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理解されることのないもの

 昔のことだ。

 夢から覚めるよりもさらに前。


 その時の私は受けた傷が思っていたよりも深く、軽い休息を取ろうとしていたのだが。

 警戒もおろそかに、ただ傷を再生するためにじっと身を潜めて痛みと付き合っていれば突如として襲い掛かってきた武装した人間どもに攻撃され、直ぐには治らないほどの大きな傷を負うこととなったのだ。

 ぼんやりと霞む意識の中で、攻撃してきた人間どもの最後の生き残りを始末しようとした時に頭の中に響いたのは、私に向かって指図するような誰かの叫びだった。



『―――――止めろ!!!!!』



 聞き覚えの無い声が響いたことで、生き残りを貫き掛けた手を止めて周りを見渡した。

 声を出すような者は何処にも見当たらない。



「……主様?」



 頭の中に呼びかけてみるが、返事は返ってこない。

 もはや掴み上げていた生き残りの男には興味の一つも沸かず放り捨てて、自分の顔を何度も触る。


 確かに聞こえた。

 確かに声が届いたのだ。

 私という存在が奪ってしまった、誰かの声が聞こえたのだ。



「主様……主様……? もう一度……もう一度声を聞かせてくれ」



 そう願いを口に出してみても、もうあの声は聞こえてこない。

 どうして……、そんな疑問に対する答えが何も思い付かず、その場に座り込み髪を掻き回す。

 怒りが胸を満たしていく、憎悪に近い感情が己に向けられて始めたのを自覚する。


 そんな時に、大きな罅の入った角に手が触れた。

 一度だって傷付くことの無かった双角の片方に大きな亀裂が入っている。



「――――ああ、そうか……そういうことか」



 視線を彷徨わせて、近くにあった巨大な建物を見付けあれで良いかと心に決める。


 ふらふらとした足取りでその建物に歩み寄って、一息にその柱を破壊すれば自重に耐えきれなくなった建物がバランスを崩し、私目掛けて倒れ込んでくる。

 降り注ぎだした瓦礫の山を見詰めながら、私は亀裂の入った大きな角を掴んで力を込めていく。


 自傷なんて馬鹿な事を行うなんて、普段の私からすれば有り得ないような行為だ。

 けれどその行為に躊躇は無い。

 砕け散った片角と共に急激な眠気に襲われて、巨大な瓦礫を布団にしながら意識が闇に落ちていく。



『あ、れ……? おれ、は……?』



 切望したあの人の声が最後に響いて、無意識のうちに自分の口元が緩んだのが分かった。


