舞台裏の準備
様々な補強を施され昔の形は見る影もなくなった、元は市役所として使われていたその場所から、女性が一人空を見上げていた。
まだ若い女性ではあるが、その達観したような雰囲気と全てを見通すような透き通った瞳は常人離れしている。
黙っているだけでも彼女の周囲には目に見えない重圧があり、彼女が口を開けばおいそれと言葉を挟むことが出来ないような鋭さがある。
誰も近付かせないような排他的なその空気はある種の神聖ささえ感じさせ、他を圧倒する超常的な何かを持っていた。
彼女は憂うように見上げていた宙から視線を外し、そっと椅子に腰掛けた。
「濃厚な『赤』の香りがする」
じんわりと机の上に置かれた報告書に視線を落とす。
「狂乱がこの土地に根を張り始めた」
眉一つ動かさず、彼女は現状の保有する戦力と手に入れる事が可能な戦力最大まで甘く見積もって、諦観の言葉を吐き出した。
「無理ね、どうあがいても全滅しか有り得ない」
絶望的なそんな言葉を吐いても彼女は臆した様子を微塵も見せず、拠点へ帰ってきた明石達の姿を視界に捉える。
彼らには西のコミュニティとの連携を取るように指示したが、もはやほとんど力を持っていないあのコミュニティを招き入れたところで、現状を変えられるとは彼女は全く考えていなかった。
彼らが直ぐに自分に報告に来るだろうと考えて、出迎えるために机の上の報告書を片していく。
そこに書かれた動物達の異常な挙動については、今は思考から外して。
「――――泉北のように、神にでも祈るしかないのかしらね」
窓の外では数日前までは全く見かけなかった鳥の群れが、遠くで狂ったように同じ場所をぐるぐると飛び続けている。
△
イケメン達との思わぬ邂逅から得られた情報を辿り、俺と知子ちゃんは直ぐにその現場に向かうことにした。
与えられた情報に踊らされていると言う言葉を否定は出来ないが、だからといって無視できるようなものでもなかった。
情報の真偽と、状況の確認、あとは俺の異常な五感で何か判明できないものかと思い、寝床から歩いて三十分程度の距離にある動物園にわざわざ足を運んだのだ。
昔やっていた刑事物でも何事も現場が重要だと言っていたし、知子ちゃんの意見も一度動物園を見てみないとなんとも言えないと言うことであったから、こうして直ぐに行動に移したのだが、結果は一目瞭然。
動物の死骸など何処にも見当たらず、檻は完全にその機能を破壊されていた。
「見て知子ちゃん、やっぱりここも檻が内側から強い力で壊されてる」
真っ青な顔をした知子ちゃんが、俺の言葉に小さく頷きつつ檻の破壊された跡を確認しているのを横目に、その中に足を踏み入れてみる。
(僅かだけど長い間死骸が放置されていた時と同じ匂いがする……、ほんの数日前まで死骸がここにあったというのは本当だろうな)
自分の嗅覚を頼りに檻の中を見回して、その中を歩き回り始めた。
慌てて付いてくる知子ちゃんの足音を聞きながら、部屋の隅に辿り着くと再び見つけた小さな穴を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
深い。
底が見えないほどに深いその穴は、単純な崩落などには見えず、かといって力任せにどうにか出来るような形をしていない。
半径20センチ程度の円状のその穴には、体の小さな自分でも入ることは出来ないだろうなと思い、持ってきた懐中電灯で中を照らしてみる。
当然、何も見えなかった。
「ここにもありましたか。……なにも見えませんね」
「そうだね……石落としてみようか」
「なるほど」
他の檻と同じように部屋の隅に出来ていたこの穴は、動物の死骸が喪失するこの事件に何らかの関係があると踏んではいるのだが、どんな関係性があるのか見えてこない。
近くにあった石を穴に落とすと、石はあっという間に穴の奥に消えていき少しして堅い何かにぶつかるような音が帰ってくる。
「1.9秒…大体18メートルくらいはありそうですね」
「えっ、よ、よく分かったね? と言うかそんなに高さがある穴がこんな場所に出来るなんて…」
「まあ物理を囓っていればこれくらいは。それよりも早くここを出ませんか? 流石に…怖いです…」
「う、うんそうだね」
やけに青い顔をしている知子ちゃんの様子に疑問を抱きながらも、彼女を連れて檻から出る。
確かに、何もかもが分からないという状況には恐怖を覚えるだろうし、その中心地で音を立てたのだからそれなりの警戒をするのは当然の気もするが…。
なんだか今の知子ちゃんは、もっと違うことに恐怖を抱いてるような気がする。
