常しえの
閑古鳥。カッコウの古名。
閑古鳥が鳴く。閑散として物寂しい様。
怠惰で強欲を自負しているさすがの秀美郎も焦る。
バーガー屋でのエクスペンスを取り戻すために意気軒昂とバイトに臨んだのだが、バイト先はいつも通り閑古鳥が鳴いていた。
普通が一番とか、いつもどおりが一番大事とかいう価値観があるが言わせてくれ。
「このままじゃ潰れる……」
せっかく仕事量に比べて時給が高めなバイト先に巡り合えたのにこのまま時の流れるままにただ徒に時間を浪費していれば必ずこの店は潰れる。デッドエンド確定だ。
なにかこの店の経営の在り方を根本的に変えなければ……!
「店長、提案があるんですが……」
「なんじゃね? 小尾くん」
「ポイントカードを作りませんか? 大手は一〇〇円で一ポイントなのでこっちは五〇円で一ポイントにしましょう。ほら、いちばん安い税別一〇〇円の本で二ポイントです。お得感あるでしょう?」
ぶっちゃけた話、五〇円で一ポイント……つまり一〇〇円で二ポイントでは採算が取れなくなるだろう。一〇〇円で一ポイント制を導入するための布石だ。
「前にも言うたがね。そういう浮ついたやりかたは好かん」
「しかしこのままじゃ潰れてしまいますよ!?」
「もともと道楽で始めた商売じゃ。いつ潰れてもいい」
こっちはよくねーよ!
「こ、ここにある本たちはどうなるんです!? ここが潰れたら焼却炉行きですか? 再生紙行きですか? かわいそうでしょうまだ読めるのに。まだ存在しているのに、せっかく本として生まれてきたのに店と一緒に心中だなんて……」
巧言令色ちりばめてなんとか経営改革させなければ。
「むう……たしかに。しかしなぁ……ぽいんとかーど、か……」
店長はあご髭をさすって頑なにポイントカード等々の導入を渋る。というより変革を嫌っている。変わることを怖れている。
その姿は保守的で面倒な手続きを嫌う老人そのもので、未知の物に触れることを怖がる思春期の子どものようで、まるでクラスメイトたちを拒絶し続ける自分を見ているようだった。
そうか? 俺は怖れているのか? クラスメイトたちが未知のものだと?
ちがう。あのクラスメイトたちはアクセサリー感覚で人と付き合うやつらだ。未知のものではない。むしろ既知の存在そのものだ。俺がクラスメイトたちから逃げているみたいな状況ではない。
これは思い過ごしだ。考えすぎだ。頭の悪い思考パターンだ。考えなかったことにしよう。
今考えるべきはこの店の売り上げをどうやって上げるかだ。
「もしかして導入に際しての手間を気にしてるんですか? 大丈夫ですよ。今日日、ポイントカードなんてどこの店でももうやってるし、ネットをあさればポイントカードの作り方なんて簡単に出てきますから」
「ふむ……」
俺の発案に店長はまだ考え込む。
店長が目先の面倒ごとを避けて経営改革をしないのならポイントカードの話は俺が手続きをするということにして無理くり押し通そう。もし店長に確固たる意志があって浮ついた商法になびかないのならば次のバイト先を探しながらこの店の最期を看取ることにしよう。
さあ、どうする?
「ワシは……」
『カランコロンカランコロンカランコロン』
グッドタイミングで客が入ってきた。ええい、こんな時に入ってくるな。こうなったら一〇〇〇円分の買い物をしてもらうぞ。
「いらっしゃいませー……って」
「やっほー秀美郎くん! 茶化しにきたよ」
「やっほーお兄ちゃん大佐。視察に来ませう」
来店したのは夏陽と美空だった。暇人め。この客足で人のことは言えないけれども。
家でかわいく甘えられるのは構わないが、仕事の邪魔をされるのは腹が立つので「……そんなに俺のことが好きなのか? お二人さん」と皮肉ましましなトーンで言ってやった。
なのに二人の反応ときたら、
「ち、ちがうよ! 売り上げに貢献しに来てあげたの!」
「機密文書の閲覧許可をお願いしますであります」
と皮肉に全く気づいていない様子。ああこのおバカめ。俺より偏差値は高いらしいけど。
「なんじゃ? 小尾くんの知り合い……かね?」
「……姉と妹です」
店長に二人を紹介すると、店長は感心して店を閉めた。なぜ?
そして二階の居間に俺たちを案内してくれた。なぜに?
さらに俺たちに茶菓子を出してくれた。なぜゆえに?
