巡り廻る糸車〜ソル・エ・ユニクの月と太陽〜
ある王国に、季節を司る女王様がおりました。
唯一にして全てを兼ね備えた尊きお方、その名もソル・エ・ユニク女王様です。
王国の両端にそびえ立つのは、離れていても双子のようにそっくりな二つの塔。
東の塔には議会で選ばれた一代限りの王が住み、政を行います。
対して西の塔には、遥か昔から女王様がおいでです。春・夏・秋・冬、それぞれの女王様が塔でお暮らしになっている間は、その季節が続くのです。
冬の始まりの日、女王様は天鵞絨の天蓋付きのベッドで目を覚ましました。
そして、今年最初の雪が窓の外にしんしんと降り積もっていることに気が付いて、
「ああ……また冬が来たのだわ」
と、誰へともなしにポツリと呟きました。真白に変わった自らの髪をつまみ上げたその手の甲は、昨日までの張りと滑らかさを失くして、幾らか筋張って見えます。女王様は深く息を吐きました。
その時、分厚い雲の切れ間から一瞬だけ陽光が射し込み、白銀の世界で何かが反射しました。こんな事が以前にもあったような気がして胸がざわつき、女王様は窓越しに瞳を凝らします。冷たい雪に埋もれている銀色の尾羽が見えました。
「おはようございます。ソル・エ・ユニク様、冬の女王様、お目覚めでしょうか。冬支度を調えに参りました」
控え目なノックをして扉を開けた侍女達を出迎えたのは、窓辺から点々と続く雪解けの水溜まりと、寝具をくしゃくしゃに寄せ集めて何かを必死に温めようとしている蒼白な主の姿でした。
薄い夜着のまま裸足で表に出たのでしょう、冬の女王と言えども雪に塗れた身体は冷え切って血の気を失い、歯の根は合わず、唇と爪先は紫色になっています。おまけに一旦開け放たれた室内の気温は身も凍えるほどに低下しているではありませんか。
「まあ大変、お外に出られたのですか女王様⁉︎ 早く暖炉の火を熾して! お湯も要るわ!」
静寂の朝は一転して大騒ぎとなりました。
──巡り、廻る、糸車。
──季節は廻る。
──廻り続ける。
カタリ、カタリ。
手すさびに回す糸車の軋みに合わせて、女王様は古い詩を歌います。
これは長年塔の中だけに暮らす女王様の習慣のようなものでした。毎年、冬の女王様の紡いだ糸を、春の女王様が染色し、夏の女王様が織り上げて、秋の女王様がそれに刺繍をほどこすのです。
しかし今冬に紡がれる糸の量は少々多過ぎるようでした。仕上げられた糸巻きが部屋の隅にどんどん積み上がっていきます。これではきっと他の女王様達が忙しい思いをする事でしょう。
「……そもそもこれは何度目の冬なのかしら。そんな事ももう忘れてしまったけれど……」
冬の女王様が嘆息すると、止まり木にいた銀色の梟がその華奢な肩へ優しく舞い降りました。
「慰めてくれるの? ありがとう、リュヌ」
女王様が優しく頭を撫でると雌梟は低く掠れた声でさえずります。
これは冬の最初のあの日に女王様が助けた子梟です。今ではもう大人の梟と同じ大きさにまで成長しているのでした。
……今回の冬が長過ぎるということに、女王様もすでに気が付いていました。
例年であればとうに雪は止み蕾がほころぶ時期だというのに、幾晩寝て起きても一向に春の女王様はやってきません。地面は雪と氷に閉ざされており、このままでは遠からず王国中の食糧が不足してしまうでしょう。
『冬の女王を春の女王と交替させた者には好きな褒美を取らせよう』
東の塔に住む王が心配してお触れを出したとのことで、たくさんの者が西の塔を訪れましたが、何の効果もありませんでした。
今までは意識せずとも自然に次の季節の女王へ移り変わっていたものですから、冬の女王様ご自身もどうしたら良いのか分からないのです。
人懐こく甘えてくるリュヌを撫でていると、何かを思い出しそうにはなるのですが。
冬の女王様が幾度目かの溜息を吐いた時、侍女の一人が来客を告げました。
「……今度は誰が?」
女王様の声にどこか諦めが滲んでいるのも無理はありません。
医者、牧師、教師に吟遊詩人、そして道化師。この数週間というもの、色々な人が春を呼ぼうと試みては去っていったのですから。
「それが、なんと今度は、お、王様が……」
「今年の冬は長いですね、女王様」
侍女の背後から眩しいほどの笑顔で挨拶してきたのは、東の塔にいるはずの王、その人でした。侍女は慌てて非礼を詫びて下がりました。
豪奢な金の髪に、礼節を保っていても堂々とした態度の、壮年の男性。初めて会う人でも彼が王であると分かるでしょう。
「触れを出しましたが一向に良い報告が貰えない。とうとう自分でご機嫌伺いに来てしまいましたよ」
王は躊躇いのない歩みで糸車の方へ近寄り、女王様とその肩に止まっている銀色の梟を見て苦笑しました。
「また拾い物をなさったのですか。よくよくお好きと見えますね」
「……また?」
「以前に拾われたでしょう。身元も知れない赤子を一人」
そのような事があったでしょうか。
迷いのない口調で王に言われると、あったような気が女王様にもしてきます。
梟を撫でる仕草と同じように触れた子が、毎日丁寧に髪を梳いてやっていた子が、目を輝かせて糸紡ぎを覗き込んでいた子が、そうです、遠い昔にいたような……。
