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やさしい猛毒  作者: 鹿井緋色
真夏になくのは
8/15

毒の飛ばし合い

 店長の一件が少しばかり落ち着いたので、店長からの成果報告を聞く前に俺たちは湯をいただくことにする。

 そのはずだったのだが……。


「すみません。飛び込みの予約がいっぱいで一部屋しか空いていません」


 この宿に大衆浴場というものはなく、各部屋に各種効能の入った温泉が露天風呂風に設置されている。


「申し訳ありません。今日は芝スキーのお客様とパラグライダーのお客様が予想外のご来館数でして空いているのは一部屋しか……」


「まじですかー」と三人揃って言う。


 サンプルの部屋の写真を何度も見る。

 別に部屋全体が風呂なわけじゃないのだが、部屋と風呂を隔てているのが透明なガラス戸なのが問題なのだ。俺が後に入るとしても二人の裸が部屋でくつろぐ俺から丸見えなのだ。


「いくら血を分けた兄妹でも三人とも高校生だしな……」


 思春期の男女が裸体を見せ合うのは良くない。不健全である。


「そうだ。二人が入っている間に俺は食堂でメシ食ってるから上がったら俺を呼んでもらえれば……」

「申し訳ありません。これからが一番混雑しますのであまり長湯をされるのは……」

「うおっ……密室トリックだ!」


「お兄ちゃん、お風呂諦める? それともアタシとお兄ちゃんで入る?」

「やだ! 入りたい。秀美郎くんは諦めて」

「いやいやいやいや、俺と店長の伝手で来たんだから俺が入らない道理がない……」


 フロントの女性係員が困ったように「後のお客様がつかえておりますので……」と言っていたが、俺たちは温泉を巡って骨肉の争いを繰り広げた。

 温泉に入ることなど小学生以来。俺だって入りたい。入りたい入りたい入りたい。


 女子二人で入るべき派の姉、夏陽。

 そもそも朝食を焦がした夏陽が悪いと意見を飛び火させる兄の俺。

 なぜか俺と二人で入ろうと提案する妹の美空。

 わっちゃわっちゃと小うるさく言い合いになっているとフロントの女性が窮屈そうに言う。


「水着の貸し出しはできますよ。ウェットスーツになりますが……」

「…………」


 俺たちは顔を見合わせ苦渋の決断を下した。




「秀美郎くん? こっち振り返ったら殴るからね」

「命を危険にさらしてまで見ねえよ。兄妹の素っ裸なんて」


「なっちゃん長官。お兄ちゃんは小ぶりなおっぱいが好みだから気をつけたほうがいいのです」

「ちょっと、みっちゃんそれどういう意味!? 私は全然おっきいし!」


 うわああ……妹が姉に俺の性癖をばらした……。いや大きいのも嫌いじゃないぞ。いや、何のフォローだよ。



「いいわよ」と声をかけられて振り返ると野暮ったい黒のウェットスーツに身を包んだ夏陽と美空が。


 ついさっきの流れで夏陽の胸に目が行く。うむ。小ぶり。美空の方が少しばかり大きめ。


「最低。変態が見てる」


「違う! 確認だ! 姉兄だからな!」


「なおさら気持ち悪いわよ!」


 とはいえ野暮ったいウェットスーツの肉親に下心など湧くわけもなくそのまま三人並んで露天風呂に浸かった。



 浴槽に浸かれば恒例の「あー」


「ちょっと、おっさんくさいよ、秀美郎くん」


「一日中おっさんのメンタルケアをしてたからな。おっさんがうつった」


「やだ! 私とみっちゃんにはうつさないでよね! そのおっさん菌とかいうの」


「菌はよけいだ。つーか、菌と毒はそんなに変わらないだろ。猛毒女さんよお」


「猛毒はちょっと休暇中です」


「ずるい!」


「なんかお兄ちゃんとなっちゃんの会話が仲のいい熟年夫婦みたいで面白いです」


「だれが夫婦だ!」

「どこが夫婦よ!」


 会話、会話、会話。途切れることなく会話が続く。学校のこと、父さんのこと、店長のこと、今朝ハンバーガー屋で展開した会話がまた飽きることなく再展開された。


 美空とはつーかーの仲だから当たり前だが、ほとんど初対面の夏陽とこんなに会話が回るとは思わなかった。まるで夏陽は俺のことを熟知しているかのように会話を回す。

 これは姉兄だからってことでいいのだろうか。


 少しだけ違和感があるけれど、とても安心する一家団欒だった。あ、父さんと猫がいない。

不意に『ぐぅぅぅうう』と残念な音が鳴る。


 俺と美空は音の主を見た。

 乳白色の温泉に浸かりながら赤面してお腹を押さえている。


「飯にするか」

「べつにおなかなんて空いてないけど、秀美郎くんが食べたいなら私も食べる」


 素直じゃないなこのお姉さんは。


「美空大総統、飯は帰ってからにするか」

「あいさー」


 美空の敬礼。

 きらんと俺と美空はいじわるそうに笑い合う。これが兄妹の絆である。


「わかりましたぁー! ご飯が食べたいですぅー!」


 夏陽被告のその供述により夕食を食べるために風呂を上がることになった。

 ざばっと風呂から立ち上がると三人ともが順番に違う音で腹が鳴った。


「っぷははは!」


 いくら血を分けたとはいえ、胃袋の音色までは分かれていないのかも。





「今日はお泊りです」

「……え?」

「なぬ……?」


 食事中に俺が唐突に発した言葉に二人は半拍子遅れた反応をする。


「でも今日は予約でいっぱいなんでしょ?」

「お兄ちゃん大佐! お泊り会ですか!? 今日、朝ニックだったのに!?」


 朝ニックは特に関係ないな。


「さっき店長と息子さんに会った。完全に和解ってわけじゃないけど、いちおうケジメはついたらしい。そんでもって、そのお礼に従業員用の部屋を一部屋貸してくれるんだってよ」