「さあ、食っとくれ。もらいモンでな、ワシひとりじゃ食べきれんのじゃ」
「はあ……」
タイムカードは押しっぱなしになっているから給料は出るがこのままでいいのだろうか。店の経営指針を変えなければ共倒れだ。
「ワシひとりとおっしゃいましたが奥さんやお子さんはどうしたのですか?」
美空が挙手して質問する。
「おい、プライベートな話を……」
「いいんじゃ、いいんじゃ。口を噤んだところで帰ってきてくれるわけじゃないからのう」
店長は切なそうに目を細め、湯呑みの口を静かになぞった。
「ワシにも家内と子供が三人おってな。ちょうど姉、兄、妹の三兄妹じゃった。ある日、些細なことで家内とケンカになった。家内は物静かで口数が少なくて、あまり反抗をしない奴だったんじゃが、その時ばかりは反抗した。ワシも反抗されることに不慣れで今でいう……なんじゃ? 逆ギレというやつをしてしもうた。それで収拾つかなくなってしもうてな。手が出た」
暗い話だと想像はついていたが、もう少し暗くなりそうだな。初夏の熱気を感じながら、同時に悪寒を感じて俺は茶を啜った。
「そしたら子供たちが立ち上がった。もとから亭主関白然としたふるまいのワシに不満を持っておったらしい。ワシは家内と離婚することになり、子供たちは家内と一緒に居を分かつことになった。ちょうど、キミらと同じ年の頃じゃったよ。それから十数年、ワシは独り身じゃ」
店長は筋肉質な腕で恥ずかしそうに後ろ頭を掻く。しかしその目は深く深く、常しえの闇を見ているかのように暗かった。
「ワシはそういうことに免疫がなくってなぁー……家族四人にいなくなられてから、胸のどこかがつかえておるんじゃ。まるで毒気にあてられたみたいにもやもやと」
毒気、か。夏陽を見ると、彼女は心痛な顔で店長を慈しんでいた。
「じゃから。これは罪滅ぼしなんじゃ。キミら……小尾くんに優しくして、高めの給料をあげているのは、もう会えなくなった息子にゴメンナサイしてるんじゃ」
「……」
俺たちは無言だった。ただただ返す言葉が見つからなかった。店長がコミュ障気味の俺に懇意にしてくれるのは、俺を息子さんと重ねているからだったらしい。
重い想いが折り重なって、店長をがんじがらめにしていた。
もしかしたら店長は、俺のポイントカードの提案を息子さんの離婚調停と重ねていたのかもしれない。うんと言い返せば、息子さん同様に俺がいなくなってしまうのかもと、そう思っているのかも。全くもって非論理的だが。
「どうして会えなくなったんですか?」
ぽつりとロウソクに火を灯すように夏陽が問いかける。
「おい、夏陽。そんなの、分かりきって……」
「息子さんたちは亡くなったんですか?」
「おい、夏陽、やめろ」
「違う。家内も息子たちも生きてるはずじゃ。ただ、別れ際に息子に言われたんじゃ。『絶対にそんなツラで会いに来ないでくれ』と。だから会えなくなったと言ったんじゃ」
そうだよ。もし死んでたら店長は今よりもっと。
「だったら会いに行きましょう」
「はあ? なに言ってんだ夏陽。会いに来ないでくれって言われたんだぞ」
「そうじゃて。あれはもう、ワシの声を聞くような……」
「それじゃあ、ただの毒だよ!」
夏陽は声を荒げた。
「生きてるんだったら、どんなに仲が悪くても、家族だよ。顔も名前も知っているなら、一緒に過ごした記憶があるなら、どんなに仲がこじれたって家族だよ」
今度は声を震わせる。義父が失踪、実母が病死したという夏陽には思うところがあったのだろう。夏陽の目の方が常しえの闇に染まっている。
「ちゃんと会って、目を見て話さないと……なにも伝わらないよ」
夏陽の感情の飛び具合にやや戸惑ったのは俺だけではなく、美空も店長も同じようだった。
「だから、その息子さんが別れ際に会うなっていったんだぞ。会えるわけが……」
ふるふると夏陽は涙目になって俺を見て首を横に振る。
「違うよ。もう会うなっていうのはまた会おうって意味だよ。日本人ならね」
「……はあ?」
「だって息子さん言ったんでしょ? 『絶対にそんなツラで会いに来ないでくれ』って。それってきっと、ちゃんとした格好で、ちゃんとした形で、ちゃんとした言葉で謝りに来てくれって意味だと思う。法的に会わないって決めごとをしていなければ」
「……そうなのか?」
「店長さんはちゃんと謝ったんですか? 奥さんの、息子さんの、娘さんの目を見て、常しえの愛を誓った時のように真っ直ぐに、ちゃんと謝りましたか?」
