彩り豊かな花束を君に
人類は大きな一歩を踏み出した。
絶滅しか道の無いと思われていた行く末に、僅かな光が差し込んだのだ。
それは対抗策の無かった死者や異形の存在に対して、圧倒的に優位に立てる術を手に入れたことによるものだ。
特効薬“ヒプノス”。
その効果は、初実践で想定外があったとは言え、最強とさえ言われていた“破國”という怪物を屠るほどのものであり、他の名すら無いような異形や死者程度では即座に灰と化すほどの威力を持った薬。
劇薬でありながら感染菌以外には影響は無く、そこに人間がいたとしても纏めて散布することが可能なあまりに対抗策としてはできすぎているそれを、隠れ潜み生き続けていた人類は手にすることが出来たのだ。
全ての怪物を屠り、かつての人間の世を取り戻す。
そんな、東城という少女が言い続けていたそんな夢物語が、誰にも嘲笑される事無くなるまでに現実味を帯びることとなった。
かつては現実を見ていない少女の戯言だと見向きもしていなかったものも、手に入れることとなった特効薬、そして散らばっていたコミュニティの統一によって得た戦力や装備の数々に手のひらを返すこととなった。
希望が見え、先行きのない絶望に顔を俯かせていた者達を勇気付かせるには充分な彼らの状況。
結果だけを見れば手放しに喜ぶ以外有り得ないようなものである筈なのに。
それでも、全ての人が手放しに喜んでる訳ではない。
そんなこと、出来る筈がなかった。
――――希望を得るまでに出た犠牲の数はあまりに多すぎた。
“ヒプノス”を手に入れるまでも、手に入れて初めて実践に投入したあの戦いでも、彼らはあまりに犠牲を出し過ぎた。
「――――また、ここにいたんですね」
日が暮れてきたというのに、墓石がならぶ閑静な集合墓地には未だにいくつかの人影があった。
南部の拠点として使われていた場所の一角にその墓地はある。
遺体さえ残らないもの、形にさえ残せるものがないもの。
それでもそこにいて、確かに自分たちと共に生きていた誰かの証を、忘れないように残しておくそんな場所。
そこには何時だって誰かが祈りを捧げて、冥福を祈り続けている誰かがいる。
ずっと両手を組んで、何も言わず静かに黙祷を捧げていた南部彩乃に声を掛けたのは、笹原知子だ。
数少ない生存者である彼女達はよくこの場所に足を進めていた。
特に彩乃はほぼ毎日足繁く通い、ひたすら祈りを捧げる生活を送っている。
そして、あの地獄のような戦闘からずっと生気が抜けたような顔をしている彩乃は、声を掛けた知子の声にもろくな反応もせず、ぼんやりと墓石を眺め続ける。
「明石さんが探していましたよ。隣町への生存圏拡大作戦に関する意見が聞きたいって」
「……ああ、そう。そうね、後で会いにいくわ、ありがとう」
「……まったく、休む暇もないですよね。つい一ヶ月前にこの場所を守る大きな戦闘があったって言うのに、“ヒプノス”の効果が証明されたからって、すぐに異形に占拠されている場所を取り返しに行くなんて」
「別に、考えなくてすむなら何でも良いわ。ようやく一つのコミュニティを担う責任からも外れられたし、私は……」
あれから影を帯びるようになった彩乃の空気に耐えきれず、不満を口実に話を続けようとするが、それすら上手くいかない。
呆れるほど生気を感じさせない、夜道に出会ったら死者と勘違いしてしまいそうな雰囲気の彩乃に、どう元気付けるべきかと知子は頭を悩ませる。
そんな時、彩乃が手にしている小さな封筒が目に入った。
「あれ、その手に持っている手紙って」
「……これね。馬鹿な私の幼馴染が残した私宛の手紙よ」
小さく息を吐いて、そう言った彩乃の言葉に驚いて、知子は彼女が持つ手紙を凝視する。
チラリと見えた封筒に書かれていた文字は、形が整った綺麗な文字だった。
見覚えのある、誰かの文字だった。
「……え? え、ええ? ば、梅利さんからの手紙ですかっ!? う、うらやま……んんっ」
「…………貴方って、ストーカー気質があると思うわ」
「失礼ですねっ、そんな訳がないでしょう!?」
慌てた態度のまま、彩乃が持つ手紙から視線をそらせないでいると、知子の興味に気が付いた彩乃はそれを懐に仕舞い込んだ。
「見せないわよ」
「は、はぁ!? 別に他人に宛てた手紙を見ようとするほど落ちぶれていませんし! で、でも…………梅利さんからの……ラブレター、ですか?」
