花籠には灰色を
ヘリオトロープにとってその記憶は、アルバムから零れ落ちた一葉の写真のようであった。昔の記憶ではあるが具体的な時期は分からない、伝聞や妄想ではないことの証明も出来ない、それでも確かに嘘ではない。そんな記憶だ。
回想はいつもある風景から始まり、突然終わる。記憶の中の ヘリオトロープは白い壁と薄灰色の床で構成された廊下にひとりぽつんと立っていた。一切の装飾を省いたその空間はぼんやりとした印象のみを抱かせ、窓が無いせいもあり時間の感覚すら曖昧だ。視点は低く、天井に埋め込まれた真っ白なLED電球がやけに遠く感じる。整列した電球は廊下の隅まで余すことなく照らし、人工的で単調な明るさは現実感を遠ざけ感覚を鈍らせた。左手は一面無表情な白い壁であったが、右手には扉があり、 ヘリオトロープをじっと見下ろしている。高い位置に嵌め殺しの小窓がついた扉だ。中が気になる、と背伸びをし手を伸ばすが小窓には小指の先も届かない。薄桃色の爪が戯れるように空を掻くのみである。彼女は数分の間小さく跳ねたり扉に爪を立てたりして奮闘していたが、やがて諦めたようだった。小さな瞳がぎょろり、と辺りを見回し、新たな興味の対象を探そうとする。すると同じような扉が廊下の端まで何枚も並んでいるのが分かった。ここは ヘリオトロープの家ではなく、また見知った場所でもない。孤独と沈黙が彼女の胸中に忍び寄り、丸みを帯びた頬が微かに震えた。しかし、未知に対する好奇心とそれを暴き立てる背徳感はそれ以上の力と衝動を持って彼女の手を引く。廊下の奥に向かって歩き出すのにそう時間はいらなかった。
樹脂製の床をきゅ、きゅう、と鳴らしながら少女は行く。廊下はどこまでも続いており、また、扉も途切れない。 ヘリオトロープが立てる音以外に空気を震わせるものはなく、人の気配はおろか動物やロボットの気配もなかった。屋外とは違う清浄な空気には微かに薬品のにおいが混じっており、それだけが唯一他者の存在を仄めかしていた。尤もそれが何の薬品なのかは分からない。ただにおいは彼女の心を掻き乱すことはなく、それが彼女から警戒心を奪った。
なぜなら、この頃 ヘリオトロープが住む世界を支配していたのは不穏と埃のにおいだったからだ。例えば、家に来る家庭教師の服装がひどく地味になったこと。食卓からは魚介類が消え成形肉ばかり並ぶようになった。両親は仕事から帰らないことが多くなったし、街には空き家が目立つようになった。彼女が留守番をしている時、玄関の外で見知らぬ子供が泣きながら何事かを訴えていたこともある。使用人が追い払ったようでその泣き声を聞く事はなくなったが。これらは薄い霧のように ヘリオトロープの日常を取り囲み、苛み、少しずつ侵食していった。箱入り娘であった彼女にも影響する程に世界の空気は澱んでいたのだ。
執拗なまでに続く白の中に突如動くものが現れた時でさえ、奇妙な平穏は少女の中にあった。行く手にあった扉のうち一枚が勢いよく開き、薄緑色の作業着を着た大人が何かを引きずって現れたのだ。顔の半分を白いマスクで覆い、その上に表情のない両の目が乗っている。隈で三重に縁取られた目は二つの穴と言って差し支えない。整えることを放棄したらしい短髪は上下左右好き勝手に暴れていた。電灯の明かりを透かしたダークブラウンは全体の雰囲気とまるで合わない軽快さだ。作業着の襟元は緩められており、血色の悪い首が頭と胴を貫いて刺さっている。明らかにサイズが合っていないズボンは、中で脚が動くたびにばたばたとせわしなくはためいた。背格好からして痩身の女性だろうが、しかしそう断言するにはいまひとつ何かが足りないような印象である。
「まぁ、こんにちは」
「……どうも」