 こんな顔が自分も出来たのか。

 そんなことを今更気が付いて、私は深い眠りについたのだ。





 目を覚ましたのは、変異した女の肩を食いちぎった時だった。

 心地よい微睡みから叩き起こされて機嫌を悪くしていたものの、そんなものは直ぐに消えて無くなった。


 自分の意思で身体が動かせない、私の身体が誰かに動かされて勝手に動いている。

 そんな二つの自身の異状にどうなっているのかと困惑するが、口に含んだ血肉を吐き出して咳き込んだ私の身体によってなんとなく理解する。

 私の身体を動かしているのは人間であった頃の私の意識、私の身体の主なのだろうと。



『……主様! 主様、聞こえているだろう!?』



 重そうな足取りで傷付いた女性の肩を止血すると、私の声など聞こえないのか女性を抱えて歩き始めてしまう。



『主様っ、主様なのだろう!? 私の言葉を聞いてくれっ! 私は貴方に伝えたいことがっ……!!』



 何も伝わらず、何も届くことは無く。

 ただ足を速めてしまう主様の姿に、私の言葉は尻すぼみになっていって。

 最後は思わず漏れてしまったかのような囁きとなってしまった。



『私は……貴方と話がしたいだけなんだ……』



 そんな呟きは形にさえなること無く、誰に聞かれることも無く消えていった。

 今のぼんやりとした私の意識では、身体を動かしている主様に触れることも、声を届けることも出来ないのだ。


 はじめの内は、何度も声を届かせようと必死になった。

 それこそ就寝時や起床時は問わず、食事の時や戦闘時だって試して見たが何の進展も無い。

 もどかしさのあまり、このまま見ていることしか出来ないのかと沈んだ気持ちでいたものだが、そんな考えも割と直ぐにどうでも良くなっていった。

 いやどうでも良いわけでは無いが、優先度はかなり下がっていったのだ。

 なぜならこの現状は、主様と私は一心同体……いいや、二心同体という希有な状態なのだと気が付いたからだ。


 肌が触れられない?

 元々一つの身体だから常に密着しているようなものだ。

 声が伝えられない?

 主様の行動を間近で観察できるチャンスでは無いか。

 反応が無くて寂しくないか?

 寂しさはあるが今が幸せなので特に気にならない。

 結論、充実した主様観察生活を送れて私は非常にご満悦なのである。



『おお、主様は銃が使えるのか! いやなに、有象無象どもが生き残る為の道具だとしか考えていなかったが、こうしてみると格好いいものでは無いか! ……だがまあ、服装はあまりセンスが良いとは思えんが……』

