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やさしい猛毒  作者: 鹿井緋色
なかよし時間
12/15

 病室の中は冷房が効いていて丸イスに座るだけなら何時間でも居続けられるくらいだった。

 八月六日。正午。手紙を読んだ次の日。目が覚めた時用にケーキを買ってきたが、もう二時間ほど冷蔵庫に眠っている。


 目の前に横たわる女子の寝顔を見てただ単にキレイだな、と思う。


 俺が中学生の時に少しだけお節介を焼いた相手、毒島夏陽はそこで穏やかに眠る。

 穏やかに眠るという表現は、もしかしたら穏やかに聞こえないかもしれない。正確には昏迷状態で眠っているのだ。


 今朝、美空が教えてくれた。昏迷状態は昏睡状態とは違い少しだけ外的刺激に反応を示すようだ。

 現にキュッと彼女の手を握ると、かすかに彼女は握り返してくる。その反応がどれほど俺の救いだったか。死んでいないという事実が俺の心をどれほど落ち着かせてくれたか。


 窓の外を眺めると、今日はあいにくの雨天。真夏の隙間を縫うように静かに雨が降っている。

 弱いながらも雨が降っているというのに、蝉の声は健在で、少しだけ罪悪感を覚える。

 あの蝉たちはもうじき死ぬ。まるで死ぬために産まれてきたように鳴いて、鳴いて、死んでいく。

 でもそれは誰だって同じ……。なにかを遺すために生きて死ぬ。


 コンコンッと無機質なノック音が聞こえてきた。


「食事、とらないと倒れちゃいますよ?」


 風前寺先生がカップ麺を二つ持って現れたのだ。




 ずずっずずっと麺をすする音が鳴る。食欲に負けて夏陽が起き上がるのではないかと思ったがどうにもそういうふうにはできていなかった。


「病室でカップ麺なんて食っていいんスか?」


「バレたら減給だね。気をつけてくれたまえ」


「……そっスか」


 食えない医者だな。


「秀美郎くんはラーメンだと何味が好きかな?」


「酸辣湯麺っスかね」


「もうちょっとメジャーなラーメンを出そうよ」


 酸辣湯麺だって十分メジャーだと思うが。最近だとコンビニでも売っているのに。


「好きなラーメンで性格診断でもできるんスか?」


「さてね。あいにく僕は心理学のプロじゃないからそういうのは分からないさ。……ただ、夏陽くんはラーメン屋さんに行ったことがないんだって」


「ラーメン屋に?」


「そう。規則の厳しい孤児院でさ……いや、児童養護施設か。おまけに助成金もろくに出ないから外食した経験なんてほとんどないらしい」


「……」


 俺はカップの中の薄いチャーシューを見つめて黙る。もしかしたらあの日のハンバーガー屋も人生初だったかもしれない。あの日の温泉も人生初だったもしれない。そんな時に俺は気の利かないセリフを吐いてしまった。


「血の繋がった家族がいなくて、貧乏で不治の病っスか」


 なんというか、自分が恥ずかしくなる。恵まれた自分という存在がぬくぬくと不幸を気取っていたことを。


「ここで夏陽を可哀想だと思ったら、先生はどう思います?」


「……傲慢なエゴイストだと思うよ。この子を勝手に可哀想だと決めつけて同情するいい人ぶった偽善者ってところかな」


 偽善者か。たいていの人間が嫌う言葉だ。いい人ぶったうすら寒い下心のある人間。

 そういう人間が俺は嫌いだった。

 しかしそれと同じくらい、善人を偽善者と呼ぶ人間も嫌いだった。


「俺は善人なのか、偽善者なのか……」


「知ったことじゃないね。でも、夏陽くんにとってキミは、そのどっちでもなく、恩人だったんじゃないかな」


 恩人、か。俺が夏陽に与えたものなんて特にないように思えるが。いや、……ちょっとまて。


「恩人だった? だったってなんスか。それはちょっと縁起が……」


「夏陽くんは明日から緩和ケア病棟に移ることになったよ」


 縁起が悪い。まるでもう夏陽のなにかになれなくなるのではないだろうか。と言おうとした矢先だった。


「緩和ケア病棟……?」


「ターミナルケアって言ったら想像しやすいかな?」


 ターミナル……末端、終点、終着駅……終末。


「ホスピスって学校で習ったかな? 尊厳死は? 終末医療は? ペインクリニックは?」

「治る見込みのない人を……穏やかに死へ……」


 ハッとして夏陽を見た。しかし夏陽は終わりなんてないかのように穏やかに目を閉じている。


 明日来れば「あ、来たんだ」なんて言いそうなくらい。


「外目では分からないかもしれなけれど、この子の体は限界なんだ。少しでもキミと一緒にいるために、延命治療を拒み続けてきた。料理も自由に作れなかっただろうし、上り坂を進むのもつらかっただろう」


