毒とスイカ
七月二七日といえばなんの日だかすぐに思いつく人はいるだろうか。知らない? なんて浅薄な。いや、俺も知らないんだけどさ。
「正解はスイカの日である!」
と、朝食の時間に自信ありげに父さんは言った。
だからどうした? と固焼きのサニーサイドアップを箸で掴みながら父さんを睨む。
「スイカ食べられるでありますか、元帥殿!」
「もちろんだ! スイカをしこたま食べさせてやろう!」
「マジで!? スイカ!? この小尾家がスイカを食べられるのか!?」
俺は素で驚いた。今日日、日本のスイカはやや高めの果物(野菜?)にランクアップされてしまって買うとなるとやや懐を痛めるのだ。
「ふっふっふ。そのとおりだよ美空大総統、秀美郎大佐。緑で真っ赤なスイカを拝ませてしんぜよう。……ってことで、父さんの職場でスイカ割りをする。くるか? くるだろう?」
「行きます! お父さん元帥!」
「悪い。今日バイト」
残念ながら小尾秀美郎少年はアルバイトで小忙しいのだ。今日いきなりスイカ割りのためにバイトを休むわけにはいかない。なにせ時給八四〇円なのだから。一時間で八四〇円なのだから。田舎の八四〇円は高いのだ。
「え~秀美郎のいけず~」
「どっかの誰かの稼ぎがよければいろいろと買い替えられるんだがな」
「誰のおかげでご飯が食べられていると思っているのかね、秀美郎大佐」
「誰のおかげでまともなメシを食えてると思ってんだ……?」
たぶん今の俺の手もとに包丁があったらちゃきっとかまえてギラリと刃先を光らせて脅しつけていたのだろうと思う。父さんが過去に作った料理のまずいことまずいこと。
「ごめんなさい秀美郎。毎日ごはんがおいしいです」
分かればよろしい。
「……つっても、ゆるい古書店だからな。頼めば早く上がれるかもしれない」
なにせ金のために今までせっせと勤勉に働いてきたのだ。なんとかなるだろう。
「ええ!? 本当かい!?」
……なんかどっかで聞いた覚えのあるフレーズだな。イラっとくるなぁ。
「じゃあ午後三時にホテルの駐車場集合な!」
父さんの気分が最近では一番高揚して見える。
美空も「スイカ、スイカ、ス、イ、カ、に塩―」となぞのフレーズを唱えている。ここは博多じゃありませんよ?
「ああ、それから……」
父さんは箸を置き、穏和な表情でこんな突拍子もないことを言った。
「今日から家族が増えるから」
……はあ?
*
「三点で五七八円になります」
古書店の仕事は簡単だ。もっともそれは、客の出入りが少ないからあまり好きじゃない接客の作業を頻繁にしなくてすむからである。
「六〇〇円からですね。二二円のお返しになります」
しかもハンバーガーショップみたいな笑顔を振りまく必要もない。これで自給八四〇円なんだから良心的な雇用主だ。
「ありがとうございましたー」
ビニール袋に入った古本を提げて店を去っていく客の後ろ姿に定型分を投げかけて一息つく。
「小尾くん。しばらく客は来ないだろうから、さっき買い取りした本の仕分けお願いね」
「はい。店長」
しばらく客は来ないだろうからか……店長が言うべきセリフなんだろうか。言っていて悲しくならないだろうか。
店長の本谷桂栄さん。六七歳男性。独身。印刷会社を六五歳で退職した後で使わなくなった自宅の一階を改装してこの古書店を始めたバイタリティあふれる偉丈夫。
偉丈夫というだけあって筋肉が一筋も衰えているようには見えず、いまだ見た目は全盛期の五十代のような髭を生やしたチョイ悪オヤジ(死語)である。
もともと本屋を経営するのが夢だったらしく老後の楽しみに退職後に古物商の免許を取って古書店を開いたのだが、それ以外にも年金だけでは食べていけないという理由で古書店経営をしているとのこと。
「客が来ないのう……」
「全部大手リサイクルショップに流れちゃってますね」
「開業したのはいいものの、こんなに客が来ないとは思わなかったわい。なんとか差し引きゼロで黒字でも赤字でもないんじゃが……」
「じゃあ買い取り金額を増やすとか、値段を下げるとか、まとめ買いがお得とか、ポイントカードを作るとか……」
俺は提案しながら買い取った本たちを仕分ける。
