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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

廃線ラプソディ

作者: 乱橋笑児

 一


 僕、荒橋雄馬はとても爽快で、重荷が降りたような……、それでいて、ものすごく寂しい気持ちを抱いたまま、信州へ向かう特急電車の座席に座っている。僕は付き合っていた彼女と別れて三日たっていたのだが、その事実がこの複雑な思いの根本原因のようだった。

 ようやく別れる…………もう相手の顔色を伺ったり、身を案じたり、気を使ったりする必要はない。最近見られるようになったヒステリックな一面にビクビクする必要もなくなったのだ。一人になる……。こんなに気が楽なものだったのか……。

 その反面、前述の代償というわけではないが、そばにいてくれる人がいない……、出合った頃に……、付き合いを始めた頃によく見せてくれた優しい笑顔……。上品な可愛らしい笑顔を見ることは、もう二度とない……。それを考えると淋しさに胸を締め付けられる思いもなくはなかった。

 特急列車の車窓に広がる信州の山々やブドウ畑は爽快に後ろへ流れていくが、僕の中では、この車窓の景色に癒され……。別れた彼女への思い……そこからくる淋しさ……。一人になったことへの身軽になった思い……。時には混ざり合い、時には一つ一つ交互に頭をよぎっているのであった。

 時は二〇一三年五月のゴールデンウィークが終わった最初の週末。連休明けだけあって車内もそれほどの混雑はないようだった。今僕が向かっているのは、長野県西部にある、とある場所の森林鉄道の廃線跡地がある場所である。ここは僕が大好きな場所のひとつなのだ。この旅行の決行を決めたのは彼女と別れた後……。僕は嫌なことがあると何か行動を起こさずにはいられない。嫌なことであればあるほどじっとしていられない。じっとしていると凍り付いてしまいそうな、時間が止まってしまうような、世界から置き去りにされてしまうような、底知れぬ虚無感に襲われるのだ。どこかに行かずにはいられない……。どこか安らぐ場所へ……自ずと決まったのが、今日の目的地となった。

 なぜ今日ここに行きたくなったのか……?

 僕は先ほど話したような、昔列車が走っていたが、廃止となりその後線路だけが残っている、あるいは線路が敷かれた跡が残っているという場所、いわゆる廃線跡そしてかっては主が使っていた建造物が今主をなくし、取り壊されず何も手入れされずにそのまま残されている、いわゆる廃墟に行くのが本当に好きでたまらないのだ。こういう類を扱った本や写真集も勿論大好物で、自分でも写真を撮ってコレクションにしては悦に浸っている。

 ただ正直、あまり友人達には共感が得られているあるいは、共感する友人が僕にはいなかった。話はするが、みんな声には出さないものの、ああ、そうなの?と軽くいなされ、恐らく片方の耳からもう片方の耳へ通り過ぎていっているだろう。

 東京の乗車駅から特急列車に乗り約二時間半が経過し、車掌のアナウンスが、僕が利用する乗換駅にまもなく到着する旨を告げた。僕の荷物のすべてである旅行用の黒いバッグを網棚からおろして、デッキへと向かった。

 乗換駅で降りると、そこから目的駅まで普通列車で一時間なのだが、その列車の発車時刻まで一時間弱あるので、まだ十一時を過ぎたばかりだが、駅で弁当を買い待合室で食事をとることにした。

 弁当は十五分ほどで食べ終わり、僕はその後湧き上がってくる負の雑念を様々な方法で振り払おうと試みた。

 風景を見る……。走っている列車とは違い止まっているので、綺麗な景色だが直に飽きが来てしまい、雑念がにじみ出てしまう……。

 次に僕は携帯を取り出した……。廃墟や風景を扱っている投稿サイトやSNSサイトを閲覧し、何とか負の雑念から逃れることができた。

 携帯で何とか待ち時間をしのいで、僕が乗る普通電車の発車時刻十分前になり、待合室から乗車ホームをとおり列車内へ場所を移した。

 列車の中は、本数が少ないことと車両の編成が短いこともあり、地元の人々でごったがえしていたが、僕が乗ったときは一人分だけ空席があり、何とか座ることが出来た。

 列車は動き出し、僕は携帯の電池残量が気になり始めたため、携帯をしまい、目を車窓に移した。

 風景は一層山々が間近に迫り、小さな村や集落……に見える家々と畑や田んぼ、そして木曽川の流れ……。川の流れと線路が交わり、そしてまた離れ……。どっちがまっすぐで、どっちが曲がっているのやら……。

 そんなことを考え、やがて頭をもたげたのは将来に僕が出会う彼女の理想像だった。今度は感情的な子ではなく、いやでもそれは決して冷たいとかではなくて……。あと願わくは趣味が近い子がいいなあ。廃墟や廃線…………。いやそこまでピッタリと合致はしなくとも、美術や旅行が好きな子であれば……。でもたまに見かける「片付けられない女の子」や「不潔な女の子」はお断りだ。これはもう生理的……いや宿命的というか……。もう自分の中では「妥協できないもの」「決して譲ることができない」ものだ。

 おそらくこれは母親の血が色濃く影響をしているに違いない。僕は今までほぼ、母親一人で育てられてきた。と言うのも僕が幼いころ父は亡くなったのだ。正確に何歳ごろに亡くなったかは覚えていないが、動いている父親を見た記憶はほとんどなく、遺影の父親しかはっきりイメージできない。

 母親ははっきり言って潔癖症だった。とにかく片づけが出来なかった場合や、家の中を泥で汚そうなら……烈火のごとく怒ったものだ。ひどい暴力は受けたりはしなかったが、時に「ペチン」と頭を叩かれたりした。叩かれた時は「痛み」より「いつもは優しい母に叩かれた」と言う事実にショックを受け、泣きじゃくったっけ……。母親本人にとっては軽く叩いたつもりで、大きな意味はなかったのかもしれないけど……。

