やさしくない毒
『ビービービービー』
目覚ましアプリの音が鳴る。俺に起きろと言っているのだ。
七月終盤土曜日。美空の誕生日から数日。今日は美空と夏陽のリクエストで海に行く予定が入っているのだった。
夏陽と家族になって数日。まだ日は浅いが、確実に家族になったのだと感じる。
ケータイの時計を見ると午前五時半。何故こんなに早起きなのかというと、海で食べる弁当を用意するためだ。海の店で買ってもいいんだが、あの手の店は観光地的な商法で営業しているのでもったいないと感じてしまう。俺が作った方が美味いはず。
「お……?」
ケータイを操作して待ち受け画面を見、少しだけ体が固まる。俺と美空と夏陽の写真が設定されていたのだ。俺が布団で眠っていてその両脇に二人がいる。いつのまに、こんな画像を撮っていたのだろうか。
……まあ、昨夜だろう。俺のケータイの暗証番号を突破した美空がいじって遊んだのだ。あんにゃろめ。かわいいから消さないように保護しておこう。
「……さて、作るか」
他の三人はまだ寝入っているのかやけに静か。俺もまだ眠いので行きの車中で寝ることにしよう。あー眠い。眠すぎて眠いよー。
俺がトントンザクザクと包丁を使っている間も三人の起きる気配はない。そこはかとなくイライラするのは全国の主婦の方々も同じなのだろうか。
ふと、スキー宿でのことを思い出す。店長は自分の安いプライドを守るために自分の家族をろくに見ていなかった。その結果、本人は知らなかったようだが別居という形に行き着いた。
俺はクラスメイトたちをどう見ているだろうか。
教室で、体育館で、生徒玄関で、グラウンドで楽しそうにくっちゃべっているあの連中はまがい物の友情なのだろうか。俺は色眼鏡でそんなふうに視認しているだけで、本当は、本物の絆なのだろうか。
「……」
よく思い出せない。
クラスメイトの顔も名前も声も性格も、うまく思い出せない。それはもしかしたら見る価値がないからと見ないようにしていたのでは? 安いプライドがそこにあるのでは? 俺は真実を見透かしたつもりで なにも見ていなかったのでは? 見えた気になっていたから見ていなかったのでは?
夏陽が店長を叱った時に流した涙は一体……。
「こんな感じでいいか」
おにぎり、サンドイッチ、唐揚げ、玉子焼き、ウィンナー、ミニコロッケ、ホウレンソウのソテー、エトセトラ。
少しだけ悶々としながらも料理の手はするする止まらずに伸びる。
昨日、三人から上がったリクエストには十分応えたラインナップになっている。これで三人とも文句は言うまい。
「もう少し甘めの玉子焼きがいいなす」
ふいに横から声が聞こえてギョッとなるがすぐに安心。お化けではなくて美空だった。
「あんまり甘くし過ぎるとお前たちの体が心配だ」
美空の誕生日に『にーが~』であんな杯盤狼籍を働いた二人がぽっちゃりさんになるのは見過ごせない親心。親じゃないけど。
「っていうか、つまみ食いするな。昼食が減るぞ」
「はっ! そうだった!」
「……今気づいたのかよ。まあ、弁当の残り物が朝飯だから問題ないけどな」
本当に勉強以外には頭が回らないんだな。だからかわいいんだが。これで四字熟語辞典もビックリな語彙力で食レぽされたら、兄としての俺の立つ瀬がない。
「ついでだ。唐揚げも味見しとけ」
寝癖つきっぱなしで重そうに瞼を開けている美空の口に揚げたての唐揚げを放り込む。さすがに目に押し付けたりはしない。押すな押すな的な振りがあったわけでもないし。
「うわぁ、口に入りきらない……」
「どうだ?」
二度揚げでカラッと揚げた自信作。少しだけ調理用カレー粉を混ぜたカレー風味になっている。さあ、どうくる?