こうして実際に動物園に足を運ぶことを進めてきたのは彼女であるし、なにかどうしようもなく受け付けないものがあるとは考えにくいのだが…。
と、そんなことを考えたときに昔の事をふと思い出した。
小さな彼女が号泣しながら野良犬に追われていた時の事を。
「あー……。……あれかー……」
「ひっ……、な、なんですか梅利さん」
「いや、ちょっとね。知子ちゃんって、動物苦手なの?」
「す、少しだけです。でも、そんなことで怯えているようじゃやっていけないなんて言うのも分かっているつもりです……。克服して見せますから私のことはお気になさらず」
「……すぐそうやって強がる。まあ、そういう頑張りは暖かく見守らないとか」
うう……と呻きながら、鳥肌が立った腕を擦っている知子ちゃんに内心でエールを送る。
青い顔をする彼女を心配しながらも、小さなボロボロのパンフレットを取り出す。
この動物園の入り口で埃を被っていたパンフレットへ確認した場所の印を付ければ、残る未確認箇所はたった一つだけとなっていた。
(この動物園には数日前まであった死骸が綺麗さっぱり無くなっている。それらがどんな状態だったかは分からないけれど、10年くらい経っていると仮定した時、突如として死骸に菌が感染して動き出すなんて考え辛い)
徘徊していた死者がぼんやりとした動きで知子ちゃんを捉え、不思議そうに固まったのを正面から瓦礫で頭を殴って処理する。
「……大人の死者がこうも簡単に……なんだか以前の私達が馬鹿みたい…」
(どの動物が居た場所にも共通しているのは、内側から強い力で檻を破壊した跡があること、そして地中深くから作られた穴があることの2つ……不味いな、嫌な想像をしちゃう。地下には何が居るって言うんだ……?)
ぼそぼそと呟いていた知子ちゃんの言葉は碌に耳に届かず、俺は思考を巡らせる。
あの穴から何かが這い出て、動物の死骸に何かをしたのだとするならば…、それは埒外な異形の存在を意味する。
これまで地下街や山奥、完全に異形に占拠された町まで行ったことがあり、様々な変異を遂げた異形達を俺は見て、時に戦ってきた。
多くの種類の異形達と闘ってきたと自負する俺だが、それでも他の異形と争うものや共生するものは居たとしても、一方的に死骸に影響を与えるような存在は、たとえ噂でも聞くことはなかったのだ。
――――だからこそ、この問題を小さく捉えてはいけないと結論付ける。
情報社会を生きてきて、そして、この明確な正解を教えてくれることのない世界で生活してきて最も怖いと感じるのは、分からないことだ。
事前の情報が何も無い、理解しがたい敵が最も恐ろしいというのは身に染みて理解している。
油断一つ、情報一つ、何かの掛け違い一つで命を落とす人など幾らでも居る。
そこまで思考を巡らせた時に、知子ちゃんとイケメンの会話が頭を過ぎる。
そういえば疑問に思ったもののタイミングを逃して聞いていなかったけど…。
「知子ちゃん、あの、イケメンと話していたとき何だけど」
「……イケメン? ああ、明石さんですか」
「そうそう。その時、新しいあれが誕生したとかなんとか言ってたけど、あれって何のこと?」
そう、彼らが会話の中で少しだけ話題に出していたその単語。
明確な名称を言わず、それでも直ぐにお互いがその存在に思い当たるような常識的な何か。
そんな常識に、俺は何の心当たりもなかったのだ。
青い顔のまま、心底不思議そうにこちらを見てくる知子ちゃんは戸惑うように答える。
「何って……“主”の事です。あ、でもあれですね、“主”っていう名称はここら辺のコミュニティでの呼び方でしか無いので、自衛隊の人達が呼んでいた名称は、確か…特級危険個体とかそんな感じだったと思います」
「“主”? 特級危険個体?」
「えっと、本当にご存じ無いんですね。以前まではこの地域一帯は一体の“主”の縄張りだったんですよ」
「へえ、そうなんだ」
知子ちゃんの説明に、俺は相槌を打つ。
死者よりも異形が強い、それは彼らを遠目にでも見れば直ぐに分かる。
そして異形の中でも強弱があると言うのも、異形を観察していれば割と直ぐに気が付くような事だと思う。
どういった変異をしたものが強いだとかそういうのはよく分からないが、異形同士でもどうしようもない格差と言うものが存在するのだ。
この地域を縄張りとしたと言うからにはかなり強い異形がそれに当たるのだろう。
少なくとも俺はそんな化け物と相まみえることは無かったが。
より詳しくその“主”とやらについて聞こうと、知子ちゃんに続きを促そうとした時、遠くに見覚えのある姿を見付けた。
