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やさしい猛毒  作者: 鹿井緋色
なかよし時間
14/15

奇跡

『愛息子・秀美郎へ


 おはよう、秀美郎。そっちは今、何時だ?


 こっちはちょうど朝食をとり終えたところだ。病院食は味気なくて困る。といっても、食欲なんてないから大して食べちゃいないんだが。


 秀美郎、アタシは小尾美会子……お前の母さんだ。といっても、お前を産んで一年くらいしか経っていないからまだ実感は沸かないんだが。


 アタシはこの手紙をお前が二十歳の誕生日に渡すように旦那に託した。でもきっと、旦那はそれよりももっと大切な時期にこの手紙をお前に渡すんだろうな。

 優しくて脆くて、それでも一本芯の通っていて、大切なことはちゃんとアタシの目を見て言うあの旦那だからな。


 そういうところを好きになったんだ。


 きっとお前もそういう人間を好きになると思う。アタシの血筋だからな。男の子は母親に似ると言ったりするし。


 さて、秀美郎。手紙の本題に入りたいんだが、ぶっちゃけた話、なにを書いたらいいのか分からん。ちょっと前に美空を産んだばっかりで、しっかりばっちり体力がない。悪いな、日本語がめちゃくちゃで。


 美空は元気に産まれてきてくれた。神かなんかに感謝だな。


 ……ただ、アタシはもうじき死ぬと思うが。


 きっと今がいわゆるなかよし時間なのだと思う。死の直前に力を取り戻す時間。自分の死の準備をする時間。この時間がアタシの最期なのだろう。


 ついさっき美空への手紙を書き終えたところなんだ。お前たちには悪いことをした。産むだけ産んでろくに育てずに先に逝くなんて、酷いネグレクトだ。


 もし美空がアタシを死なせたんじゃないかと悔やんでいるならお前が励ましてやってくれ。美空への手紙にも書いたが、お前たちの産声を聞くことができただけでアタシの心は十二分に救われている。


 お前たちがアタシの奇跡だ。


 アタシはお前たちに生かされた。胎ん中にいるお前たちにアタシは希望を見出したんだ。


 だからお前たちは希望をもって生きてくれ。都合が悪くなったらアタシのせいにしていいから、前を向いて歩くこと。


 相手の顔を見ること。


 世界の顔を見ること。


 顔色ではなく、本当の顔を。


 それらとしっかり関わり合うこと。


 世界はお前たちを優しく包んでくれているよ。


 だから迷うな。奇跡を起こせ。


 誇れ! 秀美郎!

 お前はアタシと秀作の間に産まれた自慢の息子だ!


 守れ! 秀美郎!

