最悪の結末は
廃墟と化した町があった。
人の気配など無い、生き物が息づいている気配も無い。
鉄とゴムが地面にこびり付き、電柱は倒れ土を被り、枯れ木が葉も付けず立ち尽くす。
その空虚な光景は、崩れ落ちた建物の残骸だけがかつてはその場所に人が住んでいたのだと思わせ、日中である筈なのにどこか寂しげな印象さえ抱かせる――――誰もいなくなってしまったそんな場所。
だが、生き物が息づく様子のないその場所に蠢く影があった。
それは人などではなく群れる野生生物でもなく、生き物ですらない。
自然生物では有り得ないような変貌を遂げた死者の成れの果てが、何かを中心としてその周りを飛び回り、餌となるものを探すおぞましい光景がそこにはあった。
死者の行進、あるいは物語に出てくる百鬼夜行さえ連想させる、地を覆い尽くす異形どもの姿は、人の身では抗うことすら出来ない大災厄と称しても過言では無いだろう。
数体いるだけで町に大きな被害をもたらすであろう異形達が周りを取り囲む中で、中央を陣取る歪な異形は緩やかな足取りを崩すことは無い。
当然だ、周りで飛び交っている化け物達はあくまで中央にいる歪な異形が作るであろう残骸を狙っているだけなのだから。
それらが束になったところで、歪な異形に傷一つ付けることは出来ないだろう。
「■■■■ォォ……」
歪な異形が僅かに唸り、近くで動き回っていた一体の異形を踏み潰した。
再生力に秀で、強固な外殻を持つ筈の潰された異形は、それでも歪な異形の一撃で何一つ抵抗出来ず、物言わぬ骸へと変わり果てた。
偶発的なものだ、歪な異形は僅かな興味も潰れた残骸に対して持ち合わせていなかった。
足を下ろした場所にそれが居た、それだけなのだ。
――――眼球の無い、大木の洞のような暗い窪みがある方角に向けられる。
絶対強者である歪な化け物を持って、興味を引かせた何かがそちらにはあった。
かつて、自身と渡り合ったもう一体の化け物を歪な異形は記憶していたのだ。
ズキリ、と再生しきった筈の古傷が痛む。
苛立ちを隠そうともせず歩幅を大きくした化け物に追従して、百を下らない異形が群れを為す。
言葉を持たない化け物どもの波は巨大な波紋のように、残る全てを飲み込んだ。
△
東城さん達の拠点に最低限の戦力を残し、武装を整えた生存者達は“南部”が使っていた拠点へ移動した。
生きていくために必要なものを取り揃えている拠点を守り切れず壊されるのは避けたかったと言うのと、到底戦闘では足手まといにしかならないだろう老人や小さな子供を隔離するのが目的であり。
破國を迎え撃つ最終防衛ラインをその場所へとすることを決めたのだ。
命を捨てる覚悟で防衛へと向かった東城さん達だが、同時に残された者達も命の危険が無いとはいえない。
なぜなら残っている武器はもう銃器なんて一つも無く、満足に闘える人だって一人も残っていないからだ。
何処に居ても安全な場所なんてない、これは全戦力を防衛へと注ぎ込んだ彼らの決死の作戦だった。
そんな緊迫した状況の中で、俺はと言うと……。
「しきさま、これおいしいよ! あげるー!」
「しきさま! つみき、つみきしよ!」
「しきさま、おしっこいきたい……」
「くそっ……一度に喋るんじゃ無い! 私が分かるように一つ一つ物を言え!」
状況をまるで理解していない小さい子達に包囲されていた。
前にもあったこの状況。
あの子が泉北の人達に盲目的に信仰された結果、どうやら彼らの子供まで洗脳のように無条件であの子を好いているらしい。
基本的に子供が好きな俺としては悪いことでは無い筈なのだが、やっぱり洗脳された結果好かれるというのは遠慮したいし、何より無遠慮にひっついてくる子供達を止める大人がいない現状、この子達の暴走を止める人は誰もいないことになる。
