ツイてない光一君を待っているのはトラブルのようです
福岡タワーの広場で超常現象を目撃した翌日。
午前11時。
春の穏やかな空気に包まれた福岡の街を、光一を乗せたバスは走っていた。光一が目指しているのは防犯部ではなくて、求職者が駆け込む場所として一般的に知られているハローワーク。自分ではどうすることもできない状態の美紗を助けてもらったとはいえ、目の前で起きた超常現象を信じることとそこで共に働くということは別の話で、スカウトと称する勧誘を受けた防犯部へ光一の足は向かなかった。
バスの車窓から歩道を眺める光一は、時折強烈な睡魔に襲われては窓ガラスに頭をぶつけてやや覚醒するということを繰り返していた。その強烈な睡魔の原因は、昨夜見た夢が原因で陥ってしまった寝不足だった。
「ここは、天神?」
どこまでも広がる青空が印象的な夢の中で、明治通りと渡辺通りが交わる交差点のど真ん中に光一は立っていた。
「誰もいない……って、こ、こいつらは何だ!?」
周りを見渡して誰もいないということを認識した光一の目の前に突然現れたのは、大きな翼を持つゴールデンレトリーバーのような「犬」と、王冠を頭に載せた大きな「カラス」だった。
「やっと貴様の夢に入り込めたぞ。全く、現実にとらわれてばかりでつまらない男だ。たまには妄想という遊び心を持ってはどうだ?」
光一に話しかけてきたのは「犬」の方だった。
「い、犬が、は、話してる……」
「そのわたしを指差す右手をおろせ。初対面の相手を指差すなど失礼ではないか。そしてわたしは犬ではない」
「見た目は犬だから仕方がないと思うんだけどなー」
その「犬」の隣にいる「カラス」がツッコミを入れた。
「今度はカラスが……」
驚く光一の言葉を無視して、その「2人」は話を続けた。
「ナベリウス。お前の話し方は夏奈という女にだいぶ毒されているな。以前の勇猛な侯爵だった時の話し方はどうした?」
「あー、なんかあの話し方は堅苦しいし面倒臭くなったから止めたんだ。別に意志疎通できるならどんな話し方でも良いと思うし、拘らなくても良いと思ってさ」
「はぁー。全くピアスの持ち主にここまで影響を受けてしまうとはな」
大きな「犬」は嘆息した後、光一の方を向いて話を続けた。
「去年の10月に夏奈が落としたわたしの刻印入りのピアスをお前が拾って夏奈に渡したのを覚えているか? まぁ覚えていなくてもいいのだがな。あれからずーっとお前の夢の中に出てやろうと思っていたが障壁があってな。昨日、お前がナベリウスと接触してそれが消えたおかげで、やっとこうやって夢の中に入り込むことができたというわけだ。そうだな、ここで詳しいことを話さずともそのうちわたしはお前と再会することになる。色々と楽しみにしておけ」
その「犬」は大きな翼を一度大きく羽ばたかせてから笑みで口元を歪ませ、そして消えていった。
「まぁそういうことだから。後はよろしくねー」
大きな「カラス」は左の翼で王冠を掴んで光一に深々と頭を下げ、頭を上げると同時に消えていった。
「え、ちょ、ちょっと!」
光一の言葉を無視するように。
「そうだな。わたしの名前を伝えておかなければな。わたしの名は、グラ……」
その「犬」が消える直前に言おうとした名前のようなものを、光一は聞き取ることができなかった。
このタイミングで目を覚ました光一が時計を見ると深夜1時過ぎで、再び眠りに就こうとしたけれど、この夢から感じた強烈な現実感が原因でなかなか寝付くことができなかった。そして結局寝不足になってしまったのだった。
バスの心地よい振動が光一に一際強烈な睡魔をお見舞いして、光一の頭と窓ガラスが強めに衝突した時のことだった。ぶつけた頭を手でさする光一がふと外を見ると、すでに天神の近くにまで来ていたようで、
「あれは、大学生? 春休み……かな」
大学生と思われる若者のグループが目に入った。三月下旬で春休みに入っているようで、それぞれの青春を謳歌しているように光一には見えた。その一方で、光一は大学受験に失敗して就職せざるを得ない状況に陥っているわけで、その気持ちはさらに憂鬱になってしまった。
「紗英はなぁ、俺のことになると五月蝿いんだよな……」
憂鬱な気分に陥った光一の頭に思い浮かんだのは、昨夜の晩ご飯の時に繰り広げられた紗英の容赦ない自己主張だった。
福岡タワーでの超常現象を目の当たりにして、脳と精神に疲労が蓄積した状態で美紗と共に帰宅した昨日の夕食は、この世の終わりを迎えたような重苦しい空気が支配していた。
「ま、まぁ仕方ないわよ。大学ばかりが人生じゃないわ。就職した後に一旗あげる人だっているんだし」
その重苦しい雰囲気を打破しようとした母親の言葉は、光一にとってはありがたかった。
「そ、そうだよ。わたしは兄さんのことを応援してるよ」
血の繋がらない3つ年下の美紗に気を遣わせたことに光一は申し訳なさを感じたけれど、それと同時に母親が空気を作ろうとしてくれたことに乗ってくれた配慮に光一は感謝の気持ちで一杯だった。
「全く。姉として恥ずかしいったらありゃしないわよ。何で合格できないの!」