作業着の彼(彼女?)は ヘリオトロープを気だるげな視線で捉えた。けして小声ではなかったが、芯のない虚弱な声質のせいでとても小さい音のように聞こえる。そっけない挨拶の後に何か続けるでもなく、代わりに吐いたニ、三の独り言がマスクの中に澱む。何やら思案しているようにも戸惑っているようにも見える。表情は揺らがない。ただ落ち込んだ目を少し細め少女をしばらく見つめているだけであった。そんな彼の立ち姿は気難しい老人を思わせた。
「ん」
その人は何も持っていない方の手で今しがた自分が出てきた扉を示す。少女は首を傾げ、彼はその場を動かない。不毛な沈黙が数秒流れた。 ヘリオトロープにはマスクの下の真意が分からない。ややあざとく「ん?」と聞き返すも返ってくるのは半分死んだような視線だけだ。
「……そこの部屋で待ってろ。うろつくな」
言うが早いか彼は少女の横を抜け立ち去ろうとする。その声に非難する響きは含まれていない。 ヘリオトロープの素直な返事も受け取るつもりはないようだった。引きずっている何かもそれに従い少女の傍を通るが、その時のことを ヘリオトロープは鮮烈に覚えている。
それは人間の子供であった。背丈も齢も少女とほぼ変わらないように見える。ゆったりとした貫頭衣のような布で身体を包み、布の隙間からは細い手足と頼りない首、そしてゆで卵のような頭がひょっこりと覗いていた。髪の毛は無く、そのため頭の形がはっきり見て取れる。両の手で包み込みたくなる丸い頭蓋、薄い耳は微動だにせず、やがて美しい音が聴こえると信じ待っているかのようだ。唇は未成熟な桃のように淡い紅色をしていた。血の色が透ける頬も同様に薄紅色を漂わせている。暖かな午後にひっそりと咲いた名もなき花を思わせる調和であった。そのせいだろうか、灰色の瞳がやけに大きく目立って見えたのは。歪な無彩色はぎこちなく動き、粘膜をぎらつかせて少女を見た。すれ違う瞬間、たった一瞬のことであったがそれで十分だった。ぞっとするほど無感情な視線は間違いなく少女の紫の瞳に注がれたのだ。
彼女は目をそらす事もできずに立ち尽くしていた。不意に軽い眩暈を覚え、それでようやく自分が息を止めていたことに気が付く。それほどに夢中だったのだ。脳を射抜かれたような衝撃に、肩を震わせ息をするだけで手一杯になってしまう。遠ざかる人影は幻影のように揺らめき、今にも廊下の白と溶け合ってしまいそうなほどおぼろげになっていく。
ああ、と夢心地で息を漏らす心地は、熟れて柔らかくなった果実のにおいを嗅いだあの瞬間に似ていた。望んだ玩具が手に入った時とも、お洒落をさせてもらった時とも違う高揚感が血管に溶け、それが全身を駆け巡るのでひどくせわしなく感じる。頭の中で先ほどの光景が繰り返されるだけで肌が粟立つようだった。
その後は幼い冒険心を発揮する事も忘れ、ふらふらと二人が出てきた部屋に入った。 ヘリオトロープはそう記憶している。当時は意識も脳内もあの高揚感に呑み込まれぬように抗うので精一杯だったのだ。瑣末なことを覚えている余裕など無かった。以後のことはさして重要ではなかったともいえる。彼女にとって重要なのは灰色の瞳がもたらした衝撃のみだった。今もあの灰色を思い出すと叫びたくなるのだ。
「ああ! なんて愛おしい色!」
初春の淡い空色の風が ヘリオトロープの足元で遊ぶ。彼女の意識は浅い夢から浮上し、現実に引きもどされた。ぼかしの入った視界には爽やかな緑色が広がる。まどろむ前は確かに手元にあったはずの眼鏡が無い。ここは彼女の自宅であり慣れた場所であった。しかし、それでもモノの子細が見えないのは大変なことだ。彼女は困り顔を隠すこともせずに「あらまぁ」と呟き目を瞬かせた。
「私のK-0225、私の灰色はどこ? こっちへおいで!」
その呼び声に応えた一人の子供が彼女の元へおずおずと近付いていく。齢は8歳から13歳程度に見えるが、栄養失調を起こした身体は細く痛々しいほどだ。日の光を知らない青白い肌と相まってより一層不健康さが強調されている。その子供に髪は無く、そのため首の後ろにあるK-0225という刺青がよく目立つ。彼は白いシャツに黒色のベスト、ベストと揃いの膝丈ズボンを身に纏っていたが、どんなに贔屓目に見ても服に着られているという印象は拭い去れなかった。
