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誰かが歩んだ道のりを

「東城さんっ……! 目を覚ましてください!」

「――――ぐ……明石? な、にが、起こった……の?」



 倒壊した建物で頭から血を流し倒れていた東城を肩で支えながら、明石は岩陰に身を潜める。

 呼び掛けに応えて目を覚ました東城に、明石は安心したように顔を綻ばせる。

 けれど、今の状況はまるで好転していないのだと気を引き締め直し、頭を抑えている東城に現状の説明を行った。



「“破國”が攻撃を仕掛けてきました……撃ちこんだ“ヒプノス”は効果を発揮せず……」

「……ああ、思い出してきたわ。特効薬を体内に撃ちこめなかったのね」

「散布機ごと建物を倒壊させられ、そこに異形の群れが押し寄せています。……今は見付かっていませんが、それもどうなるか……」

「状況は把握したわ、ありがとう。手を離して明石」



 慌てる明石を制して、東城はふらつく足に力を込めて動ける体勢を作っていく。

 大丈夫だ、まだ足は動く。

 脇腹に感じる鈍い痛みに頭と肩からの出血と怪我は少なくないが、それでもまだやるべきことが残っていると、東城は挫けそうになる自分自身の心に鞭を打った。



「な、これからどうするつもりなんですか? もう作戦の要である散布機は破壊されましたっ、これ以上戦線を維持しても勝利は見込めません! 水野と南部の娘も撤退していますっ、我々もこの場から下がるべきです……!」

「そうね、なら明石。貴方はこの場にいる生き残った者達を連れて撤退しなさい。私は私のやるべきことをやるわ、後の指揮は貴方に任せる」

「なぜっ、何を言っているんです東城さん!? この作戦の失敗は貴方のミスではありませんっ、俺達には貴方が必要なんです!」

「……別に私は、作戦が失敗して自棄を起こしているとかじゃないのよ」



 徘徊する異形の姿を物陰から確認して、東城は砕かれた散布機の欠片を手に取って機械の残骸をそっと集め始める。

 彼女が何をしようとしているのか分からない。

 何がしたいのか、どんな未来を見ているのか。

 長年後ろから彼女を見てきたが、明石は結局ここまで来ても分からずじまいだった。


 その事実がどうしても、明石にとって見過ごすことが出来なかったのだ。



「……ここでやれることなんてもうないじゃないですか。だったら、他の者達と一緒に拠点まで下がって作戦を立て直した方が良いに決まってる。東城さん……自棄じゃないなら何だっていうんですか……?」

「そう言う考えが出来るならもう私は貴方に教えることは無いわ。きっと貴方は良いリーダーになる」

「っ……なんで何も言ってくれないんですか!? 何でしっかりと話してくれ無いんですか!? 東城さんにとって俺らは一体何なんですか!?」

「……声を潜めなさい明石。ここで奴らに見付かって良いことは……」



 東城の肩に掴み掛かり言葉を荒げる明石だったが、それも大した興味も無いように素気なく流されて声を抑えるように諫められてしまう。

 そのことが逆に、明石の感情を逆撫でした。



「俺らは東城さんにとって仲間じゃないんですか!? 俺らはただ生かすだけの相手なんですか!? 俺らは……」

「明石……聞き分けなさい」

「“死鬼”のこともそうですっ! なんで東城さんは――――」

「――――そんなことは簡単だろう。全てを預けるには彼女の背負うものは多すぎて、目指す先は遠かっただけだ」

「……貴方、無事だったのね」



 明石のそんな言葉は背後から顕れたボロボロの白衣をまとった医者により遮られてしまう。

 最後まで薬品の調整をしていた彼が“破國”の標的となった散布機の直近にいたのを知っていた東城は想像していた最悪の末路が外れた事に安堵するが、言葉を遮られた明石は医者に鋭い視線を向ける。

 だが、元来周囲の評価など気にもしないこの医者には明石の不快感などどうでも良いようで、つまらなそうに肩をすくめ出血している肩口をもう片方の腕で押さえた。



「なんとか生きてはいるさ。いや何、まさか自身の薬の効果を確かめようと足を運んだにも関わらず、まともにあのデカブツに対して“ヒプノス”を投与することが出来ないとは思わなかったけどね」