漫画、文庫本、単行本、新書、図鑑、辞典、成人雑誌……さらにそこから○○書房の週刊○○の◎◎とか●●とか、△△出版の月刊△△とか、□□社の□□先生の□□シリーズといった具合で仕分けていく。
そして査定したときの本の状態や知名度、定価を附箋に書き込んで貼り付け、店長に渡す。ここから本の値段を決めるのは店長だ。
「そういう浮わっついた商売はしたくないんじゃ。正真正銘そのものの価値で勝負したいんじゃよ。ワシは」
「それでよく二年もやりくりできましたね……」
まあ、その二年間の収入源の雀の涙ほどを俺が担ってきたわけなのだが。
この店の本の値段は大手ほど安くないのだが、人けが少ないという理由で中学生のときよく利用していた。
「じゃあCDとかDVDとかの買い取りとかやってみます?」
俺がさらに提案すると、店長は苦い顔でかぶりを振った。
「ワシは本以外の知識はてんでないんじゃ。最近のじぇいぽっぷなんていくらで買い取りすればいいかさっぱり分からん」
「……さいで」
確かに個人経営のこの古書店の店長に最近女子中高生にバカウケのCDやアニメのDVDの査定はできないだろう。俺も家の財政的な問題で最近の流行には疎い。査定を一任されるのは困る。
「ところで小尾くん。今日は一四時で上がるんじゃったか? 学生は忙しいんじゃのう」
「まあ、今日は父の職場のスイカ割りに混ぜてもらうだけなんですけどね。すいませんショボイ理由で」
「問題ないよ。お父さんはホテルマンだそうじゃないか。面白そうな家庭じゃ」
「はい。面白い家庭ですよ」
なにせ今日の朝方、唐突に『家族が増える』と言われるほどだからな。なに考えてんだあの父さんは。猫でも拾ったのか?
和やかにしゃべりながら仕分けを済ませると、今度はやることがなくなる。出版不況のこのご時勢に本のニーズはどんどんなくなっていく。ただ冷房の効いた部屋で突っ立っているだけの状態になっていた。
困ったな。店が今よりもう少し右肩上がりに潤ってくれれば俺の自給も増えるかもしれないのに。っていうかこのままだと自給が減る。生活がヘル。
もうちょっと自給の高い工事現場や交通整理のバイトでもと考えてはいたのだが、そうなると時間が夜間帯になる。そうなると家を空けることになってしまうので心配だ。
父さんはシフト制の仕事をしていて夜中家を空けることが多いし、その上で俺が夜のバイトを入れると家に取り残されるのは美空だ。本当ならまだ中学三年生。さみしくて心細い思いをさせてしまうし、いくら猪や熊といった害獣の出ない都会ぶった田舎とはいえ時代遅れの暴走族崩れのようなやつもいて心配だ。父さんのいない間、家の安全は俺が守る。嫁か俺は。
一人ノリツッコみをして我に返ると再びしんとした空気が店内を支配する。
やはり改革せねばこの店に未来はない。やっぱりポイントカードくらいは作るべきだと思うが……ポイントの計算やポイントカードの発行などなど赤字になってしまうかもしれない。
どうするべきか。ちょっと頑固な店長になにを教示してあげられるだろうか。うむむ……。
『カランコロンカランコロン』
不意に店の自動ドアが開いて誰かが入ってきた。
誰だ? 何者だ? と思ったが正体はもちろん客だ。古書店なんだから。
「いらっしゃいませー」
友好的に努めて言って俺はバイトに勤しんだ。
*
「父さん、これはどういうことだ?」
夏仕様のホテルマンの制服を着た俺と美空はうだるような暑さの下で手を前で組んで立っていた。視界に広がるのは観光客らしきおばさまがたが仲良くきゃっきゃしながらスイカ割りを楽しんでいる。ぜんぜん目の保養にならねえ……。これだったら買い取りしたBL漫画の査定をしているほうがまだマシだ。
いや、おばさまというのは失礼か。小ぎれいな身なりのマダムたちが童心に帰ってスイカを割る。タオルで目隠しをしてぐるぐる十回転して木の棒を持ってふらふらになりながらわいわい楽しんでいる。ホテルの駐車場で。真夏の田舎の県庁所在地域の零細ホテルの駐車場で観光客がスイカ割りを楽しむ。
「海でやるわけにはいかなかったのか……」
しかも、