『……は? 今主様に告白したかこの男……』

『素晴らしい体捌きだ! ああ、主様……この気持ちを伝えられないことがここまでもどかしいとは……』

『主様は人を救うのか……そうか、流石は主様だ! 善良で、潔白で、高潔で、可憐で……ふ、ふふふ、主様ぁ』



 こんな感じの幸せな日常を送っていた私は、もはや身体の自由を私が取り戻すなんて考えもせずにただ毎日を謳歌していた。


 興奮する。

 いや間違えた、破壊ばかりだった私の心が癒やされる。

 気に入らないものは全て壊せば良いなんて考えていたのが遙か昔のことのように思え、今はなんであんなに余裕が無かったのだろうと疑問に思う程だ。

 主様の行動全てが輝いて見える。

 独り言とかもっと呟いて欲しかった。

 もはやずっとこの状態であればなんて想像すらしていた私に、望んでも無い転機が訪れてしまったのはそう遠くない日のことである。


 球根の化け物。

 “狂乱”の主。

 感染菌を増幅させ体内に大量に溜め込み、他に与えることで死者や異形を従える力を持ったデカブツの侵攻があった。

 私が見てきた“主”クラスの中でも地力は最弱に近く、どちらかと言えば感染菌を使った搦め手で獲物を捕らえるような異形。


 その汚らしい手に掛かり拘束された主様は、大量の感染菌に飲み込まれて意識を保つのがやっとの状態となっていた。

 千切れ掛けた意識を手繰り、帰るべき場所へと帰ろうとするその意思を見て、思わず私の口は動いていた。



『思い残す事はないのか? やり残したことはないのか? 残した者はないのか』

『なあそうだろう、まだ何も果たせていないのだろう? ならほら示せ、私はまだ戦うと、突き進むと私に示せ!』

『ああ……主様、私だけの主様。貴方のその意思は確かに見届けたぞ。あはっ、あははっ……あははははははははは!!!』



 その時初めて意識が私に切り替わった。

 それが感染菌の増加によるものだとか、危機に陥ったことに寄るものだとかなんてどうでも良い。

 ただ怒りのままに襲い来る獣どもに力を振るった。

 これまで反撃出来なかった主様に、どこか見下したような雰囲気さえあった球根の異形を地に引き摺り下ろし、率いていた獣どもを残らず引き裂いた。

 この程度の奴らなど私の敵では無く、数分の内に獣たちを全滅させ、死にかけの状態となった球根の異形に座った私は今後どうするべきか頭を悩ませることとなった。



「……このままでは元に戻ってしまう。主様がまた眠りについて、私が行動するだけの日々が続くこととなってしまう……それは、困る」



 この球根の異形を生かしておいたのは、溜め込んだ感染菌を活用できないかと考えたのと、感染菌を吸い取る様な機能が無いのかと思ってのことだった。

 だがそれも無駄な行為だったようで、球根の異形は大人しくしており許しを請うように身動き一つしようとしない。


 足に少し力を入れただけでブルブルと身体を震わせる球根を嘲笑い、使えないなら踏み潰してしまおうかと思ったところであることを思い付いた。



「……ああそうか! 以前のように角を破壊すればいいのか!」



 天恵を得たとばかりに立ち上がり、生えたばかりの角と無事で在り続けた角を触れてみれば明らかに強度が違うことが分かる。

 新しく生えた方の角の方が柔らかい、いや、古い角の方があまりに固いのだ。

 一度砕けた角が生え替わり強くなるのでは無く、二度同じ傷を負わぬように身体が強化されている。

 生え替わった角がまだ馴染みきっていないための柔らかさだと考えると、これ以上時間を与えれば最悪破壊することが出来なくなってしまう可能性すらある。



「だとしても、この場で角を破壊するのはな……」



 もはや気色の悪い悲鳴を上げて一心不乱に逃げていく球根など興味も沸かなかった。

 地下の空洞から地上に戻り、主様が気に掛けていた女が籠もっているであろう教会の地下室へと向かう。

 ここにもまだ獣たちが残っていたようでかなりの数が刃向かってきたが、そんな奴らが相手になるわけが無い。


 全てを排除して扉の前に辿り着くと、背中から寄りかかり中にいるであろう女に……確か笹原知子だとか言っていた奴に声を掛ける。

 できる限り主様の普段通りの声色を心掛けたがどうにも上手くいかず、最後は無理矢理黙らせる形となってしまった。

 私はしっかりと眠れる体勢に入ってから罅の入った片角を両手で掴み、握り潰すことで以前と同じように眠りについたのだ。





 次に目を覚ましたのは以前瀕死にさせた球根の異形の攻撃をその身に受けている時だった。



『!!?!!???』



 寝起きで視界いっぱいを覆い尽くしていた大量の蔓に狼狽する。

 雑魚で相手にならないと切り捨てていた筈の異形との再戦に、どんな状況なのか理解できず動揺するが、主様が一息で襲い掛かってきていた球根を吹き飛ばし、後ろにいた女の安否を気にしているのを見てようやく状況を把握する。


