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1 サイン-sign- ⑤

 両手にソフトを抱えた状態でレジの方をちらりと見る。大学生バイトらしい、若い男が突っ立っている。二人目の父親は割りと年食っている感じだったから、近くに寄られても、ちょっと触られても平気だった――だからと言って、好いていたわけではない――が、その男は髪を明るい茶色に染めていて、その間からいくつにも空いたピアスの穴が見える。 


 どんな人間に会計されても嫌だが、今日は特に嫌いな感じだ。無意識に早くなる脈拍を呼吸で整えようとするが、通常に戻るわけもなく、全ての動作が不自然に速くなってしまう。


 早足でレジに進み、乱暴にソフトを勘定台に置く。その店員は俺が長袖だとか、商品を五個も買ったとか、そんなことには気にも留めてなさそうだ。事務的に各金額を読み上げ、バーコードを読み取り、袋に入れ、俺が既にトレーの上に出していた万札を手に取る。


 全ての動作が、相手がわざと遅くしているかのように見えた。間違いなく俺と男の体感時間はずれているだろう。


 自分よりかなり背が高い男と向かい合っているのは辛かった。袋を引っ手繰るように受け取り、釣り銭を待っているのももどかしかった。だけど「釣りはいらない」と言って帰る度胸は俺にはなかった。そんなことをしたら異常に目だってしまう。

 

 細かく貧乏揺すりしていることも店員はどうでもいいらしく、俺が金を置いたのと同じトレーに釣りを置いて、差し出してくる。小銭を取り落としながらレシートも一緒に財布に突っ込んで店を出た。「ありがとうございました」という無感情の挨拶が背中に届く。


 帰途中手渡しじゃなかったことに安心した。俺は、女は皆母親みたいだと思っているから嫌いだし、男も嫌いだ。というよりかは怖い。俺の頭が受け付けないのだ。


 母親と付き合っていた男を何人も見たせいもある。二人目の父親がやって来る少し前の、ある年の初夏の頃だった。寝苦しく、何か飲み物が欲しいと一階に下りた。男が来ているのはわかっていたが、咽喉の渇きに耐え切れず、遭遇する可能性はほとんどないということと飲んだらすぐ戻るから大丈夫だということを自分に言い聞かせ、足早に進む。深夜を回っていた。


 台所の明かりをつけて冷蔵庫に入っている封が切られたミネラルウォーターを飲み干す。


 自分以外の誰かが飲んだかもしれなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。急いでいた。バスタオルを巻いたままの母親や欲に飢えたような顔をした男が、所用で台所にやって来る前に渇きを満たさなければならなかった。


 空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げ、やはり大丈夫だったとほっと息をつく。あとはさっさと自分の部屋に戻るだけだった。


 しかし、台所を出てふと横を見ると、全裸の男がいた。玄関とは反対側に廊下を進んだところにある、母親の寝室からでてきたのだろう。台所の向かいが風呂場だった。


 男は俺と目が合うと歩みを止めた。その時点で男との距離は近かった。頭の中で危険信号が発信されたが男を見つめたまま動けなかった。背中に嫌な汗が流れる。きっと金縛りというのはこんな感じなのだろうと、危険信号の一方ではそんなことを考えていた。


 男はその無表情のままゆっくりと俺を壁際まで追い詰める。潤したばかりの咽喉が早くもからからに渇いて、更に締め付けられたように息苦しかった。強風が窓を鳴らしているような、ひゅうひゅうという呼吸音が咽喉の奥から漏れる。


 男は金髪で若かった。おそらく二十代だ。野生的な雰囲気が怖くて、しかしもう俺に逃げ場はなかった。壁に背中をぴたりとくっつけた状態で、男に顔を覗き込まれていた。舐め回すようにじろじろと不躾な視線を浴びせる。それにも俺は肩を大きく上下させることしかできなかった。


 汗ばんだ、生温かい指が俺の顎を掴む。男の吐く息が酒臭くて、吐き気がする。顔が一層近付いた。俺は覚悟を決めぎゅっと目を閉じる。その瞬間指先に込められた力が弱くなった。俺は咄嗟に男を突き飛ばし、階段を駆け上がった。後ろで男がぼそぼそっと呟くのが聞こえた。


 今思えば、あいつは俺を女だと思っていたのかもしれない。まだ幼かったし、一度も切られていなかった髪の毛は茶色がかっていて長かった。服は淡いブルーの、薄い生地のものだった。しかし近付いたときに違和感を覚え、力が緩んだ。「なんだ、男か」と呟いたのが今でも耳の奥に残っている。

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