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想いはすれ違う


 あれから、東城さん達に着いていった生存者達が拠点に入っていくのを見送って、俺は適当に近くを回ることにした。

 正直言えば、彼らと一緒に中に入ってこれからの方針などの話を聞きたいと思っていたが、あの子として振る舞う俺がこれ以上ボロを出さないとも考えらないし。

 なによりも、異形である俺を恐れる人達が大多数なのだから無理に彼らに恐怖感を与えるべきではないと思って、着いていくことはしなかった。

 だから、俺を気にして何度もこちらを振り返っていた一部の人達のことは気にしないようにして、この近くを徘徊している死者や異形を片付けておくことにしたのだ。


 何が何でも着いてこようとする知子ちゃんに情報を取ってくるように言い聞かせ、彼らの中に放り込んでから数時間が経っただろうか。

 あの騒音で集まってきていた化け物達をあらかた片付け終わって、彼らの拠点の入り口に門番にでもなったような気分で座り込み、暮れてしまった空を見上げてみる。


 中に入った者達の話し合いはまだ終わらない。

 暗くなった空は生前に見た光景と変わらずにそこにあり、雲の隙間を縫って降り注ぐ月の光が町を照らしていた。



(……意識が消えていく感じって怖いんだよな……なんだか底の無い水の中に沈んでいくような……)



 医者が話していた内容によれば、もう俺の意識は長くは持たないらしい。

 それがどこまで正しいのかなんて俺には分からないし、この先解決策があるのかも面と向かって話したわけでは無いから知るよしは無い。


 怖くないと言えば嘘になる、けれどそれに気を取られてウダウダ考えると、俺は面倒臭いこじらせ方をするのだ。



「……あーもう、悩むのはやめやめ。どうせなるようにしかならないし、そんなことよりもこの動き辛い服をなんとかしたいし」

 


 愛用していた迷彩服がボロ絹と化していたため、“泉北”の人達がどこからともなく持ってきた整えられた華美な着物を着ることになったのだが……足下がヒラヒラして本当に動きにくい。

 どう考えても激しい運動には向いていない類の衣服なのに、あの子は本当に好んでこれを着ていたのだろうか。

 周りにいた動きの遅い奴らを倒していた最中も何度か裾を踏んでしまったのだから、より激しい動きをすれば転がり回ってしまうだろう。


 そんなことを考えながらぼんやりと空を見上げていたから、声を掛けられるまで近づいてくる人影に気が付くことが出来なかった。



「死鬼?」

「ん……ああ、東城か。話し合いは終わったのか?」



 そっと窺うように声を掛けてきたのは、ここのコミュニティを統治する東城さんだ。

 後ろに付き添う明石の姿を視界の端に納めて、俺の隣へと歩み寄った彼女へと視線を向ける。



「ええ、今後の方針が決まったわ。“南部”“泉北”の生存者はこちらで吸収、統合する。一つのコミュニティがかなり大人数で膨れ上がってしまったけれど致し方ないわ。別側面から見れば悪いことばかりでは無いしそこは問題なし。もう一つの、こちらへと向かってきている“破國”への対処をどうするかと言う点では、一応この地を捨てると言う提案もあったけれど、ここで迎え撃つべきと言う主張が大多数を占めた結果となったわ」

「まあ当然だろうな、今更この地を離れて何処へ行こうと同じ事だ」

「そう……その通りね」



 この場所の他にどれだけの人が生き残っているのか分からない。

 どんな異形が支配している場所があるのか、状況や環境の変化に対応できるのか。

 そんなことすらも分からない、不確定要素があまりに多いこの地を離れるという選択はどうしたって取りたくは無いだろう。



「だが勝つ算段はあるのか?」

「……正直、無いに等しいとは思っているの。あれは文字通り国を破壊した異形。この国の最高戦力が整っていた筈の首都防衛さえ打ち破った化け物なのだから」

「……だろうな」



 重々しく言い切った東城さんに頷く。

 苦虫を噛み潰したように渋い顔をする明石も、状況の悪さが分かっているのだろう。

 東城さんの言葉に何の反論もせず黙り込んでいる。


 話し合いにおいて、少数ながらも逃走なんて言う不確定要素が多い道を選んでしまう者がいるほどに“破國”という異形は桁が違う。

 “主”と言う枠組みの中でもさらに別格。

 “泉北”が使っていた毛皮や肉片だけで、他の異形が拠点に寄りつかなかった事を思えば、それだけでどれほど次元が違うのか分かるだろう。



「アレと正面切って闘えるのは死鬼、貴方だけ。それを私は確信を持って言いましょう」

「ふん、また私にあれと闘えと?」

「いいえ、勿論私達としては貴方がアレと闘ってくれるのであればそれに勝ることは無いけれど、そんなこと期待していないわ。そうではなくて……ちょっと説得を手伝って欲しいの」