「いつのまにそんなやりとりを?」


「男子トイレ」

「汚い」


「ここの男子トイレはそれなりに綺麗だったぞ」

「そういう問題じゃないでしょ。分かんないかなー男子は」


 戦略的無視。


「それで、父さんに電話したら泣きながら帰ってきてくれと喚いて素直に気持ち悪かったので息子さんの桂一さんの厚意に甘えて泊まって帰ります」


「かわいそう。オカビアンカ、お父さん元帥に泣きつかれるんだろうなぁー」


 美空が遠い目をして手を合わせ、「なむー」と呟いた。俺と夏陽も「なむー」と続けた。

 お泊り会に二人の心が躍っているのが分かる。


「よく考えたら、私が謝りに行けって言ったからタダで温泉に泊まれたのよね?」

「思い立ったが吉日と言ったのはアタシであります」

「そもそも店長と知り合いだったのは俺だ」

「器の小さい男ねー。だから彼女作れないのよ」

「作れないんじゃない、作らないんだ。お前は彼氏いるのかよ。いないだろうが」

「うるさい。ご飯がまずくなるじゃない。空気読んでよ。KY男」

「出たよKY、俺の嫌いな単語。世界で一番頭の悪い単語。空気は読むものじゃねえ。成るものだ」

「うわ、キモい。言ってて悲しくならないの?」

「出たよキモい、俺の嫌いな単語。世界で二番目に頭の悪い単語。キモいって言うやつがキモいんだぞ」

「今、あんたもキモいって言ったからあんたもキモいわよ。うわ、キモい」

「お前のほうが一回多くその単語を使った! お前にこそそれが似合うな」

「はあ? 言葉尻つかまえて論破した気になってんの? キミのは論破じゃなくて屁理屈だから。理論でも理屈でもないから」

「尻とか屁とか汚い言葉を食事中に使わないでもらえますかー? ウチの妹の情操教育に悪いんですけどぉー?」

「なに? みっちゃんをいきなり引き合いに出して巻き込んで恥ずかしくないの? 私は恥ずかしいと思うな。そういうやりかた」

「知らねーし。お前の主観なんて全く重要じゃないんだけど。客観的に話し合おうぜ。思考放棄は良くねえな」

「放棄してないし。バカ」

「してるし。アホ」

「バカ」

「アホ」

「くされ童貞」

「くそ処女」

「死ね。貧乳マニア」

「地獄に落ちろ。貧乳」

「バカ」

「アホ」

「バカ」

「アホ」

「バカ」

「アホ」

「バカ」

「アホ」


 その後、何周かバカとアホの応酬が続いたが、突然美空が、


「なにこの二人、付き合ってるの?」


 とぼそりと呟く。


「ねえから!」

「ないってば!」


 反射的に怒鳴って食堂内の注目を浴びた俺と夏陽はようやく赤面して頭を冷やした。

 夜はそこから閉じていった。





 まくら投げ。半狂乱になって枕を投げ合い、対戦相手が寝潰れたら勝ちというシンプルな競技。二〇二〇年東京オリンピックの新競技にはなっていない。


 そんな戦争がひとしきり終わると俺はトイレのために部屋を出る。美空と夏陽は既に寝入っている。戦争の後には平和が訪れる。皮肉。


 浴衣姿の二人に掛け布団をかけてやり、その寝顔を眺めるが、うんうん、自慢の姉妹だと内心で褒め称える。こいつらの心の中までは知らないが、少なくとも外見だけは整っている。こればっかりは親に感謝だな。特に母さん。


 四畳半に三人がすし詰め。川の字になると言えば聞こえはいいが、あの二人、寝相悪そう。