「其処にいたの。ねぇ、よく顔を見せて頂戴」
灰色と呼ばれた子供が手の届く範囲まで来るや否や、 ヘリオトロープは彼の頬を両手で捕まえ蕩けたような表情で語りかけた。関節が目立つ手が乾いた頬を撫でる。子供は無感情にそれを受け入れ、両手をだらりと垂らしてじっとしていた。抵抗はおろか僅かな反応すらも返さないその様子は精巧な蝋人形のようである。手はなおも彼の頬を撫で続け、こつん、と彼が掛けている眼鏡に当たった。
「あなたが持っていたのね。全く、そんなことをしても見えないのに」
両手を眼鏡のつるに持っていき、そのまま抜き取る。K-0225の小さな頭から眼鏡がするりと抜けた。 ヘリオトロープは今しがた取り上げた黒縁の眼鏡を自分の顔に掛ける。それは元から顔の一部であったかのように馴染んだ。先ほどまでぼやけていた観葉植物たちも、眼前で立ちすくむ子供の顔も、全てが輪郭を取り戻した。そんな戻ってきた色鮮やかな世界に、ぽつりと取り残された二粒の灰色が見える。それは彼女が愛してやまない色であり、K-0225の瞳であった。
彼女が施設からK-0225を引き取った時、既に彼の瞳は何の景色も映してはいなかった。光を拒絶したのは彼自身の意思か、それとも彼に施された様々な処置のせいかは分からない。理由などどうでもよく、むしろ彼の瞳が雑音の多い外界の光を受け入れなくなったことを喜びさえした。 ヘリオトロープはK-0225が人らしい名前を持たない理由も含め必要なこと以外は聞かなかった。そのため彼女が知っていることは少ない。K-0225には家族がいないこと、目が見えないこと、そして恐らく普通の人間よりも寿命が短いこと。引き取った後の処遇についての様々な取り決めこそあれ、彼自身は殆ど白紙の人間であった。
そんな曰く付きの子供をわざわざ引き取ってきたのも、ひとえに ヘリオトロープがその瞳の美しさに狂わされていたからである。いつか見た灰色を求めていた彼女がK-0225に目をつけたのは自然なことであった。偶然用があり行った施設、偶然すれ違った子供、記憶の中と同じ衝撃を味わった後、それら全ては必然だったのだとすら思われた。後にも先にもあれほどの熱をもたらしたものは光の無い灰色の瞳だけだったのだから。
「行きましょうか」
目と目を合わせてそう言えば、灰色の彼はゆっくりと瞬きをした。盲目の瞳と目線など合うはずがない。彼の精神は床の無い部屋のようである。何かを覚えることも、感じることも、彼にとっては非常に難しかった。しかし彼女は小鳥を愛でるような手付きでK-0225の手を取るのであった。二人は連れ立って家の奥へと入ってゆく。異常ともいえる灰色への執着が ヘリオトロープを動かす全てとなっていた。
それに気が付いていなかったといえば嘘になる。K-0225の人生はとうに折り返し地点を過ぎたのだと。
彼との生活が ヘリオトロープにある一種の慰めと潤いを与えたことは間違いない。しかしそれは常に破滅の足音を伴っていた。元来小食なK-0225がもっと小食になった時、今までなんとも無かった段差で躓いた時、そして何より彼の心臓の音を聞いた時。平和であるはずの瞬間全ては無情な終わりに踏み潰されてしまうのだ。 ヘリオトロープは分かりやすく焦った。仕事を長く休み、郊外に建っているこの家でK-0225と多くの時間を共にするように心がけた。両親はここ数年帰ってきておらず、彼を隠しておくのに彼女の家は最適な場所となった。死神にこの美しいものを渡したくはない。これは引き取ったその瞬間より ヘリオトロープだけの灰色である。だから、彼女がある決意をしたことは至極当然ともいえるだろう。