「うーん……甘みが足りない、かも?」
「唐揚げに甘みを求めるなよ。甘酢あんかけにでもしろってか?」
あんまりしっとりしたランナップにしたら炎天下の下で腐っ……発酵しそうで怖いんだよな。
「とりあえずアタシはゲームしてるので朝ご飯になったら呼んでください」
「……掃除係なの忘れてないよね? 美空さん?」
我が妹、小尾美空はゲームのしすぎで頭がよくなったと言えるほどゲームばかりしている。良い子は真似できないね。
「ういーす、二人とも。おはよ~。父さんですよ~。お、唐揚げだ。いただき~」
「じゃあ父さんの朝食はそれだけということで」
「酷い! 稼ぎ頭の胃袋をなんだと思っているんだい!」
「俺は父さんが札束ビンタを食らわせてくれる日を待ち遠しくしているんだがな……?」
父さんは片手でつまんだ唐揚げ一個を申し訳なさそうな目で見つめて皿に戻した。不況のこのご時勢にしかたないことだが学生の俺が稼ぐにも限界があるのだ。
「いいもん、いいもん! 父さんは車のメンテナンスとかしてくるもん! か、勘違いしないでよね! 別に秀美郎のためにするんじゃないんだから!」
父さんは拗ねて家の外へ出ていった。
「どっからどう見てもかわいくねえな……あのおっさん」
弁当のおかずが完成したら今度は朝食用の味噌汁を作る。我が家の味噌汁は男の料理なだけあって雑だ。とりあえずぶつ切りにした野菜類を煮込んでそこに味噌とインスタントの顆粒出汁を入れるだけ。特に文句も出ないのでこのスタイルを貫いている。あいつら味噌汁の味ちゃんと分かっているのかな……?
とりあえず味噌汁完成。あとは盛り付けるだけだ。
「美空ー、朝食もうすぐできるから夏陽を起こしてきてくれー」
「……」
返事がない。
「美空?」
様子を見ると単純に眠っていた。おっとりとした寝顔がゆっくりと息を吸ったり吐いたりしている。
「二度寝かよ」
しかたなく俺はコンロの火を止めて夏陽を起こし女部屋に向かうことにした。
2LDKの小尾家の最奥の女の園。つまり大奥である。別に男の俺と父さんが入っちゃいけないわけではないけれど、気を遣ってあまり入らないようにしている。
「夏陽ー朝飯だー」
女部屋に入ると、六畳の狭い部屋に二つの布団が並べられており、そのひとつで夏陽が寝入っていた。
夏陽の寝顔を見て思わずドキッとする。慣れた気になっていたが、まだ家族になって一週間も経っていないからか、彼女の寝顔を見て血の繋がった家族のように思えないのだ。
妙に色香のある彼女の寝顔に見とれてしまうのは、姉が美人なら弟としては当たり前の反応なのだろうか。
「夏陽、朝だぞ。メシ食って海行くぞ」
今まで美空を起こしてきたように強引に布団をガバッと開く気にならず、肩を揺すって起こそうとする。よく見たら肩口がざっくりと開いたキャミソール姿だった。目のやり場に困る。
「起きろよ、夏陽。海行きたかったんだろ?」
やや抵抗感を覚えながら揺するために夏陽の肩に触れる。そこで気づいた。夏陽の体が熱い。
「夏陽?」
「ん……? しゅーくりーむ?」
「いや、俺の名前は秀美郎だ」
重症?
