荒廃した世界と異形の少女
真っ暗な闇の中を進みながら、足元から感じられる死骸の不快な感触を紛らわす様に、大きすぎるヘルメットの位置を整える。
長らく密封された空間だったのだろう。鼻に付く様々な匂いが混ざった異臭に、「その発生源は考えたくも無いな」と音を立てないように溜息を吐いた。
肩にたすき掛けしている布は、吊るした重いその銃を間違って放り捨てないためのものであると理解しているのに、むせ返るような暑さの中では邪魔に思えて仕方ない。
…まあ、それでも貴重な武器を放り出すほどのアホな行為をするつもりも無いが。
サイズを調整してあるボロボロの迷彩服を少しだけ見下ろして自分の危機感を煽り、やる気を補充するとまたこの空間の探索に戻る。
普通であれば一寸先も見えないような真っ暗な空間であるものの、幸い俺は夜目が効く。
開かれたままの扉や他の通路と合流するような見えにくい場所は音や匂いに良く注意する。
視界の確保と先手を打てなくても打たれないよう徹底するのは、割と最初の頃に学んだ生きるための術だ。
これらを基本として生きるための資材を確保しに探索する。
もう長い時間をその繰り返しで生活してきたのだ。
「……ん、行き止まりか。という事はこの場所は資材がまるでない、価値の無い建物か。荒らされた形跡が少なかったから期待はしてたんだけどな……」
端の壁まで辿り着いため探索を諦める。
壁を背にする様に体重を掛けて、背負ったリュックから手書きの地図を取り出した。
色つきのマジックで数えきれない程書き加えられたその地図に新しくバツ印を書き加えてみれば、書かれた一帯がバツ印ばかりだと再認識させられた。
「これってやっぱり、ここら辺一帯を根城にしてる集団があるってことかな?」
これまで生活して来てこういった事はいくらでもあったけれど、やっぱり気を張らなければならない事が多すぎて、身を固めている集団との接触をしようとは思えなかった。
どうしても彼らと接触したくない理由というものが俺にはあるが、そもそも一人で好き勝手やる方が性に合っているし、何より地域一帯を根城に出来ている武装集団というのはその集団に属している者以外には酷く攻撃的な場合が多いのだ。
なにせ水すらも貴重な時代だ。
誰の手にも渡っていない資材など滅多にないし、今の時代は武装集団同士のぶつかり合いだって珍しくは無い。
まあ、敵か味方か分からない、初対面の人物相手に丁寧に接しろと言う方が馬鹿な話なのかもしれないのだけど。
「ああもうっ、あついなここっ……!!」
今見てきた限りこの建物の中には危険は無い事は確認できた。
ならばもう帰るべきかと気持ちを切り替える。
この地区へ来ることはもうないだろうなと自分の無駄であった労力を自嘲するように笑って、背を預けていた壁から離れる前に携帯していた水筒をあおった。その瞬間。
この建物の入り口付近から、誰かが走ってくるような音が聞こえてきた。
「……」
水筒から口を離して静かに蓋をする。
リュックに丁寧に仕舞い込んで、肩から布でぶら下げられている自動小銃を両手で握り込んで構えた。
足音からして人だろう。だが、若干片足を庇うような足音だ。
軽い変異体かもしれないと意識して、入り口から来た場合死角となる立ち位置に体を寄せて音の主を待つことにするが、足音とは別の異音を耳に入れてしまい舌打ちをしたい衝動に駆られた。
追われている…なんてタイミングの悪い…。
せめてもう数分待ってくれればこの場を後にしていたのにと考えて、直ぐに頭を振って噴き出した暗い感情を抑え付ける。
こんな糞みたいな世界の中でもせめて自分の内心だけは人間でありたいと思うから、人道を反したようなそんな考えを振るい落とした。
ゆとりを持って道徳を備える、それが自分の立てた指針の筈だ。
「……よし、助けますか」
割れた床の隙間からそっと下層を覗けば、容易く音の発生源が確認出来る。
血と涙でぐしゃぐしゃになって、暗闇で前が見えないのか壁や物に何度もぶつかりながら男が現れた。
最下層で走り回っているその姿を視界で捕え―――さらにその後ろから顔が幾つもある百足のような形の醜悪な怪物が、男を追い立てているのを確認して、息を吸い込む。
物資の補給もここの所まともに成功していない上に、無駄な戦闘をしてしまう今日はどうやら厄日のようだと思いながらも、壁に追い詰められて情けない悲鳴を上げている男性の姿を確認して、慌ててスコープから覗いた照準が数ミリのズレも無く怪物の頭を狙った。
スコープを通して見る世界が止まる。
いいや、じっと見詰めていればほんの数ミリずつ動いている程度の動きを視線の先の生き物はしていた。
鈍くて、鈍くて、あくびが出てしまう。
ゆったりと静かに指を掛けた引き金に力を入れた次の瞬間、乾いた発砲音と共に頭を撃ち砕かれた怪物は崩れ落ちた。
腰を抜かしたまま唖然と崩れ落ちた怪物を眺める男性を一瞥し、音も無く窓から飛び降りて気づかれる前にこの場を去ることにする。