“破國”と言う異形の侵攻を止めに行った彼らが帰ってくるまでこのままの可能性もあると言うことだ。
それはつまり……その、非常に困る。
“東城”や“南部”の老人達に遠巻きから冷たい視線を向けられているが……まあ、ちびっ子達はそんなことを気が付いてもいない。
そして老人達には俺の現状を助ける気配も、彼らに子供達が興味を向ける気配も無い。
八方塞がりの様な現状で、俺は必死に子供達の相手を強いられる事となっていた。
どうしてこんな事になったのだろう、なんて思わず考えてしまうが、もちろん、こうなった理由は俺だって分かっている。
特効薬……医者曰く“ヒプノス”と言うそうなのだが。
それを使用しようとした場合、襲撃してくる異形と同様に効果を受けてしまう俺の存在は逆に邪魔になり得るし、俺の知り合いはともかく他の人達は俺のような異形を信用することは出来ないだろう。
それならば、手薄となるこの場所の防衛として残すのは悪い選択では無いし、俺が残っていればこの場所の安全性はかなり高くなる。
けれどそんなものはあくまで生存者達の事情だけを考慮したもの。
当然、俺としては彩乃達に着いていきたかったのだが、それを進言しても東城さんが頑なに拒否して聞く耳を持たなかった。
生存者達の実質的なリーダーである彼女が否と言えば、他の人達も内心がどうであれ従うこととなる。
彩乃としても特効薬を使用する場に俺を連れて行くことはしたくなかったのか、俺は最終的に彼女にさえも説得されてしまう始末だった。
分かっている、俺としても事故で命なんて落としたくないし安全策を採るべきなのは十分理解している。
俺というどうなるか分からない戦力を活用するよりも、大きな効果を期待できる薬という切り札を信用するのは当然だろう。
だから現状は何一つ間違っていない、間違っているのはむしろ不安に思っている俺の方なのだ。
「……いくら特効薬が強力とは言っても、心配は心配だよなぁ……」
「死鬼、出入り口のバリケード強化は完了しました。東城さんに言われた“破國”襲来予定時刻の5分ほど前になったら、ここの人達を一カ所にまとめて守りやすくします。他にやった方が良いことなどはありますか?」
「あ……ああ、知子、ご苦労だったな。いや、私から言うことは特にない。お前の思うとおり進めてくれ」
バリケードの強化を行っていた知子ちゃんが、当然のように身の丈ほどもある木材を片手で抱えて戻ってきた。
その女性とは思えない膂力に本当は感染が進行しているのでは無いかと不安さえ覚えるが、医者の診断ではもう感染菌の進行は完全に抑えられ異形化する事はないとのことだった。
医者が言うには、特効薬“ヒプノス”の効果を受ける俺とは違い、知子ちゃんは特効薬の効果すら受けない程に普通の人間に近いらしい。
そして同時に、人でありながら超人のような身体能力を持ち、“ヒプノス”の効果を受けない彼女は誰の目から見ても有用である。
当然、今回の“破國”討伐への編成を東城さんらに熱望されていたのだが……知子ちゃんは頑として首を縦に振らなかった。
『――――私はここの人達を守るために動くつもりはありません』
向かい合った東城さん達から、そして以前一緒に生活をしていた元“西郷”の人達からも、一切目を逸らさずに断言した知子ちゃんは絶対に俺の傍を離れようとはしなかった。
うぬぼれで無ければその行動の理由は分かっている。
嬉しくは思う。
俺への恩を返すために何よりも俺を優先してくれた事は思わず口元が緩んでしまうほどに。
けれど……。
「――――ほら、あまり死鬼を困らせないの。死鬼は貴方達が思っているよりも力が強いんだから、軽く抵抗されただけで大怪我することになるわよ」
「ぶー」