「……ええ、それは私のミスね。ごめんなさい」

「いや謝ることじゃない。僕もまさか“破國”があそこまで進化を遂げているとは思いもしなかった。前に相当やられたのが効いていたのだろう、恐ろしいまでの適合だ。不慮の事故と言うべきだね」

「っ……それで何の用だ。俺の言葉に割って入り、言うことに欠いて知ったような口を」

「何の用かなんて簡単だ。僕は弱いから、安全な場所まで護送して貰おうと思って君たちに声を掛けただけさ。それと、僕は思ったままを口に出しているだけだ、彼女のことについては隣にいる本人に聞くべきだろう?」



 熱くなっていた頭に冷や水でも浴びせられたような顔をした明石は窺うように東城に視線を向けるが、彼女はそんなものに意を介さず、答える素振りも見せることは無い。



「ともかく、私達が今すべきなのはこんな押し問答などでは無い筈よ。私は考えが合ってこの場に残る、明石は生存している者達を連れて拠点に戻る、これを実行しなさい。コミュニティのトップに立つ者としての命令よ」

「……東城さん」



 もはや視線すらも合わせなくなった東城に明石は項垂れる。


 今まで生存者達に絶望的な窮地を幾度となく越えさせてきた、絶対的な指導者である東城。

 その背中をひたすら追い続けてきた明石は結局彼女の思考の一片にも触れることは出来ず、彼女を欠片も理解できないままあまりに重いバトンを渡された。


 干上がる喉元に、震える指先。

 不安は形と成って身体に顕われるが、それでも今現在異形や死者に襲われて命の危機に瀕している者達を思えば足を止める暇なんて無く、明石は直ぐに踵を返し倒壊した建物の中で生存者がいるのを探しに走って行った。



「……」

「ずいぶん手厳しい先輩だ、ものを教えるときは言葉や形にしないと伝わらないものだよ。それに、苛立ちや悲嘆を他人にぶつけるのは良くないと僕は思うけどね」

「早く明石の後を追わないと貴方を保護する人がいなくなるわよ」

「ああそうだね、それじゃあ僕はもう行くよ――――今度は後悔の無いようにすると良い」



 それだけを言い捨てて、ボロボロの白衣を翻し明石の後を追っていった医者に東城は顔を歪ませる。

 しばらく自分の元を去って行った二人の背中を見届けて、色んな感情を飲み込んだ彼女はゆっくりと散布機の残骸を集める作業に戻る。


 そこにあるのは荒廃した世界で人々を纏め上げる傑物としての姿は無く。

 ただ、行き場を無くしてしまった誰かがいるだけだった。



 東城がやろうとしていることは壊れた散布機の修繕だ。

 作戦の主要であった“南部”の拠点に設置されていたこれは、“破國”打倒には欠かせない物だと東城は思っていた。

 数年前の作戦の失敗や割ける人員の現象から、唯一の打開策であった特効薬開発が打ち切られると共に長らく埃を被ることとなったものの、人類の存続を掛けて設計されたこれは今なお機能としては最上である。

 直接“ヒプノス”を打ち込むことにこそ失敗したが、まだこの地域では多くの者が生きている。

 ならばまだ、彼女は敗北などしていない。


 幸い薬品を散布する専用の機械は数年前に作成され、自衛隊が進めていた計画は当時の有力だった者達に対して説明を行われた。

 元々多方面への知識を豊富に持っていた東城には、そんな簡単な説明だけでも散布機の構造のおおよそを掴むのは容易であり、多少破壊された程度であれば修復するのにそう時間は掛からない。


 壊れた機械を直してもう一度“ヒプノス”を使うのは現実的な策でないとは言えない。

 一定以上の効果を見込め、確かに現状の逆転となりえる手でもある。

 だが、それは決して簡単な事では無く、“破國”が壊したものを喰い漁る異形の群れを思えば安全などとは到底言えず、そして必ずしも実行できるという確実性がある物でも無かった。