 知り合いか何かは知らないが、誰かを庇って攻撃を受けたのだ。

 変装している笹原知子が弱った球根を片付けるのを確認して、庇っていた女と主様が会話するのをぼんやりと眺める。

 何故主様があの球根を倒したのだろう。

 別に主様がどうこうするべき相手ではなかった様に思える。

 そしてそのまま特に見返りを求める事も無く、主様と笹原知子はこの場を去って行くのだ。



『……分からんな、なぜ主様はこうも見返りも求めず人を救う?』



 着飾った主様の姿に覚える感動も、傍にいる笹原知子を甘やかすことに対する嫉妬も、それらを勝るほどの疑問に押し潰されてしまった。



『……分からないな……私には』







 ある日の夜。

 主様が睡眠のために意識を落とした直後、身体の主導権が私に渡った。


 本来私達の様な存在は睡眠を取ることは無い、身体の回復力が高いため睡眠の必要が無いからだ。

 だが主様は人間であったときの名残なのか、夜は幸せそうに睡眠に落ちる、これは別に良い。

 問題はこれまで何度もあったその睡眠時間中に、今回初めて私に主導権が回ったことだ。

 これが意味することはつまり、この身体が主様では無く回復した私へと切り替わり始めていると言うこと。

 あの感染菌を撒き散らしていた球根との闘いの影響がこうして出てきてしまっているのだ。

 そこまで思い至り、私は苦虫を噛み潰したような想いを抱く。


 現状を共有するべきかと考えて、さっそく顔を赤くしながら隣に横になった笹原知子へと話し掛けてみた。

 笹原知子の真っ赤な顔が驚愕へと、そして血の気が失せた真っ青なものへとコロコロ変わった挙げ句、泣き出しそうな顔で主様の名前を呼ぶものだから焦ってしまった。

 ……少々早まったかもしれない。

 話もままならない精神の弱さに参ったが、何とか現状を説明し思い当たる原因をこの娘に伝えたが、本当に理解したのかは疑問だ。



「まあ安心しろとは言えないが、主様の意識が消えたわけでも、ましてや私が主様を害そうなどと言う考えはほんの少しだってないと理解しろ」

「じゃ、じゃあ……貴方はどんな目的で?」

「決まっている、主様をこのまま見ていたい。現状維持だ」

「……どういうことなの……?」



 それからこいつ、知子と話し合って、いかに私の精神を表に出さないようにするか意見を出し合った。

 感染菌を撒き散らすような敵、強敵並びに戦いが長引きそうな奴との戦闘を回避すること。

 感情の揺れ幅が大きいと私ではなく、異形的な思考に侵食され主様の精神自体が肉体に引き摺られ異形と化していく可能性があること。

 明らかに主様に好意を抱いている知子にとって、私が言うそれらの情報はあまりに大きな衝撃だったのか力無く項垂れてしまった。


 喜怒哀楽が豊かな奴だ、そう思う。

 ふと昔のことが頭を過ぎった。

 過去に言葉を私に教えていた奴も泣き虫な奴だった。

 高い展望ばかり持っていて、理想ばかり語る馬鹿な奴だった。

 何とか私を人々の味方となるよう説得してきたアイツに聞く耳一つ持たなかったのはもったいないことをしたものだと、今更になって少しだけ後悔する。

 話を聞き、矛盾点を突いて、遊んでやるのも一興だったろうに……惜しいことをしたものだ。


 反応の無い知子の姿に飽きて、この家の中を色々物色してみることにする。

 良い建物、最高級の家具が使われているこの場所での生活は確かに快適かもしれないな、なんて思いながら保管されていたワインに気がついて思わず手を取った。

 ……酒とはどんな味がするのだろう?

 好奇心に負けた私は二、三本ワイン瓶を抱えて、知子のいる寝室へと戻った。







「梅利さんが二日酔いの影響で苦しんでいました。反省して下さい」

「う……結構おいしかったのだが……やっぱり駄目だろうか?」

「嫌われる覚悟があるなら、どうぞお好きに」

「そんな言い方をされてしまったら飲めないでは無いかぁ……、主様ぁ……」



 次の日の夜、開口一番に知子が私に対して苦言を呈してきた。

 私との対話に慣れ始めたのか切り替わったばかりの私に対して、知子はしっかりと言いたいことを突き付けてくる。

 昔の私であれば怒りを覚えていたかもしれないが、今の私としてはむしろこっちの方がやりやすい。

 何事も、迅速に意思伝達することが出来ると言うのは重要だからな。



「……今日は止めておくか……。それよりも貴様、この家に他の女を連れ込んだな? 私は別に構わないがアレは長居させておくべきでは無いと思うぞ。早々に追い出すのが吉だ」

「どういうこと? 水野さんについて私はよく知らないけれど、貴方は何か事情を知っているの?」

「いや、アイツからは異形どもの匂いがする。感染とは違う、無理矢理埋め込んだようなちぐはぐで、遠くからでも分かるような鼻につくような匂いだ。このまま置いておけば少なくとも奴の仲間にこの場所がバレてしまうだろうからな」

