死を運ぶ鬼
この地域においての恐怖の象徴は、十年も前から一体の異形であった。
時に人を殺し、同種を殺し、同格を殺し続けた特異な化け物。
少女の形をした死を振りまく化け物は、その想像を絶する力を持ってこの地域に君臨し続けた。
ある時は大地を喰らう蛇を。
ある時は空を征する鳥を。
ある時は国を崩壊させた巨獣を。
人の身では到底太刀打ちできない化け物達を破壊し続けながら、底の見えない圧倒的な力で終わることの無い絶望を生存者達に振りまいた。
根付いた絶望は消えること無く、ある日を境に化け物が一切姿を見せなくなってもなお、生存者達の恐怖の頂点であり続けたのだ。
△
「――――あはっ、あはははははははっ!!! 任せるが良い、主様ぁ!!」
ようやく会えた幼馴染の様子が豹変した。
繋ぐ手の先の暖かさが、氷のように冷たさを伴った凶器へと。
黒髪の少女の形をしたそれが凶悪なまでに口元を裂き、興奮した口調で狂喜を吐き出す。
つい先ほどまで重なっていた幼馴染の姿が掻き消えて、そこに現れたのはこの地を支配した異形“死鬼”に他ならない。
「梅利っ……!?」
「くく、備えろよ無鉄砲娘」
こらえきれないとでも言う様に笑みを漏らし、私の身体を引き寄せ横抱きにする。
小さな少女の身体に横抱きにされるなど想像すらしたことが無かったが、それに動揺する時間なんて無い。
何かを削り取る様な音を聞き取って、それが私を抱える異形が足の先で建物の壁を削って落下する速度を調整している音だというのが直ぐに分かった。
直後、高層からの二人分の落下衝撃が地面に叩き付けられる。
「っっ!!?」
「怖かったか? 次は頭を抱えてしゃがんでいろ」
だが、覚悟した強烈な衝撃なんて微塵もなく、腕の中で抱えた私への衝撃は羽毛が落下したのかと思う程のもの。
幼馴染の姿をした異形は誇る様子も無く身体を強張らせていた私を嘲笑い、そっと地面に下ろすと視線を上に向ける。
「あれらは下らない紛い物どもだが、脆弱なお前達を殺すには充分な強さだろうよ」
その言葉に弾かれたように上空を見上げれば、そこには視界全てを覆い尽くす巨人達の群れがある。
一直線にこちらを目掛けて落下してくる化け物どもの双眸は生気を全く感じさせない癖に、まっすぐ私達を見据えて離さない。
彼らの攻撃一つ一つが必殺の意味を持つ私にとって、もはや目の前の光景は絶望でしかないのだろう。
数は力だ。
単体だけでは出来ないことが、数が増えただけ可能な範囲が広がっていく。
人が異形を狩るときに必要とする人数が五人以上だとするなら、異形が“主”を狩るのに必要な数はどれだけなのだろう。
少なくとも目の前の数は、必要と言われるだけの量を揃えているように思えた。
「主様は力の使い方がなっていない。あの程度、一々拳を振るうだけ無駄というものだ」
そんな圧倒的な数の利を取られてもなお、隣にいる異形はつまらなそうにそう呟いた。
「――――これでは足場がせいぜいだろう」
飛翔。
そう感じるほどの圧倒的な風量が隣から巻き起こった。
直後に起こったのは上空から鳴り響いた風船が割れるような音の連続に、慌てて上を見上げれば、既に落下していた筈の巨人の半数以上が、身体を欠損させ大量の体液を噴き出している。
「巨人どもを踏んで飛び回っているの……!?」
踏んで足場にするだけで巨人の身体を砕き尽くす。
延々と空中に作られている巨人と言う足場を飛び回るだけで、あの化け物どもを破壊しているのだ。
もはや飛び回っている姿は目で追うことが出来ない。
ほぼ同時にさえ思えるタイミングで数体の巨人が爆発したように破裂している。
巨人は敵でも、ましてや脅威などにはなり得ていない。
あの異形にとっては路傍に生える雑草程度、きっとそんな感覚なのだろう。
つい先ほどまでは、昔の姿と重なって見えるほどに変わらない幼馴染であったはずが、今はもう姿は微塵も存在しない。
最初からいたのは死鬼という異形だったのではないかと錯覚するほどに、その姿はあまりに凄惨だった。
「……死鬼。本当に……梅利が、死鬼なんだね……」
圧倒的、目の前の光景はそれだけしか言わせない。
結局ろくな抵抗もないまま、ただの足場に成り下がった化け物達はたった一人の暴虐の嵐に呑まれ。
数えるのすら放棄するほどにいた筈の私達を追ってきていた巨人達は、ほんの数秒で全滅した。
備えた豪腕を一度として振るうこと無く、屋上から地面に辿り着くこと無く、その化け物どもは活動を終えたのだ。