 世界で一番大切な人を最後まで大切にすること。

 死ぬまでにかけがえのない存在をつくること。


 絶対に、絶対に、幸せになること。


 お前が産まれて、アタシは嬉しい。


 お前たちが産まれて、アタシは誇らしい。


 お前たちが生きてこの手紙を読んでいるだけでアタシはお前たちを産んでよかったと思える。


 たとえこの命が尽きようとも、お前たちの中にアタシの心は宿っているよ。


 誇れ、秀美郎。


 守れ、秀美郎。


 戦え、秀美郎。


 見ろ、秀美郎。



 生きろ、秀美郎。



 お前は死ぬために生まれてきたんじゃない。


 お前らしく在ってほしくてアタシはお前を遺す。


 ここらへんで筆を置かせてもらう。もう眠たくてかなわない。


 ははっ、秀作が隣で泣いているよ。まだだっていうのに。


 お前を育てた一年間。美空を身篭った数ヶ月。今までで一番生きていたって感じだ。


 ここまで読んでくれてありがとうな。


 やさしい時間をありがとう。


 小尾美会子より』



   *



「……」


 なんと表現していいのか分からなかった。手紙の中の母さんは俺が思っていたよりもずっと強く、勝ち気で、弱くて、俺たちを愛していた。


 俺が見向きもしなかった母さんは俺のことをずっと見ていた。


 誇れ、守れ、戦え、見ろ、生きろ……か。まるですぐそこで見ていたような言い方だな。


 ふと美空を見ると彼女はふるふると肩を震わせて、泣きそうな顔でくっと唇を真一文字に閉じていた。


「美空……」


「お父さん元帥はずるいです。こんな時に見せるなんて」


「平気なのか?」


 俺の気の利かない問いに美空は不器用にニッと笑う。


「お兄ちゃん大佐がダメだと言ったのです。……まだだもんね?」


「……そうだな」


 まだだ。まだなんだ。まだ夏陽は戦っている。いたいけな寝顔で横たわるこの子は俺たちの知らないところで病魔と闘っている。


 今までとは違い、俺たちと一緒に。


 俺と美空は夏陽の手を片方ずつ握り、語りかける。


「夏陽」

「なっちゃん」



「キミがいないと寂しいよ」



 俺と美空の声が重なる。


 この人こそが真っ向から本音を言い合える、かけがえのない存在だ。

 かけがえのない存在なのに……今さらになってようやく……。


 にぎっ。

 ……?