「ふふ、違うわ」
「……へぇ……ふーん……そうですか」
面白そうに笑う彩乃とは裏腹に、いつのまにか知子の目から光が消えている。
無表情で、殺意を高めている知子に気が付かないまま、彩乃は言い訳するかのように話し始める。
「以前私が梅利に言った、貴方が命を落としたら私も後を追うって言う言葉を止めるために、遺書を残していってたのよ。それの内容が、馬鹿みたいに小っ恥ずかしいことを書くものだから、あんまり人には見せられなくて」
「……ほう。梅利さんが、最後に残した手紙……。それを彩乃さんに、彩乃さんだけに、ですか」
「アイツね……人が秘密にしてって言ったことをこれでもかとばかり書き込んでるのよ。ふざけてるでしょ? あの馬鹿は次会った時、思いっきりぶん殴ってやるわ」
何処か遠くを見詰めて口元を緩めそう言った彩乃に、知子は冷徹な眼差しを向けながら溜息を吐く。
人の気を知らないで、この幼馴染二人組は何処までも自分を振り回すのだと頭を痛める。
まだ彼女は夢を見ているのだと、亡骸が見付からないからまだ生きている可能性があると盲目に信じきっている。
「……あれからもう一ヶ月も経つんですよ彩乃さん。梅利さんがどうなったのか、あれだけ必死に探し回ったじゃないですか」
恐る恐る、探るような口調でそう切り出した知子に彩乃はフラフラとした視線を向ける。
「……分かってるわ。梅利はもういない、もう帰ってくることはないって分かってる」
「分かってないです、分かっているなら。病的なまでにこの場所へ通い詰めることはない筈です」
「……私は父親も、幼馴染も同時に亡くしたのよ。少しくらい引き摺ったって良いでしょう?」
「ええ、それは勿論です。でも、足を止られる時間がそう長くないのを、自覚は無くとも少し間違えれば彩乃さんの精神状態は壊れてしまいそうなことを、しっかり理解して欲しいんです」
眉間に皺を寄せて、掛けられた言葉をゆっくりとかみ砕いていた彩乃であったが、知子はそれに畳み掛ける。
「死んだ人達は何もすることは出来ません。今を生きる私達に、道を示すことも、想いを伝えることも出来ないんです。だから、これからは私達で支え合って生きるしか無いんです。間違っても、死んだ人の後を追ってしまいそうな人をそのまま見過ごしになんて、してはいけないんです」
「……私は……」
「……一ヶ月ですよ。あの怪物の侵攻が終わって、それだけの間ずっと梅利さんを探し続けました。それだけ探しても見付かるのは異形の残骸である灰ばかり。そんなものばかりだったら、もう、割り切るしかないじゃないですか。割り切って、祈りを捧げて、墓という形を残して……後はもう、進むしか無いじゃ無いですか」
「……分かってる、分かってるわ。ごめんなさい、ありがとう……」
どう進めば良いかなんて分からない。
手段があって、目的があって、希望だってある。
やるべき事は分かっている筈なのに、まるで支えにしていた何かが崩れたような、足場にしていた大切な何かが壊れてしまったような感覚が消えて無くならない。
どうやって歩けば良いか分からなくなってしまった。
自分がこんな場所でどんな風に立っていたのか、自分がどうやってここまで歩いてきたのか分からなくなってしまった。
だからこそ、くしゃくしゃになっても前に進もうとする年下の知子の姿が彩乃にはまぶしく見えるのだ。
「……ねえ、彩乃さん。私、頑張って生きていこうと思います。梅利さんを失って、凄く苦しくて、悲しくて、本当に嫌になってしまうけど……それでも、やっぱりこのまま私は腐っていたくない」
「……うん」
「きっと私よりもずっと、彩乃さんは失うものが大きかったから、直ぐには立ち直れはしないと思います。……それでもいつか前を向けたら、一緒に歩きましょう。私、待っていますから」
そう言って、墓石の前で立ち止まったままでいる彩乃を置いて知子は歩き出した。
彩乃はそれでも、じっとその背中を見送ることしか出来ない。
自分よりも小さいはずの彼女が歩いて行く姿を目の当たりにして、どれだけ励まされても、どれだけ叱咤されても、波紋一つ響かなかった彩乃の心が少しだけ揺れる。
彼女だってきっと辛かったはずだ。
あれだけ懐いていた梅利が命を落として、何度も救われていた彼女が梅利を救うことが出来なくて、どうしようも無い後悔が彼女の胸を苛んでいるはずだ。
けれど、それでも彼女は前を見て歩き出している。