 自分で言うのもなんだが、一般的には結構「綺麗好き」「整理好き」なのかも……。

 それが影響したのかどうかは、わからないが現在勤務先は就職先も家庭用洗剤を主とした化学メーカーの販売企画を担当している。

 自分お部屋を汚くされたり、散らかされたりするのも、我慢ならないし、他人の「部屋が散らかっている状態」「不潔な状態」を見ると、その人を嫌いになってしまう……までは言わないが、残念なところを見てしまったな……と落ち込んでしまう。

 やはり、しばらくは一人でいいかな……。

 人の嫌なところみたり、気を使ったりするのが面倒くさいし……。友達もしばらくはふえなくていい。

 そんなことを考えていたら、車掌のアナウンスが目的とする駅にまもなく到着する旨を告げた。


 二


 目的の駅に着いたのが、十三時を回っていた。やはり自分が住んでいる東京とは空気が段違いにおいしい……。前にも述べたとおりここは長野県西部の山間部で、まさに周囲は信州の山々に囲まれていて、人と車の通るのは僕の住む都会と比べたら、本当にわずかだ。駅には小さなロータリーと丸太で出来たメルヘンチックな小さな観光案内所がある。

 ここの観光案内所の方は皆さんよい方で、ここに来る時は、目的地までのバスチケットを買ったり、時刻表を確認したり、待ち時間の退屈をしのいだりするため、よくよることがある。

 「今の季節は夕方になると、まだ寒いからバスの時間が終わるまでは、駅に帰ってくるようにしてね」

と優しく年配の婦人の方がアドバイスしてくれた。

 そしてしばらく他愛も対世間話や雑談をして、

 「ありがとうございます。……では、そろそろいきますね……」

と礼を行って、ロータリーのバス乗り場へ向かった。

 バスに乗って約一時間、そして歩きで二十分、目的地に到着した。

  周りは森に囲まれ、大型連休明けという事もあり、人はまばらで、たまに人とすれ違う程度であった。

 したがって、耳に入ってくるものも、人の声はごくわずかで、風で木の葉が揺れる音と鳥が泣く声だった。

 僕はとうとうその場所へ辿り着き、深呼吸をして近くの丸太に腰を下ろした。

 さびかかった線路と回りあたり一面の山、森……。立ち込めるヒノキの香り、日向だと少しカラっとした暑さになるが、日陰で風に吹かれるとこれがまた心地よい。

 まさに森林セラピーである。綺麗な空気に包まれ、綺麗なヒノキの香りと景色に包まれ、

そりゃ見も心にも良くないわけがない。

 そして森林鉄道の跡地、廃線跡である。

 ……ここは夢か、幻か、はたまた天国か? ……。

 人の手による製造物の線路と、自然界の雨や風にさらされ、錆付いた線路となる……。人の創作、文明、技術と自然の力によるこの上なき融合……。大げさかもしれないが、僕は廃墟や廃線をみるたびに深い感慨や感動を覚えずにはいられない。

 この日も例外になく、深い感動にさらされ、僕は気がつくと、線路に魅了されていた。このまま、時間が止まってしまっても構わない……と思うくらいに心は「線路」に魅入っていた。

 静かに……とても静かに時間が過ぎていくのを感じた。鳥のさえずりが時折聞こえ、人もごくまばらだった。

 そうしていて、どのくらい時間がたったのだろうか?やはり「幸福な時間」というものは、長く続かない性質なのか? それとも「幸福」とはとてもせっかちで、同じ場所に居続ける性分ではないものなのだろうか? ……。

 そこに「僕の幸福な静寂」に水をさすような、若い女性のしゃべり声が響き渡ってきて、こちらに近づいてきたのだった。


 三


 何てことだ……。

 僕はその声がこちらに近づいていることがわかると、それに比例して機嫌を悪くしていった。

 何が気に食わないか……?

 「幸福な静寂」が失われていくことも嫌だったが、しゃべっている言葉が聞きたくなくても聞こえてしまうことが、この上なく不愉快であった。まるで盗み聞きをしているような罪悪感さえ伴う、複雑な不快感が僕の胸に去来していた。

 「さくらさーん、見てくださいよー!」

 声の主は二人で、そのうちの一人が言った。喜びと興奮に声も大きくなっているようだ。

 「ええと……その…………」

 もう一人のほうは、これまた声が大きめで

はきはきとした声をしていて、だけどその声には非常な戸惑いの色を感じられた。

 「ええと…」

 「…これみてくださいよ! まさにっ! まさに人が作ったアートと自然からの恩恵との融合なのですよ! あ? もう感動で声が出ない感じでしょう?」

 人が作ったアートと自然からの恩恵と融合……。何か僕と似たようなことを考えているな……と思った。そして声が聞こえるほうに目を向けると、意外と二人は僕の近くに立っていて、十メートルほどそばの距離に立っていて、少しびっくりしてしまった。

 一人の方は、ニコニコと楽しそうに森林鉄道の廃線を指差し明るくしゃべっている。身長は一六〇センチくらいだろうか。歳は高校いや、大学生くらいで、髪の長さは肩にかかるくらいの長さで、色は薄く茶色に染められ少しソバージュがかかっている。服装は白いブラウスに黄色いカーディガンを羽織っていて、ブルーのデニムパンツをはいている。

 顔は目がたれ目でくっきりしていて、まぶたは二重であり、鼻の高さは高すぎもなく低すぎもなく、唇の色は薄ピンク色だ。印象的には明るく優しそうだが、どこか少し頼りない印象を受ける。

 あとでわかるのだが、話の都合上先に言わせていただくと、この娘の名前は川村絵里と言うらしい。大学生で都心の某M大学文学部に通っているらしい。

 この子を見ていると、いつの間にかさっきまでの不快な心が和らいでいるのに気がついた。

 もう一人の方は、さっき話しに出た川村絵里より低い。一五五センチくらいだろうか?

