侵食する赤
花宮梅利と言う少年は十五歳と言う若さでこの世を去った。
それは紛れもない事実であり、どうしたって変えようのない現実である。
幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染の少女を庇い異形の爪をその身に受け、感染による身体の膨張と受けた傷から溢れ出した多量の血液。
そして、そもそも生存活動に必要な大切な器官を失ったことにより、即死と言っても良い最後をまだ年若い少年は迎えることとなったのだ。
幼馴染の少女との約束も。
ようやく心を開いてくれた少女との関係も。
何よりも、大切な者達の幸せを願っていただけの善良な少年の明るかった筈の未来も全て、その時理不尽にも奪われてしまったのだ。
それで終わり、それで終わるはずだった。
――――人を異形へと変える感染菌との、有り得ないほどに高い適合率さえ誇ることがなければ。
少年の残骸から産まれたものがあった。
生まれ落ちたそれはこれまでの脅威とは比べものにならないほど強大な化け物で。
他の化け物と同様に、強烈な破壊衝動がその化け物の思考を支配して。
胸に巣食う、大切な何かを無くしてしまったかのような喪失感を埋めるために、その化け物は動き出した。
△
これは夢だ。
全身を襲う倦怠感に身を任せ、意識はふわふわと闇を泳ぐ。
『――――私のものだ。やっと手に入れた、私だけのものだ』
鈴を鳴らすような少女の声が耳元で囁かれる。
抱き締められているのかと思うほどの距離感。
そんな触れ合うような距離にその声は居る。
この声、と言うよりも、この話し口調には覚えがあった。
球根の化け物に捕食され掛けたときに聞いたあの声だ。
『ああ……狂おしい、口惜しい、愛おしい。私はなぜ……』
尊大な筈の彼女の言葉が変化していく。
思い悩む少女の様な声色が、尻すぼみになっていく。
なぜ、そう思っても声は出なかった。
嘆くかのような声で、縋るかのような口調で。
彼女は誰かのことを呼ぶ。
『主様……、主様、主様主様主様……』
「――――主様」
視界に光が差し込んだ。
夢で見ていたあの子の言葉が、実際は俺の口から出ていたのを知る。
カタリと近くで物音がして、そちらを向けば蒼白な顔をした知子ちゃんが俺を見ていた。
俺の口から飛び出した言葉を聞いて、血の気が失せたかのように彼女は呆然としている。
「そんな……侵食が進んで、目が……」
「……目?」
身体を起こして、泣きそうな顔をしている知子ちゃんをぼんやりと眺める。
何があったのだろう?
そんなことを思いながら知子ちゃんの目を見るが、彼女の様子からは驚愕と恐怖だけしか伝わってこない。
少し彼女の言葉を待ってみても、知子ちゃんはこちらを凝視するばかりでそれ以上何かを言おうとしなかった。
お互いが相手を窺うような嫌な沈黙が部屋を包む。
そんな状況で、ふと彼女の変化に気が付いた。
瞳が真紅に染まっている。
元々彼女は俺によって感染したことにより、人の形を保ちながら異形としての力を僅かながら行使できるようになっていた。
その力を振るうときに限って彼女の瞳の色は真紅に染まっていた筈が、平常時の今それが起こっている。
侵食。
彼女が言った言葉の内容が、ようやく寝ぼけた頭に入り込んできた。
「ち、知子ちゃん! その目!?」
「……え? 私ですか?」
完全に甘く見ていた……これは俺の失態だろう。
俺が保有する感染菌がどのような変異を遂げたのか分からないのに、外見上や人格面に大きな変化を及ぼさなかったから大丈夫だと判断していた。
感染した彼女にどのような負荷が掛かるのか、どのような速度で彼女を変質させていくのか、考えようともしなかった。
今振り返ってみれば、どうしようもないくらい見込みが甘い。
「くそ、やっぱり早くアイツを見つけ出して診察して貰うべきだったんだっ! 悠長にしすぎたっ、早くしないと……!」
「あ、いえ、私のこれは……え、診察できる人が居るんですか?」
「居るっ、今まで何処に居るかは分からなかったけど、この前ようやく心当たりが出来たんだ! 状況が変わった、あの女の人は少し利用させて貰う……!」
「っっ、はいっ! 早くその人を見つけ出しましょうっ!」
俺の言葉に必死に知子ちゃんも同調してくれる。
気ばかりが急いて、何の準備もせずに寝室から俺は飛び出すが、慌てて追ってきた知子ちゃんがヘルメットを叩き付けるように俺の頭に被せた。
……ありがたいが、扱いが雑な気もする。