 だからこそ、いずれ生存者達を率いて貰いたいと思っていた明石がこの場に残ることは許さず、危険であっても一人きりで作業するべきだと東城は判断したのだ。


 ……そして、彼女が一人になりたかった理由はそれだけではない。



「…………死鬼様、私は……」



 手の中にある最後の“ヒプノス”が入った筒を握りしめながら、東城はぼんやりと呟いた。


 一度は奪うことを決意した恩人の命を。

 失ってしまった筈の大切だったものを。

 もう一度切り捨てると……彼女は決断しきることが出来なかったのだ。


 化け物よりも人を。

 近しい怪物よりも関わりの無い同種を。

 救うものと切り捨てるものを決めた筈だった東城は、今更になって選び切ることが出来なくなっていた。


 一度は自分で捨ててしまった、彼女との生活がどれほど自分にとって大切だったのか、彼女が消息を絶ってから、嫌と言うほど思い知らされた。



「泉北……貴方のように生きられるだけ、私も素直になれたら良かったのにね」



 最後にそう呟く頃には、もう周囲には異形や死者の物音しかなくなっている。

 ゾッとするほど近くにある化け物の息づく音を聞いて、東城はそっと瞼を閉ざした。

 そうして思い出すのは見飽きていた筈の光景だ。


 角を生やした少女が東城を見て笑う。

 文字や言葉を知るために、少女はまるで普通の子供のように必死に東城の教えを受ける。

 異音を口から漏らしつつも、勤勉な姿勢を崩さなかった少女の姿に、彼女に接する度に感じていた緊張が少しだけ緩んだのを思い出す。


 悪夢だと思っていた筈のそんな記憶が、何故だか今は大切だったのだと感じるのだ。

 自嘲するように東城は笑って言葉を吐き捨てる。



「失わないと分からないなんてことあるはず無いと思っていたのに……。こんな後悔ばかりすることになるなんて……本当に馬鹿」



 少しだけ、泉北を羨ましく思った。

 最後まで彼女を想い、彼女の腕の中で息を引き取ったあの爺を。



「……ああでも……ずっと思い描いていた夢を、指先で掠ることくらいは出来た筈ね。ならもう……それで良いか」



 それだけ言って。

 自分を納得させるように言葉を紡いで、襲い来るであろう痛みを待つが、そんな時はいつまで経っても訪れない。

 むしろ固い何かが勢い良く飛ばされてきたのか、それが僅かに残っていた障害物を破壊して直ぐ近くを転げ回る音が発生して、思わずもう開けることは無いだろうと思っていた瞼を開いてしまう。



「――――……一体なにが飛んできたの?」



 東城の背後から忍び寄っていた異形に着弾した、真っ赤な何かに恐る恐る近付いた彼女はその正体に気が付いて目を見開いた。


 見慣れた着物が無残に裂けている。

 小さな体躯に大きな角。

 腹部に膨大な圧力を受けたのだろう、大きく抉れた傷とそこから漏れ出す黒い液体。

 それらが示すものの正体は、東城が知る限り一つしか無かった。



「……嘘でしょう?」



 何もかも投げ出そうとしていたことさえ忘れて、東城は動かない少女へと駆け寄った。







 昔、一人の無力な少女がいた。

 変わり果てた世界では、持っていた知力も、学歴も、才能も何一つ役に立たず、死者や異形に住む地を追いやられ、暴徒と化した心無い生存者に怯える生活を送るしか無かった少女がいた。