「ぶー、じゃないの。離れて離れて」
「……んん」
優しい顔で子供達を抱き上げる知子ちゃんのような子が、同じ生存者達に嫌われていく事はなんとかやめさせたかった。
彼女が編成を断ったときの周りから向けられていた視線を思い出して、もやもやとしたそんな想いが生まれる。
どうしたものかと頭を悩ませていても何も良い方法が思い付かず、無性に外で風に当たりたくなってくる。
外の状況を確認するためにもと考えて、子供達が離れたことを確認してから腰を上げた。
「……はあ、少し歩いてくる」
「あ、待って下さい私も行きます」
俺がこの場を去ろうとすると、知子ちゃんは近くに居た人に子供を見ておくようお願いして着いてきた。
安全面から言えば俺か知子ちゃんのどちらかが残った方が良いんだろうが……まあ、まだ喧騒の気配も無いし良いだろう。
東城さん達が出て行ってかなりの時間が経った。
罠やバリケードの設置をすると言っていたが、俺は具体的なものについて知らされていない。
まあ、それに関して、今までずっとやってきた東城さん達が行うのだから俺が口を挟む要素はほんの少しも無いだろうから不満は持っていない。
どんな風に彼らが対策を取るのか気にならないと言えば嘘になるが、それよりも今気になっているのは“破國”とやらが連れる戦力だ。
と言うのも、“破國”は恐るべき身体能力を持った最強の異形だ。
単体で向かい合った場合“破國”に勝つことが出来る異形は居ないと考えられていたし、知能が無いはずの異形どもが本能的に戦いを避ける程の規格外なのだが。
“破國”の来襲でもっとも恐ろしいのは、本体の食への薄い執着から来るハイエナのような異形の群れの発生。
通常異形は群れること無く、個々の縄張りを侵される事を嫌い異形同士で争い合う。
高い能力を持ち妙な特性を持つ異形という変異種が、群れることが無いというのは生存者にとってはかなり好都合であり、単体の異形ならば、罠や道具、人数さえ揃えられれば討伐は至難ではない。
積極的に生存者を目の敵にしているわけでは無い異形という存在は、ある意味盲目的に生者を襲う死者よりも危険性で言えば低かった。
それが大前提、例外が“破國”だ。
“破國”という強大すぎる異形が残す残飯はあまりに多く、敵対する異形を容易くひねり潰すそれは兵器としても非常に優秀だ。
敵対さえしなければ餌以外に攻撃しない“破國”の傍にいれば楽に生活できる事を覚えた異形の群れは、通常の異形よりも力の弱いものこそ多いが、その数、その力は生存者にとっては悪夢に等しい。
だからこそ今まで、この国における最強の異形が野放しになっていてもどうすることも出来なかったのだと言う。
そして、破國が連れる異形の群れを一目見ようと最上階から外を見下ろした俺達は、それを視界に捉え息を呑んだ。
「……見えるか知子、あの山を越えてきている黒い粒」
「う、嘘でしょう!? なんなんですかあれ……あの数っ、私達全部を足しても足りないんじゃっ……」
「はは。これでは私が“破國”だけを止めたところで生存者達の被害は甚大だろう、私という戦力を使わずに特効薬を選んだのは正解か」
「わ、笑ってないで下さい!! あんな奴ら相手にしたら、東城さん達、絶対に約束守らず特効薬バラ撒くに決まっているじゃ無いですか!?」
「ははは、かも知れないな」
「だから、『ははは』じゃ無いですよ!!?」
遠くに見える山が黒く染まって蠢いている。
今は山頂一面を黒く染めているが、次第にこちらに溢れ出して波紋を町に広げていくだろう。
もはやここからではどれほどの数の異形が群れを為しているのか分からない。
以前の球根の異形が連れた動物が可愛く見えるほど、この数は圧倒的だ。
