2.これ以上ないほど鮮やかに袖にされ
タイの後はインドを放浪した。
その後、興味もないくせによくわからないことを言う月見之介のたっての希望で、タンザニアとケニアまでサファリツアーに出かけたあと、ヨーロッパを時間をかけて旅した。
僕の知る限り、日本から西回りでアメリカへと渡るその時までの約1年間、月見之介は結構な数の魅力的な女性たちと知り合い、出かけ、口説き、その度に玉砕してきた。
香港では日本語話者の香港人のリタに振られ、マニラではコールセンター勤務のジョサに袖にされた。
ベトナムでは環境活動家のクィンとかなりいい感じだったのだがイマイチ押しが足らず、タイではローカルエアラインのCAだったレイレイちゃんと連絡先を交換することに成功したにもかかわらず、やはり物にすることはできなかった。
インドでは、現地の女性のみならず、同じ境遇の旅人や、若くして石油採掘会社の役員を務める美貌のインド系アメリカ人女性、そして、日本から出向してきていたソフトウェア開発のプロジェクトマネージャーなどとも知り合ったのだが、そのどれもが上手くいかなかった。
タンザニアでは瞳のキラキラした、明らかに裕福な服装をしたアパレル関係のビジネスオーナーである妙齢の女性からアプローチされたのだが、この時は月見之助の方が乗り気ではなかった。
ケニアでは旅行に来ていたエチオピア人の美しい人妻に熱を上げたが、すぐ隣にいたエジプト人の旦那に危うく殴られそうになった。
ヨーロッパでは、本家の資金力に物を言わせて、金持ちぶって女性の気を引こうとしたのだが、本物の富豪であるアラブ系や古くからヨーロッパに進出している華僑やインド系商人の御曹司たち、そして中国の優秀過ぎる新エリート層を前に、これ以上ないほど鮮やかに袖にされ続けた。
最後の手段として、Kポップの流行にあやかるべく、韓国出身のアイドルそっくりのヘアスタイルに変えたのだが、顔立ちこそ整っているものの小太りであるため、アイドルと言うよりはどこかの国の指導層の御曹司にしか見えず、やはりこれもまた上手くいかなかった。
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元々の長い文章では、このあたりの月見之介の恋と冒険について、細かく描写していく予定だったのだが、前述の通り放棄してしまった。
今回、要約版であるこの文章を書くにあたって、そのあたりのことも考え直してみた。
書き手としては、マニラの郊外のシェアハウスの共用スペースに居座ってまで子持ちのフィリピーナとどうにかなろうとする様子や、あまりに環境保護意識が低すぎるので、口説こうとしていた活動家を標榜するベトナム人女性に本気で殴られたりする場面を書くのはそれなりに楽しめそうな気もしたが、そこに至るまでのあれやこれやに関する記述でおそらく退屈してしまうであろう読み手のことを考えて泣く泣く割愛することにした。
併せて、もう一押しだったかもしれないという手応えを通じて月見之介が自信をつけたタイのフライトアテンダントのエピソードや、インドのゴアのフルムーンパーティーで急接近したインド系アメリカ人の令嬢との顛末も削らざるを得なかったのだが、それもまた一入に残念に感じられる。
故人の名誉を守ることを考えた時に、この手の諸々は書かない方が無難であり、その判断そのものについては、悔やむところは微塵もない。
草葉の陰から月見之介が、彼の数少ない成功体験が日の目を見ないことに歯ぎしりをしているかもしれないが、それはそれ、これはこれである。
僕もすっかりいい年なのだし、何かの間違いでそんなものが本家の連中の目に触れたりしたら大事になってしまう。
自分を守る必要があれば、自己検閲だろうが自主規制だろうがきっちりやっていく。
それがいい大人というものである。
死の数年前まで、いい大人とは程遠い、酷い振る舞いを繰り返していた月見之介には、おそらく理解してもらえないかもしれないが。
もし月見之介が生きていたなら、その辺りのことは是非聞いてみたかった。
もちろん、死人に口なしであるわけで、そんなことは無理なのだけれど。
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僕が月見之介と一緒だったのは、サンフランシスコが最後だった。
ある5月の金曜日の午後、私たちはコロンバス・アベニュー沿いのイタリア料理屋でスパゲティを食べた後、春の陽気に誘われるようにワシントン・スクエアまで歩いた。
珍しく、月見之介が文句を言わず上機嫌で歩いていたのは、ベイエリアの開放的な気候のせいだったのだろう。
ワシントン・スクエアに着くと、月見之介はタンザニアで押し売りされたアフリカ布を広げ、その上に体を投げ出した。
珍しいこともあるものだと思いながら、僕は少し離れたところで芝生の上に直に腰を下ろし、白人の若い男たちが裸足でリフティングを競い合うのをぼんやりと眺めていた。
それは1年以上にわたる月見之介との長い旅の中で、滅多にないような落ち着ける時間だった。
5月のサンフランシスコは海風が強く冷たくて、薄着過ぎれば寒さにやられてしまうのが常なのだが、その時は風もなく、少し汗ばむくらいの陽気だった。
サッカーボールを蹴る2人の向こうでは、中学生くらいの中国系の女の子たちがフリスビーを投げて遊んでいた。
犬を連れて散歩している人も、芝生の上に腰掛けてギターを弾いている人もいた。
不意に僕は、香港からインド、アフリカ、ヨーロッパを経由して、とうとうアメリカの西海岸まで辿り着いた長い旅路のことを思い出した。
日本を出てから、もうずいぶん経っていた。
月見之介がそろそろ帰国しようという気になってもおかしくない。
それとなく話を振ってみようと思い、月見之介の様子を窺うべく視線をやると、さっきまで寝そべっていたはずの月見之介は体を起こして1人の女性と楽しそうに談笑していた。
長旅の中で、たくさんの女性に袖にされ続けることで、最初まったく話せなかった月見之介の英会話は相当上達していたものの、こんなにも自然に楽しそうに話をしているところは見たことがなかった。
必要であれば助け舟を出そうと思い、月見之介の方へと歩み寄っていったのだが、ある程度近づいたところで、今寄ってくるなと言わんばかりに一瞬すごい形相で睨まれた。
あまりにも真剣な表情だったので、僕は思わず苦笑してしまった。