少しだけ、いや、確実に夏陽は怒っている。店長の不甲斐なさに対してではないだろうが、なにかに対して怒っている。
「謝ってない」
次に声を震わせたのは店長。
「ワシは、あいつらに、全然謝ってない。息子が最後どんな目をしていたかなんて、全然見ていなかった!」
泣き出した。七〇手前のおっさんが一五の女子高生に諭されて、おいおいと泣きはじめた。
「ワシはどうしたら……」
「どうしたら? ……分からないんですか? まず……まずその似合わない汚いヒゲを剃る!」
「ひい!」
荒ぶる夏陽と店長の短い悲鳴。
俺でさえ心の声でも触れなかった似合わない髭に土足で突っ込むとは……。
「そんな貧乏くさい服じゃなくて、息子さんたちの結婚式に出れるような上等のスーツを用意する!」
「ひい!」
「あとそのわざとらしい老人っぽい言葉遣いをやめる!」
「ひゅえ!?」
わざとだったんだ。
「そしてレンタカーでいいから軽トラじゃなくて家族全員が乗れる乗用車で謝りに行けばいいんです!」
「はう!」
夏陽の説教に店長は怯えまくっている。どっちが年上なんだか。
「でも、いついけば……」
そんな店長の疑問に静かに挙手して意見したのは美空だった。
「思い立ったが吉日」
今日この日が店長の第二の誕生日になる。
まず店長は床屋へ行った。
髪を丸坊主にして髭も眉毛も整えて床屋から出てきた時は同一人物だと気づかなかった。丸坊主にする必要は……まあ、贖罪の意味もあったのか。
店長の筋肉ムキムキで丸坊主な見た目は俺に三つのものを連想させた。金剛力士像とヤクザとオネエだ。それぞれの業界の方々ごめんなさい。
そして洋服のナントカでちょっと高いスーツを買って着て、レンタカー屋で黒のワゴン車をレンタルして、元奥さんの田舎である山岳地帯へ向かった。
俺たち三人を乗せて。
「なぜ俺たちまで……?」
店長の運転するワゴン車の後部座席に俺たちは美空、俺、夏陽の順番で座っている。
「すまんね。ひとりは怖くて……恐い」
「いいじゃんいいじゃん。ドライブだと思えば。あー山だー冬だったらスキーができたね~」
「すきー! 小学生の時にお兄ちゃんがインフルエンザで計画が頓挫したやつ!」
「え? なに、美空大総統。まだ根に持ってたの?」
そこまで恨まれる覚えはないんだが……。少々値は張るけれど今は毎年予防摂取しているし、うがい手洗いもしている。健康であることが健康であることを促進するのだ。
「来年の冬は父さんと四人でスキーだな」
「……」
夏陽は俺の声が聞こえなかったのか、ずっと青々としたゲレンデを眺めて幸せそうに笑っていた。そして満足したのか窓の外を見るのをやめて店長に話しかける。
「奥さんの実家は何をやっているんですか?」
「あはは……元奥さんね。えーっと家内の実家もスキー場だよ。温泉もある。払いはもつから入っておいで」
「そんな。悪いです。風呂代くらい俺たちで払います」
「じゃあその分は今日の給料から天引きしておくよ。タイムカードは押しっぱなしだろう?」
抜け目ないおっさんだ。いったい今日は何時間労働することになるんだ? そして今日中に帰れるのだろうか。
そうこうしているうちにスキー宿に到着した。車の中にいた時間は約三時間。現在午後四時。尻が痛い。
「スキー場は雪の季節以外は休業していると思うかい? 実は夏は夏で芝スキーに来るお客さんをもてなす温泉宿になっているんだよ」
車から降りた俺は唖然とした。
夏のスキー場は死地というイメージがあったが、それに反して温泉街とは呼べないまでも、温泉宿としてそれなりに繁盛していた。
「山間だから涼しいし、本当はもっと繁盛してもいいはずなのだがね」
たしかに。っていうか、店長の語調が完全に現代人になっている。やっぱりあの老人口調はわざとだったのか。
「温泉に浸かっておいで。その間に用事を済ませておくから。今を逃すと混みはじめるよ」
「はーい」
と返事をして温泉に向かう。そしてするするするすると足音立てずに後ろに下がり、静かにスーツの襟を正す店長の後をつける。あんなに筋骨隆々な店長が縮こまっている。
「ここは……なあ?」
「そうだよ……ねえ?」
「唆したアタシたちが最後まで見届けなければ」
まだ夏の日差しが高い午後四時の山村は地元とは違う空気が流れていて同じ県とは思えなかった。
ひぐらしの声を聞きながら店長の後を隠れてついていくと、店長は事務所の門を叩いた。
そのまま店長は受付と話をし、待機する。どうやら事務所の外で話をするらしい。
