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やさしい猛毒  作者: 鹿井緋色
なかよし時間
13/15

再起動

 八月十八日。朝。我が家にて起床する。


 窓を開け、太陽光を取り込むと、布団の中の父さんが小さく呻き声を出した。こいつはあとで強制的に起こそう。


 廊下をだんだんと鳴らし、女部屋に入る。愛しの我が妹がぐっすりと眠っていた。いや、布団にくるまっていて、寝ているのか、どんな表情をしているのかは分からない。


 俺は部屋の窓を開けて光を射し込ませ、血の繋がった妹の布団を引っぱり、顔を出させる。


 うん、愛嬌のある顔だ。写真で見た母さんにそっくりの美人になる予感。


 しかし残念なことによだれを垂らして寝ていたのでしっかりティッシュで口元を拭いてやる。


「んぁあ?」


 美空は寝ぼけた声を出して半眼で俺を睨んだ。


「おはよう、美空」


 俺なりのとびきりの笑顔で朝の挨拶をする。


「あと五年……」


 いつものように美空はダンゴムシのように丸まって布団の中に戻ろうとする。愛嬌がある分、アルマジロにたとえたほうがいいかも。ダイオウグソクムシには程遠い。


「おはよう、美空」


 もう一度布団をひっぺがし、同じように挨拶する。俺を見ろ。お前を見せろ。


「うざい」


「お……おはよう、美空大総統」


「世界五分前仮説に則ればまだアタシは実質五分しか寝ていないということになります。だからアタシに必要な睡眠時間はまだまだムニャムニャ……」


 イラッ


 ……やっぱり急には変われないか。


「いいかげん起きろ。夏陽の誕生日だぞ」


「起きる!」


 ほとんど垂直に飛び起きる美空。その頭が俺のあごをしたたか打った。無慈悲。


「お前なあ……卑怯だぞ」


「朝ごはん作りませうぞ! お兄ちゃん大佐!」


 美空が寝起きとは思えない目の輝きを放ち、俺を見る。おお……俺を見ている。


 見てもらっているということに至福の感慨を抱いた俺は美空の両肩をガシッと掴み、まっすぐ美空を見る。


「危ないからみじん切りはまだダメだぞ」


「そんなキリッとした顔で言うことですか?」


 キリッとしていたのか。自分の顔はまだ分からないものだ。


「まあ、それで……朝は何が食べたい?」


「目玉サイドアップ!」


「不穏な和製英語を作るな。目玉焼きな、分かった。玉子残ってたっけか……」


 俺は冷蔵庫の中身を確認しにキッチンに向かう。美空が後ろをてとてとついてきて、男部屋を通過する。


「お父さん元帥は起こす?」


「いや、残業続きで疲れてるだろうから朝食の時間ギリギリまで寝かせてやろう。んで、その時起きないようなら無理やり起こす」


 なぜなら父さんには車で俺たちを病院まで連れて行くという大役があるのだ。時間がきたら起きてもらわなければ困るというもの。


「ぃやーさーであります」


 ……なんの挨拶だ。


 とにかく。

 二人で揃いのエプロンをし、冷蔵庫から必要な食材を見繕う。


 玉子、ベーコン、タマネギ、ニンジン、コーン。そして各種調味料。タマネギとニンジンとコーンはオニオンスープにするために使う。


「美空、玉子焼けるか?」

「善処します」


 些か不安ではあるが、俺と美空で料理を開始した。




「ほー今日はスクランブルエッグとオニオンスープかぁー。んーでも父さん今日はパンっていう気分じゃなかったなあ」


 食卓を見た父さんの一言。料理の匂いにつれられて起きてきたのだ。虫かよ。


「黙って食え」


「ねえねえ、スクランブルエッグって黄色いはずだよね? なんで白身が残ってるんだい? あ、さてはかき混ぜ不足……」


「黙って食え」


「本当に申し訳ないと思っているであります」


 目玉焼きを作る予定がスクランブルエッグになったのは美空が玉子を割るのに失敗したのだ。


 一回目はカッコつけて片手で玉子を握り割って失敗し、スクランブルエッグにし、二回目は両手で握り割って失敗し、スクランブルエッグにし、一個だけ目玉焼きなのも変なので、最後の一個は俺が割り、かぎ混ぜてスクランブルエッグの出来上がりというわけだ。