ヘリオトロープはK-0225の手を引いてリビングへ向かう。昼食にはやや遅い時間である。今リビングに来たことすらこの子は分かっていないのだろう。そんな確信があった。盲目で、グロテスクな白で上塗りされた知性しか持ち合わせていない彼に難しいことは分からないのだ。部屋の中央まで来ると ヘリオトロープはK-0225を椅子に座らせた。いつも食事をしている場所である。K-0225が大人しく椅子に納まっているのを確認すると、彼女は彼の瞼に羽根を落とすような優しく弱い口付けをした。
「待っていてちょうだいね」
そう言い残して立ち去った ヘリオトロープの背中を光のない目が見つめていた。足音が意味のないノイズとしてK-0225の耳を擽る。それが遠ざかっていき椅子に一人取り残された彼は、力の抜けた足先を微かに揺らしながらじっとしていた。部屋の明暗すら分からない、音はすべからく平坦で無の世界に彩りを与えることはない。彼が意識を殺してしまったのも仕方のないことだった。青空の下へ逃げること、籠の外の人生を経験すること、それは全く未知の事柄で、あの施設を脱した彼の元には帰来しなかったのだから。僅かに残った人らしい意識は気力を削がれた幼児のようで、それはいっそ静かな死を切望している風にさえ振舞った。
そんな彼であったから、戻ってきた ヘリオトロープが差し出した錠剤を身体に受け入れることに躊躇いはなかった。コップに入った水とある薬を手にして戻ってきた彼女は、いつもと変わらぬ声色でそれを飲むようK-0225に指示を出した。K-0225が指示に従うのを見届けた後、彼女は「それは致死量の毒だ」ということを告げないまま彼の頭を撫でる。数年前から安楽死のために普及しだした薬。元は安楽死を希望する者や不治の病を患った患者の為、今は兵士や実験動物の為に使われている。そんな薬を手に入れることは容易いことではない。それでも彼女はその薬を求めた。
健康な大人ですら薬を飲んで十数分経てば意識が朦朧とし、やがて眠るように死に至る。体内に毒素が残るが、それが死んだ肉体に悪い影響を及ぼすことはない。まさに夢のよう。自我の薄いK-0225が初めて見た夢は、誰にも知覚されないまま消えていく。
脈を取る。脈は無い。呼吸を確かめる。呼吸は無い。肩を掴んで軽く揺さぶる。反応は無い。名前を──いや、名前は元から無いのだった。
K-0225の死体を前に、 ヘリオトロープは興奮しているようなひどく冷静なような、不可思議な心持であった。裸で机の上に寝かされているK-0225だったものは、生きていた頃と殆ど変わらないようにさえ見える。眠っているみたい、と口をついて出た陳腐な感想に、 ヘリオトローププは胸が嫌にざわつくのを感じた。
真っ白な身体、閉じられた瞼には睫が生えていない。頭部だけではなく、通常毛が生えているはずの場所全てには何も無いざらついた肌が張り付いているのみであった。生えていない、というより必要が無いので退化させた、という表現の方がしっくり来る。その代わり身体のあちこちに浮かび上がっている骨が目立った。今にも中の骨が突き出んばかりに皮をぴんと張らせ、それがとても生々しい。生のにおいが薄い彼の精一杯の叫びのようにも見えて、 ヘリオトロープはその一つ一つを労わりさすってやりたい衝動に駆られた。
しばしその肢体に見惚れていた彼女であったが、数分の後にやるべき作業に移った。まず真新しい術衣に袖を通す。本職が医者ではない彼女がこれを着るのはおそらくこれが最初で最後であろう。薄緑色でのっぺりとした術衣はどこか非現実味があり、 ヘリオトロープを嘲笑しているようにも感じられる。居心地悪そうに呻く彼女は、これが終わればこんなものは捨ててやろうと決意した。また、手元には必死に揃えた手術器具が並んでいる。これから行われることに対しては過剰なほどの種類だ。今から彼女の行う行為に失敗は許されない。何より彼女自身がそれを許せない。そのため失敗に対し過度に臆病になるのは必然といえた。