歳は高校生いや中学生? と思わせるようなほどの童顔なのだが、さっき川村絵里はこの子の事を「さくらさん」と呼んでいたので、まさか先輩なのだろうか……。あの呼びかけがなかったら、中学……良くて高校生だろうと言う推測をするのだが……。眼は普通の大きさだが顔も小さい。口は笑うと良くモデルや芸能人が見せる、いわれる「アヒル口」になる。この子も印象的には悪い印象はないが、今は少し笑顔の中にも不満そうな色が見え隠れしている。ちょっと仕草を見ていると左手と右手の人差し指の先同士を軽くぶつけあったり、髪の先を弄ったりする仕草がいちいち動きが妙に可愛らしい。驚いた様子を見せるときはゆっくり手を広げて見せてみたり、ちょっと大げさなところ、声は高めで可愛らしく同世代の男子にはモテそうだが、同姓には嫌われるかも……、という印象を受けていた。服装は黒のカーディ版の下にベージュのリボンがついたブラウスと黒いロングスカートをはいている。

 この子の名前も先に言っておくと、潮崎さくら。やはり川村絵里と同じ大学の一つ先輩なのだった。

 僕は二人から目を背けて、再び線路に目をやった。自分の時間を取り戻するために、さっき話しに出た「人の造形物」と「自然が織り成す融合」を楽しむために……

 「これ? ちょっと本当に言っているの?」

 潮崎さくらの声が大きくなった。顔は笑っているが、やはりどこか驚きと不満で引きつっているようだった。

 「ええと……高速バスで三時間乗ったよね? それでまたバスで一時間くらい乗って……。ぜひ見せたいって言われて……。」

 ここまで潮崎さくらはどうやら一呼吸置いたらしい。目の前の現実と状況の整理に追われている様子だった。

 相手の川村絵里は話に相槌をうっているらしかった。

 「……それって、このえーと、錆びた線路なのー!?」

 少し引き気味に、そしてだんだん声を大きくして潮崎さくらが尋ねる。

 「そのとおり!」

 満足げに川村絵里は答えると、潮崎さくらのため息が聞こえた。それから二、三嫌味を言っていたが、川村絵里は楽しそうに対応していた。

 僕はだんだんと二人の会話が気にならなくなりつつあったが、不意に

 「あの…………大丈夫……ですか……?」

と頭上から不安げな声が降り注いできた。

 僕は驚いて、

 「え?」

 と聞き返し、目を上げるのが精一杯だった。僕の頭上に川村絵里の心配げに覗き込んでいたのだ。

 「……ご気分でも悪いのですか?」

 と尋ねる

 「……いえ、別に……」

 僕はなるべく動揺を悟られまいとそっけなく答えた。

 川村絵里はとたんにパーっと笑顔になった。

 「良かったです。すいません! 余計なときに声をかけちゃいました? 顔色悪くて辛そうに見えたので、つい……。」

 と言って、次の言葉への接ぎ穂を失い、少しあたふたしているようである。

 「ええ、よく言われるんです。何か色が白いので、体調悪いのか?とか、陽にあたっているのか?とか……。」

 と僕はそっけなく答えた。本当は感謝の意を何かしらの形で伝えるべきだったかと思うが、なぜだかそういう気分に素直にはなれなかった。

 僕はもう一人の潮崎さくらにちらっと目を向けた。川村絵里が声をかけている間、近くには来てくれていたはずだが、彼女からの反応がいまいち感じ取れなかったのが、正直少し気になった。

 何せ最近、色々と物騒なことが続いているし、怪しい男、アブナイ男と思われていないだろうか?

 彼女の表情はなんとも推測しがたい表情をしていた。一見、少し不安げそして安堵したように見えるのだが……。やはり、何か表情の色が薄いのだ。それは自分の表情を出さず、心配をしてくれていると推測も出来るし、

すっかり警戒をされ、自分の本当の表情を出さず、警戒心から遠巻きにされているようにも感じた。

 そう思っていると、川村絵里は再び「廃線興奮モード」に復帰した。

 「さくらさーん、チョットしゃがんでみてくださいよ??」

 渋々言うとおりに潮崎さくらはしゃがんでみた。

 「見てくださいよー!! 都心近辺では絶対に味わえないですよー!」

 と川村絵里ははしゃいだ調子で言うと、

 「……絵里ちゃんって……。何かこういう廃線とか廃墟とか本当に好きだよね? 前にも何か本やらネットやらで見せられたような……。」

 と潮崎さくらは半ばあきれた調子で言った。

 「そうなんです!! 人の手によって創られた造形物と自然との融合……。痺れますよねえ。びびびっと! 」

 川村絵里は本当に楽しそうで幸せそうだ。だんだん僕にも彼女を見ていると、親近感と言うと少しなれなれしいかもしれないが、当初抱いていた印象とだいぶ違うものになっていた。

 潮崎さくらはあきらめ半分の苦笑い……という感じで

 「……ごめん……。わからなーい。」

 しかし川村絵里には、その声が届いていないのか、

 「今度はもっとすごいところ行きましょうよ! 九州のほうなのですけど、島がまるまる廃墟なんですよ! 今度もさくらさん気に入ってくれると思いますよ!!」

 その言葉を聴いて、潮崎さくらはあわてた調子で

 「ちょっと! 今の言い方可愛くないよ! 今度もって何? この場所を気に入った素振りをした覚えがないんだけど?」

 さっきも似たようなことを書いたが、僕の「それまでやかましい二人組」という印象から、はっきりと僕の中で印象が変わり始めているのを感じていた。

 少なくとも、この廃墟廃線好きの女の子、川村絵里にはまったく異なった感情、言葉で表現するにはちょっと複雑だが、哀れみと言う表現が一番近いだろうか?

 この廃墟/廃線好きの趣味を他の人と共有が難しくわかってもらえない時の歯がゆい気持ち……。彼女は笑っているが、少し寂しい気持ちも抱いているのでは? と考えるのは無用な詮索だろうか?