胸を張れるようにと、顔を上げて歩き出している。
それがどれだけ凄いことか、同じような思いを抱える彩乃だからこそ理解できた。
知子の小さな頃を、彩乃も見たことがあった。
心配な子がいると梅利に言われて、そっと二人の様子を見に行ったことがあったのだ。
あんな一人で座り込んでいた子供が、ここまで大きくなった。
そこまで彼女を導いたであろう幼馴染を誇らしく思うと同時に、自分に対する無力感に苛まれる。
――――それでも。
血の海に沈んだ父親も、怪物の群れに飲み込まれた仲間達も。
最後に散っていったあの赤い流れ星も、全てが脳裏に焼き付いて離れない。
進んで進んで進み続けた先の今、彩乃の周りにはもう誰も残っていないのだから。
「……どうするのが良いのか、もう分からないよ。梅利……こんなに傷付いても、まだ歩かないといけないの?」
くしゃりと、力が入ってしまった手の中にあった、幼馴染が残した手紙が潰れる。
でも、もうそれに何も感じない。
天を仰いで、じっと目を閉じた。
異形を殺して殺して殺し尽くした。
呪詛を振りまいて、憎悪のままに暴れ狂い、辿り着いた今。
もうこの地にはあれだけ憎かった異形はいないはずなのに、そしてこれから先、多くの異形を屠っていける手段を手に入れたはずなのに、ほんの少しも嬉しくなんて無かった。
「……こんなっ……こんな所になんて来たくなかったっ……! 私はただ、あの頃に戻りたいだけだったのにっ……なんでっ……!」
一人きりになって、ようやく口から出た弱音に、誰よりも彩乃自身が驚いた。
ぽろぽろと流れ出した涙が頬を伝う。
幼馴染が残してくれた指輪だけが、彩乃の手の中に残る。
血を吐くような嘆きの言葉は、ただ空に消え、誰もそれを聞き届ける人はいなかった。
「嫌だよぉ……辛いよぉ……。もう、見たくないよ……」
しゃがみ込んで、口を押さえた。
立っていることも、もう出来なかった。
「嘘つき……嘘つき嘘つき嘘つき……うそつき……」
うずくまった彩乃は、うわ言を呟くようにそんな言葉を繰り返す。
いつだって隣にいた幼馴染はもういない。
いつだって助け合った幼馴染はもういない。
また会えたと思った大切な幼馴染は、もういないのだ。
「約束を守ってよ……それ以外いらないから、いらないから……梅利……お願いよ……梅利……」
何を言ったって変わらない。
何を願ったって変わらない。
だから、自分の嘆きが何の意味も無いような無駄なものだなんて、誰よりも彩乃自身が理解している。
それでも、命を掛けて、自分たちの未来を切り開いたあの背の小さい幼馴染にこれ以上願うのは求めすぎていると分かっていても、彩乃は願わずにはいられなかった。
「……わたしを、置いていかないでよ……いっしょにいようよ……」
最後に漏れ出した言葉は、十年前のあの時、血塗れで倒れた幼馴染に掛けた最後の言葉。
置いていきたくなんて無かった。
一緒に逃げて、一緒に戦って、一緒に生き延びようと約束した彼を、一人で死なせるなんて絶対にしたくなかった。
父親が彼女の手を取って引き摺るように逃げなければ、彩乃は絶対に幼馴染の下を離れなかっただろう。
だって、ずっと一緒に生きてきた。
生まれたときから隣にいて、おんなじ経験をして成長した。
一緒に勉強して、一緒に遊びに行って、一緒に笑い合った。
手を繋いで歩いた事なんて沢山ある、隣り合って眠りについた事なんて沢山ある。
同級生にからかわれて、それでも少しも離れなかった。
片方が喧嘩をしたら、もう片方も嬉々として首を突っ込みに行った。
悪い事がバレて、厳しい彩乃の父親に怒られるときは、並んで正座をしたりした。
何処までも一緒で、それでいいと、それが良いと思っていた。
きっとこれから先もずっと一緒だと、言葉にしなくてもお互いに思っていて。
きっと、自分たちは死ぬときも一緒なのだと思っていたから。
片方が欠けるなんて、想像すらしてなくて。
その苦しみの覚悟なんて、少しだってしてはいなかった。
墓石の前で彩乃は泣き崩れる。
膝を着き、もう力なんて入らないかのように崩れ落ちた彼女には、もう何も残っていなかった。
だからもう、立ち上がることは出来ない。
彩乃はもう、一人で立つ事なんて出来はしないのだ。
「―――――彩乃!!」
――――だから、彼女は耳を疑った。
聞き慣れない、けれど間違いあの声を聞いて息が止まる。