「おい、兄ちゃん」


 従業員用の男性トイレに向かうと声をかけられる。声のする方を向くと桂一さんが缶ビール片手にほろ酔い状態だった。


「ども。うるさくしてすいません」


「本当だよ。お父さんが突然来たと思ったら散々な一日だ」


「店長……おとうさんは……?」


「店長って呼べ。むず痒い。酔い潰れて寝てるよ。一人酒のしすぎですっかり酒に弱くなってやがる。兄ちゃん相手してくれよ」


「……シャンメリーなら」



 っでん。本当にシャンメリーが出てきた。さすがスキー宿? おそらく桂一さんの自室であろうこの部屋では店長が浴衣姿で大いびきをかいて眠っている。



「なんか本当にすいません」


「謝るのはこっちだ。うちのクソ親父がそっちで迷惑かけてるみてえで」


「高い給料もらってるんでいいっスよ」


 ただ、今日の一件でふっ切れた店長がどういう路線で経営方針を変更するのか少し不安ではあるが。ポイントカードを導入したり、商品の値段を下げると一時的に俺の時給も下がるかもしれない。客足が伸びればいいのだが……。


「どっちが妹でどっちが姉なんだったっけ?」


 あの二人のことか?


「真っ黒ストレートが姉でくるくる髪のほうが妹です」


「へえ、姉ちゃんきれいじゃん。妹もポカポカしてていいけど。二人とも俺の嫁にくれよ」


「両方ともやめておいたほうがいいです」


 たぶん誰の手にも余るような女たちだ。


「即答かよ。ウケる」


「店長とはどれくらい仲直りできたんですか?」


 面倒くさいから話をずらそう。


「ん? ああ……君らが立ち聞きしていたところから風呂場に移った後、年賀状くらいは送ってきてもいいって話した。親父との免疫もだいぶ薄れちまったからな。今の俺たちの距離感はそれくらいがちょうどいい」


 今の俺たちの距離感か……。っていうか、立ち聞きバレとるやんけ。


「好きだったんだ。親父のこと」

「え?」


「あの人、職場じゃ安い頭何度も下げて情けない平社員だったんだけど、俺たちには仕事の弱みとか一切話さなかった。そんなひとがさあ、しょぼい理由でさ、お母さんをしょうもないやり方で怒らせて、腰の入ってない慣れないビンタまでして、それで離れ離れになって。今さら会いに来て。遅えよなあ。遅くて、遅くて、うれしかった」


 そうか。この人は今日風呂で店長と心の底まで話し合ったのだ。親子が親子としてあるようなちゃんとした形を歪ながらも作り直したのかもしれない。


「これから先の店長との距離感はどうするんです?」


「……別居って形で今まで通り続く」


「別居?」


「ああ。俺たちとお父さんは別居中なんだ。あのバカ親父は気づいてないみたいだったけど、籍はまだ本谷家のままなんだ。さっさとマトモな顔になって謝りに来いと思ってたら、兄ちゃん達のおかげで、今さらだよ」


 桂一さんは苦笑する。そのはにかんだ笑顔はもう優しさに満ちていて、射殺すような目つきはしていなかった。それがなにより救いだと、俺は心から安堵した。あとでちゃんと夏陽に礼を言っておこう。いろいろと失礼な暴言を飛ばしてしまったから。

 あいつの目を見て言おう。


「仕事の弱音を吐かない代わりに、ずっと親父は俺たちを見ていなかった。家ん中じゃ新聞か酒のつまみしか見ていなかった。だから嬉しかったんだよ。今日、あの時雄叫びのように言った一言が」