「……説得? 私の言葉で後押しになるような奴など一部の奴らしか思い付かないが……あっ」



 予想だにしていなかった頼みに一瞬呆気にとられたが、東城さんが視線を向けた先を見て、すんなりとした納得と共に頭が痛み始める。


 頑として口を開くものかと口元を引き締めて目を閉ざしている医者が、知子ちゃんに連れられてそこにいた。

 困ったような表情で俺を見る知子ちゃんの表情が、話し合いで大体何があったのか俺に教えてくれる。

 ……これはかなり手強くなりそうだ、そんな役に立たない直感がこんな時ばかり働いた。







 医者と俺が初めて顔を会わせたのは、俺がこの身体で目覚めてから一月ほど経ってから。

 廃病院でひたすら感染菌の研究を一人で続けていた彼は、罠などを駆使して捕らえた死者すら材料とした非人道的な研究をしていた。

 勿論それは元が人で在る以上褒められた行為でないとは思うが、こんな状況だ。

 この状況の解決策を何かしら得るためならばある程度は仕方ない部分はあると思うし、実際俺もその光景を目の前にして医者に対して軽蔑を持つことは無かった。

 それは俺が命を落とした者達から衣類や武器を剥ぎ取っていたと聞いても、知子ちゃんが動揺一つしなかったことを思えば当たり前の考え方なのかも知れない。


 ……けれど、それはあくまで第三者視点で物を言う場合だ。

 もしも自分が知っている人が死者と化していて、それを捕らえて研究材料にされていると知ればどうなるだろう。

 家族、若しくは恋人がその様なものにされていると知ればどう思うのだろう。

 人を救うために医術を学んでいた者が、その先に人を救うことが出来るのか分からないままで人であったものをいじくり回すのはどんな気分なのだろう。



――――そんなもの、俺には到底想像も出来なくて、ただただ苦しいのだろうなんて事しか分からなかった。


 

 俺が医者と初めて会った時、医者は正気を失っていた。


 見えないものに怯え、ただ狂った様に研究をする。

 彼の姿はもはや骨と皮しか無く、初めて見たときは死者と見間違えてしまったほどに痩せ細り衰えて。

 俺の姿を視界に捉えても、まるで路傍の石でも見るような光のない目は変わることがなかった。


 元々医者になるような人だ、人を救うことを何よりとしていた彼には研究者の真似事など負担にしかならなかったのだと今だから思えるが、その時は正気を失った人間だと思って色々やってしまった。

 ……結果的に彼は正気を取り戻し、俺を恩人と、友人だと言ってくれる様になったが、俺のやった事なんて褒められたことじゃない。

 ただ単に彼を取り囲んだ変異した異形を倒し、彼に縁があったであろう死者を倒し埋葬して、彼自身をぶん殴っただけ。

 それだけなのだ。


 俺と彼の関係は軽口を言い合える関係ではあっても、一人で何年も研究を続けるような頑固者の説得など出来るような間柄ではない。

 そう、俺は思っていた。



「――――悪いが僕は特効薬をこれ以上作るつもりも、使用することを許可はすることも出来ない。あれは不完全で危険が多い、到底実践に使用できるようなものとは言えないからだ」

「嘘ね、泉北の爺は貴方の薬を切り札と見ていた。作り出した従う巨人は時間稼ぎにかなら無いと割り切っていた。となればその薬の効果は、“破國”すら倒し得るものだとアイツは分かっていた筈よ」