 そこで俺の脳裏に失敗したフレンチトーストや蛍を見た時の息切れがよぎる。


「僕は、治療を勧めたんだけどね」


「それじゃあまるで……俺が死なせたみたいな……」


「違う。自惚れるなよ。キミがこの子を生かしたんだ。夏陽くんに生きていたいと、燃え尽きるまで燃えていたいと思わせたのは、キミだよ。……じゃなかったらこの子はどこかで自殺してる」


 自殺という単語にぴくりと肩がわななく。手に持っていた箸を落としてしまった。

 しかし俺は風前寺先生から目を離せなかった。その人は真剣なまなざしで真っ直ぐ俺を見据えていたのだ。


「キミがこの子に、生き方を……奇跡を与えたんだ」


 風前寺先生はカップ麺のスープを飲み干しテーブルに置く。


「片づけを頼めるかな?」


「……はい」


「ありがとう。誇っていいと思うよ。キミの毒はとてもやさしかった」


 そう言い残し、風前寺先生は四〇一号室を去った。


 俺は悄然と肩を落としてスープの残ったカップ麺をテーブルに置く。


 そして夏陽の手を握る。すると、かすかに力が入って握り返してくる。それでも夏陽は何十分時間が経とうが目を覚ますことはなかった。


『立てばスズラン、座ればダチュラ、歩く姿はヒガンバナ! かくしてその正体はっ……私でした!』


『私はキミの猛毒、です!』


『私と友だちになっても、きっとメリットないと思うよ。私は猛毒だから』


 今でも頭の中で再生できるあの意味不明な出会い。たった一週間程度しか経っていないあの夏祭り。

 そういえば夏陽は花火大会に行ったことはあるのかな。生で見る新河花火大会はとても盛大なのだ。映画館は? カラオケは? 水族館は? それから……。


「ダメだな、俺は……結局なんにも与えてなんかいない。夏陽、お前の……キミのことなんて、なんにも見てなかった。キミの本当の姿なんてなにも……」


 それに比べて夏陽が俺に与えてくれたものといえば、優しさや温もり、そして視点と支点。


 夏陽は俺に優しく接してくれた。まるで本当の姉のように。


 夏陽は俺に繋いだ手から温もりをくれた。心の底まで温まるような。


 夏陽は俺に気づかせてくれた。今まで俺が何も見ようとしていなかったこと。


 夏陽は俺をずっと見ていてくれた。ストーカーのように、保護者のように。ずっと俺となかよくする時間を待っていた。


 俺は自分を思い知り、少し落ち込む。自分のちっぽけさが。自分の情けなさが。甲斐性のなさが恨めしい。たった一週間と少しの出来事だったのに、まるで青春をひと巡りしたかのような強く淡い感覚だ。

燻っていた青春を、燃えるような太陽の陽光に染められたように、静かに心が橙色に色づいている。


 夏の陽射しは朱みを増して、じきに沈もうとしている。


   *


 八月十七日。


 夏陽はそれから数日ずっと目覚めなかった。

 だから俺は毎日数時間でも緩和ケア病棟にある夏陽の病室に通った。父さんは無理やり残業を増やして夏陽の入院費を稼いだ。美空は俺から料理を習い始め、今までよりも積極的に家事をし、夜には夏休みの宿題をタダで教えてくれるようになった。生まれ変わった店長はバイトの時給を夏休みの間だけの条件で少し上げてくれた。ポイントカードの導入も自分で勉強して検討している途中らしい。