「けれど結局、それも忘れてしまったわ……」
女王様の微かな呟きを聞き取ったように、王は片眉を釣り上げました。
「ご機嫌は……あまりよろしくないようですね。お顔の色が優れない。何を憂いておいでなのですか」
「憂うですって? 知った風な口をききますね。私は飽いているのですよ、この繰り返しに。何百回何千回何万回と繰り返される季節の無限と、春が来るたびに消え去る記憶の有限に」
あの子の名前は何といったのでしょうか。
「私は冬の女王。秋の女王。夏の女王。春の女王。季節を廻らせるお役目が大切である事は重々承知しています。それ故私はもう長い間ずっとここに留まっているのですから」
春から冬にかけて、女王様は季節毎、一足飛びに年を取ります。そして一年が終わり春を迎える時には、年齢が巻き戻るのと共にそれまでの記憶もあらかた消えてしまうのです。
ただ人である周囲の者達は女王様を置き去りにどんどん成長していってしまい、
そして──
ある日、あの子はこの塔から旅立ちました。
「どれほど慈しんでも、どれだけ大事に想っていても、皆行ってしまいます。慕ってくれる侍女達も数年経てば入れ替わるし、このリュヌだって、春が来たら森に帰してあげなくてはなりません……ええ、それが正しい事だと分かっている……分かっては、いるのです」
女王様の肩が震えたので、リュヌはふわりと翼を広げ床に降り立ちます。
「けれど……」
訝しげに見上げるリュヌを宥めようとして、女王様は伸ばしかけたその手を力無く膝上に落としました。
「それでは……いったい、誰が私を顧みてくれるというのでしょう? 春の私はただの幼子だというのに」
「私が貴女を愛しましょう。ただ一人の娘のように」
俯く女王様の傍らに、王は静かに跪きます。
「……夏の私はただの小娘で」
「私が貴女を愛しましょう。ただ一人の妹のように」
「秋の私はただの女に過ぎず」
「私が貴女を愛しましょう。ただ一人の姉のように」
「冬の私はただの老婆なのですよ……」
「私が貴女を愛しましょう。ただ一人の母のように」
そう言って王は、白絹糸のような女王様の御髪を一房掬い取り、恭しく口付けを落としました。
「ですから、どうか恐れないでください。例え一年毎に貴女の記憶が失われようとも、廻る季節に生命はまた芽吹き、この世の全てのものが幾度でも貴女を慕い、愛すでしょう」
冬の女王様の頬を、一筋の涙が伝いました。
それはまるで紡がれたばかりの白糸のように、王の指に優しく拭い取られていきました。
次の朝、長い間降り続いた雪は止んでいました。
久方振りの暖かい日差しで地表に厚く積もった雪は溶け始め、小鳥達は歌い、緑色の若芽があちらこちらで顔をのぞかせます。
待ち望まれていた春がやってきたのです。
「王!」
出立の用意をしていた王の元に、溌剌とした少女が訪れました。春の女王様です。
生来の色を取り戻した髪に、薔薇色の頬。眠たげな梟が、まるで従者の如く付いてきています。
「もう行ってしまうの? 寂しいわ、必ずまた来て頂戴ね」
物怖じせず素直に感情を吐露する様子に、王も微笑を抑えられません。
「……ええ、そうですね。そういえば私が褒美を貰っても良いのでした。お約束します、春の女王様。私ももう恐れません。これからは季節が廻る度に必ず伺いましょう。ですから次の機会には、何卒、私を名前で呼んでくださいますよう」
「名で呼ばれるのが好きなの?」
「ええ。昔、大切な人に付けて頂いた大切な名前ですから。私の名は……」
「待って待って、言わないで。当ててみせるわ。あなたの名前は、多分そうね……『ソレイユ』でしょう!」
王は少し驚いたようでした。
「……当たりですよ」
「うふふ、簡単だったわ! あなたの髪はお日様の光そのものなんですもの。間違えようがないわ」
「それでは太陽を見るたびに私の事を思い出してくださいますね」
「ええ」
和やかな二人の会話に混じりたかったのでしょうか、梟がホウと鳴きました。
催促された気がして、王は梟の頭を撫でてやりました。
「この子はリュヌ。月を見上げたら思い出してくださいね。そして、叶うならばどうか憶えていてください。私もこの子も侍女達も他の皆も、いつだって貴女を愛おしんでいる事を」
「ええ、きっと」
春の女王様は無邪気に頷きました。
王は眩いものを見るように目を細めて囁きます。
「約束ですよソル・エ・ユニク様。唯一にして絶対の、私のマ・シェリ」
──巡り、廻る、糸車。
──季節は廻る。
──廻り続ける。
王国の西の塔には女王様がおられます。季節と共にお姿の変わられる不思議なお方、ソル・エ・ユニク女王様です。
春・夏・秋・冬、それぞれの女王様が塔でお暮らしになっている間は、その季節が続くのです。四季の移り変わりを愛するように、王国のすべての民は女王様をお慕いしています。
いつも変わらず優しく美しい女王様でしたが、よく晴れて真昼の月と太陽が同時に天から見守っていてくれるような日にはより一層お幸せそうに見えると、人々は嬉しげに語るのでした。
seule et unique:唯一無二
la lune:月
le soleil:太陽
ma cherie:大切な人