「あ、あいつ」
「へっ? ええと、どこの事ですか?」
ほらあそこと、檻の上で何やら飛び跳ねている人型を指さした。
猿である、以前俺が逃がした二体の内の一体…かは分からないが、とりあえず所々禿げて血が滲み、目元はカラカラに干からびている点は同じであった。
知子ちゃんがその姿を捉えると同時に、向こうもこちらに気が付いたのか木の洞のような目をこちらに向けてくる。
知子ちゃんは恐怖により顔を青ざめ、猿は獲物を見付けたと言う様な不快な笑みを浮かべたが、次の瞬間俺と猿の視線が合った。
数秒の硬直。
どうやら向こうもこちらの事を覚えていたようだ。
反応が何もないので軽く手を振ってみる。
「ぎゃぎゃぎゃぎゃっーーーーー!!!???」
「えっ、なになになにっ!?」
「ひえええええっ……!!」
「あ、知子ちゃんっ!?」
脱兎のごとく逃げ出した猿がこちらを見向きもせず高速で走り去り、隣に居た知子ちゃんは突然叫びだした猿の姿に怯えて腰を抜かしてしまった。
△
ちらりと窓を補強する木の板を眺める。
幾重にも重なり自分たちの拠点を守ってきたその木は、長い間雨風や外敵から自分たちを守ってきた証明をするかのようにボロボロだ。
そろそろ新調しないとな、なんて考えながら、外の警戒当番だったその男は腰を下ろしていたパイプ椅子の立ち位置を変える。
腹の音が鳴る。
食糧不足により、朝と夜の食事しか支給されなくなってしまったために、次の食事の時間まではまだかなり時間があった。
イライラとする感情に任せて壁を殴りつけたい衝動に襲われるが、なんとか僅かな理性でそれを制する。
こんな外との接点で大きな音を出せば立ち所に異形の来襲があるであろう事は、頭の悪いこの男でも理解していた。
死にたくない、その一心で様々なものを見捨ててきた男は、死が近付いてくる可能性には敏感なのだ。
ある意味で有能なのだ、粗暴で横暴で人望がなくとも、兵隊としてならそれなり。
だからこそこうして、こんなコミュニティでもそれなりの地位を築けていたのだが…。
だが、もうこの男の欲望は我慢の限界に達し始めていた。
(糞っ! 最近は何も良いことがねえっ! 餓鬼どもはどうしろこうしろとうるせェし、妙な計画を立ててる気配もある。食事も娯楽も、確かな安全も無いとか…所属するコミュニティを間違えたなこりゃあ。あーあー……、息が詰まりそうだ……、こんなんじゃ死んでるのと変わりねェじゃんかよ!)
親指の爪を噛みはじめ、血走った目でなんとか外を眺める男は、自分本位な思考を巡らせる。
(どうせこの先なんてないんなら…、最後は楽しいことをやって死にてェな。俺的に好みだったあの知的そうな女はこの前感染して死んじまったし…あれだな、雛美とか言う男に媚びまくっている奴…、あれを最後に好きにして…)
もはや、どうせ死ぬのならと言う思いに駆られ始めたこの男を止めるものはない。
元々、他人などどうでも良いと言う犯罪者めいた思考をしているこの男がむしろここまで耐えていた方が驚きなのだ。
油で光る髪の隙間から血走った目が窓の外から、コミュニティの女性達が過ごして居るであろう部屋に向けられる。
直ぐに動くつもりはない、できる限り夢のような時間を送るには時と場所を選ばなくてはならない、そう思って、男は計算立てていく。
(くひひっ……、まずは少人数の時を狙わないとな。数人程度なら始末しても問題は無いだろう、どうせ奴らは俺を信用しきっている、事を運ぶのは簡単だ……!! 駄目だ、我慢が出来ないっ、できるだけ早くっ……、早く計画を実行しよう……!! ああ、もう今からあの女のぐちゃぐちゃになる様が――――)
ニタニタと笑みを浮かべていた男が思考を止める。
ぬるりとした妙な感覚を感じて、まともに動かない首に気が付いて、呆然と眼球を動かして自分の首元に視線を落として。
――――毛むくじゃらな細い腕が自分の首を貫いているのを確認した。
「がっ、かひゅっ……!?」
言葉は形にならない、まともな音を出せない。
パイプ椅子から崩れ落ちそうになる男の体を、窓の外から伸ばした長い腕で支えて音を立てさせない。
外への警戒を任されていたのに、それを放棄したツケが最悪の形で支払われる。
外から窓に張り付いている猿の化け物は嬉しそうに笑みを作り、死に体となった男の体を窓の近くまで引っ張った。
「かひゅっ、がふっ……!! や、やがああ……!!」
まともに音を出せないまま、近くに居る仲間に助けを求める事も出来ないまま。
一人の生存者は、いたぶられるかの様に、少しずつ捕食される。