 全て、全て、全て、俺が少しでも長く夏陽の隣にいられるようにだ。夏陽が死ぬほど望んだとおり、夏陽の隣に俺はいる。


「キミも懲りない男だね」


「もう誰も夏陽を止められないんでしょう? 来ないわけにはいかない」


「……そうだね。夏陽くんは今日も異常なく、正常に体が衰え続けている」


 真綿で首を絞めるように、か。


「残念だけどこのまま呼吸器系の機能が停止したら……」


 あの日以降目覚めることなく、そのまま……。


「夏陽はまた明日って言ったんです。俺はいつまでも明日を待ちます」


 たとえ何億何千万個の嘘のひとつでも夏陽の嘘なら騙されてもいい。


 すると風前寺先生はくっと眉をひそめた。


「まるでデジャデュだ」


「は? なんのことっスか?」


「十五年前のことを覚えているかい?」


 十五年前ってことはその時俺はまだ赤ん坊だ。


「憶えてるわけないでしょう」


「研修医だったんだ。そしてキミのお母さんの担当医の補佐をしていた」


「母さんの?」


「夏陽くんと同じような病気でね、出産は諦めろと言われたのに美空ちゃんを産んで帰らぬ人となってしまった。あの人も、キミの存在に感謝していた。絶対キミに妹をつくるんだって、そうやって美空ちゃんを産んだんだよ。流産になって共倒れの可能性もあったのに。本当に親っていうのは猛毒だよ。いなくなってからじゃないと大切さが分からない」


「先生のご両親は……?」


「脳卒中と悪性の腫瘍で両方ね。大金もらって医者になったのに、治したい相手がもういないなんて、恋しくて恋しくて今でもあの優しさに毒されている気分さ」


 風前寺先生は遠い目をして窓の外を眺め、黙り込んだ。病室には脈拍を図る電子音だけが寂しく響いている。


 恋しくて恋しくて毒される。


 美空も夏陽も、会ったことのない両親に心惹かれているのだろうか。

 夏陽は自分を捨てた両親が恋しかったのだろうか。


 いや、憧れか。恋人をつくったことがない人間が恋人に憧れるように、スーパーヒーローの活躍をテレビで見ただけの人間がスーパーヒーローに憧れるように、夏陽も育まれたことのない家庭に憧れていた。


 夏の日差しのように情熱的な愛情を欲していたんだ。会いたいと望んだんだ。それを彼女は猛毒と呼んだ。なくすと唐突に苦しくなるから。


 俺はどうだ? 誰かに毒されたりしたか?


 自分の人生を、自分の心を侵すほどの愛情を誰かに覚えただろうか。誰かに強く恋焦がれたりしただろうか。自分の全人生を捧げてもいいと思えるような相手が……。


「俺にはそんな相手はいない。妹はそういう意味で母親に毒されているみたいっスけど、俺にはいない。……もう高校一年生なんスけどね」


 風前寺先生はフッと笑う。


「まだ高校一年生じゃないか。運命の相手なんて大学出ても見つからないものだよ」


「ははっ」


 俺は今、どんな癖を出しただろうか。自分のことが一番見えない。


 見えない?


 ああ、なるほど。自分は自分が見えないから、見てもらいたいと思うんだ。


 家族に。

 好きな人に。

 愛する人に。

 大切な人に。

 かけがえのない人に。


「先生、ひとりいます。俺を見てもらいたい人がひとり。かけがえのない人が、ひとり」


 こんなに近くにいる人にようやく気づけた。


「ははっ、やっぱり毒されているじゃあないか」


「でもこの毒は猛毒と呼ぶには相応しくない。白くて細くて、繊細で可憐で、溌剌で洒脱で、蛍のようにとても美しくて、蝉のようにとても儚げで……」


 そこまで言うと風前寺先生は手をつき出して俺を制す。


「もういいよ。キミの言葉を聞いていても仕方がない。必要なのは毒の強さじゃあなくて、その毒をどれだけ大切にできるかだよ」


「どれだけ大切に……」


「風前寺先生」


 いつの間にか俺たちの病室に入って来ていた看護士に彼は呼ばれた。


「悪いね。仕事が入った。その話は次回聞かせてもらうよ。次はいつ来る?」


「もちろん、明日。夏陽の誕生日っス」


 互いの誕生日を祝い合おうと夏陽と約束したのだ。来ない理由がない。


 すると風前寺先生は眩しそうに目を眇めて俺を見つめた。


「羨ましいね。若いっていうのは……それだけで奇跡を起こせるんだから」


「奇跡……」


「で? 要件は?」


 俺の復唱をスルーして風前寺先生は看護士と話をして病室をあとにした。



 その後、数時間ほど本を読んで過ごした。たまに集中が切れると夏陽の手を取り、脈があるのを確認して、全神経を集中させて握る。すると夏陽はかすかな力で握り返してくれる。その繊細な握力と、可憐な寝顔がなによりも救いだった。