「異形の匂い? ……原理は分からないけど、そういうこと……」



 考え込んだ知子を放って、手に持っていたワイン瓶を置く。

 主様に迷惑が掛かってしまうならこれは止めておくべきだろう。



「それとだ、主様の状態が悪化している。本格的に手を打たないと不味い気がする」

「……悪化?」

「球根の攻撃を庇ったのが不味かった。あれの感染菌を受けたことで徐々に侵食が進んでいるようだ、私が動かそうとすれば片腕は動かせそうな気配がある」

「う、嘘ですよね?」

「本当だ、何なら昼間に貴様のことを抱き寄せてやろうか?」



 顔を青くしたり赤くしたりと忙しない知子をせせら笑う。

 こいつをからかうのは面白い、もう少し時間に余裕があればしっかりと可愛がりたいくらいだ。


 とは言え、冗談など言っていられるほど余裕があるわけでは無い。

 角の破壊さえ行えれば主様に戻ることも可能だが、この身体は二度に渡る自傷行為に対して耐性をつけ始めている。

 より強靱に、より強固に、私の頭から生える双角は強く禍々しくなり始めた。

 次はどれだけ強くなるのかは分からないが、次の自傷が最後となる可能性もあると私は踏んでいる。

 打開策が無ければ昔の状態に後戻り、そうなる前に何かしらの手がかりが欲しい。



(まあ、手がかりさえ掴めてしまえば私に戻った後にでもゆっくりと解決すれば良い。それが何年後、何十年後になろうと私には関係ないことだからな)



 頭を悩ませ始めた知子を眺めながらそんなことを思う私は、主様に対して不誠実なのだろうか。


 私の原点、私を形作る根幹、私の唯一の存在証明。

 そんな存在である主様の幸福には少しでも寄与したいとは思うが、このまま主様が知子らと共に生活する先にあるのがただ幸福であると断言は出来ないのだ。


 再び別れがあるだろう、人と人で無いものの隔たりがあるだろう。

 そしていつか、主様がこのまま先に進むとするのなら、その先に待つのは迫害しか有り得ないのだから。

 人を切り捨てることが出来ない主様にはきっと苦悩の日々しか待ち受けない筈なのだ。

 もっとも主様の真意をくみ取ることは私には出来ない、ならば私は私の価値観で行動するべきだろう。

 人とは異なる、私の価値観で。



「……もしも主様が私に対して願ってくれるのならば、その限りではないのだがな」

「え、何か言いました?」

「いいや何でも無い。ただの戯れ言だ」



 私達は何の為に生まれたのだろう。

 何の為でも無いなら何故私にはこうして知性が芽生えたのだろう。

 こうして人と会話が出来るようになっても何一つとして解決しなかったその疑問がまた胸に渦巻いて、打開策が思い付かなかった知子が困った顔で私を見詰めてきたのをただ眺める。


 結局私はどこまでも自分本位で、脆弱な人間どもとは相容れない化け物でしか無いのだ。







「っっ……」



 夢から覚めた。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合った思考が頭を掻き回す。

 記憶の前後が分からずに今の状態が把握することができない。

 俺は誰だ、花宮梅利? それとも彼女か?


 ガンガンと鳴り響くような頭痛の中で、先ほどまで流れ込んできた彼女の記憶がありありと思い浮かぶ。

自分の記憶と先ほどまでの夢をゆっくりと頭の中を整理して、何とか認識を普段通りに戻す。



「あ……彩乃と屋上から落下して……? それで俺、どうなって……」



 思い出すのは記憶が途切れる直前の状況。

 落下してゆく自分と幼馴染、二人が助かる道をと縋ったのが彼女だった。

 そこから先の記憶は無く、どんな方向へ物事が転がったのかがわからない。


 痛む頭を抑えて辺りを見渡して、その場所が医者の使っていた一室だと言うことに気が付いた。

 過程は分からないが、どうやら自分は泉北の拠点へと戻ってきたらしい。


 辺りに人の気配は無い、身体に繋がれたような点滴も無く治療をした跡は見当たらない。

 身体を包む衣服だけがゆったりとした入院患者が着るようなものに変わっており、身体に着いていた筈の汚れも落とされている。



「え、ええっと……誰かがこの場所へ連れてきてくれたのかな?」



 身体を起こして、ベッドから降りて裸足のままその場を離れる。

 訳の分からない薬品が並べられた部屋の中を歩き、ぐちゃぐちゃに外国語の様なもので書き殴られたメモ紙がこれでもかと言わんばかりに壁に貼り付けられているのを眺め、薬品の中でも最も厳重に保管された白い薬品に興味が引かれて覗き込んだ。