ヘリオトロープは声もなくひとつ頷いて、ゴム手袋をした手で死体の瞼をそっと開く。続けて針金を円形に曲げたような器具を取り付け、瞼が閉じないように固定する。生気を失った灰色の瞳は生前より一層凄みを増したかのように見えた。冬の朝のような薄灰色も、虹彩の深い深い墨色も、堪らなく美しい真珠のようである。ぞくりと粟立つ肌を押さえながら、眼球を傷つけないようにして目尻にそっとメスを入れていく。ぷつ、と血の球が浮き出て皮膚が裂かれた。二センチにも満たない傷だが、それで十分なことは何度もシミュレーションした彼女がいちばんよく分かっていた。
目尻の傷の先に血を吸うためのガーゼを当て、狭瞼器を隙間から差し込む。すると緊張で強張った左手に眼球の弾力が伝わってきた。思ったよりも柔らかく、油断すると潰してしまいそうだ。陶磁器のような色をし、粘液でぬめる眼球。これを口に入れることを想像してしまう。きっと舌が焼けるような辛い味がするだろうな、と拍子抜けたことを思い唾を飲んだ。潰さないように、壊さないように、慎重に。狭瞼器のネジを締めて眼球をしっかり挟もうと試行錯誤する。するとガーゼからあふれ出た血が悲愴の涙となって耳の穴に注がれた。
どこか髪切り鋏にも似た形の剪刀は神経や肉を断ち切るためのものだ。ずず、と引き出された眼球の尻尾、視神経に小さな刃をあてがい切断する。アルミのタッパに切除したばかりの眼球を慎重に置けば、後には血がたまった空っぽの眼窩が残っているのみであった。ふう、とマスクの奥で息を吐く。まだ半分である。タッパの上から ヘリオトロープを見つめる目玉に表情は無い。K-0225から責められないことに背徳感じみた感情を覚えるも、そうしている場合ではないともう片方の目にも取り掛かった。
手術が終われば、彼女の手元には血にまみれた器具と机、ゴム手袋に包まれた二対の手、眼球を失った抜け殻が残った。
台所に移動してからタッパの上で二つの眼球を並べる。ホルムアルデヒドと筒状になった硝子のビンをタッパの横に置く。材料が揃った台所は、これからただの料理をするだけだというような素知らぬ顔をしていた。妙な既視感すらも感じられ、 ヘリオトロープは思わずため息を吐いた。それでも立ち止まってはいけない、こうしている間にも生ものである眼球はじくじくと腐敗しているのだから。
ビンの中でホルムアルデヒドと水を混ぜ、手早くホルマリン液を作成しする。これまでに動物の骨や臓器で練習をしていた ヘリオトロープも、この時ばかりはこみ上げる吐き気を飲み込んだ。これに失敗したらどうなるのか、考えるのも恐ろしい。この灰色が永遠に失われてしまう恐怖と、永遠に自分の物になる愉楽がせめぎあい彼女の脳内を蹂躙した。液が完成すればその中に灰色の眼球を二つ、割れ物を扱うかのような手付きで泳がせる。液をビンの口いっぱいまで入れて蓋をしっかりと閉めれば一先ずは完成だ。透明な液体の中を泳ぐ灰色は、彼女が愛したその姿のままそこにあった。
流石にそのままというのは忍びなく、 ヘリオトロープは死体の眼窩に木製の球を詰めた。新しい目を手に入れた顔は、無機物の中に有機物が混ざって蠢いているような違和感を訴えてくる。本当は硝子や水晶の方が似合うのかもしれない、と顔の周りの血を拭ってやりながらぼんやりと思う。埋葬のことを考えると木製のほうが都合が良いのだ。分かってちょうだいね、穏やかに語りかけながら瞼を閉じ、切った目尻に透明な絆創膏を貼ってやれば、眼球を取り出す前と殆ど変わらないK-0225の姿がそこにあった。
本当の本当に眠っているようだ。再び湧き上がったその感想を、彼女は微笑に変えて漏らした。思わず視線が彼の胸部へ向く。日に焼けたことのない肌に行儀よくあばら骨が浮いている。その静謐さ故に、もしこの死体が蝋人形と入れ替わっていてもしばらくは気がつかないだろう。彼の上に流れる静かな時間は彼を聡明な子供に見せ、生前その身に起こった彼是を一切押し流し、古今東西の死者たちに与えられるのと同じ安らぎをもたらした。今度はあれがほしい、と彼女の中の何かが囁かなければそのまま眠ることができただろう。