 夏陽はまだ生きている。

 それをしっかり教えてくれるのだ。




「お兄ちゃん。おつとめご苦労様です」


 夕方になると病室に美空が迎えに来た。


「おお、もうそんな時間か」


「掃除、洗濯。責任もって果たしてきました」


 美空がシャキッと敬礼するので俺は優しくその頭を撫でた。


「ごくろーさん。……それは?」


「昼ごろに八組の担任の先生から誕生日プレゼントにと訪ねてきたのです」


 美空が持っていたのは花束だった。夏の匂いのする真っ白で星形の花。しかし見た目はどちらかというと、花束になりづらい山の隙間に生えそうな形をしている。


「頑張って取り寄せたエーデルワイスだそうです」


「これがか」


 エーデルワイスという名前はよく聞いていた。曲名にもなっていて、高貴な花というイメージが強い。たしか山の花だったか。


「八月十八日の誕生花で、花言葉は『尊い思い出』とのこと」


「おーカッコいい花言葉だな。俺の誕生花はなんなんだろう……」


「そんなことよりさっさと帰ってご飯」


 俺がケータイを取り出して調べようとしたらぐいっと美空が手を引く。


「分かった分かった。急かすなよ。花活けたらスーパー行くか。なに食いたい?」


「牛肉!」


 目を輝かせて言う美空。


「料理名を言いなさい」


 エーデルワイスをなんとかそれっぽく花瓶に活けると美空が夏陽の手を握る。


「それじゃあ、なっちゃん。また明日」

「夏陽、また明日」


 俺と美空はそう言って病院をあとにしてスーパーでちょっと買い物をして帰宅した。




 今晩のメインディッシュは牛肉のすき焼き風炒め。美空にも少しだけ手伝ってもらった。


「これで完成」


「おお、安い牛肉と野菜をすき焼きの素で炒めただけの料理が輝いているっ!」


「……安いは余計だ。前夜祭だから特別な」


 これでも断腸の思いで買った国内産の牛肉だ。値引きシールが貼られるまでこそこそ隠れてはりついていたのだ。


「いただきます」

「いただきます」


 今日も夕飯は二人だけ。父さんは今日も残業を入れているのだろう。きっと夜遅くに帰ってきて、泥のように眠るのだ。今日の夕飯は美空に食べつくされないようにしっかり父さんの分も確保している。記念日の料理くらいそうしてもいいだろう。


「ところでお兄ちゃん」


「ん?」


「どうしてアタシやお父さんを責めないの?」


「……は?」


 おもわず箸を持つ手が止まった。


「アタシとお父さんでお兄ちゃんを騙してたんだよ? なっちゃんが……毒島夏陽さんが血の繋がった家族だって」


「なんだ、そんなことか」


「そんなことじゃないよ。アタシはお兄ちゃんがどうしてそれを怒らなかったのか疑問なのです。もしかしたら……」


「偽の家族を演じずに延命治療をしておけば、もしかしたら夏陽はこんな状態にならなかったかって? 美空が夏陽を唆したんじゃないかって?」


 美空は首を縦に振る。


「逆だよ。俺は美空に感謝してる。美空が俺と夏陽を引き合わせてくれたから、俺は人の顔、ちゃんと見られるようになった。俺、けっこう明るくなってないか? 気のせいかな……って、なんで泣くんだよ」


 俺が言い終わる前に美空は静かに大粒の涙を流していた。


「アタシはなっちゃんと友だちだったからあの頼みに乗ったの。でもお父さんはその頼みに乗ると思わなかった。ウチは貧乏だし、狭いし、お父さんは唯一、家族を失う悲しみを知っているから。お母さんが……アタシの代わりに死んだお母さんが……アタシが死なせたお母さんが重なると思ったから……」


「まて、美空。それは違う。母さんはお前に希望を託したんだ。美空が死なせたんじゃない。母さんは美空に可能性を感じていたんだろ。だから産んだんだろ? そう思わないか?」