有り得ないはずの声が聞こえた。
聞き間違えるはずの無い幼馴染の声が聞こえた。
少女のように高く、綺麗な声色は泣き崩れていた彩乃の心を跳ねさせて、涙一つ拭かないくしゃくしゃの顔で振り向かせる。
「彩乃っ!」
――――そこには見る影も無いほどに朽ちた少女がいた。
色を失った白い髪に、頭から生えていた角は跡形も無い。
片目に何か障害が残ったのか、覆うように包帯が巻かれ、顔のほとんどが隠れている。
歩くことも辛いのだろう、両手に持った松葉杖で地面を付いて、必死にこちらに駆け寄ってくる彼女の肌はひび割れ、今にも砕けてしまいそうに見えた。
ボロボロで、錆び付いて、壊れてしまいそうな見たことの無い筈の風貌の小さな少女は、それでも彩乃にはそれが誰なのか理解できた。
「……ばいり……?」
「そうだよ馬鹿! あ、お前、今の俺の見た目の感想はいらないからな! 弱ってるんだから! 仕方ないんだからな!」
直ぐ傍まで駆け寄ってきた幼馴染が何かを思い出したのか勝手に怒り出す。
信じられないものを見るように目を見開いた彩乃のことなどお構いなしだ。
それが、いつもの彼と全く変わりなくて、涙がにじむ。
「なん、で……なんで梅利が……」
「はぁ? なんでここに来たのかって? そんなのお前に会いに来たからに決まってるだろ、一目散にお前の所に来たんだぞ! ……って、え、彩乃泣いてるの?」
ようやく彩乃の様子に気が付いたのか、とぼけたことを言いながら心配げに顔を覗き込んできた幼馴染に、彩乃は涙を止めることが出来なくなる。
「――――馬鹿っ、馬鹿馬鹿馬鹿っ……ばかぁっ……!」
「え、うそっ! やめっ、彩乃落ち着けぇっ!?」
彼女は堪えきれなくなり、しがみつくように抱きついた。
彩乃の重量に耐えきれなかった梅利は松葉杖でバランスも取れず、悲鳴を上げて二人して地面を転がっていく。
背中を強打した梅利が「死ぬ、今度こそ死ぬ……」なんて言うのに耳も貸さず、彩乃は自分よりも小さい彼の身体を強く掻き抱く。
「死んじゃったって、もういなくなっちゃったと思ったっ……! また、皆で私を置いていったんだって思ってっ……私は……わたしは……」
「え、俺が死んだって、なんで。あは、あはははは……いや、彩乃は馬鹿だなぁ……」
少しだけ虚を突かれたような顔をした後に、呆れたように笑った白い少女はしがみついてくる幼馴染の頭を抱き締めた。
「いつだって俺はお前を置いてくことなんてしないよ。例え俺が死んでしまっても、絶対に忘れないし、彩乃が笑っていることを願うから。だから……彩乃が一人になることなんてないんだよ」
「そんなっ、そんなの、そんなの分かんないよっ……」
「まあ、今は何とか生き延びられたからね……うん、まだ一緒にいようか彩乃」
「うんっ、一緒にいようっ……もう、何処にも行かないで」
「……まったく、彩乃はまだ目が離せないからなぁ……ほんとに、仕方ない」
そんな風に、自分よりも大きくて、自分よりも力強い彼女の頭をあやすように撫でて、白い少女は微笑んだ。
「ねえ彩乃――――ただいま」
「……おかえりなさい……」
遠い昔に引き裂かれた二人は、こうしてまた再会する。
姿形は変われども、その心は変わらないし、彼らの思い出は何一つだって変わることは無い。
だからもうこれから先、少女が中身の無い墓石の前で泣き崩れることも、大切なものを喪ったことで絶望することも、きっと無いだろう。
希望は生きていて、道筋は作り上げた。
先行きが見えない絶望の袋小路から、彼女達は抜け出すことが出来たのだ。
彼女達がこれから行く先は、きっと幸せが待っている。
少なくとも、今の彼女達は信じているだろう。
生き残っている人達が幸せになっていける、春の時代がやってきたことを。
ようやく凍えるように寒い冬の時代が終わって暖かい春を始められたのだと。
もう、梅の花が魁る必要は無い。
これからの先のこの世界には、きっと色取り取りの彩りが満ちあふれていくのだから。
ここまでの長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
皆様の応援のおかげで、何とか完結させることができました。
これにて本作は完結となります。
また何処かで皆様にお会いできる日が来るのを心から楽しみにしています。
ここまで本当にありがとうございました。