ヘリオトロープは再びメスを手にし、今度は白い胸に刃を滑らせた。買いすぎた器具がこんな形で役立つとは。そんな僥倖は先ほどまで想像もしていなかったのだが。皮膚に逆U字の切れ目を入れて慎重に剥がせば、その下から胸骨とあばら骨、冷たくなりかけた肺と心臓、さらには肝臓が顔を覗かせた。彼女の目当ては胸の骨である。ホルマリン漬けの眼球をこの細い骨の檻に入れて眺めることができたら、どんなに美しかろう──一度浮かんだ誘惑を ヘリオトロープは振り払おうとすらしなかったのだ。むしろその甘美な夢に何もかもを預け、死体の胸を暴いている。
ヘリオトロープは器用に鎖骨を避け、その下にある第一肋骨をうっとりと眺めた。隙間から刃を差し入れ喉から伸びる管を少しずつ、少しずつ断ち切り、同じく横隔膜も切除する。骨を残したままの作業は非常に難しく時間がかかり、外はすっかり日が暮れている。暗い家の中でリビングと台所の窓だけが光を庭に落としていた。しかし彼女はそんなことには気がつかない。ずるりと肺や膵臓、横隔膜の残骸を引きずり出せば、支えを失った心臓が重力にそって垂れ下がった。心臓も切り取って血の海になったタッパの中におけばそれだけで何かのスープのような見た目になる。真っ赤な中に筋肉の塊がぼこぼこと投げ出されているその様子は地獄そのものであった。
肋骨周りの肉を少しずつ削いでいく。魚を捌くように、食肉の処理をするように。ただ淡々と彼から骨を奪っていった。脊椎は仕方が無いので適当なところで断つことに決め、切る予定の場所を二、三度撫で付ける。その後グミのような感触の軟骨をスパッと切れば、脊椎はそれでしまいである。そうして夜も更けた頃、その痩せた胸から細い籠状の骨が取り出されたのだ。縫合技術を持たない ヘリオトロープは取り出した内臓と筋肉を胸空に戻すと皮膚を被せ、周りの血を拭い、その胸に脱脂綿と包帯を巻きつけた。こうしておけば皮膚が捲れて臓器が飛び出すことは無いという算段だ。
しかし随分と散らかしてしまった。肋骨からとりきれなかった肉の為に巨大な鍋を用意しながら彼女はそうひとりごつ。机はきっと血や粘液がしみこんでしまっただろう。ビニールのテーブルカバーを用意していたが、あの様子では下の机も無事ではあるまい。独り暮らしには大きすぎる机である。これを機に新しいものを見繕おうか、と ヘリオトロープはぼんやり考えた。そんな彼女の様子を壁の端に避けられた椅子が不安げに窺っている。床はあらかじめ敷物をしておいたし、机から溢れた汚れだけを受け止めていたので大丈夫だ。哀れな死体はふき取りきれなかった血に濡れ、死後硬直しきった腕が何かを訴えかけるように僅かに浮いていた。彼女の計画では彼を埋葬するのは明日になる。突然の欲求で時間こそかかったが、おおむね予定通りであった。
骨を洗浄する為に必要な薬品を思い浮かべ、買い物の予定などを立てつつ彼女の意識は眠りへと誘われていった。
軟骨がバキバキと悲鳴を上げる音が聞こえる。尤もそれを目覚ましに起きる者は誰も居ないのだが。
「床で寝てしまうなんていつ振りかしらね」
間の抜けた声で起床した ヘリオトロープは朝食を採ろうとして卓上のK-0225に気が付いた。寝ている間は何もかも忘れていたらしい。台所のバスケットから適当にパンを取り出し水と一緒に喉奥へ流し込む。慌しい物音に続き数回苦しげな咳が聞こえた。ややあってから買出しに出かける足音が慌しく聞こえ、辺りは死者の静寂に支配された。