「悪いなぁー二人とも。どうにもバイトが足りなかったからボランティアとしてつい」
勝手に奉仕活動に従事させられている。
「この際、ボランティア活動をさせられることはいいよ。ただ、俺たちのエサにしたスイカはちゃんと俺たちにも出るんだろうな?」
父さんは俺から目を逸らし、割れたスイカを切り分けてかぶりつくマダムたちに目をやり、
「残っているといいなぁ~……なんて」とのたまった。
「美空大総統、今晩の父さんの分のコロッケは全部食べていいぞ」
「りょーかいであります。ビッグブラザー」
「待って待って! 冗談冗談! ちゃんとスタッフ用のスイカがあるから!」
それを聞いて安心なのか心配なのか複雑な心境になる。スイカを目的に来たのでスイカがなければ話にならないが、コロッケを減らされると脅されて焦る父親の図は見たくなかった。
かくして俺の一日限りのボランティア活動は始まった。
俺のやることは簡単で、マダムたちの相手を軽くしながらスイカが割れたら新しいスイカをホテル館内の冷蔵庫からなるべく早く持ってくることだった。ただし田舎産の規格外スイカなので市場に出回らない爆発しそうなほど異常にデカいスイカだ。
しかも俺がそのスイカを担いでスイカ割り会場にたどり着くころには灼熱の太陽と俺の温もりで冷やした意味がなくなってしまっている。
そんなスイカをマダムたちがわいわい割ってもぐもぐ食べるので申し訳ないと思うばかりだった。それこそ「甘くておいしわねぇ~」とか「いい具合に冷えてるわねぇ~」とか「あんたいい男ねぇ~」とか言いながら食べるので申し訳なさマッハだった。スイカってもっと美味しいですよ。
カナカナカナカナとひぐらしが鳴くころになると、もうお開きで観光客のマダムたちは観光バスに乗って一斉にどこかへ向かっていった。このホテルに泊まるんじゃないのかよ。
片付けが終わり次第残りのスイカで打ち上げをやるそうなのではりきって最後までボランティアとして働いた。こういう時間の使い方は別にもったいないとは思わない。ボランティアは金や評価に直接繋がらないことに意味があると個人的に思っている。
俺が冷蔵庫から予備で残しておいた小ぶりなスイカ二玉を抱えてホテル館内の打ち上げ会場へ向かう途中だった。
「おにーいちゃん」
不意打ちで妹に背後から声をかけられる。
「おう。どした美空」
「会場が包丁の名手を探していましたであります。ここはお兄ちゃんの出番かと」
「おおそうか。すぐ行く……ここホテルだよな?」
包丁使える人間をボランティアからあてにするものなのか?
「ホテルの従業員の大半は通常業務でてんてこまいなんだって」
「……それで俺の出番かよ。すぐ行く」
そう答えると美空はぱぁ~っと諸手を差し出した。
「……なんだ? 金ならやらないぞ?」
「欲しいのはそのスイカだぞいっ」
「美空の細腕には重いんじゃないのか?」
「じゃあアタシが運んだってことにしといて」
お利口さんめ。皮肉に対する返しが早い。
「ちゃんと会場まで運びきるんだぞ。まだ冷蔵庫に俺たち用のスイカ残ってっから。小さいヤツ」
「あいあいさ~」
俺は美空にスイカを託して足早に打ち上げ会場へ向かった。おそらくテーブルやイスのセッティングなんかは完了している頃合いだろう。
いちおう俺も高校生なのでホテルの廊下を走るようなことはしない。冷蔵庫から打ち上げ会場まで歩いて約四分。その途中の出来事だった。
「ねえ、キミ。ひとり? よかったら一緒に遊ばない?」
「ああ、すいません。俺はボランティアでしてちょっと急いでるんで。って……」
いきなり後ろから誰何されたので誰かと思ったらいつぞやの猛毒娘だった。
この前とは違い、美空が着ていたのと同じこのホテルの女性用の制服を着ていた。
「なんでお前がここに? えーっと……」
そういえばこの女子の名前を俺はまだ知らなかった。
「私と友だちになろうって言ったじゃん」
「なんでここにいる? 偶然?」
「キミがここにいるからだよ」
「ストーカーかお前は!」
突拍子もないことを言う猛毒に俺がツッコむと、彼女はあどけない顔で「おお~」と感心して、「そうかも!」と勝手に納得した。今自覚するのかよ!