「確か人間どもがいたのは三階だったな。ならばこれで問題は無い筈だ」
最後の一体を足場にして、死鬼は泉北が屋上にいるであろう建物の壁を蹴りつける。
轟音と共に建物が僅かにくの字に曲がり、さらにその場で身体を回転させて空中で回し蹴りを放つ。
小さな体躯の少女から放たれたその蹴りは、最初の一撃で曲がった場所よりも上、つまり四階よりも上を達磨落としでもしたかのように丸ごと吹き飛ばした。
水平に吹き飛ばされた建物の上部分が叩き付けられ、隣接していた建物が倒壊していく。
爆発でも起こしたかのような土埃が舞い上がり、一緒に吹き飛ばされたであろう屋上にいた泉北の爺がどうなったのかは窺い知ることは出来ない。
様子が分からない、そうであれば死鬼は容赦しない。
想像通り、真っ赤な目を倒壊した建物に向け、攻撃の手を一切緩めるつもりの無い死鬼が凶悪に口元を裂きながら音も無く私の隣に着地する。
そのまま吹き飛んだ建物を追おうと身構えたが、死鬼は何かに気が付いた様にこちらを向いて、迷う素振りを見せた。
「あー……主様はこいつを守れと言ったしここを離れるのは……。んん……おい彩乃、あの老人に追撃するぞ、着いてこい」
「…………異形の言うことなんて聞きたくないわ」
「おい、人間風情が私に逆らうな……とは言え、素直に言うことを聞く様な奴ではないか」
溜息を吐いた死鬼が私を米俵でも担ぐように抱える。
自分がどんな状態になったか少しの間理解できなかったが、すぐにせり上がってきた羞恥に暴れた。
「はっ、離してっ……!! 人を米でも担ぐように扱わないで……!!」
「ははは、似合っているぞ。ところで、この建物の中にいた奴らはとっとと避難させるべきだと思うが」
「屋上に向かう途中で外に出るように言っておいた! 良いから離してっ!!」
「……ふん、私の取り越し苦労か」
顔を叩く私を鬱陶しそうに抱え直した死鬼が、散歩でもするかのような気軽さで歩き始める。
やっぱりこいつは嫌いだ。
なんてことの無いように暴虐を振りまいて、私を子供でもあしらうかのように意にも介さない。
死鬼の元が梅利だと理解した今となっても、この感情は薄れようとはしないのだ。
そんなことが頭を過ぎったが、直ぐにどうでもいいと思考を切り替える。
危機的な状況を超えた今、気になるのは梅利の安否だった。
「死鬼っ、梅利は!? 梅利はどうなったの!?」
「主様は心配するな。ともかく今は目の前の愚図をどうにかするのが先だ」
「……信用して良いのね?」
「お前ごときに信用などされたく無いが、私がみすみす主様を手放す筈が無いだろう」
返ってきた言葉に一先ず安心する。
梅利が何かを飲み込んだと同時に豹変し死鬼としての活動を始めたが、まるで状況が掴めない。
死鬼が梅利だと言うのは理解した。
異形としての意識に持って行かれて、これまで梅利としての自我が表に出てこなかったのも理解した。
ならばなぜ先ほどまでは梅利として受け答え出来たのか、なぜ急に死鬼の意識が出てきたのか。
そんないくつかの気になる点は残ったが、それでも死鬼の言っていることは正しいし、こいつの言葉を一先ず信用するべきだと無理矢理納得することにした。
私の言葉を一笑し、のんびりと歩を進める死鬼が空いている片手の調子を確かめる様に何度か握り直している。
「……さっき降ってきていた巨人は大したことない、銃弾はそれなりに通るから貴方なら指先一つでどうにでもなる。問題は角の生えた奴よ。あれは密着でもしないと銃弾すら通らない。鉄塊でも食べているのかと思う程の硬さと獣のような速さを持つ化け物よ。それには注意が……」
「忠告してくれるのはありがたいが、私には必要ない」
「そう言う油断が敗北に繋がるのよ……! その身体は梅利のものっ、貴方はどうでも良くてもその身体を傷付けるのは許さない……!」
「……油断? 油断というのは――――」
土煙の中から角の異形が飛び込んでくる。
音も無く、気配も無く、ただ最速で目前まで辿り着いた角の化け物が拳という砲弾を振り下ろす様子を見ても何の反応も出来ない。
「――――こういうことを言うのだろう?」
拳を振り上げていた角の化け物が二つに裂けた。
何の抵抗もなく、何の前兆も素振りも無く、バラバラになった化け物が直ぐ横を転がっていく。
私があれだけ時間を掛けて戦った相手が、裏拳でもするような爪の一振りで刃物で切り裂かれたかのように分割された。