 何一つ俺には理解できそうに無いものばかりだ。

 こういうのを見ると、本当にあの医者の頭脳が俺の想像の遙か上にあることを思い知らされる。



「……医者はあの巨人達は副産物と言っていたけど、と言うことは、作ろうとした目的のものって言うのはやっぱり……」



 白い薬品が揺らめくのを見終えて、そっとその場を離れる。

 何かを理解しようとしたわけでは無いが、結局何も分からなかった。

 ただ感じたのはどうしようもない忌避感。

 きっとあれは俺に毒なのだろう、だとすればこれ以上の無用な好奇心は自分を傷付けるだけだ。



「……なんで人がいないんだろう」



 部屋から顔を覗かせて外を見て、誰もいないことを確認してからそっと外に出る。

 

 自分の今の立ち位置が分からない。

 ならばあまり派手な行動は控えるべきだろう。

 ソロソロと無意識の内になった忍び足で通路を歩き人の気配を読もうと注意するが、どこからも人の気配が感じられない。

 


「あ、いや、寝静まった人の気配はある……もう夜遅いのか」



 引き摺りそうな衣服の裾を軽く持ち上げて、徘徊するように当てもなく歩き続ける。


 この拠点を治めていたお爺さんと敵対した形と成った俺であるが、彼らが信奉する異形と非常に似通ったこの容姿のおかげで、形はどれだけ敵対しようとも完全な敵意を向けられることは無かった。

 ……いいや、もう誤魔化すのは止めよう。

 死鬼である彼女から意識を取り戻した俺は、彼らにとって心の拠り所であった力ある異形であり、何かしらの期待を受けている存在なのだ。

 それが幸いしてか、あのお爺さんから俺を本気で害そうとする意思を感じることは無かった。

 せいぜいがこの場所へ連れ帰る程度だろうか。


 俺はそれで済む、問題は彩乃だ。

 唯一の肉親をあのお爺さんに手を掛けられた彩乃が彼を許すとは到底思えず、また同様にお爺さんも彩乃を生かす道理はない。

 俺が祈るように彼女へ願ったことを、異形の彼女が素直に従ったとは限らない。

 最悪を想定すると、彩乃の安否は絶望的なものだろう。

 今はただ、彩乃の無事を確認したかった。



「さっきの夢は……あの子の本心、なのかな」



 先ほどの見たことも無い光景と心情が、自分の勝手な妄想が生み出した夢で無いことを願いつつ、そっと頭部の角を触れてみれば片方が以前と同じように歪な形に砕けている。

 それが何を意味するのか、先ほど見た光景の中にあったものを考えれば自ずと導き出される。



「……でもきっと、あの子は彩乃を助けてくれたんだろうな」



 ありがとうと小さく呟けば、少しだけ胸が温かくなった。

 俺もいつか彼女と向かい合って話してみたいと思う。

 そうなればと期待に胸を膨らませる。


 曲がり角を曲がって、遠くの部屋からかすかに人の気配を感じて理由も無く息を潜める。

 僅かに聞こえる誰かの話し声の中に、彩乃のものと知子ちゃんのものがあるのを聞き取った。



「良かった……二人とも無事みたい」



 一先ず胸をなで下ろして、ふと疑問に思う。

 多くの者が寝静まっているこの時間に何故彼らは隠れるように会話をしているのだろうか。

 声を掛けるのは後回しにして、耳を澄ましてこっそりとその部屋の扉に近づいていく。



「――――ならもう、打つ手は無いと言うことなのね」



 最初に彩乃の声が聞こえてきた。

 何処か疲れたようなその声に少しだけ不安を覚えた俺は足を止める。



「で、でもっ、ならなんでこの一年間は問題なかったんですか? こんな急に悪化して、それでなお打つ手が無いなんて有り得ないじゃ無いですかっ……」



 続けられるのは知子ちゃんの声だ。

 最近は震える声ばかりを聞いている気がする、そんなことを考えながらぼんやりとその場で耳を傾ける。

 