煮え切らない思いを抱えつつ、捕らえている女性の元へと足を速めた。
女性を拘束しているリビングまで辿り着くと、昨日はあれだけうるさかった女性が涎を垂らして床で眠っている姿が目に入った。
あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、起こしてしまうのも可哀想かと躊躇してしまう程だ。
だが、後ろにいた知子ちゃんはそんなこと関係ないようで、止める間もなく近寄ってすやすや眠る女性を挨拶と共に踏みつける。
「おはようございます水野さん」
「ふぐぉッッ!?」
「うわぁ……」
人前で出してはいけないような声が聞こえた気がする。
ゴホゴホと咳き込んでいる女性の姿に反応一つしない、知子ちゃんの冷徹さ加減にどん引きすした。
容赦するべき相手ではないと分かっているが、それでも憎々しげにこちらを涙目で睨み上げて来る女性から目を逸らしたくなってしまう。
「あ、あのすいません。少し行くところが出来ました、同行をお願いします」
「ゴホゴホッ……昨日とはえらく言葉遣いが違うのですね、それが素ですか? それに状況が変わったようですが、詳細を教えて頂いても?」
「あ……いや、お前が気にすることじゃない。黙って従え」
「へえ、あくまでその態度を貫こうとするんですね? 私とっても貴方に興味が出てきました」
ねっとりとした絡みつくような視線を浴びて一歩後ずさった。
なんなのだろうこの人は明石さんにも似た態度を取られていたが、彼女に関しては蟲に這われているような気持ち悪さを感じる。
「うるさいです。とっとと行きますよ水野さん」
「痛いっ! ちょっと、ちーちゃんもっと丁寧に扱って欲しいのだけど」
「ちーちゃん!? 水野さんにそんな名前で呼ばれても嬉しくないんですよ! ほら立って下さい!」
「いた、痛たたっ……」
いつの間にか付けていた犬用の首輪を引いて、知子ちゃんが女性を立たせる。
引っ張られていく女性が助けを求めるような目でこちらを見詰めてくるが、そんな視線を無視して彼女達の後を追った。
感染による侵食は確かな形と成って、知子ちゃんを蝕んでいる。
ならば、原因である俺にはそれに対処する責任があるだろう。
時間がどれだけ残されているかは分からない、だが外見上に変化が出るまで侵食が進行しているのは確かだ。
時間が余り残されていない可能性は考えたくもないが、だからこそ少しでも時間を無駄にするべきではないと思った。
これからするのは強攻策だ。
本来ならばもう少しだけ時間を掛けて情報を取ってから行動したかったが、そうも言っていられなくなった。
本当はこんなことはしたくないのだが……力技で活路を開くことにした。
「“泉北”の本拠地に行くぞ」
「――――……はっ?」
唖然とする女性に有無を言わせず、そのまま自動小銃を抱えて先頭を駆けた。
△
“泉北”の拠点は以前大聖堂として使われていた巨大な建物。
敷居面積だけで言えば自衛隊駐屯地を拠点としている“南部”に次いで巨大で、白と銀を基調とした美しいその外観は圧巻の一言だ。
だが、そんな美しい情景は周囲の背の低い柵に覆われた黒い毛皮、若しくは骨のような物で作られたトーテムポールの様なものによって、不気味なものへと変わってしまっている。
嫌に鼻に付く毛皮のコートの匂いをより濃密にしたようなそれらは、理性ではなく本能的に避けたいという衝動を覚えさせてくる。
けれど、その衝動に任せてこのまま何もせずに帰る事は出来ない。
それだけの理由が俺らにはあるのだから。
けれど、それを納得していない者が一人いた。
この“泉北”に所属している俺らの捕虜の女性だ。
「駄目よっ、絶対駄目! あそこに大した準備もなく入る!? 有り得ないわ!!」
ここまで来て必死に言い募ってくる女性の形相は凄まじい。
正直、ここまで拒絶反応を示すとは思っていなかった。
そこまで自分の失態を晒したくないのだろうか、なんて思うがそうではないようで。
「私は貴方達のために言っているの! “泉北”と明確な敵対行動、若しくは目を付けられるようなことを絶対にするべきじゃないっ……!」
「とは言っても……別に取引がしたいと言う話をするだけだぞ? お前を返す代わりに少しだけお願いを聞いて貰うだけだ」
「そうですね、そこまで事を荒げるつもりはありません。あくまで交渉……その延長線上でしか行動を起こすつもりはありません」