外出した彼女が買ってきたのは炭酸ナトリウムの洗剤とブラシ、トングなどの雑貨類であった。大きな鍋で洗剤と水を混ぜ合わせ、その中に昨日奪った肋骨を入れる。それを弱火にかけてことことと煮ていく。湯は触れられるほどの温度しかない。間違っても沸騰しない温度に調整したのだ。白いあぶくが水面で遊び、薄暗い台所にごうごうと電気コンロが稼動する音だけが木霊した。長い時間をかけて成長した肉体は、こんなにも簡単にほぐれてばらばらになってしまう。彼女にとってこの事実は悲しみを誘うものではなく幸運を告げるものであったが。
骨を煮詰めている間に、 ヘリオトロープは地下へ続く階段へと向かう。この先にあるのは倉庫だ。尤もその正体はシェルターである。戦争が始まってからシェルターを増設することが社会現象となったのだ、と幼い頃の彼女は両親に聞かされており、同時に部屋に立ち並ぶ棚と小さな生活空間も見せられていた。今は非常時に備えてある保存食や長期保存水の備蓄は全て壁際に寄せてしまい、幾分か空きが多いように見える。足を踏み入れればこぉん、と寂しい足音が僅かに反響した。コンクリートで打ちっぱなしの壁にざらついた床。本当は柔い敷物があったのだが、棚や荷物を動かした時に一緒に剥がしてしまった。こちらのほうが好都合であったし、何より似合うと思ったからである。
壁に沿うようにして置かれていた薄い木箱をが目当てのようで、 ヘリオトロープはその箱に手を掛けた。厚さ一メートルにも満たない中途半端な大きさである。四方が一メートルと少しある立方体の上部を切り取ったような形をした箱だ。そんな箱を抱えたまま彼女は地上へ戻った。煮え続ける鍋を一度確認し、何の問題も起きていないことを確かめた。やがて骨から肉が落ち、あとはばらばらになった骨を彼女自らの手で組み立てなおせば完成である。満足気に頷いた ヘリオトロープはその後、木箱の中にK-0255の死体を詰め始める。
死後硬直が始まっているとはいえ脆弱な彼の身体である。彼女はやや難儀しながらではあったが、背を丸め、脚を曲げ、両手には膝を抱えさせ、とものの十数分で死体を木箱の中に収めてしまった。もはや命さえない彼が箱に納められていく様はとても奇怪で、奇妙な操り人形を思わせる。死体の関節が摩れる音、傷口から漂う酸化した血のにおい、キッと結ばれた口元。蓋の代わりにかけられた麻布は別れを惜しむ涙の代わりに薄い影を彼の上に降らせた。
箱を抱えたまま庭に出れば、やや開けた所にそれらしい大きさの穴を見つけることができるだろう。それはこの日の為に ヘリオトロープが用意した墓場である。木々のさざめきがよく聞こえる日陰、ここにあった古い花壇を解体して作った場所であった。春には小さな鳥が散歩しているのを見かけることもある。少し深さが足りなかった分を掘る彼女の横で、悲しい棺は静かに時を待っているのだった。
彼を殺した後、彼女はよく地下室に訪れるようになった。それはほかでもない彼に会うためだった。明かりをつければひんやりとしたシェルターに置かれた奇妙なオブジェを目にする事ができるだろう。白い籠の中にひとつのガラス瓶が置かれている。K-0225の肋骨は彼女が思ったとおりの繊細さを持っていて、冷徹な灰色を閉じ込めておくのに丁度良い檻となったのだ。豆電球の安っぽい明かりの中でさえ彼女の愛しい標本はよく映えた。
ヘリオトロープは手に持っていた花を、眼球入りのガラス瓶を飾るように並べていく。今日の花は特別色鮮やかなものを選んできたのだと語る彼女は心底楽しそうであった。骨ばった手が肉厚の花びらを持つ赤い花を添え、オレンジの花びらを千切って散らし、白い花を檻の周りに点在させる。無邪気な少女が絵を描くような軽快さでその行為は行われていく。彼女が満足したように頬杖を付いた時、そこにあるのは彼女自身が用意した酒と菓子類、漂白されてK-0225の肌のように白くなった肋骨の檻、花々に彩られた不気味なほど澄んだ灰色の眼球だけであった。その光景を角度を変えて何分も眺めていた ヘリオトロープは熱の篭った息を吐き呟く。
「ああ、なんて愛おしい色」
薄暗い部屋の中、孤独な灰色が無感情に痩せた女を見つめていた。