 今度はちゃんと玉子の割り方を教えなければ。というより、どうして今まで俺は美空に教えなかったんだろう。これもまた、見せようとしなかったということか。


 朝一で強く言われてしょげた父さんは静かに食パンをもそもそとかじり始めた。

 見ていて切なくなる風景だが、こちらの失敗も汲んでほしいところ。


「ところで秀美郎大佐。お祝いにはなにをプレゼントするんだい?」


「んーそうだな……昨日の夜寝る前にちょっと考えたんだけど、ちょっと高いシュークリームにしようと思う。四人分買って病室で食べよう」


「やった! シュークリーム伯爵!」


 美空が箸を持ったまま大手を広げて喜ぶ。行儀が悪いぞ。そしてシュークリームの位が高すぎやしないか?


「そんなに嬉しいのか?」


「だってシュークリーム食べるの久しぶりなのです? しかも高いやつ! 奇跡ですよ大佐!」


 美空のテンションがうなぎ登り。

 そんな美空のとびきりの笑顔がかわいらしくて俺は彼女の頭をわしわしと撫でた。


「バイト代が入ったらまた食わせてやるよ。めちゃくちゃ甘いのをな」


 美空がたかがシュークリームにこんなに反応するなんて知らなかった。本当に俺は分かった気になっていただけで、顔という顔を見ていなかったんだ。


 いつか美空が誰かに嫁ぐまで、この笑顔を守りぬかなくては。


「んふふ~」


 ふいに正面から聞こえてくるおっさんの色気づいた声。


「なんだよ、父さん」


 正面に座る父さんの顔は母親のように柔らかく笑っている。


「秀美郎、今すごくいい顔してるよ」


「え? なにが?」


「つまりいい男になるって顔さ」


 父さんに顔を褒められた。いつも褒められ慣れているはずなのになんだか少し恥ずかしくて、とても嬉しくて、手元に鏡がないのが悔しかった。

 俺は今どんな顔しているのだろうか。


   *


 夏の陽射しは燦燦照りで病院に来た俺たちを迎えてくれた。


「やあ、今日は家族連れかい?」


 病室に入るとすでに風前寺先生が夏陽を診察していた。


「はい。父さんが休みをもらえたので、夏陽のお祝いにシュークリームを」


「羨ましいねえ。誕生日にプレゼントを贈ってもらえるなんて。僕なんて仕事に追われる毎日で恋仲の思い人ひとりできやしないよ」


 ああ、まずかった。風前寺先生の分も買っておけばよかった。いちおうお世話になっている身なのに。


「よかったら俺の分食べます?」


「遠慮しておくよ。幸せな家族団らんを邪魔できるほど、僕の心は肉厚じゃないんでね」


 やっぱり食えない人だ。


「ところで夏陽の病状についてですが……」


「聞いてくると思ったよ。……いつもどおり良くないね。全身の筋肉が衰えている。もう歩くことはできないんじゃないかな。身を起こすことも……どうだろう」


「……そうですか」


 着実にゆっくりじりじりと、夏陽の病気は進行している。今、夏陽の意識はどこにあるのだろうか。もしも病魔の進行が痛みとして知覚されているならば、きっとそれは蛇の生殺しだ。


「まあまあ、気を落とさないでおくれよ、秀美郎くん。本人の体調は本人に聞きたまえ」


「聞くってどうやって……」と言いかけ、すぐに答えに思い当たり、実行に移す。


 即ち、手を握ること。

 いつものように、今までのように、当たり前のように、これからのように手を握る。眠り続ける夏陽の無意識に握力で語りかける。「俺はここにいるよ、まあまあやってる。そっちはどうだ?」というふうに。