一秒にも満たない時間であの化け物が処理されたのだ。
自分との圧倒的な性能差をマジマジと目の前で見せつけられる。
「つまらん、煙を盾に突っ込んでくれば一撃加えられるとでも思ったか?」
収まらぬ土煙の中に、何の躊躇も無く足を踏み入れる。
「知恵を巡らせ、策略を駆使し、対策を立てて、意表を突く。そこまでしないでなぜ私とやり合えると思った」
土煙の中を悠然と歩く鬼に抱えられているのに。
守られている側であるはずなのに、何故こんなにも背筋が凍るのだろう。
「聞こえているのだろう爺。私の事をよく知っている貴様に聞いているのだ」
角の巨人が強襲する。
音も気配も無かったはずのその攻撃を、振り下ろしてきた鉄屑を死鬼は片手で掴み取り圧倒的な膂力で動作を押さえ込んだ。
鬼は嘲笑う。
「忘れたのならば、仕方ない」
嫌に冷たい声色で、蔑むように言葉を紡ぐ。
「絶望を刻もう」
力負けした角の化け物が鉄屑ごと握り潰された。
力無く膝を着いて崩れ落ちていった角の化け物を一瞥すらすることなく、死鬼が平手で土煙を煽れば、生み出された風であっと言う間に視界が晴れる。
泉北は私達のほんの少し先で、額に一筋の傷を負い、血を滴り落としながらこちらを見ていた。
動揺を隠そうともせず、震える腕を必死に押さえつけようと色が白くなるほど握りしめている。
ただ信仰している対象に会うにしては違和感を覚えるほどの取り乱し方を、泉北はしていた。
「し、死鬼様……本当に、死鬼様なのですか……?」
震える声でそう問い掛けた泉北に死鬼は何も答えず、ただじっと冷めた視線を向ける。
それから死鬼は少しだけ辺りを見渡して口を開いた。
「桐江はどうした、あの婆の姿を見掛けなかったが」
「……妻は、先に逝きました。老衰で数ヶ月前に……最後まで幸せそうな笑顔を浮かべておりました。ただ死鬼様のことだけを、悔いていて……」
「口うるさい婆だったが……そうか、幸せそうだったか」
そこまで言って死鬼は、息をゆっくりと吐いて目を閉じた。
泉北がそんな黙祷するような死鬼の姿に口元を手で覆う。
「っ……、死鬼様に救われて妻はずっと貴方様を慕っておりました。貴方様の事を口にしない日は一日たりともありませんでしたっ……」
「ふん、光栄な事だな。……何度も言うが私は貴様ら人間を救う気など無い、ただ私にとって不快な奴らを潰して回っているだけだ。貴様らが私を慕おうが、私がそれに応えることは無い。それで……」
そっと瞼を開いて泉北を見る。
「それは桐江を失ったせいとでも言うつもりか?」
いつも飄々と本心を見せなかった泉北が息を呑んだ。
血の気の失せた顔色で、何も言えずに黙り込む。
「弁明はあるか?」
「……何もございません。私は私の悲願を果たすのみです」
「よく言った、貴様は私の敵だ。せめてもの情けに私の手で屠ってやる」
抱えていた私を後ろに放り、死鬼は再び止めていた足を動かし始める。
死鬼と泉北の関係など知らなかったが、話している内容からそれなりの関係があったことが窺えた。
神と人。
異形と生者。
そんな形だけの関係ではなく、少なからず築かれた積み重ねがあるように思える。
ぎりぎりで受け身を取った私は、文句の一つも言えずに目の前で対峙する二人を見る。
「死鬼様……出来ることなら貴方様には手を上げたくはありません」
「御託は良い、跪け」
「でありますか……ではせめて抗わせて頂きます」
「思い上がったものだ、愚かしいほどに」
「ええ、私の悲願は。例え貴方様だとしても邪魔などさせはしません」
泉北の背後から最後の角の巨人が現れる。
風貌がこれまでとは異なる。
四本となった腕は大木を思わせるほどの豪腕で、その体躯はこれまで戦ってきた巨人達の中でも最大。
身体の至る所から角に似た突起物を隆起させる化け物は、何もすること無く超然とその場に佇んでいる。
これまで戦ってきた中でもより強靱で、より凶悪な化け物だと一目見ただけで分かってしまうほどに、その存在感は圧倒的だ。
“主”クラスの脅威であると、肌を刺すような空気で分かってしまう。
「これが私達の作り上げた最高傑作っ、対破國としての最終兵器です!」
自分が向かい合っているわけで無いのに銃を持つ手のひらが汗で湿り、緊張で固くなるほどの圧倒的な存在感に私はいつの間にかいかに直接的な戦闘を避けるかに思考を裂いていた。