 俺はお前の目を見ているぞ、のくだりか。


「ありがとう高校生。たぶん俺たちは古書店とやらは継がない。見にも行かない。このスキー宿に骨になるまで居続けるつもりだ。でもたまに会いにきたら、一緒に銭湯にでも入るよ。酔い潰れるまで酒を飲むよ。もう一度。なんどでも」


 俺の口からフッと笑みがこぼれた。


「そういう家族がいてもいいっスね」


 このセリフは桂一さんに向けてなのか、自分たちに向けてなのか、眠たい目蓋を支えるのに必死で、なんとも判断しづらい重みが覆いかぶさっていた。


 きっとこの一家の関係は修復できる。何年かかけてゆっくりと。立役者。小尾夏陽官房長官殿のおかげで。


 いまだ接し方の分からない新しい姉貴に礼を言おうと何度も決めて、シャンメリーを飲み干し、頃合いを見て感傷に浸り始めた桂一さんの晩酌の付き合いをやめた。時刻は草木も眠る丑三つ時だった。

 席を立つ前に桂一さんは言った。


「今日は蛍が見れる」と。





「美空、美空」

「すうすう。ううん……もう悟られないよ……」


 蛍とやらを見に行こうと美空を誘ったのだが、美空は完全に熟睡モードに入っていた。現在深夜三時。俺も眠い。っていうか美空はなんの夢を見ているんだろう。

 しかたないから美空は寝かせたまま夏陽を起こすことにした。


 夏陽の枕元に行くとカーテンのない窓から見える月光が仄かに彼女の寝顔を照らしていた。

 儚げで美しい顔。思わず不謹慎なスイッチが入りそうなくらい艶やかというか女性らしい寝顔だった。

はだけた浴衣から垣間見える夏陽の胸の谷間に目をやる。さっきはウェットスーツだったから締め付けられていたのか、そこまで小ぶりではなかった。


 いかんいかん。姉の胸を凝視するわけにはいかない。

 もう一度彼女の寝顔を見る。覆いかぶさるように覗き込む。白磁のように白くて、柔らかそうに線が細くて、繊細で可憐で、溌剌で洒脱で、蛍のようにとても美しくて、蝉のようにとても儚げなうっとりするような寝顔。


「似てないよな……」


 父さんにも美空にも、俺にも顔が似ていない。きっと俺の知らない夏陽の母親に夏陽は激似なのだろう。


 その顔に触れてみたいと思った。


 どれくらい柔らかいのだろう。どれくらいつるつるしているのだろう。どれくらい温かいのだろう。どれくらい。どれくらい。どれくらい……。


「んん……?」


 あ、起きた。

 布団で眠っていた夏陽と上から眺めていた俺の目と目が合う。そして次の瞬間、夏陽は顔を歪め、


「ひっ!」と小さく暴れて俺の脛を思い切り強く蹴った。


「いっ……」


 キックボクサーになれるんじゃないかというほどの高威力に俺は卒倒しそうになりそのまま倒れ込んだ。夏陽の上に。どこぞの漫画やアニメにありがちなサービスシーンみたいに夏陽の胸に顔がうずまる。漫画もアニメも詳しくないけれど。


「ひゃっ」と夏陽が短い悲鳴を上げる。


 やばい。殺される!