挫いた様子の男性が片足を抑えているのが目に入り、一瞬コミュニティまで送っていくべきかと迷ったが、直ぐにそこまでする義理は無いと切り捨てた。
だが、路上に着地して崩れた壁から未だに状況を理解できていない男性の背中を確認してしまえば、良心の呵責に耐えきれなくなった右手が迷いなく背負ったリュックに伸びてしまう。
医療用の冷却スプレーを取り出して布きれに包んで男性の足元に放り投げ、大袈裟に驚いた様子の男性の後ろ姿を無視して走り出した。
あるかどうか分からない見返りよりも、あるかどうか分からない危険を避ける方がずっと合理的だと、少なくとも自分は思う。
さあもう寝床に帰ろう、そう思った。
自分の運が無いと感じた日は、とっとと寝てしまうのが一番なのだ。
△
「ううむ……これでこの地区の探索は終わっちゃった訳なんだよな。不味いなぁ、まともな補給先が無い」
この一年ずっと住処として使い続けてきた馴染み深い教会の一室。
かび臭い秘密の地下空間のベットに横たわりながら、手に持った安物の地図帳をぼんやりと眺めていた。
別にサボっている訳では無い。何も考えずに無駄に体力を消費するよりも方針を考えて動けばおおよそ三割程度は効率が良いのだ……当然、自社調べとなるが。
「まあいいや、そんなに食べなくても俺はやっていけるし。溜めこんだ分で半年は持つでしょ。大人しくしていようっと」
自分の悪い所はこういう、めんどくさい事を後回しにしてしまう所だと分かっているのに中々改善できない。
昔の学校に通っていた時代、自分が何も考えていなかった男子中学生だった時代の時は、夏休みの宿題をつい最終日まで溜め込んで、最後の最後で幼馴染に宿題って何があったっけと聞くまでがお約束だったのをついこの間の事の様に思い出して、笑みがこぼれた。
ガミガミと恐ろしい幼馴染だったが、今はもはやそんな心配をしなくても良いのだと思うと少しだけ安心するが、同時に寂しさもある。
「……水浴びしよう」
勝手に落ち込んでいった気分を紛らわすため、簡素な空間であったこの部屋の隅に自作した仕切りも何もないシャワー室のような場所に向かう。
そこに設置したつま先から頭の頂点まで写る程大きな姿見に背の小さい、ボロボロの迷彩服を纏った兵隊が嫌でも映り込む。
中学生が着る様なものでないそれは、サバゲーの時に使うような偽物ではない。
――――殉職していた隊員から剥ぎ取った本物の自衛隊の装備一式だった。
この国は、もはや国の形を成していない。
数年前に起こった、南米から発生した感染症により、この国は容易く瓦解した。
いいや、実際は容易く何て無かったのかもしれないけれど……。
少なくとも学校のテスト一つで気分を浮き沈みさせる程度の自分にとっては、ある日突然、日常が終わりを迎えた様なものだった。
その感染症は人を異形へと変えるもの。
まるで兵器の様に合理的なまでに生き物を殺し尽くす感染症だった。
最初は人を凶暴にすると言う情報が流れた、記憶にある最初の報道では各地で猟奇殺人事件が発生していると言うものだっただろうか。
次にゾンビが発生したと言う報道だ、凶暴になった人間の手足をもいでも活動を続けた事からこんな報道が流れてしまった。
そして、人が人の形では無くなると言う報道を最後に全てのテレビ局は放送を停止した。
結局何の真相にも辿り着けないまま多くの国家や都市の機能が停止して、人々は身を寄せ合い最後を迎えて行っている。
終末を待つしか選択肢が無い、いいや既に終末を迎えた後の世界がこの現状であるのだろうか。
最後までこの感染症に抗ったのはどの国だっただろう。
少なくともこの国では無い事は確かで、最後に海外の様子を伝えていたニュースで見たのはアメリカやイギリスと言った力を持った国が抵抗している光景だった。
そこから先はニュースが流れる事も無かったので分からないが、恐らくこの世界の誰も正確なことは分からないのではないだろうか。
国外を気にする余裕のある人や情報機関なんて、もうどこにも無い筈なのだから。
「うへえ、結構汚れてるな……。うん……臭いかも……?」
脱いだ迷彩服を軽く匂いを嗅いだ後、近くのコートハンガーに掛けていく。
脱ぐたびに固まった砂や血がボロボロと床に落ちるものだから、どうやって掃除をしたものかと頭を痛めるが、今はそんな事よりも数日ぶりの水浴びに気分を高揚させられる。
ぱっぱと服を脱ぎ去って、最後に残った迷彩柄のヘルメットを脱ごうと力を籠めた。
「ぐぐぐっ……完全に突き刺さってるんだけどっ。ふんっ!!」
突き刺さって固定されてしまっていた、自分の頭よりもはるかに大きなヘルメットを力任せに外し、ぼっこりと内側に空いてしまった大穴を悲しげに見つめてから、迷彩服と同じようにコートハンガーに掛けた。
そうしてようやくシャワー室に立てばもう一度大きな姿見に写る、もう見慣れてしまった少女姿の自分自身が目に入った。
――――巨大な片角を側頭部から生やした、人間離れした美しさを放つ少女がそこに写っている。
生存者と関わりたくない最も大きな理由がこれだった。
自分はもう、人間ではないのだから。