血相変えた知子ちゃんはどうしようと頭を抱えていたが、俺はある程度安心していた。
作った特効薬を医者は完全に異形を殺しきれると断言した、ならその効果について心配する必要は何一つ無いのだ。
であるなら、後は思い切りだけ。
どれだけの数がいようとも、異形全てを片付けることが出来る特効薬の存在はそれだけ埒外であり、医者の躊躇が切り捨てられるほどどうしようも無い状況に追い込まれれば、彼らは特効薬を使うしか無くなるのだ。
「なんで特効薬の使用を許可したんですかっ、こうなることは分かっていた筈ですよね!?」
「だから、“破國”に直接打ち込むのであれば良いと条件を出しただろう」
「本当に彼らがその条件を守るとでも思っているんですか!? 東城さんは貴方が思っているよりもずっと冷徹になれる人間ですよ!?」
「その時はその時さ……そもそももう、この場所に残る意味も無くなってしまったからな」
「えっ? ……今後半なんて言いましたか?」
呟いた言葉を聞き取れなかった知子ちゃんがそう聞き返してきたが、俺は少しだけ考えて違う言葉を彼女に返した。
「――――私がここを離れると言ったら、お前は着いて来てくれるんだろう?」
「……むうっ、別に死鬼の為じゃ無くて、私は梅利さんのためで……まあ良いです、地獄の果てでも付き合ってあげますよ」
迷い無くそう断言してくれる知子ちゃんに思わず笑って、そんな未来も良いかもしれないとうっすら思い描いた。
ああでも、その道は有り得ない。
もう行く先は決めているのだから。
医者との対話で特効薬を使用するかどうかを考えてくれと言われ、それから俺なりにこれからのことを必死に考えた。
ずっとずっと考えて、自分のこれからと捨てるべきもの、掬い上げるべきものを選び続けた。
彩乃に釘を刺されて、安易に自分を犠牲にする様な選択をするなと制約を課されて、選ぶ余地がほとんど無くなってしまってはいたけれど色んな事を考えた。
そうやって柄にもなく深く考えて、最後に俺が出した結論は“ヒプノス”の使用をさせることだった。
死ぬつもりは無い、だからと言って他の犠牲を許容するつもりも無い。
今を必死に生きている人達に対して俺の安全の為に死ねなんて、俺は言うことは出来なかった。
彩乃へ宛てた置き手紙はもう書いた、薬の使用を見届けたら俺はこの地を去ってどこか遠くに行こうと思う。
意識が続く限り、この世界の何処かで助けを求めている人を救って回る旅に出よう。
そうしている内にきっと俺はあの子になってもう戻れなくなるだろう、そうなったら、あの子には何処か遠くで放浪して貰おう。
それでいい、きっと俺が選べる終わり方ではそれが正解なのだろう。そう思った。
「……なんて顔してるんですか……」
「――――え? あ、ああ、変な顔してたか?」
「……ええ、まあ、少しだけ」
「いやっ、少し感傷に浸ってな。そ、それよりそろそろ東城達が動き出す頃合いだろう。“ヒプノス”とやらの効果を見せて貰おうか」
「……」
自分でも気が付かないうちに変な顔になっていたかと、頬をグニグニ揉む。
それでも意味深に見詰め続けてくる知子ちゃんの視線から逃れるように、顔を異形の群れへと逸らした時と、山頂に一際巨大な黒い影が現れたのは同時だった。
「――――あ……」
遠目に一目見ただけで、それが“破國”なのだと理解する。
その一体だけ、放つ空気があまりに異質。
全身を覆う浮き出した骨格は鎧のようで、頭部から生えた刃の様な角は圧倒的な重厚感を感じさせ、眼球が見えない暗闇の底のような目は深淵を連想させた。
隆起した血管と筋肉が脈動し、巨大な四本足に踏みしめられた地面は悲鳴を上げるかのように陥没していく。
今まで出会ってきた異形が可愛く見えるほどの規格外の化け物が、山頂からこの地を見下ろしていた。