「違うのよっ……、そうじゃなくてっ、あの場所に行くことそのものがっ……!!」
知子ちゃんと顔を見合わせる。
彼女が何を伝えたいのが、何となく分かってきた。
「貴方達は神を信じていないのでしょうっ、でも、少なくとも“南部”のような背信者ではないと私は思った! 貴方達は善良であると私は思っているっ! 生きるべきだと思っているのよ!」
「それは……いえ、買いかぶりすぎとは言いません。そのような評価をして頂いて嬉しい限りです。……ですが、私達にも引けない理由があるのです、被害を出そうとは思いません。可能な限り交戦も避けましょう。それでも駄目ですか?」
「駄目よっ、駄目に決まっているっ!」
引き攣った表情で、何が恐ろしいのか周囲に視線を走らせている。
異常なまでの焦り。
何が彼女の気掛かりなのか、絶対に譲ろうとはしない。
「本当ならこんな場所に居る時点で駄目なのよっ、もう帰りましょう! 私も意固地にならず話せることは話すっ、だからっ……!」
「――――だから? だから何だと言うんですか、水野様?」
「っ……!?」
突然掛けられた声に血の気が失せた。
人間の接近に気がつけなかった。
それはこの身体になった今までで、有り得なかった経験。
黒い毛皮が発する重厚な異形の匂いで満たされたこの空間ではまともに感覚が働かないのか、匂いにも、音にさえ気がつくことが出来なかったのだ。
女性の顔が強直する。
知子ちゃんが弾かれたように武器を構え。
それよりも早く発砲音が背後から響いて。
その音よりも早く俺が動いた。
「――――……は?」
飛来した弾丸を弾き飛ばした。
弾丸を横から銃器で弾いたから、銃器自体も壊れていないだろう……多分。
驚愕に目を見開いた男性、その後ろで武器を構えていた者達も息を呑んだ。
いきなりやってくれると内心では思いながらも、知子ちゃんに女性を守るように手で指示してこちらを凝視する黒コートの集団に笑みを向ける。
「いきなり物騒ですね。交渉の余地無しですか?」
「じゅ、銃弾を弾いた? 馬鹿な……」
「……こちらの要求はある人物との面会。実はその人とは面識がありましてね、無論ただとは言いません。保護させて頂いたこちらの女性を引き渡します……一考して貰えれば――――」
「くそっ! おいっ、失敗作どもを使うぞっ! 今どれだけ残ってるっ!?」
「駄目です! 泉北さんが連れて行ってしまってほとんどっ……!」
「――――失敗作?」
気になるワードが出てきたが、それはそうと話にならない。
どうにも会話する意思自体が無いようにも思える。
もう戦闘は避けられないかと、笑みを深めて戦闘態勢に入ろうとしたところで、向こう側から見たことのある男が間に入ってきた。
「まてっ、まってくれっ! この前言っただろう!? この方は俺の命を救ってくれた方だっ! 俺らを襲うつもりなら言葉など交わさず、手元の銃ですぐにでも虐殺されている! 彼らにも事情があるんだ、だから耳を傾けるだけでもっ……!」
義理堅い男性だ。
一度良心の呵責に耐え切れず救っただけなのに、自分の立場を悪くしてでも仲裁に入って恩に報いようとしている。
そんな男性の姿に、戦闘態勢に入っていた俺もゆっくりと力を抜いて何とか交戦に入らない方向で進めようと考え始めると、今度は知子ちゃんのそばにいた女性が飛び出した。
「そうですっ! 彼らは私に非人道的な対応を取ることはありませんでした! どうかご容赦をっ、彼らが会いたい者へのお目通しをどうかっ……!」
犬用の首輪を付けられた状態でそんなことを言っても説得力はないと思うが、それでも女性は何とか俺らへの敵意をなくそうと尽力してくれている。
知子ちゃんのほうへ目を向ければ、彼女も目を丸くして割って入った二人を見つめている。
こんな風に庇ってくれるなんて、思ってもいなかったのかもしれない。
俺たちと相対している集団の者たちもそんな二人の仲間の様子に動揺を隠せず、しばらくひそひそと会話していたが、気が付けば手に持っていた武器を下してしまっている。
「……貴方達の言い分はわかりました。きっとそこまで言うのであれば、彼らは私達が憎む者どもとは違うのでしょう」
「おおっ、ではっ……!」
俺が以前助けた男性の顔が綻んだ。
だが……俺は彼らを率いているものの指先が少し動いたのを見逃さなかった。
「――――だからこそ悔やまれます。間が悪かった、と」
「え……?」
呆然とした女性の足元から巨大な腕が生える。
「残念です」
(嘘だろ、こいつっ!?)