俺たち三兄妹は店長に気づかれず、かつなるべく会話が聞こえる所まで距離を詰める。
まるで漫画のひとコマのように上から縦に並んで隠れる俺たちは緊張して、店長にとっての運命の邂逅を待った。姉兄にもかかわらず、夏陽の胸が俺の後頭部にあたり、もやもやするのはなぜだろうか。
「お兄ちゃん大佐。上手くいくと思う?」
「静かに。こっちの声が聞かれる」
上手くいくかじゃなくて上手くいかせるのが男の仕事だろう。
美空の一言でこちらの緊張が少し和らぎ、落ち着いて店長を観察できた。
しばらく無言でじっと待っていると、事務所の引き戸がガラガラと開かれた。
二〇代後半といった頃合いの男性が出てくる。キッと視線の先の相手を射殺すようなキツい目つきをしていたが、店長を見た途端に目を丸くした。
「お、お父さん!? どうしたの、その格好!」
店長は元印刷会社の社員だったらしい。そこはあんまり仕事の楽な職種じゃないと聞いたことがある。きっといつも汚い格好をしていたのだろう。
「けじめをつけに来た!」
「おお……」
言った。緊張しているのか声がでかいけれども。
「俺は今、あの家で古書店をやってるんだ! そして、バイトの子に諭されて、今日、ようやく気づいた!」
「夏陽。お前、バイトの子になってるぞ」
「静かに。こっちの声が聞かれちゃう」
少し緊張を和らげようとしたのだが、美空のようにはいかなかった。
「俺はお前たちを見ていなかった! 安いプライドで偉くなったつもりでいた! お前たちに反抗されてもろくに反省しなかった!」
「お父さん、ちょっと静かに。客がいるんだ」
「あ、ああ……ごめん」
あれ? グダッてきたか?
「お父さん、単刀直入に言ってくれ」
「あ、ああ……ごめん。謝りに来たんだ。お前たちにしっかり謝っていなかったから」
「謝りに? さっき、今日ようやく気づいたって……」
「ああ。午前中に思い立って今来た」
「あの腰が重いお父さんが?」
「ああ。ああ。俺はお前たちがいなくなって後悔していた。ずっと生きているのがつまらなかった。この世界はこんなに広いのに、俺の世界はあの狭い家だけだった。どうか、お前たちに、母さんに謝らせてくれないか?」
息子さんは無言になる。目つきが射殺すような厳しいものに戻った。
「それはできない」
「……っ!」
誰かが吐息を漏らした。自分だったか他の誰かだったか分からないが。
「あんたをお母さんに合わせることはできない。あんたの妄言なんてもう聞きたくない」
「嘘……」
上手くいくのだと思っていたのだろう。夏陽は意外そうな声を漏らして二人の前に飛び出そうとした。慌てて俺は夏陽の腕を掴んで引き戻す。
「ちょ、痛い」
「もうちょっと待ってくれ。これから……これから店長が男に戻るんだ」
店長、ここが分水嶺だ。あんたの性別はなんだよ。見せつけてみろ。
「頭丸めてひげ剃って、ちょっと良いスーツ着たら改心したことになるのか? あんたが仕事で下げ続けた安い頭を今さら見せびらかしてなんになる。さっきは口が滑ったけどもう俺はあんたのことお父さんだとは思ってない……」
「俺の話を聞けぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええ! 俺は、お前の目を、見ているぞぉ! 桂一ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいい!」
店長が叫んだ。雄々しく、猛々しく、轟々と勇猛果敢に叫んだ。桂一が息子さんの名前か。
男、本谷桂栄、六七歳。散らした頭がきらりと光る。
むきむきと隠れた筋肉が隆起して体を覆っていた漆黒のスーツが破れさる……ということはなかったが、ようやく店長の男の部分を見た。いや、下品な意味じゃなくて。
「桂一! 風呂だ! 風呂に入るぞ!」
「わ、わかったよ……お父さん……」
完全に桂一さんはビビった顔……いや、不意打ちを食らった顔で店長を事務所内に案内して俺たちの視界から消えた。
「どうする? 男湯には入りたくないけど……追う?」
夏陽が聞いてくるが、俺はかぶりを横に小さく振った。
「大丈夫だよ、もう。あれはもう店長の土俵だ。そして、もう力任せなひとり相撲はしないだろうよ。金星がつくかは、分からないけどな」
黒スーツの金剛力士はもう大丈夫だ。あの産声はきっと奥さんにも届いているだろう。
店長の成果報告を聞いたのは俺たちが温泉の湯で遊んだ後だった。