 と思ったのに存外、反応は薄く、それよりもむしろ、胸に顔をうずめたままの俺の頭を夏陽は抱きしめた。


「夏陽、違う。別にセクハラ目的でこんなことしたんじゃ……」


「うん……」


 妙に色気のある声……いや、変に毒気のある声で夏陽は答える。

 俺はその反応への正しい模範解答が見つからなくて、無言を返した。こんな状況に免疫がついていないのだ。


「こんな遅くに起こして、何?」


 遠まわしで叙情的な言い回しはやめよう。夏陽は誘うような声音を使っていた。


「蛍を見に行かないか? この近くの沢で見れるらしい」


 だから誘いを断るように誘う。


「分かった。浴衣のままじゃあれだから、私服に着替えるね」




 俺は部屋の外で夏陽が着替え終わるのを待った。


「おまたせ。いこっか」

「お、おう……」


 さっきの蠱惑的な声音じゃない。どうやらさっきは寝ぼけて変なスイッチが入っていたな。


「みっちゃんはいいの?」

「爆睡してたから大丈夫。あの状態の美空はタライが落ちてきても起きない」

「じゃあ、二人だけの秘密ね」


 口元に人差し指を当て、夏陽は母性的な笑みを浮かべた。

 俺は自分の頬が熱くなるのを肌で感じた。


「手ぇつなご? はぐれたら大変」

「しかたねえな」


 俺と夏陽は手を繋いで山道を降りる。桂一さんから借りた懐中電灯で道を照らすと、観光客が絶対に迷わないように大きく『ここから先、蛍の里』と書いてあった。


 俺たちは苦笑したが、なんとなく、歩きながらも繋いだ手は離さなかった。


「蛍って甘い水が好きなんだっけ?」

「それは童謡の比喩だろ。綺麗な水にしか住まないんだ」


「そっかー。砂糖水とかで釣れたら楽なのに」

「釣るのは虫じゃなくて魚だろ」


「相変わらず細かいなー」

「お前は相変わらずしつこいな……」


「そういえばおとうさんとオカメインコは元気かな」

「オカビアンカな。そうだな……帰ったら円形脱毛症になってそうだ」


「どっちが?」

「両方」


「くすっ。ところで、そのオカ……ビアンカ? って名前の由来はなんなの? 花の名前?」


 その質問に俺の心は少し曇る。


「別に。適当につけた名前だよ。三人で二文字ずつカタカナを出し合って適当にくっつけた。俺が五十音の最初と最後の『ア』と『ン』父さんが名字の『オ』と『ビ』……美空がお母さんって意味の『カカ』ってなぐあいにな。『オカビアンカ』の完成だ」


「それって……」


 察してくれたか。頭がいい。さすがに特進クラスなだけある。


「美空は育てられた覚えのない母さんのことが今でも大好きで、今でも後悔しているんだ」


 自分が産まれた代償として死んだお母さん。

 自分が死なせてしまったお母さん。

 自分が俺と父さんから奪ってしまったお母さん。


 お母さん、お母さん、お母さん。たまに寝言で美空はそう呟く。


「美空はさ、いつもはふざけてるけど人一倍我慢している女の子なんだ。だから俺が守ってやらなくちゃいけない。少しでも我慢のはけ口になれるように……と、暗い話は明るくなってからしよう。今は蛍探しだ」



 そしてその数分後、幻影は目の前に現れた。


 緑と黄色の中間蛍光色が色鮮やかに沢を埋め尽くしていたのだ。

まるで夜空が落ちてきたように幻想的で、俺と夏陽は心と声を奪われた。何分経ったのか定かではないが、夜空が白んで蛍が発光を止めるまで俺たちはその幻想に留まり続けた。


「そろそろ帰ろう。……また来ような」


 とようやく俺が口を開くと、


「来れたら……また見れたらいいね」


 と夏陽が囁くように答えた。

 あまりにも長い時間棒立ちだったせいか、俺たちの足は薄い影に貼りつけられたように上手く動かなかった。




「ありがとな」


 スキー宿に戻る時、繋いでくっついたように固まった手を握り返して夏陽に礼を言う。

 夏陽は小さく「どういたしまして」と言った。


 スキー宿に戻る道中は行きと逆で上り坂になり、昇りはじめた夏の日差しも相まって泊まっていた寝室に戻ったころには汗だくになっていた。


「飯食って帰るか……」

「そうね。はあ……はあ……」


 夏陽は息が切れていた。相当疲れさせてしまったらしい。

 だから俺たちはごろんと並んで横向きに寝た。

 自然と視線が合う。照れているのか夏陽は少しだけ頬を赤らめて目を逸らした。


「秀美郎くん。私、カラオケ行ってみたい」

「行ったことないのか? ……って、俺もあまり行かないけど」


「回転寿司行ってみたい」

「あんまり食べ過ぎんなよ」


「ゲームセンター行ってみたい」

「カツアゲされないようにしないとな」


「焼肉とかケーキとかいっぱい食べたい。新しい服を着たい。あと……」

「待て待て、とりあえず……財布と相談だ」


 思わず苦笑する。どれだけのことを未経験だったんだ。


「写真、いっぱい撮りたい」

「一眼レフは用意できないけど……いいぞ」

「ありがとう……」


 夏陽は満足げに目を閉じる。夏の朝日に温められながら、繋いだ手を離すのを忘れて、俺もゆっくりゆっくり瞼が下りて、次第に幻影を見た。


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