額に手を当てると確かに熱い。確実に平熱以上はある。
「からだ……だるい」
よわよわしく気だるそうに夏陽は言う。体調が悪いのか寝ぼけているのか。
「風邪か? 土曜日だから医者はやってるだろうけど……」
「大丈夫。たぶん生理痛だから」
「男に向かって言うな。反応に困るだろ……」
なんとか半身を起こした夏陽だったが、しなびた白菜のように顔が蒼白く元気がない。
「お兄ちゃん。ご飯まだー? お腹空いて眠いでしー」
夏陽をどう看病したらいいのか分からずにいたところにタイミングよく美空が登場。
「美空、ちょうどいい。夏陽の体調が悪いみたいなんだ。ちょっと見てやってくれ」
「なぬ。夏陽長官の体調が?」
俺は夏陽を美空に任せ、父さんのいるアパートの外へ出た。
おそらく発熱性の風邪だから今日の海水浴はやめたほうがいいという話を父さんにしたら、父さんは表情を曇らせて俺に他の症状を聞いてきた。
俺も医者ではないので詳しく診ていないが、診たままをたどたどしく報告した。そして報告している途中だった。
家に救急車がやってきたのは。
*
八月四日。お盆を前にした一週間の夏期講習。集められたのは高校一年生にして勉学にいそしもうとする真面目な生徒たち約四〇名。新河高校一年生約三六〇人の中の四〇人。
遊び盛りの高校一年生だ。自主参加にしては上出来の出席率だろう。もちろん小尾兄妹は二人とも参加だ。受講料タダの塾だと思えばいい。有名私塾のようなやり方ではないだろうけど。
教わる教科は現代文、古典、英語、数学の三教科四科目。午前フルで受講し、午後は放課になる。そこから部活に行く生徒もいれば、一般的な塾に行く生徒もいるし、バイトに行く生徒もいれば夏休みらしく遊びに行く生徒もいる。
そんな彼らを尻目に俺と美空は……。
「小尾、毒島の体調はどうだ?」
数学担当の女教師であり美空と夏陽の担任に声をかけられた。
毒島、と言われて一瞬固まるが、忘れかけていた。夏陽の旧姓は毒島だ。学校では毒島で通すらしい。たしかに今から名字を変えるといろいろと混乱が起きるだろう。
「ただの検査入院です。これから見舞いに行ってくるんで明日詳しく報告します」
夏陽は検査入院することになった。あの朝、美空は救急車を呼び夏陽は新河総合病院に搬送された。ただの夏風邪で大袈裟な、と思っていたらあれよあれよと話が進み、検査入院に行き着いたのだ。俺自身、夏陽の体調が良好なのか不調なのかよく分かっていない。
「そうか。無理をするなと伝えておいてくれ。あの子は……必死になりすぎた」
「必死?」
「なんでもない。夏休み明けのテストではぬかるなよ。優秀な妹がいるんだ。兄が不出来では面目が立たない」
そう言って数学教師は職員室へ去っていった。
そういえば、夏休み明けに実力テストがあるんだった。夏陽は勉強大丈夫だろうか。家で宿題をしている姿はみなかったけれど、美空と同じ進学クラスにいるだけあって地頭はいいのかもしれない。
その美空に声をかけようとした。なにせ受講生が四〇人しかいないのでひと学年合同で大講義室を使って講義をするのだ。八組だから後ろの方の席にいるはず。
ぐるっと振り返ると帰宅の準備をする生徒たち。
知らない顔、知らない顔、知らない顔……知らない顔ばかり。
いや、知らないというのはよく知らないという意味であり、顔だけなら見たことがある。
あまり目立たないクラスメイトの顔もあった。しかしやはり知らない顔なのだ。
俺は本当に皆の顔をまともに見ていなかったのだと、軽くショックを受けた。
視線を逸らして美空を見つけると、友だちらしき女子生徒たちと談笑していた。その中には明らかに留学生のブロンド外国人が。なるほど嘘はついていなかったのか。
となると隣が留年生でその隣が病人か? 元気そうだけど。
ああいうイロモノのメンツと仲良くできるというのはなるほど美空は俺と違ってちゃんと人の顔を内側までじっくりと見ているのだ。またしてもショックを受ける。本当に面目丸潰れだ。
俺の視線に気づいたのか、美空は俺と目を合わせてひらひらと手を振る。