「相変わらずふざけた化け物ですね……本当にあれに特効薬とやらが通用するんですか?」
「……さあな。だが、現状他に縋るものもないのも事実だろう」
「それは、そうなんですが……っっ!!?」
轟音が世界を揺らす。
“破國”が上げたと思われる咆哮が周囲に響き渡り、それを契機として群れが動き出した。
ズルリと、液体が容器から滴り落ちるように、山頂を陣取っていた黒い影が町に向かって広がり落ちていく。
まるで溶岩のようだ、なんて事を考えたがあの中身はそんな生優しいものでは無いかと思い直す。
本当であれば太刀打ちなど有り得ないような化け物どもの群れなのだ。意思を持たない自然の奔流などではない、生き物を殺すことだけを目的とした残酷な集団。
地獄が降ってくるかのような光景を目にして、知子ちゃんが小さな悲鳴を漏らした。
震え始めた知子ちゃんを見て、少しでも安心させられるようにそっとその手を握りしめる。
「……どれほどの効果があるのか見せて貰おうか藪医者」
雪崩のように押し寄せていく異形も群れが、町中に侵攻していくのを眺めながらそう呟いた。
△
“泉北”というコミュニティが採用していた身を守る方法に、“破國”の一部を使用したものがある。
医者の研究に使われた肉塊であったり、コート状に加工した毛皮であったり、それらに利用できなかった残骸を拠点の周りに置くことで異形除けとしたり。
いずれもあの子が“破國”を撃退する際に負わせた傷で、規格外の異形である“破國”の一部だからこそ為せた原始的な技術でもある。
日常を送る上でそれらの技術は当然かなり有用ではある。
特に異形除けとして使う方法は安全を確保する上で、若しくは異形を罠に誘導する上でかなり効果的ではある。
しかし、普段であれば異形の行く先をある程度制限できるこの技術は今回あまり役立つことは無い。
なぜなら、“破國”そのものは勿論、普段から“破國”の周囲を群れている異形はその脅威や匂いに慣れているからだ。
設置された匂いをものともせず突き進むであろう彼らの行く先は、生存者達が予想する事は難しい。
――――だからこそ、そんな予想を立てていながら“破國”の匂いを設置したのは理由があった。
「……さて、やるわよ」
“破國”を中心とした異形の群れが街中の辛うじて建物が残っている箇所に入った段階で水野達が動き出した。
普通であれば匂いで気づかれてしまうような距離で動き出した水野達であったが、異形どもは嗅覚を奪われたかのように彼女達に気が付くことが出来なかった。
人の匂いには敏感でも、同類の匂いには鈍かった。
つまり黒い毛皮のコートを目深に被った水野達は、人としての匂いを消し去っていたのだ。
至近距離での奇襲を成功させた水野達は、妨害を受けること無く“破國”を中心とした群れの両端に巨人達で車の残骸などを利用した壁を作り上げた。
その壁はあらかじめ仕込まれたもの。
車や建物を利用して、どれだけ放射状に群れが広がったとしても少し手が加わるだけで群れを囲えるよう整えられていたバリケードのような脆弱な壁。
“破國”がとは言わず、他の異形が壁を破壊しようとしても崩れてしまうような脆いものではあるが、そんなことはどうでもいい。
一時的に障害物が出来た。
囲いの中に群れがある。
それだけで十分なのだ。
「退避するわ、身を低くしてっ!」
水野達が脇目も振らず退避を開始する中で、我が物顔で侵入してきていた異形達は唐突な周りの変化に対応できず一瞬動きを止めた。
――――次の瞬間、空中から爆撃の嵐が降り注ぐ。
爆炎と異形どもの絶叫が響く中で、衝撃に備えて身を屈めていた水野は冷や汗を掻きながらも口角を歪めて視線を建物の上層に向ける。