 夏陽のまだ熱のある右手が壊れてしまわぬように優しく手を握ると、そっと夏陽は握り返してくる。


 昨日より強いのか弱いのか、誤差の範囲すぎてよく分からない。それでも夏陽は握り返してくれた。反射的なのか意識的なのか分からないが今日も夏陽は元気そうだった。


「たぶん元気っスね」


 答えると風前寺先生はくすっと笑う。目尻にできたちょっとした皺が今までの苦労を現しているようだった。夏陽の病気と戦ってきた証がそこに浮かんでいた。


「本当かな。信じるよ。じゃ、僕は仕事がつかえてるんで。また帰り際に」


「よろしくお願いします!」


 唐突に叫んだのは父さんだった。まるで義務感に駆られたように、目を四角に角ばらせて言った。いつものおちゃらけている雰囲気はそこにはなかった。


「……病院では静かにね、先輩」


 先輩?


 風前寺先生は父さんを諫めるとそのまま病室を出ていった。


「びっくりしたなぁ……父さん。なにがどうした」


「んー……まあなあ、いわゆる大学のサークルの後輩なんだ。そういう奇縁でね」


「え!? 父さん大卒なの!?」


「驚くところそこ!?」


 大卒のわりに稼ぎが……おっとこれ以上は口に出てしまう。


「さーくるってなんのさーくるでしたか? お父さん元帥」


「難題難問研究会」


「つまらない小ボケをかまさないでくれ、父さん」


「かましてないよ。今の新河大にあるかは分からないけど、当時はあったんだよ」


「活動内容がさっぱり想像できないんだけど……」


 にしても奇縁だな。大学の後輩で自分の妻の治療をしていた医師で、義理娘の主治医をしている医師だなんて。


「活動内容はそのままだよ。父さんのいた新河大学は総合大学でね、文系、理系の両方が存在していた。……そのなかで父さんは文系だったんだけど……とにかくいろんなジャンルの専門知識を持っている学生が集まったんだ。そして難題難問を出し合い、解決方法を考えあった」


「……えー……っと、どういうことだ?」


「つまりね。医学的視点とか、言語学的視点、哲学的視点、化学的視点、工学的視点、天文学的視点、心理学的視点、宗教学的視点とか、それぞれの履修分野から難しい問題への解決方法の意見を出し合ったんだ。時に教室で、時に大広間で、時に六畳一間で、時に居酒屋で……ね」


 ああ、なんとなく分かった気がする。


「問題って例えば? 社会問題とか?」


「オールジャンルさ。それもとびきり妄想の膨らむ話。東京に大怪獣が攻めてきたらどうするとか、人工知能に支配されたら人類はどうなるのかとか、この世界が漫画の中の出来事ではないことを証明しようとか、テセウスの船について語り合ったり、前世がないことをどうやって証明するかとか、くだらないけど下着とビキニの違いなんかを真剣に話し合ったりね。あの時は確か風前寺くんが医学、父さんが心理学、そして母さんが言語学だったね」


 ほう。母さんと父さんは大学時代からの付き合いだったのか。感慨深いな。


「楽しかったよ。なにせ正解がないからね。絶対というものもない。だからこそ熱中できたんだね。毎週出される数学の方程式を解くだけの集まりならあんなに楽しくなかった」


 父さんは目を輝かせたり暗めたりと忙しく表情を変えて話す。その脳裏にはきっと在りし日の母さんの姿が蘇っているのだろう。その顔にできた皺は風前寺先生のそれとは一味違い、正真正銘父さんの顔だった。


 俺はなんてバカなことを考えていたんだ。父さんは母さんを今でも愛している。浮気なんてする余地もないくらい父さんの記憶には母さんが焼き付いているのだ。父さんも母さんに毒されているのだ。


 俺や夏陽の運命にもきっと、絶対なんてものはないのだ。


「それでね、中でも一番盛り上がったのがやっぱり漫画かな。シュミレーテッドリアリティっていうのかな? ようするに秀美郎大佐。お前がこの物語の主人公で、美空大総統が妹役。父さんが父さん役の存在なのではないかってことだね。水槽の中の脳は分かるかい? つまりこの世界が神様よりも上の存在の作者に作られた仮初めにすぎないのかも……」