 水を奪われた。

 食料を奪われた。

 住む地を奪われ、仲間を奪われた。

 それでも力が無いが故に何も反抗なんてする事が出来なかった少女はただ震えるだけの自分自身を嫌悪しながらも、ひたすらに生に縋り続けた。

 いつかきっと昔のように戻れると信じて、ずっとずっと地獄のような日々を生き延び続けた。

 悪夢。そうとしか思えない現実に目覚めるときが来ることを願い、止まない雨は無いのだと自分に言い聞かせた。


 苦しくて。ひもじくて。寒くて。怖かった。

 救ってくれる誰かを心の何処かで願い、先の見えない暗闇を手探りで歩くような生活を送り、それでもついには最後に残っていた命すらも奪われる。

 地獄というものはきっとこういうものなのだろう。

 それでもいつか自分たちは力を合わせて世界を変えることが出来ると、自分の培ってきたものが役立つ日が来ると信じていた。

 ……本当はもう、この世界が昔の様に戻ることは無いのだろうと、心の何処かで理解していても、そうして言い聞かせ続けた。


 辛うじて生き続けた少女の生活が変わったのはそんなときだった。



――――ある時、化け物が少女に手を差し伸べた。

 

 皮肉にも、飢えて他者から奪うようになった者達から少女を救ったのは、化け物だった。


 人とは違う漆黒の双角を持ち、人外のような美しさを持ち、血に染まったような真っ赤な瞳を持った化け物。

 異形が出す異音、抑揚だけの怨嗟の音で、少女に対して確かに何かを語り掛ける目の前の化け物の姿はあまりに恐ろしく。

 それ以上に、異形という名の自分たちの命を奪うだけの存在が暴徒と化した生存者に襲われていた自身を救い、待ち望んでいた存在として目の前に現われたことがあまりに衝撃だった。



 無力だった少女の生活が一変した。

 貧困を受け入れ生を繋ぐだけだった生活が、他人に物事を教え、飢えを覚えることの無い生活へと変化した。


 少女を引き摺り上げた化け物は、欲しいものを言えばある程度は誠実に叶えてくれた。

 『言葉を教えて欲しい』だなんて、異形がそんなことを伝えてくるなんて考えもしなかったものの対価として、身の安全と不足の無い飲食、そしてある程度の我が儘さえも聞き届けてくれる。

 住処である廃墟の一室から引っ張り出してきた子供向けの絵本を抱えて来た化け物の確かな知性に驚いたのも束の間、その化け物のあまりの強さに末恐ろしさを覚えた。


 人と遜色の無い知性に人智を越えた身体能力。

 これまでの、ただ徘徊し獲物を見付けて襲い掛かるだけの死者や、人外の身体能力と僅かな知性を持った獣のような異形などとは比べものにならないほどの性能差を誇る、少女の形をした鬼は、人の世を取り戻す敵としてはあまりに強大で、それを身近で見ていた少女が絶望を覚えるのは当然と言えた。

 それほどまでに、その鬼は強大な力を持ち冷酷に襲い掛かる全てをなぎ払う。

 無慈悲に、己以外は無価値だと言わんばかりに、等しく暴虐を振りまいた。

 だからこその“死鬼”。全ての生命に死を運ぶ鬼がこの地に君臨することとなった。


 多くの者が恐れ震え上がったのは当然だ。

 それだけのことをした、それだけの非道を“死鬼”は行ってきたのだから。

 ……けれど同時に、鬼は言葉を覚えるごとに少女に対して優しさを見せていた。

 冷酷無比に襲い掛かってきた生存者を始末するくせに、住処で帰りを待っていた少女を見て面白そうに笑うようになった。

 片手でビル群を倒壊させ、侵攻してきた人の力の及ばないような化け物さえ打倒するくせに、少女が布団に包まって寒さに震えていれば直ぐに毛布を調達して放り投げてきた。


 優しかったのだ。

 もしもこの鬼が人の味方をしてくれればなんて夢を見てしまうほどに、化け物であるはずの鬼は少女に対して壊れ物を扱うかのように優しく触れた。

 人とよく似た見た目をしているその鬼に、わかり合えない化け物だと理解していても、多少の情を抱いてしまうのは仕方ない筈だ。

 言葉を覚えていくごとに、お互いの価値観を理解するごとに、柔らかくなっていく鬼の態度は少女が抱いていた大望さえ揺らがせて、このままこんな荒廃した生活を送ることさえ悪くは無いのでは無いかと思わせた。