「一発くらいの誤射は覚悟してたのだけれどねっ……! あの娘が義理堅くて助かったわ、本当にっ……!」
虫を見るかのような冷たい目を地上に向ける南部彩乃を一瞥してから、水野は頭の中で算段を立てていく。
奇襲による爆撃、ここから始まる狙撃と建物の上からの投擲で削れるのは甘く見ても3割程度、“破國”を特効薬で確実に潰せたとしても残りの異形の群れは到底手に負えるとは思えない。
こちらの武器にも限りがある、ならば自分達が使役している巨人で残りの7割をどれほど処理出来るかはかなり重要な点となってくるだろう。
となれば、武器に余裕がある今、そして“破國”を倒していない今、巨人を一体でも無駄に使うのはあまりに愚行。
「一度私達は戦線を離れ後方から支援を行うわ! 中継ぎは頼むわよ!」
「……頼まれなくても私達はそうする。さっさと離れていなさい」
大声を上げて意思を伝えた水野とは裏腹に、彩乃は特に何も伝えるつもりは無いのか普段通りの声量でそう呟いて、手に持ったグレネードを幾つか異形の群れへと投擲して大型の銃器の照準を群れへと合わせた。
バラ撒かれた鉛の雨が異形どもの全身を引き裂いていく。
ここで使われているのは、南部の拠点にあった銃火器の全て。
可能な限り製造され、来る決戦に備えて蓄えられ続けてきた多くの武器や、戦闘機等で使う筈だった弾薬や爆薬を、何一つ惜しむことなく最強の異形と言われる“破國”へぶつける。
もうこの戦いの後に、弾薬や爆薬を残すつもりは無かった。
そんな安全策を採っていても絶対に“主”、ましてや“破國”などには勝てないと身に染みて理解している。
弾丸や爆薬の嵐で絶叫を上げる異形どもとは違い、一際巨大な体躯の“破國”は傷一つ負うこと無く、ゆったりとした歩みをほんの少しも変えていない。
全てを出し切るつもりでのこの火力を持ってしても、この化け物に危機感すら抱かせることは出来ていなかった。
「……とは言っても、銃撃が“破國”に通らないことは想定済み。このまま続けてもアイツへのダメージにはならないでしょう……早くしなさいよ東城、長くは持たないわよ」
彩乃は溜息そう言いつつも、建物を這い上がってきた虫に近い異形を冷静に撃ち落とし攻撃の手を緩めない。
他の仲間達に襲い掛かろうと忍び寄っていた異形も軽く撃ち抜いて、今まで自分たちが使っていた拠点に軽く視線を向ける。
(長期戦になったらジリ貧になる。私達の全戦力を注いでも、戦況が優勢になるのはこの瞬間だけ。つまり、私達の手で決着を付けられるとしたら――――)
拠点から伸びる巨大な砲口が、異形の群れの中で悠然と歩を進める“破國”へと向けられている。
あの中に装填されているものこそ、生き延びた生存者達にとっての最後の希望である感染体への特効薬。
以前使用したときとは異なり、薬を希釈して拡散するのでは無く、“破國”単体に対してのみ効果を発揮するよう改造して一発の弾丸と化した、あの化け物を打倒しうる唯一の手札。
「それであっけなく終わらせなさいよっ……!」
銃口から筒状の弾が発射される。
撃ち出された弾丸は的確に彩乃達の攻撃をそよ風でも受けたかのように気にも留めていなかった“破國”の喉元に突き刺さり、その効果を発揮する。
いかに巨大、いかに強靱といえど、身体を構成する感染菌を体内から死滅させることが出来れば“破國”といえど無事では済まない。
特効薬を撒くよりも狭いが、確実な効果を期待できるこの選択は決して間違いでは無いと確信していた。
だからこそ、正確に“破國”の喉元に銃弾が突き刺さった一瞬、彩乃は思わず安心してしまったし、異形の絶叫が響き渡ったことに肩の力を抜いてしまったのだ。
特効薬が示した効果は絶大だった。
数多の異形が悲鳴を上げて、その身を急速に老朽化させるかのようにボロボロと崩れさせてゆく。