 話の前後は分からないが、不穏な会話なのだろうと言うのは分かる。

 それも俺に関係するであろうことも、同様に。


 扉の隙間から漏れる光が弱々しく俺の影を形作った。



「これまでの一年間、彼が彼で在り続けられたのは経験が無かったからだ、自身の強固な身体を傷付けられることがね。そしてあの身体は学習する。僕達とは比べものにならない速度で環境に最適化していく異形の中でも、彼のアレは別格だ。傷付けられた経験を元に、より強く適応しているだろう。だから恐らく次が最後だ」

「……あの子、私としても嫌いでは無かったのだけどね。知子ちゃん、信じたくないのは分かるけどこのくたびれた医者はそうそう嘘なんて吐かないわ。研究以外碌に興味を示さない男だもの、人からの評価なんて気にもしないんだから」

「失礼な評価だ、僕だって嫌われたくない人はいる。君がそうで無いと言うだけさ」

「……ほんと腹立つ男ね貴方」



 軽口を叩く医者の声としばらく捕虜として扱った水野さんの苛立ったような声。

 彼らが話すのは恐らく俺についてなのだろうと理解する。



「現状打つ手は無い……でもそれがこのままって言う訳でもないのでしょう? 貴方が持っていたあの薬品はそう言うものである筈よね?」

「いやあれは……まだ使う段階のものでは無い、未完成品だ」

「何でも良いけれど時間が無いのは確かでしょうね。“破國”の件もある、ともかく早急にこの場所は捨てないと……泉北さんの向かった先も気になるわ」

「それなら恐らく“東城”に向かったんだと思います。彩乃さんの話を聞く限り、戦力の大部分を削ったと言う事ですし彼自身にこれ以上の隠し球は無いでしょう。なら次は現状最大コミュニティの“東城”に助力を求めるのは当然です。……それが可能かどうかはまた別ですが」

「確か死鬼討伐作戦が話題に上がったとき、反対していたのは“泉北”と“東城”だったわね。単なる偶然で、東城が泉北の爺と繋がりがあるとは思えないけれど、あの女は何を考えているか読めない」

「……私は泉北さんの交友関係をおおよそ把握していますが、あの方と繋がりがあったとは思えません。会話の一つもしているのを見たことありませんでしたから」

「難しい話はいらないだろう。結局、次にどうするかを決めようじゃ無いか」



 沈黙が一瞬だけ辺りを包んだ。

 熱くなり始めていた筈の会話を医者が一言で断ち切った。



「これから僕達が直ぐにするべきなのは、この場所を捨て東城に向かいこれ以上場を掻き回させないために泉北のお爺さんを捕まえること、これだろう?」



 黙り込む他の者に追撃を掛けるように、医者は文章でも読み上げるような淡々とした口調で言葉を続ける。



「“破國”の再侵攻に猶予は無い。都市ごと挽き潰す奴らはもう目の前にいる、それの対処をしなければ僕達はそろって全滅するだろう。そして泉北が貯蓄してきた異形の戦力はもう大部分を失った、対抗することは出来ないだろうね。あんな奴に単体で勝てるのは死鬼だけだ」


「――――それで君たちはどうしたいんだ。この場所の現状を知って、梅利君をどうしたいんだ。君たちに必要なのは梅利君か、それとも死鬼なのか?」



 返答は無かった。


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