「そろそろ名前を教えてくれないか?」
「キミの名前は小尾秀美郎くんだね」
「そうそう俺の名前は小尾秀美郎。生まれは新河県新河市。誕生日は九月の……ってバカ!」
思わずノリツッコミしちゃったよ。恥ずかしい。
「お前の名前だよ。猛毒が本名じゃないんだろ?」
「そーだね。猛毒は将来の夢だね」
こいつ、新手の不思議ちゃんか?
「じゃあ、当ててみてよ。私の名前。立てばスズラン、座ればダチュラ、歩く姿はヒガンバナ!」
「……」
面倒くさいノリだな……。
俺は止めていた足を再稼働させ、打ち上げ会場へ向かう。
「やっぱいいや。お前と友だちになるつもりはないからな。名前を知る必要はない」
「ええー!? 酷い! こんな人畜無害な女の子にそんなこと言う!?」
さっき猛毒が将来の夢とか言っていた痛い子がなにを言っているんだ!
「アクセサリーみたいな友だちはいらない。だから友だちは作らない」
「偏屈だね~友だち減るよ? あ、もういないのか」
「どうとでも言え」
カツカツカツカツと廊下を進む俺の後ろを早足で猛毒が必死についてくる。
「じゃあじゃあ、こういうのはどう?」
「……なんだよ」
今一度体を返して猛毒に向き直る。聞くだけ聞いてみるのも悪くない。俺がただの薄情な奴だと思われるのは癪だからな。
「私がキミの友だちになるのと、私がキミの猛毒になるの、どっちがいい?」
「…………猛毒、のほうがマシ……」
「ふふ、捻くれてるね。じゃあ、私はキミの猛毒になるよ」
猛毒。言葉の真意がさっぱり分からない。辞書的な意味なら知っているが、彼女の言っている猛毒はそういう意味なのだろうか。
「つまり、どういうことだ?」
「だから、私、猛毒になるの」
ふわっと風が吹いた気がした。甘い蜜の匂いがしたような気がする。自慢げに言い放った彼女の顔はとても白くて、とても細くて、とても繊細で、とても可憐で、とても溌剌で、とても洒脱で、とても毒気があるようには見えなかった。
ふと彼女の顔になつかしみを感じたのだ。ずっと前、以前に会ったことのあるような親しみを覚えたのだ。前世で何かやらかしたのだろうか。
「猛毒になりたいって……人は毒に免疫が無かったら死んじゃうんだぞ?」
いや? 免疫とかそれは毒じゃなくて細菌やウィルスの類か?
「免疫か。おもしろい返しだね。うん。面白い。じゃあ、私はキミに免疫がつくのを待つよ。いつまでも待って死なない程度の免疫をつけさせてみせる」
意味があるような目的には思えない。意図があるような目標には思えない。しかしそこに確固たる意志がるように見えた。なにか強い使命感にも似たような意志が。
よくよく考えれば。免疫っていうのは二回目以降に毒に犯されたときに発揮するような気がするのだが……。まあ、自分で自分の重箱の隅をつつくようなことは考えずにおこう。
「……まあいいや、気づかなかったけど今日一日手伝ってくれてたんだろ? ありがとな」
俺はそう言って猛毒の頭上に手を伸ばす。そして我に返って手を止める。美空と間違えるところだった。ただでさえ女子との免疫が強くないのに。
すると猛毒は「撫でていいよ?」とあどけなく俺に笑いかけた。
あまりにも猛毒をかわいらしいと思ってしまった自分が恥ずかしかったので、俺は顔に熱を感じて手を引っ込めた。
「……そんな仲じゃないだろ」
そう言い切ると、俺はまたしても足を前に進め、包丁を使う相手を探しているという打ち上げ会場へ向かう。そして猛毒は静かに俺の後ろをついてきた。
そして打ち上げ会場まであと五〇秒といったところで思い出したかのように猛毒は口を開く。
「あ、もうひとつ教えなければならないことがあります。秀美郎くん」
……家族以外に秀美郎と呼ばれるとすげえ違和感がある。でも小学生の時は名字呼びじゃなくて名前呼びだったんだよな。
「今度はなんだ? 酷な事実は言いふらすものではないぞ。俺の心は意外と脆い」
「ふっふっふ。それが全然違うんだよね~。あ、でも捉えようによってはショッキングな事実かもしれない。言っちゃおうかな~やめとこうかな~」
少しだけ猛毒はもったいぶる。ええいじれったい。はやく言え。
猛毒は誇らしげな顔で足を肩幅に開き、左手を腰にあて、右手で俺を指差した。
「私はキミの姉だよ」