気恥ずかしいと思いながらも俺は手を振り返す。すると美空の友だちたちはやきもちを妬いたように美空をからかう。どこまでも仲の良さそうなグループだった。一学期はあそこに夏陽も入っていたのだろうか。
教室に掲示されていた年間予定表を見て美空を待つことにする。九月は体育祭、十月は文化祭、十一月はマラソン大会、十二月はクリスマス会が予定されているらしい。忙しない学校だ。
二学期はどんな生活になるのだろう。夏陽が俺たちの家族になったという話が広まって俺に声をかけてくる輩もいるのだろうか。俺はそういうやつらの顔をどこまで見ることができるのだろうか。
「お兄ちゃーん、おまたせー。たった?」
「なにがだよ。……時間は少し経ったかな。とにかく行くぞ」
俺と美空は並んで歩いて新河高校をあとにした。
無言で歩き、無言で新河総合病院行きのバスに乗る。よくわからないままに妹との話し方を忘れてしまった。妹の顔を見るのだが、長年見慣れたその顔は夏陽を見た時のようなドキッとする感覚を呼んだりしない。確かに美空も美人なのだが、そこに異性的な感情は生じない。慣れなのか絆なのか、はたまた飽きなのか。美人は三日で飽きると言うしな。ただその理論で言うとブサイクも三日で慣れた後に飽きて嫌気がさすと思うんだが。つまり性格ブサイクの美人が一番いい。戯れ言。
バスを降りて少し歩く。もうすぐ病院入口というところでようやく俺は口を開いた。
「……あー……大袈裟だな。父さんは。夏風邪で検査入院なんて。検査費だって金かかるのに」
「……うん」
学校を出る前の美空とは別人のように元気がない。
「心配なのか?」
「当たり前だよ。……なっちゃんは大切な家族だし」
やはり元気がない。ここは兄の俺がしっかりして美空を元気づけなければ。
パンッと俺はとぼとぼ歩く美空の背中を叩いた。
「元気出せよ美空。死人に会うんじゃないんだから」
俺のその発言の直後、
バシッ
美空から力強いビンタを食らった。
「な……」
初めてだろう。俺が美空からあからさまな敵意のこもった暴力を受けるのは。
「なにすんだよ」
「お兄ちゃんなにも分かってない。バカ」
今までだって美空にバカと言われたことはあった。しかしそれは親しみのこもった『バカ』だった。今のそれは嫌悪や蔑視、憎悪のようなものが込められていた。
そんな敵意に俺も敵意が湧いてくる。
「なにも分かってない? 勉強くらいしかとりえのないお前がなに偉そうに俺に説教してんだよ。今朝、お前を起こしてやったのは誰だよ。朝食作ったのは? いままでさんざんおごってやったガラクタは? 誰のおかげだよ。お前の学費の何分の一かは俺のバイト代から出てんだぞ。分かってんのかよ!」
初めて、というには嘘になるけれど、久しぶりに怒った気がする。感情を荒げて強い言葉を使った気がする。
ふっと失言に気づいて我に返る。
焦って美空の顔を見ると、その両頬には涙が伝っていた。
「お兄ちゃんに言わなきゃいけないこと、いっぱいあったのに……ばか……」
かすかに涙の混じった震える声で美空は言った。そして病院とは反対方向に走り去っていく。
「美空!」
すぐにケータイに美空からメッセージが来る。『先に帰る』とのこと。
はたかれた頬がじんわり痛む。俺は美空の顔すら十分に見ていなかったらしい。
「……帰ったら、ちゃんと目を見て謝らないとな」
空を見上げると、夏の陽射しは少しだけ積乱雲に隠された状態だった。
四〇一号室。夏陽のいる病室だ。しかも個室。我が家の財政を著しく圧迫しそうな気がする。
病室の前まで来ると、ドアのところに面会謝絶の札が掛けられていた。あいにく病院で入院したことのない健康優良児なのでよく分からないが、こういう札はよくあるのだろうか。
そもそも受付で部屋を確認したときは面会できないとは言われなかったんだが……密室ミステリーかな?
しばらく病室の前で立ち往生していると、見かねた看護士の人が声をかけてくれた。
「今、夏陽ちゃんは先生と面会しているのでもう少し待ってて下さいねー」
「あ、は、はい……」
なるほど先生とか。何科になるんだろう。夏風邪だろうし内科かな?