「いいや、僕は何度でも言おう。僕の薬は不完全で到底使用なんて出来ないものだ。使用することも、これ以上量産することも許さない」

「……頭が痛いわ」

「お前っ、状況が分かっているのか!? 俺達が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぞ!?」

「……明石、止まりなさい。恫喝したってなんの進展にもならないわ」



 頑として首を縦に振らない医者に、東城さんはこめかみを押さえ、明石さんは医者に詰め寄る。

 医者に付き添っていた知子ちゃんが慌てて間に割って入り、目の前の空気はもはや最悪に近い状態になっていた。



「ちょっ……こんな時に何を争っているんだ!? 馬鹿なのか貴様らはっ、馬鹿なんだろう!?」

「うるさいぞ死鬼とやら。僕は彼のことは友人だと思っていてもお前のことはどうだって良いんだ、異形程度が人の会話に入ってくるな」

「ちょっと貴方、死鬼に対して攻撃的なのは見過ごせないのだけど?」

「え、東城さんっ!?」

「わわっ、貴方も口を慎んでっ、東城さんと明石さんも落ち着いて下さい! 死鬼っ、ちょっと東城さんを抑えるのを手伝って!」

「……なんぞこれぇ……」



 さらに混沌と化した場に、取り敢えず知子ちゃんに言われるままに氷点下のような目で医者を睨んでいた東城さんの背中を落ち着かせるように撫でて、明石の袖を掴んでおく。

 明石さんは困ったように袖を掴んだ俺の手を見て止まり、憎悪すら浮かべて医者を見ていた東城さんは頬を染めて口をモゴモゴさせ停止する。


 一先ずは二人を抑えることは出来たが、医者が心底忌々しそうな目で知子ちゃん越しに俺を見ている。

 感謝こそされても、そんな目で見られる覚えはないんだけど……。



「……別に効果がある無しなんてやってみれば分かることだろう。使用くらいはしても良いんじゃないのか?」

「はっ、これだから頭が異形な奴は困る。こんな世界中に蔓延している感染菌に作用する薬の使用が、試しにやってみよう程度で出来るようなものな訳がないだろう」

「あ、頭が異形っ……!?」

「薬なんて聞こえは良いかもしれないが、別側面から見れば毒なんだ。その効果がどうであれ、思いもしなかったような副作用が働く可能性だって否定は出来ない。……それこそ、今以上の地獄が生まれる可能性だってあるんだから」