 俺の声が届いていないのか、美空はしとしとしとと涙をこぼしてうつむいた。


「もう誰も……もう誰も死なせたくないよ……」


 美空の本音が聞こえた。自分たちが夏陽の死期を急がせてしまったのだという罪悪感。


 それはひとえに母さんを死なせてしまったことにトラウマがあるからだ。


「美空、夏陽と一緒にいて楽しかったか?」


 美空はこくりと首肯する。


「夏陽がいなくなったら寂しいか?」


 美空はまたこくりと応える。


「夏陽のこと好きか?」


 もう一度、美空はこくりと頷く。


 それを見届けて俺は美空のそばに近寄り、美空を抱きしめた。


「なに……? お兄ちゃん」


「栄養補給だよ。お前がいつもやってるやつ。美空が優しい人間に育ってくれて、お兄ちゃんは嬉しい。すげえ嬉しい。だから……泣くのはもうちょっと後にしような」


「……うん」


 五分ほどそのままでいて、美空は涙をぬぐい、ティッシュで鼻をかんで食事を再開した。


 涙腺が締めつけられるように痛かったが、俺たちが泣くのはまだ早い。

まだ夏陽は戦っているのだから。


    *


 かぽんと音が鳴ったかは分からないが、美空は風呂に入っている。


 食事が終わってすぐに美空に勧めたのだ。落ち着かせるためと、自分が落ち着くために。


 俺は風呂上りの美空にかける言葉を探しながら夕食の片づけをしていた。


 美空の心のしこりが今日で取れたわけではないと思うが、とりあえず落ち着いて明日を迎えてもらいたい。大切な記念日なのだから。


「分かってる……」


 誰も口にしないが分かっている。口にしたら本当になってしまいそうで怖いから皆で口を鎖すのだ。素人の俺にも分かる。


 夏陽はもうすぐ死ぬ。


 それが明日なのか来週なのか来月なのかは分からない。ただ、それまでは泣いてはいけない。それまでは別れの言葉は言ってはいけない。病床で戦う夏陽に失礼だと単純に思うからだ。


 だから……。


「やっほー秀美郎大佐」


「うおっ!?」


 玄関先からぬるっと現れたのは父さんだった。心底驚く。


「なにしに来た!?」


「やだなあ……帰宅だよ。職場に帰れって言われたのだよ。過労死されたら困るって」


「なんだ……仕事サボったのかと思った……」


「心外だなーこれでも俺、大人だからね?」


「あっそう。ありがとさん。飯できてるぞーチンして食え」


 自分でも心底驚く。もう通常運転になっている。もしかしたら父さんのペースに乗せられているのだろうか。


「うおっ美味そう。絶対安い肉なのに料理が輝いているっ!」


 ……親子め。


 俺は電子レンジに料理を入れる父さんを横目で睨みながらオカビアンカにあげるつもりだった白飯を炊飯器からよそう。


「そういえば父さん。なんで夏陽を受け入れたんだ? 美空が疑問に思ってたぞ。けっこう真剣に」


「んー? 夏陽ちゃん?」


 ふっと父さんの方を見ると、電子レンジの前でウキウキわいわいと小躍りするおっさんが。


「真剣にっつってんだろ」


「痛い、痛い。言葉が痛いよ。まあねえ……嬉しかったんだよ。父さんは」


「嬉しかった?」


「それまでの美空の世界は閉じてたからなぁ~父さんと秀美郎と美空しかいなかった。そんな美空が赤の他人のために外の世界を見始めたんだーって嬉しかったのさ。しかも一緒に秀美郎まで外の世界に連れて行ってくれるかもって思ったんだから」


「外の世界?」


「そう。人の本質的な部分としての顔にたとえたほうがいいかな? 自分の顔を見せるようになったって感じ~。相手の顔を見るには自分の顔を相手に見せる必要があるからな~」


 ことんと俺はしゃもじを落とした。静かに感心する。


 なるほど。相手の顔を見るには自分の顔を相手に見せる必要がある、か。


「父さんはたまにいいことを言うよな」


「これでも人の親だからね!」


 父さんはグッとサムズアップする。ちょうどレンジが温め終わって父さんは夕食を取り始めた。美味しそうに安い牛肉を頬張っている。


 そうなんだ。


 俺は人の顔を見る以前に、自分の顔を誰にも見せてやいなかったのだ。そんな俺を夏陽は一生懸命見ようとしてくれていたんだ。


 これからはもっといろんな人の顔を見よう。

 これからはもっといろんな世界の顔を見よう。

 これからはもっといろんな人に自分の顔を見てもらおう。


 そういうふうに努力しよう。


 夏の陽射しは沈み、次の日の出を待っている。


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