しかし、その流れと空気は、予想していたとおり紗英によって見事にぶち壊されてしまった。
「わたしは必死に勉強して、一浪の迷惑はかけたけれどそれでも医学部に合格して、医者になって父さんや母さんに恩返しをするために頑張っているのに。目標が無いから失敗するんじゃないの?」
「紗英。もう終わったことなんだからここで止めよう。お前の気持ちは分からないことも無いが、ここで光一に何かを言ったところで結果は変わらないだろう」
父親の窘めも無意味で紗英は止まらなかった。
「確かにそうかもしれないけれど、それでもわたしは納得いかない。受験を光一は甘く見過ぎていたとしか考えられない!」
自分が全く思っていなかったことを勝手に想像されて勝手に言われて、光一はさすがに黙ってはいられなかった。
「甘くなんか見ていないよ! 確かに現役の時はそう考えていたところはあったよ。だけど、浪人している時は毎日必死だった。紗英も浪人していたから分かるはずだよ。俺だって同じぐらい必死だったんだよ!」
「違う! わたしと同じぐらい必死なら合格しているはず! わたしと同じだって思わないで! もし悔しいなら、わたしを追い越してみなさいよ!」
紗英のこの言葉に光一は言葉を継ぐことができなかった。2浪失敗と医学部生の間にある雲泥の差は易々と否定できるものではないということを、光一は頭の中では十分に理解しているからだった。
「……今日は疲れた。もう寝るよ。おやすみ」
「兄さん。大丈夫?」
「美紗。あんな奴のこと……」
性格が悪い奴が良い医者になれるわけない、なんて悪態を言える気力さえも光一には残っておらず、そのまま夕食を切り上げて部屋に戻ったのが昨夜の出来事だった。
「ここで就職も失敗するとまた紗英は五月蝿いんだろうな」
頭の劇場で繰り広げられた昨晩の回想が閉幕した後、光一は今の自分の状況を踏まえて先の出来事を予測した。自分の思考回路がここまで紗英を気にしているなんて自分でも思っていなかったことで、それを改めて認識した光一は自分を嘲笑することしかできなかった。
それからしばらくバスに揺られ、光一はハローワークに一番近いバス停に降り立った。その後、ハローワークに到着したのは12時前。それから今の自分の境遇でも就職可能な求人を探したり、職員と相談したりして、現状で最良と提案された就職先が載っている紙を手にハローワークを出たのは1時過ぎだった。
「やっぱり厳しいなぁ」
家に向かうバスに乗った後、就職先を紹介してある紙を車内で読む光一の口からぼやきがこぼれた。やはり最良とは言っても、高卒2浪の光一には良い条件の就職先はなかなか見つからなかった。
「ハローワークで紹介された仕事先がこれだもんな」
その時、光一の脳裏を昨日夏奈と冬美から貰った二枚の名刺が過った。
「昨日スカウトって言われた就職先、もしあれが全く問題が無い仕事だとしたら、それを逃すのはもったいないんだよな」
ハローワークを訪ねるまで否定していた就職先だから、ここで持ち出すのは非常に都合の良い話だと光一は再び嘲笑した。だけど、あの名刺に書かれていた「九州管区警察局防犯部」という部署が本物ならば、そこに就職すれば公務員になれるわけで今の光一の目にはとても魅力的に映った。それもスカウトという勧誘付きだから、普通よりも簡単に就職することができそうで、こんなに良い話はなかなか無いのでは、とさえ思った。だけど、その思考を制止する光一も確かにいて、
「だけど、警察が何も取り柄のない自分をスカウトするなんてあり得ないよな。それにタイミングも良すぎるし、あの超常現象みたいなあれが仕事内容だとすると、もっと命がけのことをやらされそうな気もするし。第一、家族、まぁ特に紗英だな、なんて説明すれば良いのか全く検討がつかない」
こういうことを考え続けて、光一の思考回路が美少女戦士が登場するアニメのオープニングのようにショート寸前になりかけた時、バスは天神地区から抜ける最初のバス停へと停車した。時計の針は午後1時15分を指していた。
何の気なしに乗客が乗り込んでくる乗車口に視線を移した時、光一は自分を取り囲む空気に違和感を感じ取った。それはたった昨日、福岡タワーで感じたものと同じものだった。
「この雰囲気は、まさか!」
次の瞬間、光一は周囲の光景に唖然とした。さっきまで動いていたバスに乗り込む乗客が、歩道を歩いている人が、車道を走る車が、光一を除いたあらゆる物の動きが完全に止まっていた。
「周りの動きが止まってる……これは一体どう……あっ!」
恐怖心が芽生え焦る光一は、状況を確認するために辺りを見渡した。そして、バスが止まっている車線とは反対の車線の歩道に視線を移した時、見覚えのある人が視界に入った。
「あれは、か、夏奈さん!」
そこに立っていたのは、昨日光一に防犯部の名刺を最初に渡して、そして今日の午後一時に防犯部へ来るよう光一に告げた夏奈だった。
約2週間ぶりの投稿となりました
続きをすんなりと書いていくことができるように頑張ります!
またよろしくお願いします!