 昔、僕も似たような寂しいと言うか、このような疎外感はよく抱いたものだった。今はもう慣れた……と言うか他の人に理解してもらうというのは、もうあきらめているので、今はどうも感じないが……。

 「すいません……あの……。」

 僕は彼女達に一歩歩み出て、カバンの中からある本を取り出した。廃墟/廃線の名所についての見所が出ている本である。そしてその本のあるページを指し示した

 「あ! 盗み聴きするつもりは全然なかったのですけど……。今言った島が丸まる廃墟の場所って……。ここのことですよね?」

 それを見たとたん、川村絵里の顔からは歓喜の笑顔がこぼれた。

 「おお! すごい! これです、これ!!」

 僕は今素直に自覚した。彼女の笑顔……。少し頼りないけど、人格の良さがにじみ出たような笑顔だ。まるで、世の中の、人の嫌なものに触れたことがないような……と言うべきか。こんな笑顔ならいつまでも見ていたい。いつまでも守って行きたい。「見返り」と言うものを忘れさせる……。献身的な思いを抱かせる……。

 僕はそのような思いを抱いていたと同時に、飛躍的と言うべきか、浅ましいと言うべきか我ながら少しあきれてしまっていた。

 「いやあ、運命感じちゃいますね! って、ごめんなさい! 少し図々しい事いっちゃいました?」

 と川村絵里は人懐っこい笑みに、心配げな表情を混ぜた表情をしている。

 「……いや……いいと……思いますよ。類は友を呼ぶ……。それが実現されたのかもしれませんね……。」

 僕はなるべき表情を表に出さないよう、冷静に言葉をつづった。そして続けて

 「……ああ、そうだ……。良かったらこれ見てもらえます?」

 僕は自分のカバンから本を取り出した。表情には出さぬにしていたしていたが、僕は何かしら期待……良い予感が頭をよぎっているのを感じていた。


 四


 僕が取り出した本は、全国各地での廃墟に写真家たちが探訪し、写真を収めた写真集や、ガイドブックといった本を数冊、川村絵里に手渡した。

 彼女は

 「わあ! これ知ってる、知ってる!!」

 「ええ、ちょっとすごい!すごい! 今度行きたい! 行きたいっ!」

 「わはは、これ凄い凄い! やあ、この切なさ感凄いですよね!?」

 本をめくるたびに様々な反応を示した。

 僕も自分のテンションが高まっていくのをはっきり感じていた。そのときは僕もさっきみたいに自分の感情や表情を押し殺せていられなかったに違いない。彼女のテンションに呼応していくのを感じていたのだ。

 僕はカバンの中に入っている手袋を取り出し、奥に入っている本や自分で撮った写真を手にしていた。レアな趣味を持つ人と出会えるのは、本当に幸せだ。いくら心を通わせている知人や家族、恋人との会話でもこの幸福感は得られない。

 僕は袋に入った手袋を横にどけて、本や写真集を並べた。

 「わあ、すごい! すごい!」

 川村絵里は、小さな子供のようにはしゃいだ。そして不意にあわてた様子で

 「ああーええっと!? ごめんなさい! まだ私達、名前を名乗らずにいましたね?私川村って言います。廃墟、廃園、廃線が大好きな大学一年生です!」

 僕は思わず微笑んで、

 「自分は荒橋と言います。洗剤とかを作っている会社につとめています。よろしく」

そのとき、潮崎さくらが冷静に、

 「何か今日の絵里ちゃん、飛ばしてるねー」

 言い終わらぬうちに川村絵里は、

 「それで、こちらが私と同じ大学の一年先輩の潮崎さくらさんです! 廃墟には興味ないのですけど、昔は子役でよく劇団やテレビに出ていたり歌を歌ったりしていたんですよー。日向さくらって言う芸名で……。」

 潮崎さくらは滑稽なほどあわてて、

 「ちょっと、絵里ちゃん! 人の黒歴史、勝手に光を当てないでよー! かわいくなーい」

 どうやら気に食わないことがあると、可愛くないというのがこの潮崎さくらの口癖のようだ。

 僕が考えるまもなく、

 「ああ! これ飯田線の静岡県にある駅じゃないですかー!! ちょっといいですか??」

 「どうぞ! どうぞ!」

  僕はうなずくと、僕の出した本を手に川村絵里は歓喜した。

 「ここ行きたいんですよー! こういう雰囲気凄い大好きですねー」

 「僕、行きましたよ。この駅……。車で行くのが不可能な場所にあるので、秘境駅の元祖とも呼ばれていますよね。」

 と僕は答えた。

 川村絵里は貪るように、本のページを次に次にめくり、 

 「ああ、ここもいきたい!」

 「いいなー!」

 「しびれるー!」

 と歓喜の言葉を連発した。やがて、ページをめくるたびに、僕に許可を求めては次の本をめくり始めて、興奮がまし、言葉の形が崩れていき、  

 「きゃぁー」

 「ひゃー」

 「おおおー」

 と声を発するのが大部分となった。

 「荒橋さーん、見てくださいよー!この廃病院の崩れ落ち具合、もう最高じゃないですか?」

 と川村絵里は言うと僕は、

 「あー、ここ行って、中入りました。もうすばらしいっすね、別世界というか……。」

 そう、この廃病院は外観だけでなく、中がすばらしい。かっては人々の医者や看護師、患者やお見舞いに来る家族や友人達の様々な悲喜交々があった場所……。今は壁やドア、椅子のあとや窓ガラス、が崩れ落ちたり、かろうじて保っていたり、残された残骸たちも生き抜こうと、必死に見えてしまうのは、そこが、かつて病院だった場所だからだろうか? 医者や看護師たちが患者たちの命を必死に維持しようと……患者達も痛みや苦しみに耐え、必死に生き抜こうとしているのと重なるのだろうか?あの時は確かそんなことを考えていた。