「頭が……異形……」



 グサリときた言葉を思わず繰り返して愕然とする。

 百足のような奴や蜘蛛のような奴、果てには球根の様な奴もいたが、どいつも言葉も発せ無いようなアホばかりだった。

 あの子のような口調で話してはいるけれど、話した内容は俺の考えであったのに、アレらと同じ……。


 医者が何かを説明しているが、真っ白になった頭には何一つ話が入ってこない。



「お、お前、流石に言い過ぎだろう。もう少し優しく……」

「……この見るに堪えない不衛生男。舌を引き千切って吊してやりましょうか……」

「ふん、やれるものならばやってみるが良い。僕も頭の悪い奴らに手を貸したくなど無いからね」

「し、死鬼ーー! ショックを受けてないでその二人っ、特に東城さんの方をしっかり止めておいて下さいーー!」



 知子ちゃんの悲鳴のような叫びに現実に引き戻された俺は、もはや瞳から光を失った東城さんを慌てて羽交い締めにする。

 頭二つくらい高い東城さんを羽交い締めにするのは大変だったが、幸い身体を密着させただけで東城さんは脱力してしまったため力は特にいらなかった。

 東城さんを見て顔を引き攣らせている明石さんに、後は任せろと視線で訴えて建物の中に戻るよう顎で示した。



「あー……明石、お前は東城を連れて戻っていろ。私の方からこの医者に話してみる」

「お前――――そ、それは構わないんだが……いや、分かった。頼む」



 借りてきた猫のように大人しくなっている東城さんを明石さんに引き渡し、暗い感情を乗せて俺を見続けている医者に歩み寄った。

 東城さん達が話し声の聞こえない場所まで行ったのを横目に確認して、手を出すんじゃないかと警戒している知子ちゃんの肩を軽く叩く。



「安心しろ、力でどうこうするつもりはない。少し二人で話させてくれ」

「……私、貴方を気が長いとは思っていないんですけど」

「私だって成長するさ。それにこの医者とは話しておきたいこともある」



 そこまで言えば知子ちゃんは疑わしそうな視線を俺に向けつつも、暴れないで下さいねと一言声を掛けた後に東城さん達の後を追って拠点の中へと戻っていってくれる。

 一人残された医者は胡散臭そうに俺を眺めながら、刺々しい態度を崩すことがない。



「……さて、これで二人きりになった訳だが僕から君に用は無い。薬を使うつもりもなければ、この件で彼らに協力しようと意思もない」

「……」

「この場所や生存者達に愛着なんて無くてね、そろそろ僕はここから離れようと思うんだ。“破國”なんて言う化け物は一介の医者でしかない僕の手に負えない」

「…………」



 医者が知子ちゃん達を見送り続けている俺に向けて何かを言っているが、そんなことはもうどうでもいい。もうやるべき事は決まっていた。

 あまり状況が分からないであろう、遠目の位置まで彼らは離れたのを確認して、未だに一人で話し続けている医者へと向け直る。


 驚いた様に少しだけ目を見開いた医者に近寄り、彼にだけ聞こえるような声でそっと話し掛けた。



「僕の力なんて微々たるもので、作成した薬も大した効果を期待できない。何なら一つ渡そうか? それを使って確かめてみ――――」

「……さて初めに言うが、力でどうこうするつもりは無いと言ったが、あれは嘘だ」

「――――……は?」

「存分に手加減するから歯を食いしばれ」

「ばっ、馬鹿止めっ……!?」



 パーンと、デコピンされた医者が地面を転がった。

 物も倒せない程度に調整した筈だったが、それでも額を抑えてゴロゴロと転がる医者を見ると相当な威力だったのだろう。

 目を白黒とさせ、目尻に涙を浮かべている医者に俺は近付いた。



「おい藪医者、嘘ばっかり付いてんな」

「!!? ??!!」



 訳が分からないと言いたげな表情の医者はまだ状況が掴めていない。

 でも俺は、こいつに対してはろくに状況を説明する必要が無いことを知っている。

 俺と医者の頭の回転速度は天と地ほどに差があるのだ。

 だから、俺は彼の状態を無視して自分の言いたいことをひたすら突き付ける。



「お前が作った薬がまだ未完成なんて事はないだろ。前に試作品だと言っていた物でも充分効果があったもんな」

「な……き、君は……」

「救えなかったのを後悔して、ずっと研究を続けていたんだろ? その成果を出せるときなのに何を怖がっているんだよ藪医者」

「――――……梅利君」



 俺の名前を呼んで、医者は力が抜けたように俯いた。

 ほっとしたような、どうすれば良いか分からなくなってしまったような、そんな顔が最後に見え俺は頭を悩ませた。

 

 ……らしくない。

 本当にこいつらしくない。

 殊勝な態度を取る奴じゃなかったはずなのに、目の前のこいつの態度は姿形がそっくりな別人だと言った方が納得できてしまうほどに違和感を覚える。

 こいつはなんて言うか、もっと変人で、もっと自己中心的な奴だったのに、今の医者はそれが見る影もない。



「まーた何か悩んでるんでしょ? 知ってるよ、前もそんな感じだったもんな」



 隣に座る。

 何の反応もしない医者の横で、ついさっきまで見ていた空を見上げた。

 そうして何気なく彼に話し掛けるのだ。



「“破國”ってやつが怖いの? それともこうして生存者達が集まった事が気に入らない? 泉北のお爺さんが死んでしまったことが許せない?」

「……いいや、そうじゃない。そういうことじゃないんだよ梅利君……」

「じゃあ……どういうことなの?」



 ポツリとしたそんな返答があって少しだけ口を噤んで彼の言葉の続きを待ってみたけれど、彼は続ける言葉は出そうとしなかった。



「……俺ね、実は昨日の夜に目が覚めててさ。皆が話しているのをこっそり聞いちゃったんだ」

「……それは……」

「この世界で俺が必要なのか、それともあの子が必要なのかの問い。理由は分からないけど、協力してくれるあの子は凄い強いみたいだし、これから襲ってくるって言う“破國”を思えば戦力がある方を取った方が良いのは確かでしょ? ……だから、その問い掛けで皆が何も言えなくなっているのを見て、当然だと思うと同時に怖くなったんだ。見知ったあの子達に俺がいらないって言われるのが怖かったから」

「……ああ」

「……だから、こうしてあの子の振りをして、俺の意識が続く最後の期間を無かったことにしようとしてる。ね、情けなくて恥ずかしいでしょ?」



 医者が顔を上げて、赤くなっている額が見えた。

 何か言いたげに歪んだ顔は、彼の言いたがっていない話の内容と関係があるのだろうか。


 それでもやっぱり医者は、俺がこんな弱音を吐いても想像通り俺を責めようとする素振りなんて一切見せず、弱々しく微笑みを浮かべて言い聞かせるように話し掛けてくる。



「君のその感情は当然だ、恥じる必要は無い。君は優しいものな、そんな風に悩んでしまうだろう」

「お前、俺の事になるとなんか優しくなるのな……」



 ようやく開き始めた医者の口を止めないよう、話を続けていく。



「これが俺の恥ずかしい秘密なんだ。正直誰にも言わないまま消えてしまおうかとも思って居たから、こうしてお前に話している事に自分でも本当に驚いている」

「それは……信頼されていると喜ぶべきなのかな?」

「あー、うん。そうだね、お前の事は信頼してるよ。人間性も、才能も努力もね」



 だから、と繋ぐ。



「俺と会ったときから経った時間を、お前が無意味に過ごしたとはどうしても思えないんだよ。お前が作った特効薬って言うのがどんな物か欠片も理解できないけど、でも何の効果も見込めない何て思えないんだ」