 いままでよりも強い握力を感じる。


「……美空、なんか分かるか?」


「……今までよりも力ましましです」


 もしかして、ひょっとすると……と俺と美空は淡い期待を込めて、磁石に引っぱられるように視線を夏陽の寝顔に向けた。


「ん……」


 待ち遠しくて愛おしかった声がか細く聞こえる。


「んあ?」


 間抜けな声を出して、夏陽が目を覚ました。


「夏陽! 起きたのか!? おい!」


 夏陽は眠たそうな顔をして俺たちを見て、気まずそうにニコッと笑う。


 儚い奇跡が一輪咲いた。


「ひず」

「……ひず?」


「うぃず」

「……うぃず?」


 眠っている間に言語に障害でも負ってしまったのだろうか。夏陽の言葉は舌足らずというかろれつが回らないというか……。


「お兄ちゃん大佐。たぶん口が渇いているのでは」


 言って、美空は持っていた水筒から麦茶をコップに注いだ。


 俺は美空のマスクを外して(勝手に外していいのか?)医療用のベッドを操作して起き上がらせた。


 美空が夏陽に麦茶の入ったコップを手渡すと、夏陽は元気よく麦茶を受け取って景気よくグイっと飲み干した。


 そしてぷはーっとビールを飲み終えた父さんのように快活な声を出すとともに、ニコッと笑って俺たちに向かってこう言った。


「おはよう、二人とも」


「お……おはよう……」


 感慨深い、えもいわれぬ感情が湧きあがってくる。


 ええと……こういう時、どうすればいいんだ? まず……。


「アタシが先生呼んできます」

「おお、そうだ! 頼んだ、美空」


「みっちゃん。……よろしくね」

 意味深長な夏陽の声音。


「……はい」

 泣き出しそうな美空の顔。そのまま美空は廊下を駆けていった。一体なにをよろしくされたのだろうか。


 美空がたーっと病室からいなくなると一気に部屋の中は静かになった。


「えーっと……手紙読んだよ。誕生日おめでとう。元気か?」


 ああ、ダメだ。元気なわけがないのに。


「うーん、元気かな? 健常者に戻ったみたい」


 その元気はどっから出てくるんだよ。


 夏陽はふっと窓の外を見る。


「もうすぐ終わりだね」


「まだ夕方にもなってないぞ。夏もまだまだ……」


「もう終わりなの」


 夏陽の言葉に真剣みが増す。


「今はその、終わる準備をする時間なの」


 それを聞いて俺の脳裏に母さんの手紙の内容がよぎる。



「なかよし時間」



 お別れの前の、皆でなかよくする時間。


「お話ししよう、秀美郎くん。キミの声をもっと聞きたい」


「待ってくれよ。冗談だろ? 奇跡が起こって病態が回復したっていうオチで……」


 夏陽は優しく柔らかくふっとかぶりを横に振った。


「奇跡はね、何度も起きたよ。こうして今もキミになかよくする時間をもらえた。若さだね」


「大丈夫だよ。諦めるな。きっと先生が来て適切な処置をすればきっと……」


 分かってる。


「キミが元気なのはキミに生きる力があるからで……」


 分かってる。


「キミが……俺に……教えてくれたから……」


 分かってる。


「……」


 急に目頭が熱くなり、俺は焦って顔を隠すために俯く。


「顔を上げて。キミの顔が見えない」


 夏陽の細い指が俺の両頬に触れ、俯いた俺の顔をもう一度前へ向かせる。


 そして夏陽はくしゃくしゃに歪めた俺の顔を見てこう言う。


「泣かないんだね」


 繊細で可憐で、溌剌で洒脱で、麗しい声。


「泣かないよ。キミが戦っている間は泣かない。俺も戦う」


「一緒に戦ってくれるの? 強いんだね」


 俺はふるふるとかぶりを振った。泣きたくて呼吸ができない。


「違う。俺は弱いよ。弱いんだ。みんな弱いから戦っているんだ。抗うんだ。立ち向かうんだ。どうしようもない運命に。……運命に納得するために」


「ありがとう」


 泣き喚きたかった俺の代わりに夏陽が声を震わせてしっとりと涙を流した。


「泣かないでよ、夏陽。キミを泣かせに来たんじゃない」


 夏陽は泣きながら「たはは」と笑った。


「キミがこんなに見てくれているんだもの。きっと最期の顔は笑っているよ」


 たまらず俺は夏陽の頭を撫でた。抱きしめるとまでは至らないが、ギュッと抱擁した。病人になんてことをしているんだと、見つかったら怒られるかもしれない。


「私、かき回すだけかき回して、結局なにも変えられなかった」


 ギュッと俺の腕に力が入る。もはや抱きしめているといえなくもない。


「そんなことない。キミが俺を見ていてくれたから、だから今、俺はみんなを見ようと思えるんだ」


 夏陽がいたから、夏陽のおかげで、俺は少しだけ前向きになれたのだ。


 ふふっと夏陽は笑い、俺の背中に手を回す。


「ねえ、秀美郎くん。世界は好き?」


「キミの次に好きだ」


「友だちは作れそう?」


「ちゃんとみんなの顔を見るよ」


「家族のこと、どう思ってる?」


「愛しているよ」


 ぐっと夏陽の手に弱いながらも力が入る。


「それなら大丈夫。きっとキミはこの世界で上手くやっていけると思う。嬉しい。ありがとう」


 夏陽はそう言うと、赤子をあやすように俺の背中をぽんぽんと叩く。


「ねえ、顔を見せて。楽しい話をしよう」


 言われて俺は抱きしめていた体を放した。その時少しだけ怖かった。放したら夏陽がそのままどこかへ行ってしまうような気がして、居なくなってしまうような気がして、ジェットコースターが落ちる瞬間のように不安が脳裏をかすめた。


 でも夏陽は呆れるように優しく笑って俺を見ていた。彼女の顔は明るく切なく、美しく、儚い顔だった。その顔を見て俺も調子を取り戻す。俺は無理やり斜に構えた笑みを浮かべる。