 「いやいやいや、中に入るのは……ちょっと…………どうかなあ」

 川村絵里は苦笑いを浮かべつつ、少し眉根を寄せた。

 「なんで?」

 そのとき、潮崎さくらが声をはさんだ。

 僕は申し訳ないが、彼女の存在を忘れかけていた。子供っぽいとはいえ十分に外見は確かにかわいい。元子役なんだっけ? そう言われると、顔も小さいし、目がやや大きめで整った鼻と唇をしていて、今でも女優だタレントだといった芸能人と言われても、頷けるほどの容姿を持ち合わせていると言って良いだろう。

 しかし、今のところ外見だけ……である。僕は明らかに彼女には興味はなかった。

 正確に言うと、川村絵里に対しての興味が強すぎるため、霞んでしまっていると表現した方が適当だろう。正直言うと、かなり好意を感じてしまっている。

 彼女は勘違いとはいえ具合が悪そう、と声をかけてくれて、そして僕と同じ重大な共通点があるのだ。廃墟と廃線に目がない。外見的にもやや下がった眉毛とややたれ目でくっきり二重の瞳にえくぼが可愛い唇。少し頼りない雰囲気で天然、悪く言うと空気が読めないような印象を受ける。しかし、そこが逆に周囲に愛されるタイプなのではないか? と僕は考えていた。逆にムカつかれるタイプはいるが、彼女は間違いなく愛される方のタイプに違いないのでは、と考えていた。

 天然で頼りない、そして廃墟廃線好きな女の子。彼女に僕は惹かれている……のだろうか? 今こうして会話をしているが、今のところ思うのは、まだ話をしたい……。まだ一緒に居たい。話を続けることで、気持ちがどのように僕の気持ちがどのように変わるか、まだわからないけれど。

 「……いや、こういうものは外からで良いんですよ、外からで。何か出たら嫌じゃないですか。虫とかお化けとか。」

 川村絵里は震えるそぶりを見せて言った。

「絵里ちゃん、本当お化けとか駄目だよね?」

 と潮崎さくらと言うと。

 「だめです、だめです、ごめんなさい。申し訳ないですけど、本当に勘弁ですよ。遊園地のお化け屋敷とか絶対無理ですもん。」

 と川村絵里は顔をしかめて言った。

 「廃墟だの廃線だの好きなくせに、ここ出るんですよ……みたいな噂あるときはどうするの?例えば絵里ちゃんにとって、廃墟としては、すっごい魅力的なの。だけど、地元の人がぼそり……ここ出るんですよ、みたいな……。ねえ、そういう場合はどうするの?」

 潮崎さくらは楽しそうに尋ねると、

 「なるべく遠いところからから見ていますね。距離をとって。結構距離をとりますよー。」

 と川村絵里も楽しそうに答える。

 「絵里ちゃんも子供じゃないんだから、そこはすばらしい“芸術”とやらのために、苦手を克服しないと」

 「さくらさんに言われなくても、別にいいですよ。自分のタイミングで必要なときに克服しますから……いや、出来ないかも……。ウン、出来ません……。」

 この二人良いコンビだな……息もあっている。普段からよく行動をともにしているのかな?

 川村絵里とボケを潮崎さくらが拾うという構図が見ていて楽しく感じていた。

 しかし、申し訳ないが、僕は川村絵里とだけ出会いたかった。そして廃墟/廃線について意見交換し意気投合して、そして……。

 「大丈夫ですか?」

 と突如、潮崎さくらが僕に声をかけた。その眼はいたずらっ子っぽいような、何か企んでいるような、と言うか今考えている事を見透かしているような……。

 「いや……何か仲がいいのですね?」

 僕はとりあえず思いついたことを口にした。はっきり言って、あわてていたのだ。

 「仲……いいのかなあ? 今日、面白い所ぜひ行きましょうって言われて、きたのが、ここなんですよー」

 「えー? 不満なんですか?」

 と意外そうに、川村絵里は尋ねた。

 「……いや、そりゃあ空気おいしいし、景色も良いけど……。廃線とか廃墟とかは……。というより、絵里ちゃんは自分の好きなものと、人の好きなものは必ずしも一致しない……と言うことを覚えておいたほうが良いよ。と言うかむしろ御願い!」

 潮崎さくらは半ば必死に訴えるかのように言った。

 「はあ、わかりあえないって、つらいですね……。」

 と川村絵里はむっとしたように言ったので、

 「きれてるの?」

 と潮崎さくらは少し挑発的に低い声で尋ねた。

 「いや、切れていないですよ!? ええーと、ごめんなさい、ごめんなさい」

 と川村絵里はマゴマゴしだすと、潮崎さくらは付き合い切れない、と言った調子で首を左右に振り、僕のほうへ向いた。

 「荒橋さんは、こういう場所には一人でこられるのですか?」

 さっきとは、うってかわって一見可愛らしい笑顔を僕に向けた。この豹変振りは元子役をやっていた名残だろうか……。思わず勘ぐってしまう。

 「ええ……。実は……。」

 と僕は言ったが、次の言葉が出なかった。

 ……というか、自分でもある思いが去来していて、胸がつぶれそうになっていた。

 もう少しだけ……もう少しだけ……一緒にいたい……。もう少しだけ……もう少しだけ……。いや、これからも会いたい……。目の前の彼女……。川村絵里と……。

 そして考えたのが、ここで自分が付き合っていた彼女がいなくなったことをしゃべろうか……。同情に気を引いてもらおうとして。きっかけを作ろうとしている……。正直、なんとなく情けない反面、自分に手段を悠長に選んでいる余裕がないのも事実だった。

