夏奈は光一君を説得しようとします
寂しげな笑顔を浮かべながら歩道に立つ夏奈を見て光一は戦慄した。強制される筋合いは無いとはいえ、昨日熱心な勧誘を受けていただけに、そのお誘いを反故にしたことへの「制裁」が課せられると思ったからだった。
「ん?あれ?動かない?」
だけど、そんな予想に反して、ピンクのフリルが付いたブラウスと黒のフレアスカートに身を包み、右手を右耳に当てて立つ夏奈から動くような気配を光一は感じ取れなかった。ということは夏奈も周りと同じような状態になっているのでは、という最も安心できる予想を立てた光一はそこで少し安堵し、何事も無かったかのように恐怖心の芽を刈り取った。
「それだと一体誰が…… 」
しかし、光一が安堵することができたのはほんの数秒のことで、この状況を作り出しているのは誰なのかという疑問と不安に襲われた。そこで、その疑問の解を得るために夏奈から周囲へと視線を移そうとした時、光一は目にした光景に唖然とした。
「か、夏奈さんが、う、動いてる!?」
自分が立てた予想に反して、さっきまで微動だにしていなかった夏奈が、何事も無かったかのように光一に向かって歩き始めたのだ。
「えっ、嘘…… てことはもしかして」
やはりこの状況を作り出したのは夏奈で、その目標は真っ直ぐな目で見つめながら近付く自分である可能性が極めて高い。それを理解した途端、光一の胸中で一気に膨れ上がった恐怖心は「逃走」という命令を下した。しかし、恐怖心が一気に膨れ上がったことの副作用なのだろうか、筋肉への「逃走」の命令は阻害されてしまい、光一はバスのシートに座ったまま身動きが取れなくなってしまった。
そうこうしているうちに、動きを止めている人にちょっとした悪戯をしながら道路を渡り、そしてバスに乗り込んできた夏奈は、
「こんにちは、光一君。昨日ぶりだね」
と、あたかも友人にするような気軽な感じの挨拶をしながら光一に近付いてきた。右手を右耳に当てたまま。笑顔に寂しさを滲ませたまま。
「こ、こんに…… 」
儀礼的に挨拶を返そうとする光一だったけれど、何かされるのではないかという恐怖心から言葉が思うように出なかった。ちなみに、固有スキル「女性に免疫がありません」は発動しなかった。
「隣、良い?」
夏奈は光一に問いかけると、その返事を待たずに隣に座った。座る時に女性特有のフローラルのような香りが光一の鼻腔に届いたけれど、光一はそれを理解できないほど恐怖心でテンパっていた。
「今日はどうして来てくれなかったのかな?夏奈も他のみんなも待ってたんだよ」
なるべく視線を合わせないように俯く光一の顔を、下から覗き込むようにして夏奈は話しかけてきた。
「やっぱり、ここの仕事が怪しいって思ったのかな?」
「……」
「沈黙は肯定、ということで良いのかな」
「ふふふ」と寂しそうに笑う夏奈は何かを諦めた様子で、光一の視界から消えた。
「うーん、どうやったら分かってもらえるかな。やっぱり夏奈の力は本物だっていうことを分かって貰った方が良いのかな」
そう言うと、夏奈は左腕に着けている腕時計を俯く光一の視界に入れてきた。その腕時計は、見た目はどこでも誰もが買うことができるもののように見えるけれど、その文字盤に昨日光一が広場で見た模様と同じものが描かれていて強い光を放っているということが、普通の腕時計との決定的な違いだった。
「これはね、自分の腕時計に夏奈の紋章を描くことで、夏奈と夏奈が選んだ人以外の時間を止めてるんだ」
そこまで話すと、夏奈は左腕を引っ込めて大きく息を吐いた。その雰囲気に若干の疲労感が滲んでいるのを光一は感じ取っていたけれど、夏奈は話を止めなかった。
「夏奈は光一君と働きたくてスカウトしようとしたんだけど、今日事務所に来てくれなかったでしょ?だからなんとかして会いたいなーって思って、大通りで探してたら偶然バスに乗ってる光一君を見つけちゃってね。だからなんとかして引き留めたくて、光一君と夏奈以外の時間を止めちゃった。この光景は嘘みたいに思えるかもしれないけれど、本当に起きていることなんだよ」
辛そうな呼吸をしながらも、最後に「テヘっ」なんていう言葉が付きそうな軽いノリで夏奈は話を終えた。
最初は何かされるのではないかと思っていた光一だったけれど、夏奈は自分と会おうとしていただけということを理解すると、それまで胸中にあった恐怖心は少しずつ薄れ、今度はどうして夏奈がこれほどまで自分に執着するのかという疑問が膨らんでいった。だけど、隣に可愛らしい同年代の女性が座っているという事実に固有スキルが発動してしまった光一は、膨らんだ疑問を口にすることさえもできず沈黙せざるを得なくなってしまった。
それからしばらくの間、夏奈の辛そうな息遣いだけが聞こえる沈黙が続いた。
しばらく続いたその沈黙を破ったのは、夏奈の方から小さく聞こえだした鼻をすする音と嗚咽。そして、
「光一君は夏奈のこと…… き、嫌いなの?」
光一が全く想定していなかった質問だった。
「えっ?」
あまりにも突拍子もない言葉に、光一は思わず顔を上げて夏奈の方を見ると、寂しさは滲みながらもそれでも見せていた笑顔はどこへ行ったのか、表情には悲壮感が漂い今にも零れそうなほどの涙がその両目に溜まっていた。
「ど、どうしていきなりそんなこと…… 」