そのあと、数分待つと病室の引き戸がガラガラっと開いた。そして白衣を着た男性の医者が現れる。年齢は三〇代後半ばといったところか。しっかり名札を下げている。
聡明で思慮深そうな顔立ちの整った男性医師だった。
あちらも俺に気づいたようで軽く笑顔で会釈してきた。つられて会釈し返す。
「もしかして、小尾秀美郎くんかな?」
声までイケメン。
「そうですけど……なんで俺のこと知ってんスか?」
「さっき夏陽くんと話したからだよ。キミの話題が出たんだ。いろいろと迷惑をかけて申し訳ないってさ。ああ、僕? 僕は風前寺静火。この病院の下っ端医者だよ」
「風前寺先生っスね。どうも」
迷惑をかけているか……まあ、あながち間違ってはいないか。
「夏陽の体調はどうだったんスか?」
すると医師は少しだけ影を落として、
「……長引かないといいけどね」
「え? ああ……まあ……夏風邪は治りにくくて厄介っスからね。栄養のあるもの食わせるようにします」
「そうだね。そうすればすぐ終わる。夏は短いから、秋になるまでにはなんとかしないとね」
「はい……?」
なんか話がかみ合っているのかいないのかよく分からない会話だな。
「じゃあ、次の患者が待っているから、機会があれば僕の患者になってくれたまえ。そんなこと、彼女が望まないだろうけれど」
風前寺先生はくるりと白衣を翻し、手をヒラヒラっとそよがせて隣の病室へ入っていった。
なんか、食えない感じの人だ。
面会謝絶の札が下りたので少し気後れしながら病室に入る。
「失礼しまーす」なんてわざとらしく声をかけながら。
病室の中で一歩ずつゆっくり歩を進める。洗面台があり、そこには使用済みの歯ブラシとコップが置いてあった。そしてベッドを囲うカーテンがあり、そっとそのカーテンを引く。
すぐに部屋の主が見え、濡れ羽色の髪が揺れる。
「あ、来たんだ」
拍子抜けするほど元気な顔をした夏陽がそこにいた。左腕に点滴を受けてはいるが、その姿は健常者そのものだ。
「そりゃ来るよ。入院代払ってんだから」
もちろん大半は父さんがね。
「ごめんねぇ~こんな大ごとになっちゃって。私も夏風邪だけでこんなことになるとは思ってなかったよ」
「まあ、夏風邪で済んだだけで良しとするか。いつごろ退院なんだ?」
「いちおう明日かな。MRIの結果が明日出るから。まあ、結果なんて分かりきってるけど」
「夏風邪でMRIか……しばらくは外食できないだろうな……」
MRIって一回で一万円くらいかかるんじゃなかったっけ?
「早く家に帰りたいなー。病院食って味気ないんだもん」
「そうしてくれ。いつの間にか四食分作る癖がついてしまった。……そして美空との緩衝剤になってくれ」
「みっちゃんとなにかあったの?」
「俺が言いすぎて泣かせてしまった。今日謝れるかどうかも危うい」
俺が腐った顔でそう言うと、夏陽はくすっと笑う。
「私は緩衝剤にはなれないよ。仲直りの手伝いはできるけど、私がなれるのは猛毒だけ」
「言うと思った」
ただ、病院で猛毒と言うのはすごく不謹慎な気がしてならない。
「まず土下座」
「は? ここで?」
「違うよ。みっちゃんに対してだよ。土下座して非礼を詫びて赦しを乞うの。条件を出してきたらできる限り飲む。そうしたら仲直りだよ」
「なるほど……土下座をするという行為がなにか消せない汚点を作りそうだがなんとかやってみよう」
夏陽は病院着とは似つかわしくない屈託のない笑顔を俺に向ける。
「ちゃんと仲直りしたら、明日ふたりで迎えに来てね」
「分かった」
「……海水浴の予定、頓挫させちゃってごめんね」
「いいよ、それくらい。盆すぎる前にまた行こう」
すると夏陽はふるっとかぶりを振った。
「今度は眺めるだけでいい」
病室だからか妙にしおらしい……。
「じゃあ、ほかにしたいことは? どんなことして過ごしたい?」
すると一瞬、夏陽の穏やかな口元が歪み、すぐにまた元に戻った。
「なかよし時間を過ごしたいな」
「仲良し時間? 意味合いはなんとなく分かるけど……そんなんでいいのか?」