 鬼は少女の同種である人が命を落としそうな場面で、利が無い筈なのに人を救うようになった。

 住まう場所を作り上げ、同じ生存者にさえ見捨てられるような無力な者達の居場所を築き上げた。

 この地域に侵攻してくる“主”と言う怪物を屠り続け、人の手には負えない化け物を幾度となく破壊し続けた。

 弱者達を、見捨てられるような者達を、救い上げ続けた鬼は彼らにとっての唯一の光だった。


 それを誰が責められよう。

 仕方が無いと切り捨てられた者達が、例えその相手が化け物だったとしても、自身を救ってくれた者に対して石を投げられるほど恩知らずではないのだから。

 敬意を、尊敬を、畏敬を、持つようになったとしても不思議では無い。

 信頼を、親愛を、敬愛を、抱いたとしても当然だ。

 だから自身に生まれたこの感情は決して間違いなどでは無い、そう願っていた。



 そうして悲劇で満ちているはずの世界で安穏とした暮らしを甘受するようになった少女であったが、胸の内に燻っていた何かが焦燥へと変わるのにそう時間は掛からなかった。

 自分のいるこの場所はきっと何処までも平和な楽園の様な場所で、けれど自分の知らぬ場所では今も誰かが死んでいるのだろう。

 建物の外に出れば怪物がそこら中を徘徊していて、餌となる人間を探しているに違いない。

 色んな人々が助けを求めている中で、自分だけが安全な場所で穏やかな生活を送っているのだという誰に対するものでも無い罪悪感が募っていく。

 思い詰め始めてしまえば、後は崖から転げ落ちていくかのように、悪い方向へとばかり思考は進んでいった。

 

 そして、きっかけとなったのはほんの些細なもの。

 目の前で人が“死鬼”によって殺された。

 自分よりも弱い者達から食料を奪おうとした無法者達を、見付けて何の躊躇もなく命を奪った怪物の姿を目の当たりにして、少女はストンと理解してしまったのだ。


 鬼はあくまで化け物で、人とは違うのだと。

 どれだけ好ましいと思っていても、鬼からすれば人間など等しく塵芥なのだと。

 彼女の気紛れ一つで、私達はみんな命を落とすことになるのだと……思ってしまった。


 思ってしまったのだ。

 






 知らない筈の懐かしい夢を見た。

 泣きそうな顔の少女が「ごめんなさい」と口にする。

 嫌に現実的なその光景は、くっきりとした形となって目の前にあった。

 何処かで見たことのある女の人だと思って、直ぐにその人が今よりも少しだけ若い東城さんなのだと気が付いて驚いた。

 余裕を崩さなかったあの人がこんな表情を浮かべるなんて考えもしなかったから、どうして彼女が俺に向かって謝るのか分からなかった。


 けれど、東城さんとあの子には関わりがあったのだと思い出す。

 あの子に言葉を教えたのが東城さんだった。

 俺が迷彩服とヘルメットで姿を隠していても、泉北のお爺さんと同様に一目であの子の姿をしていることに気が付いた、たった二人の内の一人。


 俺の知らないあの子との関係。

 初めて会ったときから何処か極度に俺を恐れて、何処か距離感を掴みかねて、吹っ切れたように笑ったあの人が、きっと誰にも言わなかった関係。

 あの子と彼女以外ではもう誰も知るよしもない二人だけの関係性は、糸と糸が絡み合うように複雑に入り組んで、解くことが出来なくなってしまっているのだろうか。

 俺が知るよしも無かったあの子と東城さんの関係が、今は自分自身のことのように理解できる。

 そうか、これが……。




 揺さぶられる……いいや、忙しない上下運動に揺さぶられて、俺は意識を取り戻す。

 直ぐ近くから感じるふんわりとした特徴的な優しい香りは、嗅いだことの無い筈なのに不思議と安心して、目前にある誰かの後ろ髪が風で頬に触れても少しだって不快な気分にならなかった。


――――……ああいや、違う。俺は知っている。


 俺を背負った女性が啜り泣きながら壊れた町の中を歩いている。

 ごめんなさい、そう譫言のように呟きながら壊れた建物の暗い影を歩く女性は少なくない怪我を負っているようで、それでも動けなかった俺を背負い、この場所まで連れてきてくれている。