標的となった“破國”も、これまでどれだけ攻撃しても一切意に介してもいなかったのが嘘のように、片膝を着いて苦しんでいる。
あの医者の言っていたことは真実で、使用された薬は人類の希望になり得るものであったのは間違いなかった。
――――けれども。
「……体内に薬が撃ち込めていない……」
いつまで経っても期待していた効果が“破國”に顕れない。
むしろ周囲にいた他の異形が泡を吹いて地面をのたうち回っている事実に血の気が引いた。
「は、“破國”が倒れない……まさか……」
底の無い穴のような双眸が、不快だと言うように細められる。
ゆっくりと沈めた足に恐ろしい程の力が込められる。
――――直後、あまりの爆音と激震が世界を揺らした。
目前で爆撃でもされたのかと錯覚するほどの衝撃に耐えきれず、建物の上から地上の異形どもを蹂躙していた者達はその場で転げ回る。
「――――なに、がっ!!?」
足場が崩壊したのかと錯覚するほどのその衝撃の中では、いかに体幹の優れた彩乃といえど立ったままではいられず、咄嗟に床に手を着く。
「あっ、彩乃無事かっ!?」
「……こ、こっちは大丈夫よ! 一体どうなったの!?」
「駄目だっ、作戦は失敗だっ! “破國”が動き出した!!」
一瞬で作り出された阿鼻叫喚の様相に歯噛みして、せめて攻撃を続けて異形の群れは抑えなくてはと体勢を立て直した彩乃が“破國”の姿を確認して愕然とする。
“ヒプノス”を撃ち出した装置があった拠点が崩壊していた。
いいや、正確に言うならば、先ほどまで“破國”がいた場所から、“ヒプノス”の場所までにあった数棟の建物や足下にいた異形、障害物が軒並み吹き飛び更地と化している。
彩乃達が数日前まで使っていた建物全てが、動き出した“破國”のただ一度の突進でなぎ払われたのだ。
「……こ、これは……もう……」
ズキリと痛んだ頭を抑えれば、瓦礫にでもぶつかっていたのか、額から血が流れ出している。
ドロリとした感触が額から胸元に滴り落ちるのを感じながら、胸に生まれた絶望がカビのように広がっていくのを少しでも抑えられるようにと胸元を手で押さえた。
ほんの少し、ほんの少し倒すべき異形が動いただけだ。
それだけで、あれだけ話し合って、多くの代償を払って作り上げた戦況が、たった一度の攻勢でひっくり返された。
これを絶望と言わずして何と言うのだろう。
分かっていた筈だ、どれほどこの世界が不公平で、少しも自分たちに対して優しくないかなんて、とうの昔に思い知らされていた筈だ。
「く、そっ……まだよっ、まだ“破國”の全身に薬が回りきっていないだけよ! ここで攻撃の手を止めてしまったらそれこそ全滅することになるわ! 全員、眼下の異形の群れに対する攻撃を休めないで!」
自分でも信じ切れていないそんな言葉を吐き出して、彩乃は手に持っていた銃を握り直した。
彼女のここで決めきれなかったと言う焦燥は、自身の命の危機に対するものでは無く。
彼女がよく知っているアイツが、この状況で何もせず傍観してくれる事は無いのだろうと分かっていたからだ。
「ここで勝つ! 負け続けた私達が、コイツらに勝ってようやく一歩進めるのよ! 守るべきものを、今度こそ私達はっ……!!」
血に沈んだ幼馴染の姿を幻視する。
力が及ばず失ってしまった大切なものを思い出した。
何度も悔いたあの日々は、つい昨日のことのようで、戻ってきたその人をもう一度失うことなど絶対に認める訳にはいかなかった。
残骸と化したかつての拠点の上で、煩わしそうに彼女へと視線を向けた“破國”と目が合った。
「泣くのはもう沢山なのよっ……! ここで死ね化け物がっ!!」
彼女はもう、諦めることだけはしたくなかった。