 「その……別れたばかりなんですが、まあ彼女が付き合ってくれましたね。自分の趣味に……。」

 と僕は少し悲しげに言ってみた。

 「え、そうなんですか?」

 川村絵里が期待したとおりの反応をしてくれた。続けて

 「……すいません。何か悪いこと言っちゃいましたね。」

 と川村絵里が言うと、すかさず潮崎さくらが冷静に

 「いや、言ったのは絵里ちゃんじゃなくて私だから。」

 と言った。続けて、

 「だから絵里ちゃんが謝らなくて良いと思うよ。」

 続けて、神妙そうな顔になり

 「ごめんなさい。」

 僕はすかさず、

 「いや……いいんです。こちらこそ、ごめんなない。ジメッとした話を持ち込んで……。」

 と言った。自然と僕の視線は川村絵里の方に向いていった。

 「荒橋さん、念のためもう一度言いますけど、謝ったのは私……ですよ? 絵里ちゃんの方を向いているようですけど……」

 きょとんと潮崎さくらが言った。

 話が一見、通じてはいるようだが、話す相手と答える相手が少々間違えているみたいだな……と今さら気がついた。が、今それは大きな問題ではく、また気に止めることではないと僕は思った。

 「ああ……、ごめん……なさい」

 と、僕は答えた。この問題はなるべく早く片付けたいのだ。

 僕の思いを察してくれたかは知らないが、

 「……もしかして、携帯とかにも写真あったりします?もし良かったら、見てみたいんですけど? いいですかー?」

 と陽気に潮崎さくらは僕に言った。おそらくジメッとした雰囲気を払拭したかったのだろう。

 「ああ……ありますよ……。」

 僕はカバンから携帯を取り出し、操作をして自分のコレクションの写真を画面に表示させて、彼女達に操作方法を言いながら、手渡した。


 五


 しばらく彼女達は写真や動画をみて、わーわー、キャーキャー言っていた。いや、厳密に言うと、前述のような盛り上がりを見せていたのは、川村絵里だけだったが……。

 しばらくして、潮崎さくらが

 「ありがとうございましたー。ちょっと私も感動したかなー?」

 と僕の携帯を返してくれた。僕はそれを受け取ると元にしまってあったカバンにしまった。

 ここで僕は少し違和感を覚えた。なぜだろう……。彼女の心がこもっていない言葉に対してだろうか?

 そう考えている間に、おかげと言えば良いのか、川村絵里に陽気さが戻り、笑顔で色々質問をしたり、彼女の方も自分の携帯を見せてくれて、経験談を語ってくれた。

 潮崎さくらは、たまに携帯を後ろから覗き込んだり、話をたまに聞いたり、少し離れたところで、自分の携帯をいじったりしていたり、一人で周囲を歩いたり、していたようだったが、やがて、潮崎さくら一人の時間が長くなっていった。

 彼女には悪いが、ようやく僕の思惑どおりの展開になってきていることを感じていた。

 「……いやあ、いいですね!レアな趣味をわかちあえるのって!」

 川村絵里はうれしそうに言った。

 「ええ……自分も嬉しいです。こんなに……。」

 と言いかけて、僕は言い淀んだ。そして少し間をおいて精密機械を操作するような気持ちで、言葉を慎重に選びながら、

 「……美人で明るくて、優しい人と出会えるなんて……、嬉しい、本当に……。」

 僕の中では、これが精一杯だった。軽すぎて相手を怒らせたり、軽く流されたりしないように……。重すぎてお互いに緊張感を与えすぎないように……、適度な感情を込め細心の注意を払い選んだのが、今の言葉だった。

 「またまたー。褒めても何もでないですよー」

 と、あははは、と川村絵里は笑った。

 僕も笑顔を作った。

 「いやあ、本当に……。ついこの間別れてしまったばかりなので、余計に心にしみますよ……。」

 続けて雰囲気を重くしないように笑顔を維持して

 「だってひどいんですよ。あ、いい? ここから愚痴っぽくなるけど……。」

 ここまで来れば……と安心感を感じたので、僕は思い切って他人行儀な敬語を解除してみた。彼女のかもし出す癒し感、安心感に委ねて大丈夫だろう。

「……ええ、私はいいですけど……。でも荒橋さんがそれでスッキリするなら、どどーんといっちゃってください」

 と最終的には胸を手のひらで叩いて、願い出を許してくれた。

 「前の彼女に出会ったのは去年の十二月ごろで、友人と遊んだときに、ちょうどその友達の友達というので、連れてきたんだ。その時は口数が少ないお嬢様という感じだったな……。そのときに確か……レストランで食事をした時にちょうど、席が近くて……。彼女の方から少しずつ話しかけてきてくれて、やがて自分の趣味を教えてほしいと言われて……。」

 と僕はちょっと言葉を切って、

 「……どうせ、ひかれるかなあ……。と思ったから少し躊躇したのだけど……。」

 とそこまで言うと、川村絵里はのってきてくれて、

 「……と言うと、その彼女さんは結構食いついてきてくれたのですか?」

 と促してきてくれた。

 「うん、そう。自分でも驚いた……。それで結構いろいろな場所を巡ったな……。この森林鉄道跡や奥多摩の廃墟、決して彼女からは積極的に行こう……とは言ってきてはくれなかったけど、自分から誘うと、よっぽどのことがない限りオーケーだった……。」

 ここで僕は一息をついた。

 「……幸せだったのかも……。幸せとそのときは思えたな……。だけど……。」

 「……だけど……?」

 と川村絵里は少し顔を曇らせて、僕の顔を覗き込むようにして、話の先を促した。

 先ほどより、風が強くなってきたようで、周囲にあるヒノキの葉がカサカサ、カサカサと音を立てた。

 僕は少し気をとられたが、話を再び始めた。

 「……去年の十二月頃……いやそれより前かな……? 少しずつ彼女の態度が変わり始めた……。あれ買ってほしい。これ買って欲しい……とねだってくるようになってきた……。最初のうちは、仲が進んできて、彼女の方が甘えるようになってきたのかな? と最初は気にならなかったんだけど……。」

