元締めなのかは知らんが、ロクなもんじゃない。
メキシカンギャングの話はあんたも聞いたことあるだろう?
スペイン語の話せないあんたがその使い走りと一緒にいたところで、何もいいことないぞ。」
「なるほど。
ご忠告、どうもありがとう。
あの子、ここに住んでいるって聞いたけど、誰かと一緒に住んでいるんだろうか?」
「さあな。
あいつが車に乗せてくれるもの好きのアメリカ人以外の大人と一緒にいるところなんて見たことないけどな。
大方、いなくなったところで誰にも気に留められない子供だろうよ。」
「随分事情に詳しいんだな?」
「生まれてこの方ずっとこの街に住んでるんだ。
早く出ていきたくてしょうがないんだけどな。
あんた、合衆国の人間じゃないよな?
あんたの国のエンジニアの待遇ってどうなんだ?
エンジニアだったら移民するのに特別な加点がされたりするとか、そういうのないか?」
そこまで話したところで、店舗の入り口から、赤くて大きなボトルを持った子供が出てきた。
若い男は急にスペイン語で何か言い、子供は僕らの方に急いで駆けてきた。
エンジンオイルを補充したら、車のエンジンは問題なくかかった。
僕と子供と若い男は再び店舗へ行き、エンジンオイルの代金と技術料を払い、追い出されるようにそそくさと店内を後にした。
そうして僕と子供はもう一度二人きりで取り残されて、やはりもう一度お互い顔を見合わせた。
できればここに置き去りにしていきたいが、そういうわけにもいかない。
仕方なく僕は、2000万ドルが車内に置いてある車の助手席に、子供に乗るように身振り手振りで伝えた。
転職先が恐ろしく忙しいところで、全く書けない日々が続いております。
言い訳ばっかやな…
何とか今年中にもう一更新したいところです。