 遠くで“破國”の怒りに染まった咆哮が聞こえてきた。

 吹き飛ばした俺を探しているのだろうか。

 建物を破壊している音がこの場所まで聞こえてきた。


 俺を背負っていればいずれあの化け物の標的となることは分かっている筈なのに、その女性はそんなことを考える素振りすら見せず、ひたすら歩みを進めている。


――――馬鹿な奴だ……昔からこいつは変わらない。



「……もういい。下ろせ、東城」



 俺を背負っていた女性の足が止まる。

 だがそれもほんの数秒で、直ぐに彼女はまた歩き出した。



「私はまだ闘える、あんな奴に好きにさせるつもりは無い。不意を打たれただけだ、もう不覚を取るつもりはない」



 不意を打たれただけというのは本当だ。

 緩急の差がありすぎて目で追うことが出来なかったが、一度あの速度を体感したのであれば対処することが出来ないと言うことはない。

 もう一度万全の状態で向かい合えば、ここまで一方的にやられると言うことは無いと言い切ることが出来る。

 未だに力が入らずピクリとも腕が動かないのを自覚しながら、俺はそう口にした。

 それでも東城は何も言わず、この町から出ようとする足を止めることは無かった。



「東城……」

「もう、いいんです。私達はもう……いいんです」



 しゃくり上げるように言葉を発した東城は振り向くこともしなかった。



「人の足掻きも、知を振り絞った策も、全部あの脅威に歯が立たなくて。今回も、前回も、ずっと死鬼様に頼り切り……貴方の下では果たせないと言って飛び出した、人の世の復興なんて馬鹿げた夢物語はまた貴方に犠牲を強いさせようとしている。対価を払うべきなのは私で……人ではない貴方では無い筈なのに」

「……それは……」

「だから、もう手を出さないで下さい。私は彼らを最後まで見捨てることは出来ません。けれど貴方は違うはずです。力があって、人間と言う種族の鎖に囚われない貴方ならばどうにでも生きられる筈です」



 東城さんが言っていることが理解できなかった。

 あの子へ向けてどんな感情を持っているか理解できなくて、彼女の言っていることが分からないことが多かった。

 けれど今、分からないことばかりの彼女の言葉を俺はようやく理解することが出来始めていた。



「貴方が人を救おうと人は貴方を救わない……そう言った泉北の言葉に私の心が揺さぶられた時点で、本当は何処か自覚している部分はあった筈なんです……だから――――」



 だからこそ腹立たしい。

 お前はそうではないだろうと叩きたくなるほどに。



「――――お前はそうやってウダウダ考えているのがすっかり板に付いているな、お似合いだと言っても良いほどに。下らない生を続けるくらいならば私がこの手で引導を渡してやっても良いんだぞ」

「――――……本当に貴方は、いつまで経っても私に厳しいんですね」

「お前がいつまで経っても独り立ちしないからだ。そろそろ手の掛からないような成長をしてほしいものなんだがな」



 口が勝手に動いたわけでは無い。

 俺の本心がこうだと思って、口が動いた。

 あの子のフリをしようとしたわけでは無い。

 俺の記憶からこう言うべきだと判断して声が出た。

 “混ざり合う”、“侵食”、そんなワードを使って俺の状態を表してた意味がようやく身に染みて分かってきた。


 あの子と俺は二つで一つ。

 一つの身体に二つの精神なんて普通は収まらないのだ。

 そしてこの身体は俺であった頃の人間の身体では無く、感染菌に適応した異形としての身体である。だったらもう、後は火を見るよりも明らかだろう。

 それにもう、あの子と俺を分けて考える必要なんて無いのだ。



「お前は水に映った月では無く、空に向かって手を伸ばすと私に言っただろう。私はそれになんと言った。お前らのような力無い奴が不相応な夢を目指すのを、私が一言でも否定したことがあったか?」