それほどまでの恐ろしさが、アレに詰め込まれている。
泉北が血を吐くように叫んだ言葉に死鬼は僅かに眉を歪める。
小さな声で言った、下がっていろと言う言葉は私に向けたものだろうか。
何を気負うことも無く向かっていった死鬼の後ろ姿に、私はどうするべきかと視線を彷徨わせた。
「全盛期の死鬼様ならともかく、今の死鬼様にこれは容易い相手ではないでしょうっ! 貴方様がこれと戦っている間に私は後ろにいる守るべき者達を蹂躙させて頂きます!! 貴方様が手を出さないのであれば――――」
「これは貴様程度が扱いきれるものでは無いな」
「――――……なにを……?」
泉北の後ろにいる化け物の、小刻みに震える腕が徐々に大きくなっている。
全身が鎖の様なものを巻き付けられているが、それでも抑えきれ無いほどに隆起した筋肉に、鎖は罅が入り始めその機能を崩壊させていく。
角の間から覗く真っ赤な目が私や死鬼では無く、泉北の後ろ姿を捉えて離そうとしない。
異形に対する理解なんて無い私でも分かる。
あれを泉北は御し切れていない。
「おいデカブツ、掛かってこい」
「――――」
「……し、死鬼様?」
「暴れ回りたいのだろう? 残虐の限りを尽くしたいのだろう? 破壊を振りまきたいのだろう? 全てを私が終わらせてやる、痛みも無くだ」
「――――■……■■……」
「し、死鬼っ……! 放っておけばあれはっ……!」
「それとも私が怖いか、生まれたての木偶の坊」
咆哮が衝撃波のように放たれた。
泉北が何も指示しないままに動き出したそれが、視線で捉えていた泉北の横を素通りして死鬼目掛けて猛進してくる。
地を破壊して進み、空気を破壊して進み、進む先にあるもの全てを破壊しようとする破壊の化身は瞬きの間に死鬼の目前まで迫る。
四本の手に持った巨大な斧のようなものを鼠一匹も通れないほどに隙間無く振り回し、叩き潰すように振り下ろされたそれらが死鬼に直撃する前に、死鬼が動いた。
「主様、攻撃とはこうするのだ」
一瞬、腕が赤く染まった。
踏み込まれた左足が深く地面に食い込むのが見えた瞬間、地震と紛うほどの衝撃が生まれ、離れた場所にいた私の身体が跳ね上がる。
地面に走った巨大な罅が踏み込まれた恐ろしいほどの力を示し、その力の直ぐ傍にいた巨人の足も同様に罅が入るのが僅かに見えた。
襲い掛かっていた化け物の足が潰され、動きがほんの一瞬停止する。
次の瞬間には四本腕の巨人が消し飛んだ。
巨人だったものの欠片があたりに散らばり、巨人を貫いた衝撃が射線にいた泉北にも突き刺さって吹き飛ばしている。
圧倒的な存在感を放っていたあの化け物が、今は何処にも存在していなかった。
「そ……そんな馬鹿なっ……!!? あれは、アレはっ、破國を倒すための、唯一の……」
死鬼が振るった腕を握り直して調子を確かめている。
突き刺さった足を引き抜いて、散らばった四本腕の巨人の残骸を踏み締めて、泉北へと歩み寄っていく。
「爺、これで心置きなく桐江の後を追えるな?」
「ま、まだ……まだですっ! まだ私は死ぬわけにはいきません!! やり遂げなければいけないことが残っています!!」
「もう戦力は無いだろう、どうするつもりだ」
「……私が、やらなければっ……いけないんですっ……!」
溜息を吐いた死鬼が目の前に座り込んだ泉北を蹴り飛ばし、私に向かって走り出した。
動揺する私を余所に、私の後ろから襲い掛かってきていた身体を欠損させた巨人を吹き飛ばして、つまらなそうに声を掛けてくる。
「あの爺、生き残った巨人どもを暴れさせ始めた。一旦あいつを取り逃がすぞ」
「え? 貴方さっき目の前にいたんだから、息の根を止めようと思えば止められたんじゃ……?」
「あいつの人としての生はもう長くない、せいぜい一週間も持たないだろう。最後は私が手を下す。……だが清算くらいはさせたい、私の我が儘だ……父親を殺されたお前には悪いが、恨むなら私を恨むが良い」
「……別に、私の力で追い詰めた訳でもないのにそこまで文句を言うことなんて出来ないわ」
後ろを見れば土煙の中に居たであろう角の無い巨人達が暴れ回っており、コミュニティに所属していた生存者達に襲い掛かっている様子が見える。
角を持つ奴が居ないため手に持った武装で何とか戦えているが、それもいつまで持つか。
死鬼と共になんて言う考えたことも無かったような不思議な状況で、生存者達を助けると言う共通の目的を持って私達は走り出した。