「んで、楽しい話って?」


「それくらいそっちが話題を振ってよー」


 いつもの、というほど本当は知らないのだが、いつもの元気そうな顔。


「いや、無茶振りすんなよ……えーっと……」


 なにか夏陽が食いつきそうな話題を考える。


「好きな食べ物とかあるか?」


「えー? 今聞くー?」


「うるせえなあ。気の利いたことは言えないんだよ、俺は」


「唐揚げかな」

 案外、さらっと答えるのな。

「あと玉子焼きでしょ、フレンチトーストでしょ、お寿司も美味しかった! ハンバーガーも!」


「いっぱい出てくるのな……いいことだけど」


「ケーキとか食べたかったな~、しゃぶしゃぶも行ったことないんだよね~。カラオケで喉嗄らしたり花火を直に見たりとかもしたことない……」


「そうか……」


 目の前にいる死にゆく人の願望を俺はもう叶える術を持たない。彼女はもうすぐ逝ってしまうのだから。


「来世があったら、一緒に行こうな」


「お! 来世! いいね! 来世はどんな人間なんだろう。生まれ変わったらどんな人間になるのかな」


「人間とは限らない。ショウジョウバエに転生するかも」


「うわっ、出たーKY発言。全ての女子をドン引きさせる悪魔の思考回路」


「ただの軽口だ。笑って聞き流してくれよ」


 ……って、なんて言うまでもなかったか。すでに夏陽は笑っている。


「来世は何になりたい? ついて行くよ」


「その時は、遅れてきてね。そーだね……中世ヨーロッパのお姫さまでぇ……」


「待った。時間のずれが生じているぞ。なんで前世の話になってるんだ」


 タイムパラドックスだ。宇宙の法則が乱れる。


「だって未来の話ってよく分かんないし。昔の方が想像しやすいよ」


「分かったよ。前世の話に舵を取り直すぞ。俺は幕末の人間がいい」


「ずばり坂本龍馬でしょう?」


「残念、俺は勝海舟派だ。そっちはどうせジャンヌダルクかゴディバ夫人だろ?」


 中世ヨーロッパの女傑と言ったらそれくらいしか思い浮かばない。え、中世だったか? やばいな、世界史をもう一回勉強しないと。


「う~ん……もうちょっと平和的なお姫さまがいい。なんかないの?」


「平和は歴史に残らないからなぁ……さっぱり分からん」


「平和を後世に残さないといけないのにね……皮肉……」


 ふむ……といつの間にか現し世を憂いでいる俺と夏陽だった。


「あ、そういえば……シュークリームがあるぞ」


「シュークリーム!? あの伝説の!?」


 夏陽のテンションがドッと上がる。で、伝説とは……?


 俺は冷蔵庫から残りの一個を取り出してベッドのテーブルに置く。


「すごい! すごい! 高そうなシュークリームだ! ケチのくせに!」


「一言余計だ」


「今のは遠回しに褒めたのよ。食べていいんでしょ?」


「……もちろんだ。食べて大丈夫ならだが」


「いいのいいの、火葬してくれれば証拠は残らないから」


「俺の気遣いを返せ」


 夏陽はシュークリームを手に取り、どこから口をつけようかと試行錯誤する。失敗すれば口のまわりにクリームがべっとりついてしまう。

 ちょっと高いシュークリーム。上と下にサクサクの生地があって甘いクリームをサンドしている。さっき食べたがなかなかの美味。ケーキの代わりではあるが、夏陽が満足するのも間違いなし。


「んんー! 甘くておいしい! 甘すぎないかんじが何度でも食べられるかも!」


 口の横にクリームをつけて喜ぶ夏陽を見て安堵する。お気に召したようだ。


「……もっと買ってくればよかったか」


「うーん……そうでもないかも。たぶん、今の私、食べ物とかろくに消化できないんじゃないかなあ?」


 シュークリームの生地を咀嚼しながら、夏陽は病院衣の上から腹をさする。


 腎機能の低下。肝機能の低下。筋機能の低下。消化機能の低下。低下。低下。低下。


 戻ってきた夏陽に俺は錯覚していた。夏陽は今、奇跡の上で意識を保っているのだ。


「やっぱり、もっと買ってくればよかった」


「え? まあ、たしかに美味しいけど……」


 美味しそうにシュークリームを頬張る夏陽を見て思う。これを食べ終えたらその時が来てしまうのではないかと。だったらこのまま永遠に食べ続けていてもらいたい。そうやって話し続けて笑い合いたい。