 足を止めた東城の背中から下りる。

 損傷の激しい右手は今なおまともに動かないが、再生が終わった左手はもう傷一つない。

 ボロボロとなり僅かに残っていた着物の裾の部分を引き千切り、真っ赤に染まったその布を千切って捨てれば、それは梅の花のように風で宙を舞った。



「お前らの滑稽な、しがみつくように生きる様を見ることは私が過ごしてきた何かを壊すだけの日々よりもずっと充実していた。お前らが力を合わせて生活する様を見るのは悪いものでは無かった。お前がこんな世界になっても夢を追い掛けていると知った時、私は嬉しさを隠すことが出来なかった」



 なあ。

 そう言って東城を見れば、いつからか見ることが無かった彼女の懐かしい泣き顔が目に入る。

 くしゃくしゃで不細工なその泣き顔はいっそ笑えるほど滑稽で、そんな顔を崩したくて彼女の額を指で押せば、彼女は怒られた子供のように目をつぶった。



「――――嬉しかったんだよ、お前らが生きたいと言ってくれることが。お前らが負けたくないと言ってくれることが堪らなく嬉しかったんだ。こんな命を奪うだけの世界なんかよりも、お前らが生きていく世界の方が絶対に楽しいんだろうと思えることが幸せだったんだ」



 黙って私の前から去った彼女は、最後の最後になって私を切り捨てることを躊躇した。

 それはきっと嬉しく思うことなのだろう、彼女との間に出来た絆を誇るべきことなのだろう。

 本当は、異形である私と同類である生存者達の選択など秤に掛けるまでも無い筈なのだから。


 大切な一人とそれ以外の大勢を選ぶなんて言う選択は、古今東西の物語で使い古されたような手垢の付いたテーマの一つだ。

 選ぶべきなのはその他大勢で、自分以外の誰に聞いたってその答えはきっと変わることは無い。

 けれど、そんな選択を選ばされた人物が大切な一人がいない世界が残ったとして、そこで何事も無く生活していけるのだろうか。


 そんなことは無いだろう。

 きっと、そんなことは出来ないのだろう。

 人はそんな風に強くなんて出来ていないし、強くあろうなんて思えない。

 後悔ばかりするだろう。実際、東城は私の前から去り、生存していた自衛隊の者達が私を討伐したと聞いたときは自責の念にも駆られたのだろう。

 

 残す者よりも残される者の方が苦しいに決まっている。だってずっと続くのだ。

 手の届かない所へ行ってしまった者が何を思っていたのか分からないまま、苦悩を抱えたまま生き続けなくてはいけないのだ。

 そんな単純なこと分かっていた筈だった、分かったつもりになっていた。

 いずれいなくなるであろう異形の自分が彼女に本心を何も伝えず、わだかまりを解決しようともしなかった。

 彼女が苦しみ抜いたであろう一年間、これはどうしようもないほど私に責任がある。

 やるべきだと分かっていた事をやらなかった、だからこそ色んなものが絡まりこんな風に彼女は泣くこととなってしまった。

 これは紛れもない私の責任なのだ。


 言葉にはしてやらない、けれど悪いことをしてしまったと思っている。

 誠意を行動にはしない、それでも尻拭いはしなくてはいけないと分かっている。

 責任は果たすべきだと思う、だから今度は同じ間違いを犯すつもりは無かった。

 残す者は、残される者に果たす責任がある筈なのだから。


 彼女の懐に感じていた嫌な気配に手を伸ばし、目の前に取り出せば医者が手にしていた“ヒプノス”がそこにある。

 まだ何も潰えていない、ここから変える事はまだまだ容易いはずだ。



「行け皐月、お前の夢を私に見せてくれ。お前が教えてくれたこの言葉は……ああ、私にとってかけがえの無いほど美しいものだった。だから今度はお前が生きたいと願う、美しい世界をどうか私に見せてくれ」

「っ……死鬼様ぁっ……」

「泣くな馬鹿。何度も言っているだろう、お前の泣き顔は不細工なんだと」



 “ヒプノス”を手渡して優しく背中を押せば、東城はようやくフラフラと頼りない足取りで歩き出した。

 

 


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