「うん。みんなでなかよく過ごしたい」
「……分かった」
皆で仲良くか……だったらなおさら今日中に美空と仲直りしなければ。
「それともうひとつお願いが」
「なんだ? 悪いけど今日の財布は薄めだぞ」
「ケータイで私の写真撮って。いろいろ髪型とか変えてみるからいっぱい」
「なんだそのお願いは? まあ、病人には優しくしてやるのがセオリー……か?」
ケータイを取り出し、カメラ機能を起動する。
「言っておくが、俺の撮影能力は超初心者だからな」
「いいの、いいの。画像が残ればそれで」
夏陽はよく分からないことを言いながら笑顔でダブルピースする。
俺はそれを撮る。次にシュシュでポニーテールにした姿を。その次に、次に、次に……と、何枚も何枚も撮らされた。合計十枚といったところだ。
「これでいいのか?」
撮った写真を見せる。
「うわっ、ヘタクソ」
「うるせっ」
被写体が悪いんだと言いかけてやめた。何風邪だか知らないが、病人の顔色が悪いのは当たり前だ。言うのは酷だろう。退院した後に制裁を食らいたくないし。
「じゃあ次は、秀美郎くんの話が聞きたい」
「俺の話? 唐突だな……まあいいや。政治、宗教、性的な話、なんでも話そう」
俺は夏服の襟を正して丸イスに座る。
「設問一」
おい、なんかの試験が始まったぞ。
「ずばり、信仰している宗教は?」
「いきなり宗教の話から入るのか……うーん……オールジャンルかな。葬式は仏式だし神社の祭には行くし、クリスマスは祝う。儒教の心得もある」
「それ、無宗教っていうんじゃないの?」
「まあ、大方の日本人と同じ宗教家だな」
「じゃあ、設問二」
あ、特に掘り下げたりはしないのか。まあ、発掘できる過激な思想はないけれど。
「いつから友だち作らなくなったの?」
「ええ? それ聞くのか?」
「だって気になるんだもん。なんでも話そうって言ったのそっちじゃん」
「しかたねぇな……うん……中一からだな」
「かわいそう」
「人の話を最後まで聞け」
いきなり同情から入るなよな……。
「中一の時、クラスでカードゲームが流行ってた。でも俺は貧乏だったからその流行には乗れなかった。そもそも、昔から貧乏なせいで流行りものに乗っかれない境遇だったんだ。だから小学生のころから性格はひん曲がってたよ。
だからスクールカーストの上位にいる奴らをずっと疎んでた。
それでカードゲームの誘いを断ったら、あいつはノリが悪いやつだってぼっちになった。金がないからなんて口が裂けてもいえなかったからな。それとなく断ったせいだな」
「なるほど……それだけの理由でぼっちにされるくらいなら、最初っから友だちなんて作ってやるかーってこと?」
「まあ、続編もあるけどな。中学生の頃……何年生かは憶えてないけど、他のクラスでいじめられてる女子がいたんだ。いじめられてる理由はよく分からなかったけど、少しだけお節介を焼いたんだ。どういうお節介かはよく憶えてない。
いじめっ子たちはいわゆる交代制でいじめる相手を選んでたみたいだ。女王様的な奴がいてさ、私に逆らったらああなるけど? って具合にな。
つまり自分の地位を維持するために弱い者いじめしていたってわけだ。そうしなきゃその女王様は人間関係を築けなかったんだ。……弱いのはどっちだっつー話だよな。
それを見て俺は人間関係がバカバカしいと思うようになったんだ。ご清聴どうも」
そういえば、いじめられていたあの女子はどんな名前でどんな見た目だっただろうか。もう思い出せない。ああ、ダメだ。本当に俺はなにも見ていなかったんだ。中学生のあの時、俺は自分の憂さ晴らしのためにいじめを利用したにすぎないのかもしれない。
「みんな特別になりたいんだね。自分だけが特別に。誰かにとっての特別に。特別って響きはやっぱり特別だもん。その時キミに助けられた子はキミのこと、特別に思ってるかもね」
「どうだかね。その後の話はさっぱり憶えてないからなぁ。案外いじめが激化して恨まれてるかも」