「もういいよ。話長い。美空、握ってやってくれ」


「あいあいさー」


 美空がビシッと敬礼し、俺と交代で夏陽の手を握る。彼女の温度をできるだけ多くの人に残したい。


「秀美郎大佐のそういうつれないところ、母さんに似てきたなぁ……」


 父さんの話は長くなりそうだからいいや。水槽の中の脳の話は聞いたことあるし。


 つまり、俺たちは水槽に入れられた剥き出しの脳に電極を挿して刺激を与えられ、仮初めの感覚を与えられているのにすぎないのではないか、という話である。


 その是非を証明する絶対的な方法などないが、ひとつだけ分かることがある。


「夏陽、その手の感触は仮初めなんかじゃないんだぞ」


「そうです、なっちゃん。アタシたちがここにいます。ここで手を握っております」


 この物語の主人公が俺ならば、それは語り手が俺なだけ。語り部が美空なら主人公は美空だし、語り部が父さんなら主人公は父さんだ。だから夏陽が主人公の物語もあるはず。俺に語りきれなかった彼女だけの物語が、きっとある。


 作者の思い通りになんてならないこともある。聞いた話によると、キャラクターは勝手に動き出すものらしい。




 夏陽の見舞いに来てからすでに四時間が経った。途中で売店にて買った菓子パンとシュークリームで昼食を済ませたものの、ほとんど四時間ずっと病室に籠もっていた。三人で夏陽を囲み、学校について話し、文理選択について話し、将来の夢について話し、父さんの仕事の愚痴を聞いたりした。


 親子の絆ゆえなのか、時間はするすると過ぎていき、もう太陽は真昼のピークを越していた。


「じゃあ、父さん先生と手続きの話をしてくるから」


 父さんがニッと笑って俺と美空に言う。


「今から? それ今日じゃなくても……」


「まあまあ、そう言わずに。秀美郎大佐」


 そう言うと、父さんはごそごそと自分の鞄の中身をまさぐって二つの便箋を取り出し、俺と美空に手渡した。「秀美郎へ」と「美空へ」という宛て名が書かれている。


「はい、二人にプレゼント」


「ええ……父さんから手紙のプレゼントかよ……」


 口で言えばいいのに。俺たちは別に口で本音を語り合えない仲でもないのに。


「ふっふっふ……差出人をちゃんと見るのだよ。初歩的なことさ」


 父さんが名探偵のようにもったいぶった言い方をするので俺はチラッと便箋の裏を見た。


『小尾美会子より』


 ……美会子?


「美会子って……母さん?」


 忘れかけていた名前。小尾美会子。俺たちの母さん。美空を産んでこの世を去ることになった人。


 パッと美空を見ると、彼女の顔色が少し曇っていた。


「その通り。実は生前に母さんが書いたものでね。いつ渡そうか悩んだんだけど、やっぱり今かなと思って。あ、もちろん中身は読んでないよ」


 亡き母からの手紙……と言えば感動的だが、母親の性格をまったく知らない俺たちにはどこか不安なところがあった。


 どういう性格でどういう考え方をしているのかまったく知らない。どんなことを手紙にしたためているのだろう。


「この手紙ってもしかして、書いたタイミングは……」


 俺が酷とは知っていながら父さんに訊ねると、少し表情を落として答える。


「死ぬ直前だよ」


「……!」


 やっぱりこれは母さんからの遺書。美空を産んで弱った体で書いたもの。


 命を縮めて書いたもの。


「……ありがとう、父さん。読ませてもらうよ」


「じゃあ、ここは若い三人に任せることにするよ」


 父さんはそう言い残して病室を出ていった。


 俺と美空は目を合わせ、頷きあって母さんからの手紙を開封した。

 その内容が仮初めなんかじゃないと祈って。


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