開かれた巨大な手のひらが包み込むように女性を覆い、彼女は驚愕に目を見開く。
それが単に彼女を捕獲するためか、それとも巨人を操る術を持っている彼女の脅威を消すためか。
どちらにせよ、仲間を攻撃するという非道を彼らは許容した。
攻撃の意思を彼らは示したのだ。
握り潰そうとした巨大な手のひらが閉じ切る前に、横からその手を掴むと引き千切った。
「あ、貴方っ……」
「おい……ふざけたことをしてくれたな?」
苛立ちが熱を持つ。
目の前で起こった超常的な光景に動揺する集団を睨み据える。
「――――梅利さん駄目ですっ……!!」
何かに気が付いたような、知子ちゃんの悲痛な叫びがやけに遠くに聞こえた。
引き千切った腕の持ち主が地面から出てこようとするのを、上から踏みつけて叩き潰した。
地面が大きくめくれ上がり、潰されたものの残骸が撒き散らされる。
砕いた巨人の骨を引き抜き、集団の背後で控えていたもう一体の巨人を投槍の要領で撃ち抜いた。
轟音と爆風が叩き付けられる。
呆然と、それこそ目の前で起こった光景が信じられないかのように、彼らは大きく目を見開いていく。
彼らはそれでも身動き一つ取ることが出来ない。
「――――不快だ」
あり得ない様なものを見るような目で俺を見つめる。
怒りで混濁する思考が収まらない。
自分が何をしようとしているのか、それすら分からず、歯止めが効かない。
痛いほどの激情が、内側から俺を激しく打ち据える。
「し……き、さま?」
足元で腰を抜かした女性が呟くような声でそう言った。
何を言っているのだろう。
私は花宮梅利だ、昨日そう言わなかっただろうか?
硬直した体は微塵も彼らの自由を許さず、目の前の者達は近づいていく俺をただ見つめている。
「さて、誰から消える? それともまだ紛い物を出して私の手を煩わせるか?」
気分が良い。
酷く晴れやかだ。
昨日の体調とはえらい違いだ。
誰も何も言えないまま、恐怖の感情を俺に向けてきている。
心地良いとすら思えるその感情に、さらに頭に血が上っていくような感覚に襲われて。
全能感、今なら何であれ上手くいくのではないかなんて根拠のない自信が溢れ出た。
「嫌だっ、梅利さん!! 駄目ですっ、止まって!!!」
そんな誰も音を出せない状況で、雑音が静寂を裂く。
うるさい、なんて言う苛立ちが生み出された。
苛立ちに従って、睨み付ける様に雑音の発生源に視線を向ける。
――――泣いているあの子を見た。
「嫌っ、居なくならないでっ!! 消えちゃ駄目ですっ……置いていかないで……!!」
『お兄さん』
幻聴が聞こえた。
その場にへたり込む様に座り込む。
吐き気が酷い。
口元を手で覆って、地面に向かってえずいた。
唖然とする周囲から誰かが駆け寄ってきて俺を抱きしめる。
「っっ……!! 同胞である私を始末しようなど何たる背信行為っ……! 貴様はもはや同士ではない!! そいつを捕らえろ!!」
「なんだと……そんな難癖がっ!?」
女性の叫びに、俺を庇っていた男性が正面から指導者のような男目掛けてタックルした。
地面に引き倒した男性の鬼気迫る雰囲気と女性の確信を持った断言に、指導者と共にいた集団は少しの迷いを見せたものの、女性の指示に従って抑え込みにかかる。
なおも暴れようとする指導者の四肢を拘束して、身動き一つさせないようにして、女性が気遣うように俺を覗き込んでくる。
「梅利さん……、貴方は梅利さんなんです……」
俺を抱きしめる誰かが耳元でそう囁き続ける。
あれだけ酷かった吐き気が、少しだけ収まった気がした。