夏陽は他人事のようにふふっと笑い、窓の外を見る。
「見て、ひこうき雲。キレイだね」
「そうかぁ? 虹見てキレイは分かるけど、ひこうき雲になにか感慨が湧くっていうのは……」
「私がキレイだと思ったらキレイなの」
強引だな。俺にはどうもひこうき雲になにか特別な感情なんて抱けないが。せいぜい『蛇かウナギに似ているなあ』くらいか。
「ウナギ食べたいなあ」
ぼそりと夏陽が呟く。
「バイト代貯まるまで我慢してくれ。……あ、バイト!」
「今日シフト入ってるの?」
「ちょっとだけだけどな。悪い。明日また来る!」
俺は急いで見舞いの品をテーブルに置き、帰り支度を始める。
「うん。また明日」
「じゃあな。風邪ぶり返すなよ」
「ばいばーい」
夏陽が小さく手を振ったのを確認して俺は病室を出た。
そういえば、最後の夏陽の顔、どんな顔だったっけ。まあ、また明日だな。
病院を出た時の俺は青春映画も真っ青になるような青々としたフォームで走っていた。
*
バイト帰り。俺は精一杯の媚を売るためにちょっと高めの人気コロッケを買い、帰路についた。
「ただいまー」
…………。
返答なし。無言である。美空の通学用の靴はある。父さんは夜勤務。美空に無視されているということだ。2LDKの薄っぺらい壁の向こうに聞こえないはずがないのだ。
困ったな。どうやって話しかけよう。
とりあえず夕食を作って匂いでおびき寄せるか?
いや、ここは真摯に部屋まで赴いて開扉一番で土下座をかまそうか?
あんな涙流されたの初めてかもしれない。あんなふうに美空から拒絶の視線を送られたのは初めてかもしれない。なまじ兄妹の距離が近いだけあってああいうふうにケンカするなんて思ってもみなかった。反省しないといけないな。
俺は打開策を考えながら買ってきた食材たちを冷蔵庫に詰める。不思議なことに考えれば考えるほど姑息な手口しか思いつかないものだった。
「ぎゅう」
突然腹の音が鳴った。と思ったら違った。美空が後ろから抱きついている。
「あの……美空さん? 今日はごめ……どうしましたか……?」
つい謝りそうになったが、それはちゃんと目を見て言うべきだ。だから抱きついているその心を聞かなければ。
「栄養共有」
「なるほど……」
なるほどなのか?
美空が手を放してくれたので俺は振り返り、ちゃんと美空の目を見る。
「美空、ごめんなさい」
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
同時だった。同時に俺たちは謝った。
「はたいてごめんなさい」
「ひどいこと言ってごめんな。今から飯作るから」
「手伝います」
「……包丁は使わない方向で」
これで兄妹喧嘩の戦後処理はおしまい。これでまた俺たちは元通り。こんなにあっさりと仲直りできるのだから、やっぱり俺たちは兄妹だ。
夏陽ともこんなふうに喧嘩して、たった一言謝れば元の関係に元通り……なんて時が来るのだろうか。いや、来てほしい。そのために、今日も飯を作ろう。
金欠になったらカレーを作るのが小尾家の習慣になっている。じゃがいも、にんじん、タマネギ、豚コマをぐつぐつ煮込めば完成だ。
美空にはサラダの盛り付けを頼むとして、俺は汁物の準備に入ろう。
「美空ーなんのスープがいい?」
「フカヒレー」
「残念、コンソメスープだ」
答えはすでに決まっていたのだ。タマネギとベーコンが余ったからな。
「無念です……」
『プルルルルルルル』
突然家の電話が鳴った。
「父さんのホテルからか? 悪い、美空。代わりに出てくれ」
「あいあいさー」
美空が電話に出て「はい、はい」と受け答えする。心なしか声音に緊張が走る。
そしてガタンと受話器を落とした。
「美空? どうした?」
美空はおっとりとした顔を真っ青にして俺に告げる。
「なっちゃんの病態が悪化して……今、集中治療室にいるって」
なっちゃんが夏陽だとイコールでくくれたのは何秒後だっただろうか。俺はうっかり持っていた木製のカレー皿を床に落とした。