 僕は目の前の優しい廃墟/廃線好きの女の子の目を見た。眉根を曇らせて、不安げに僕の顔を見ている。

 気にかけてくれているのかな……。

 僕は少しうれしくなった。

 「だんだんと……だんだんと、はっきりと、しかも高圧的な態度で物やお金をせびるようになってきたんだ……。断ったりすると、今までの態度とは……まるで別人に……。出会ったころの彼女か? と疑ってしまうほどに全然別になってしまった……。怒ったり、わめいたり、泣いたり……あなたは何のために私の前にいるの……と何とか言うようになって……もうそれこそ追い詰めてくるような口ぶりで……」

 「ええ……そうなんですか? それってひどいですね……」

 川村絵里は自分のことのように痛々しい表情を見せてくれた。たとえ社交辞令でも嬉しかった。

 「ここにも何度か、その彼女ときたことがあるのだけど……そのときは……まだ優しい子だったな……ここのヒノキの香りとか涼しい風、川の水に一緒に触れたりして、楽しかったことしか記憶にないな……。」

 「……何がその人をそんなに変えちゃったのでしょうね?……。ねえ、さくらさん?」

 僕は度々失礼だが、すっかり横にいる潮崎さくら……元子役タレントの存在を忘れていた。僕は心ではそう思ったが、構わず話を続けた。

 「結局、騙されていたのだろうね。それを見抜けない……というかもっと早く察していれば……。彼女は最初から金銭とかプレゼントとか物質的なもの目当てに僕に近づいたのだと思う。趣味をあわせてくれたように見せたのも結局そのためなんだ。ああ、馬鹿の極みだよねー。」

 自嘲気味に僕がそこまで話を終えると、元子役タレントはそこで思わぬセリフを口にした。

 

 六

 

 「パンパカパーン」

 潮崎さくらは明るく声を出した。ただ、なんとなくだが……なんとなくその明るさに空々しさがあるような気がした。

 「ど……どうしたんですか、いきなり? しかもパンパカパーンってちょっと古くないですか?」

 川村絵里は訝しげに潮崎さくらを見つめる。

 僕は言葉もなく、元子役タレントを見つめる。彼女は相変わらず、笑みを添えたままだ。

 「うんとね……前の彼女をすっかり忘れて、新しい恋が始まるようにオマジナイを一つしてあげようかなーなんて」

 無神経な元子役タレントは言った。正直、僕は彼女にイラついた。余計……いや余計という言葉じゃ生ぬるい……、邪魔以外の何者でもない。

 そう、もし彼女がいなくて、川村絵里が一人でこの地に着ていてくれていたら、こっちも余計な気を使わずに済むのに……。もっと川村絵里との距離を近づけていられたのに……。

 「それって、どんなオマジナイですか?」

 川村絵里はさっきとは変わって、好意的に尋ねた。

 潮崎さくらは、ボールペンと手のひらサイズに納まる、若い女の子が好きそうな、かわいらしいメモ帳をベリっと一枚ちぎって、

 「これにその元カノジョのイニシャルを書いてくださいー。」

 と僕に手渡してきた。

 僕は……不快感をあらわにする。

 「……何の意味が?」

 「いいから、騙されたと思って、やってみてくださいよー。すっかり忘れて、次の恋へズキューンと一直線っ!」

 面倒くさい。早く済ませたかったので、僕は乱暴に前の付き合っていた彼女のイニシャルをかき、彼女の手に戻した。

 「……もし変わらなかったら?」

 僕は尋ねた。

 「えっ?」

 「……君の言うオマジナイとやらの効果がなかったら?」

 僕は挑発気味に尋ねた。

 「その点は大丈夫です。そんな事を考える必要ないですよー。」

 いまいましい元子役タレントは陽気に答えて、僕が手渡した紙を見て、

 「……そうか。Y・T……。突然ですけど、目の彼女の名前を当てさせていただきますねー」

 僕は思いがけない彼女の言葉に全身が硬くなり、頭が真っ白になった。息をするのも忘れそうになる。

 潮崎さくらは僕に近づいた。近づいたと言うより、目と鼻の先まで踏み込んできた。彼女の顔が僕の視界の中でアップになったかと思うと、さっきの紙を握り締め、僕の目前に

かざした。

 「見てくださいねー、この右手を……。ナムアミダブツ……ニャムアミダブツ……」

 僕は気がついた。おちゃらけている彼女に反して、僕はものすごく緊張に全身が強張るのを感じ、彼女に言いなりに僕は彼女の右手を見つめていたが、不意に

 「荒橋さん……。右の上着のポケットに何か入っていますよ?……。」

 「……え……右……?」

 「そう、右のポケットでーす。」

 僕は、自分の上着の右ポケットに手を入れてみると、何かしら紙切れが入っているようだった。

 手にとって見ると、ていねいに四つ折りに折られている紙で両手で広げてみると、その紙面は、若い女の子が好みそうな可愛らしい黄色い花柄……おそらくタンポポをイメージしたと思われる手のひらサイズの小さなメモ用紙だった。

 「これが何か?」

と僕は言おうとしたが、そこに書かれているものを目に入ると、途端に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を抑えることが出来なかった。

 そこには書いてあるのだ。

 僕の付き合っていた女の名前……。

 タカヤナギユリ

 とカタカナで……。


 七


 なぜだ……なぜ?

 この鬱陶しい元子役タレントは何を考えている? なぜ知っている? 何を策しているのか?

 ……いや待て……、もしかして知り合いだったのだろうか……。ユリの知り合いか?

 僕は思い切って口を開いた。

 「……知り合いなのか?」

 駄目だ。ビビッてしまっていて声が震えてしまっている。これしきのことで……。しっかりしなくては……。ただ名前を知っていたからどうだと言うのだ?何をそんなに焦る必要があるのか?