「……また君は変なことを言う」

「教えて欲しいんだ、何を嫌がっているのか。お前の言っている未完成な薬じゃ何が足りないのか、教えて欲しい。ほら、このまま東城さん達のコミュニティにお世話になるならあまり悪感情をもたれない方が良いだろうし、俺もできる限り協力するしさ、材料集めとかなら任せてよ」

「……」



 ここまで言っても彼は口を重く閉ざして俯いてしまう。


 どんなことを抱えているのだろう。

 口にしてもらえないと何が問題なのか分からない。

 けれど俯いた医者の表情は沈痛で。

 悲しんでいるような、怒っているような、若しくは自分の力の無さを悔いているような、そんなもの。


 どうしたものかと頭を悩ませていれば医者は頭を振って、ようやくポツポツと口を動かし始めた。



「……特効薬は以前も作られていてね。その研究チームには一応僕も参加していたんだ」

「え、そうなの?」

「そうなんだ、君が意識を取り戻すよりも前、国がギリギリのところで何とか機能を維持していた頃の話だ。あの頃は空気感染や虫や小動物からの感染があって、今よりもずっと感染経路が広く本当にどうしようもなかった」



 これがその時完成した対抗薬だ、そう言って薬品を一つ懐から取り出して地面に置いた。



「研究チームが組まれ、実用の範囲に入ったと思われた試作品を国が主導で散布した。……本当に限界だったからね、あらゆる面から効果を確認したとは言い難かったけれどマウスやモルモットで試した時は問題なく作用していたから、何かしらの働きはあると期待していたんだ。結果だけ言えばご覧の通り、空気中の感染菌や小動物、虫と言った対象が小さいものは滅菌する事が出来たんだが完全な排除には至らなかった」

「あっ、それは聞いたな。それから首都が陥落して研究も無くなっちゃったの?」

「ああ、そうだね。しかもこの対抗薬の散布であったのは良いことだけじゃなくて、巨大な昆虫の形をした異形はこの頃から出てくるようになったんだ。様々な特性を持った異形の発生に対応しきれなかった防衛していた者達は、これに潰されたと言っても過言では無いかな。ああそう言えば、これは秘密だった」

「え、ええ……それ俺に言っちゃうのか……」

「ふふ、君だから口が滑ってしまったのさ。……それで、この対抗薬を主導して作ったのは、僕の一つ上の先輩でね。間接的にこの国を完全な崩壊へと導いてしまった先輩は何とか自分の犯したこのミスを取り返そうとして、結局何も出来ないまま命を落としてしまった。だから僕がひたすら研究に勤しんでいたのは、単にあの先輩の研究を無駄にしたくなかっただけなんだ。僕は君が思っているような善人なんかじゃなくて、身近な人が助かればそれでいいと思っているような自分本位な人間なんだよ」

「ん? んん、それは割と知ってるけど……何が言いたいんだ?」



 俺がそんな風に軽く返せば、医者は引き攣ったような笑みを浮かべて、そっともう一つ薬品を取り出した。

 医者の部屋で見たあの薬品。

 触りたくないと直感した、白い液体の入ったガラス管がそこにある。

 それを取り出した医者は誇る様子は微塵もなく、むしろ苦々しげにそれを睨み付けていた。



「これは、僕が辿り着いた完全な感染菌に対する特効薬。間違いなく感染菌を殺し尽くす薬だ」

「――――す、凄いじゃんか!? なに!? 何だよ、なんで出し惜しみなんてっ!?」

「これの作成が終わったのはおよそ一ヶ月前だ。その間、僕と泉北のお爺さんで話し合って、これは使わないと言う方向で話が纏まっていた」

「……え?」

「……もう一度言う、僕は身近な人が助かればそれでいい。家族は死んだ、慕っていた先輩も死んだ、関わりがあった者達は皆もういないんだ。僕にはもう、大切と言えるのは君しかいないんだよ梅利君」



 薬品に向けていた視線を上げれば、医者はじっと俺を見詰めている。

 くたびれた顔だ、お父さんよりも年を取って見えるその顔は幾つもの皺が刻み込まれ、優しげに下がった目尻は母親の様な慈しみを思い出すそんな顔。


 彼はそっとその薬品を手に取って、何でも無いかのように大きく振りかぶった。



「――――君を殺すこんなもの。僕はいらないんだ」



 振るわれた腕はあっけなく。


 手に持っていた生存者達を救う、たった一つの希望は宙を舞った。


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