「だってだって、昨日は美紗ちゃんのことを助けたし、怪しまれないように夏奈は冬美と一緒に名刺も渡して自分の素性を明かしたんだよ。それなのに、今日の一時に防犯部に来てねって言ったのに来てくれなかったし、今も安心感を持ってもらおうと色々と話してるのに無視してるんだもん。夏奈、何か光一君に嫌われることした?」
夏奈が話し終えたと同時に、光一をじっと見据えるその両目から大粒の涙が零れ頬を伝わっていった。
「ご、誤解ですよ。それに出会ってまだ一日しか経っていないのに、す、す、好きとか嫌いとか、そういうのはよ、よく分からないです。昨日、美紗を助けてもらったっていう恩は感じてますけど」
「じゃあ……じゃあ、何で今日は来てくれなかったの?」
涙を流しながら泣く夏奈は、グスグスと鼻をすすりながら光一をまっすぐ見つめていた。すする鼻の音に混じる息遣いはさっきよりも辛そうだった。
「あ、あの、そ、それは、えーっと……」
夏奈の視線に耐えきれなくなった光一が目を逸らすと、
「お願い……夏奈のこと、嫌いにならないで…… 」
夏奈は俯き、そして弱々しい声で懇願するように一言呟いた。防犯部を訪れなかった理由をどのようにオブラートに包めば良いか考えていた光一だったけれど、俯きながらさめざめと泣く夏奈の様子にその思考はどこかへと吹き飛んでしまった。
「だから、ま、まだ、その、す、好き、とか嫌いとか、そういうことを考えるような…… 」
まずは夏奈を落ち着けよう。そう考えた光一は、色々な出来事で動きが鈍くなってしまった頭で必死にフォローを考えたけれど、今度はそれをどう言葉にすれば良いのか分からず、辿々しく言葉を発することしかできなくなってしまった。
とその時、光一は夏奈の異変に気付いた。バスに乗り込んできた時から疲労感が滲み、それから呼吸が少しずつ辛そうになってきていることには気付いていたけれど、今は息をする時にはっきりと分かるぐらい肩が上下し、呼吸する音はかなり苦しそうに聞こえる。まるでゴール手前のマラソンランナーのように。
「か、夏奈さん?だ、大丈夫、ですか?」
と、夏奈に問いかけた時、光一は再び違和感に見舞われた。
「えっ…… 」
驚きのあまりに辺りを見渡してみると、周囲の風景が割れたガラスの小さな断片の様に分割されて、それぞれの風景が歪んでいるように光一には見えた。その断片の一つをより注意深く見てみると、その中にある物がスローモーションのように動き出していることから、もしかしたら時間が動きだそうとしているのではないか、と光一は推測した。
「光一君。夏奈のお願い、聞いてくれる?」
声のした方を見ると、泣き止んではいるものの、目を泣き腫らして息苦しそうな表情を見せる夏奈が、上目遣いで光一の顔を見上げていた。酷い表情ではあるけれど、それでも素材としての可愛らしさは健在で、光一は冷静さを保つために固有スキル発動をなんとか押さえつけていた。
「お、お願いで、ですか?」
「うん。肩を貸してくれないかな。バスから降りたい…… 」
「か、肩を?」
「時間を止めるのに力を使い過ぎて一人じゃうまく歩けない。それにタイムリミットが近くて。お願い、光一君じゃなきゃダメなの…… 」
周囲の風景を見ると、さっきまで小さかった風景の断片は、隣り合う断片と繋がりながら大きくなってきていて、断片ごとにバラバラに見えていたスローモーションのタイミングが少しずつ合い始めていた。再起動しようとする時が、バラバラになった自身を修正していくような光景だった。
「わ、分かり、ました!」
夏奈の懇願するような言葉に、光一は固有スキルを押さえ込む固い決意を胸に作り上げてバスの座席を立った。そして夏奈に左肩を貸すと、乗車口で動きが止まっている人をうまく交わしてバスを降り、そしてバス停から少し離れところにあるベンチに座らせた。
「ナベリウス、ありがとう…… 」
ベンチに座った夏奈から一言呟きが聞こえた次の瞬間、周りの風景が動きを取り戻した。そして、夏奈の左腕に着けられた腕時計に描かれた模様とその輝きは完全に消え去っていた。
「ふぅ…… 」
大きな溜め息を吐いた光一は、夏奈から少し距離を取ってベンチに座った。肩を貸す時に女性特有の香りを感じて頭がクラクラしかけたけれど、作り上げた固い決意を代償に正気を保った自分を、今までの人生の中で一番誉めてあげたい、と光一は自画自賛していた。
「えっ、ちょ、ちょっと、か、夏奈さん!?」
その時、ベンチに座り一息ついている光一へ向けて、突然夏奈が倒れ込んできた。自分の左腕に夏奈の頭が当たり、このままではベンチからずれて落ちてしまうと思った光一は、咄嗟に手を出してその頭を受け止めると、自分の鞄を枕代わりにしてベンチに横にした。
「だ、大丈夫ですか?」
問いかける光一の言葉に返事は無く、夏奈は疲れ切った表情で穏やかな寝息を立てていた。
お久しぶりです
前回の投稿からだいぶ経ってしまいました
今回のは、夏奈は時を止めてるし、光一はスキル発動でうまく言葉にできなくなってるし、そして夏奈は泣き出すし、と色々と詰め込みすぎたでしょうか(^_^;)
新キャラが出てくる続編をまだまだ書いております
長い目で見て楽しんでもらえたら幸いです
それではまた次回
せめて月刊誌ではなく隔週刊で続編を投稿できるように頑張ります(^_^;)