 最後の一口を口の中に放り込んだ夏陽を見て思う。

 チューブに繋がれてでもその人に生きていて欲しいと思う心理はこれに近いのかもしれない。


 どうしても譲れない人がいる。

 どうしても諦められない人がいる。

 どうしてもかけがえのない人がいる。

 どうしても、どうしても、生きていてほしいと思う人がいる。


 守りたい、助けたい一緒に居たい。強く繋がっていたい。


 今の自分ができることならなんでもして夏陽の命を延ばしたい。


「シュークリーム、美味かったか?」


「うん。美味しかったよ」


「じゃあ、毎年この日はシュークリームを買うよ」


「食べてくれる相手がいるといいね」


「……目の前にいるだろ」


 すると夏陽はしゅんとした顔をして眇める。


「もういないよ」


 悲しげに、寂しそうにそう言う。


「もう、いないの。来年の今日には私はもう……」


「そんなこと言うな。来世の話も前世の話もしたんだ。来年の話だって……」


 分かっている。分かっているけど認めたくない。受け入れたくない。


 心の整理はつけたはずなのに、この期に及んでまだざわめく。


 自分の弱さが恨めしい。


「死にたいわけじゃないんだろう?」


 夏陽はこくっと首肯する。


「死にたいわけじゃないけど、こんなふうに最期の瞬間まで咲いていたい。今はそのための準備期間なの」


「死なないでよ、夏陽。寂しいだろ」


「そう思われて、私は幸せ。大丈夫、キミはひとりじゃないから。まっすぐ目を見れば、きっと誰かが応えてくれるよ」


 口の端についたクリームを紙ナプキンで拭き取ると、夏陽は気怠そうに起こしていたベッドにもたれかかる。


「ああーなんだか眠くなってきちゃった」


 そう言うと、夏陽は俺ともう一度手を握り直した。


「寝付くまで、一緒にいて。ひとりは少し、寂しいから」


「ずっと一緒にいるよ」


 キュッと夏陽の手の力が強くなる。


「施設ではね、私だけ一人部屋だったの。それでいつもひとりで寝るの。それが少し寂しくて、でもそれが当たり前になってて、キミの家でみっちゃんと一緒に寝た時はビックリした。ああ、これが家族なんだーって安心して思えた。みっちゃんには、あとでちゃんとお礼いっておいてね。もう、私は……ね?」


「ね、じゃねぇよ……。いや、あいつもきっと、お礼言いたいと思うぞ」


 そういえば、風前寺先生がまだ来ないのはもしかしたら美空が……。


 夏陽は小さく頷き、微笑む。


 本当は人一番寂しいくせに、いつまで強がるつもりだ。


 と、思ったその時だった。


 握っていた俺の手をもう片方の手で包み込んだのだ。老衰と呼ぶにはまだ若すぎるが、それに近いはずの人間の力とは思えない。


「……ないで」


 やや俯き、声を震わせて言った。顔を見ると、またも泣き出しそうな顔をしている。


「……我慢するなよ。本当はキミの泣き顔なんて見たくないけど、キミが笑って逝けるなら、今だけでも滝のようにでも泣いてくれ」


 すると夏陽はふふっと微かな笑い声を漏らし、


「泣けないよ。号泣する力なんてないもの」


 震える声で続ける。


「私を忘れないで」


 夏陽の言葉で俺の心臓が脈打つ。彼女の想いが俺の胸中に届く。


 目の前のこの子はずっとそれを伝えたくて猛毒になろうとしていたのだ。


 だから俺は頷いて握る手に力を入れ返す。


「大丈夫だよ。忘れない。忘れられるわけがないんだ。毒島夏陽は小尾秀美郎が最初に愛した女だよ」


 俺自身、こんな簡単に短期間で人を好きになれると思っていなかった。これが恋という現象なのか、愛という感情なのか、よく分からない。分からないけど、俺にとって毒島夏陽は世界で一番大事な……。


「うれしい。うれしいよ、秀美郎くん。でも、ちょっと残念。本当はキミが最後に愛した女になりたかったから」


「なんで最後?」


「女の子はそういうふうに思うもんなの」


 そういうものかね、女の子は。握った手と手を見ながらそう思う。


「秀美郎くん」


 呼ばれて俺は夏陽の顔を再び見る。もう、泣きそうな顔はしていない。


「小尾秀美郎くんは毒島夏陽が最初で最後に愛した男だよ」


 好きな相手からとても光栄な言葉をもらった。その言葉にどうやって気持ちを返したらいいだろうか。病人にキスなんてできないし、そんなこと、夏陽も望まないだろう。


「夏陽、俺は気の利いたことなんて言えないけどさ、大胆なことなんて言えないけどさ、当たり前のことは言えるぞ。キミが好きだ。キミは俺たちの家族だ」


 夏陽は優しく目を細め、細糸を紡ぐような声で言う。


「ありがとう、私のヒーロー」


 俺たちになかよくする時間があとどれだけ残されているのだろうか。分からない。分からないけど、きっとそれはそれほどすぐではないだろう。


「夏陽、俺は生きるよ。生きるってどういうことか、難題過ぎてよく分かんないけど。もしかしたらそれは……大切な人に笑顔を見せるってことなのかもな」


 俺は子どものように泣きたかったけど、涙で夏陽の顔が見えなくなるといけないから我慢した。大好きな人が眠りにつく時をしっかり見たかった。大切な人に笑顔を見せたかった。


 夏陽はとても穏やかな顔で眠たそうにゆっくり瞼を閉じた。


 俺は夏陽の手に込められた力がギリギリまで抜けるまでずっとずっとその時間を過ごした。


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