 「ごめんなさーい! ……でもある意味忘れられたでしょ?」

 元子役タレントは、憎たらしく平然と言ってのける。続けて、

 「ここに彼女の名前がある……ということが逆に……むしろ忘れさせてくれるかなーなんて……。どうですかー?」

 僕のことをどこまで知って、言っているのだろうか……。満面の笑みを携えて彼女は言った。

 僕はいらだつ感情を抑えられずに、

 「さっきの僕の質問は……?」

 「ああ! ごめんなさいっ。ユリさんと知り合いかって事でしたよね? いや、知り合いじゃないですよ。」

 想定外の回答に僕の声がまた震えた。

 「……なぜ……なぜ?」

 「……いやー、だからオマジナイですもの。」

 「……わかった。そろそろ真面目に答えてくれ。僕は負けを認めるから……。そのオマジナイの種明かしをしてくれないかな?」

 「うーん。」

 少し潮崎さくらは首を小さく傾げ考えた。

こうした仕草の一つ一つが今では非常に気に障ってしょうがなくなっていた。

 「あっ、じゃあこうしようかな? これから私が質問するので……。それに正直に……。本当のことを言ってくれたら良いですよー。」

 「ああ、わかった。」

 質問? ……何を聞いてくるのだろうか……? 前の彼女のことなのか? それとも……、

 ああ、何てことだろう。今短い時間ではあったけど……。このオマジナイが始まってから、彼女の存在を忘れていた。今一番僕の中で愛おしい存在のはずの……川村絵里のことを……。

 僕は川村絵里へ視線を移した。ちょっと不安そうな目つきで視線を潮崎さくらへ送っている。

 質問と言うのは、僕の彼女に対する想いについての質問なのだろうか?

 「じゃあー、質問しまーす。荒橋さん。」

 元子役タレントは一呼吸置いた。僕は石のように身体と心を硬くした。

 「殺しちゃいましたよね。一つの命を……。高柳ユリさんを……。」

 

 八


 僕は今目の前の風景と、自分の耳を疑うあまり、僕は急に周りの景色がぼんやりしてきた。

 息が苦しい……。

 「大丈夫ですか? 具合悪いです?」

 二人のどちらかが、僕に声をかけたようだが、どちらの声だか判別が出来ない。それくらいにどうにかなりそう……いや、どうにかなっているようだ。

 「……死んだのか? ……ユリは……?」

 僕はやっとの思いで、声を振り絞った。

 「はい……、亡くなりました。」

 さっきから彼女の言う事が理解出来ない。とにかく落ち着かなくては……。

 「……本当なのか? なぜ?」

 「…………。」

 忌々しい元子役タレントは、答えず僕の様子を見ているようだ。川村絵里は僕の顔と潮崎さくらの交互に見ている。今目の前の会話が、どういう意味を持っているのか理解が出来ずに、うろたえているようだ。

 「質問の事は覚えていますか?」

 元子役タレントの声音は、さっきより真剣さを増し、低い声になってきた。

 「質問? 何のことだ?」

 「高柳ユリさんを殺してしまいましたよね?」

 潮崎さくらの声音は低い。

 「いや……殺してはいないが……。」

 僕は息を思い切り吸って、続け様に

 「さあ、正直に言ったよ? タネを……なぜ彼女のことを知っている? しかもなぜ死んだことを知っている? そして、どうして僕が殺したと質問した?」

とまくし立てた。

 「なぜユリさんの事を知っている……は答えられないですね。正直には答えてくれていないので……」

 潮崎さくらに笑みはすっかり消え、真剣そのものである。声が低くゆっくりとした口調で、さっきまでとは別人のようだ。

 「で……ユリさんが殺されたことを知ったのは……。今朝多摩川で遺体が見つかったと、知っているからです。これでネットのニュースで……。」

と潮崎さくらは携帯電話を取り出した。

 「それで……、何だっけ? ああ、どうして荒橋さんが殺したと質問したか、でしたっけ?」

 「そうだ。失礼にも程があるだろ?」

 「さっき、高柳ユリさんと別れたのはいつって言っていましたっけ?」

 

 九


 何なんだ? この女は……? 全てを見透かしているような顔でこっちを見ている。本当に忌々しい。

 こいつさえいなければ。

 胸の中で、その言葉を短い時間の中で、何度連呼をしたことだろう。

 まずい……、非常にまずい……。どう答えればいい?

 僕は言ってしまったのか? 何か致命的な……辻褄が合わないような事を……。

 別れたとはいつと言った……だと?

 そう。確かに潮崎さくらの言うとおり、僕は高柳ユリを殺した。あの忌々しい女を殺した。たくさんの男を騙し、欺き、傷つけた……、あの女を殺した……。この間のゴールデンウィーク最終日だった。

 先ほど述べたとおり、そのとき付き合っていたあの女の態度や性格は、出会った頃のそれとは別人のように変わってしまった。

 出会った頃……。彼女は僕のあまり一般ウケをしないと思われる趣味に対して、非常に踏み込んでくれたように見えた。

 「雄馬さん、次ここ行きましょう」 

 「こういう静かそうなところで、ゆっくりとおしゃべりをして、周りの自然に癒されたいですね!」

 とか言う言葉にすっかり、僕は真っ逆さまに有頂天になっていたのだ。今、川村絵里との出会いで感じたように、希少的と思える自分の趣味へ一緒にふみこんでくれた……。とばかり思い込んだ。無様なほどに僕は心底うれしかった。

 やがて去年の冬から、これも前述したように態度が一変し始める。

 「雄馬さん、私達、付き合い始めて今幸せ。その出会いと今の幸せの記念品を買いたいのだけど……。実はお金がなくて……御願い貸してもらえる?」

 僕は

 「別に良いよ、僕はユリちゃんがそばにいるだけで……。」

 「だめ……だめなの。目に見える何かが二人に無いと、人間は忘れてしまうのよ。幸せを……。人間は勘違いするわ……。その幸せが当たり前のもの……とね。」

 彼女の容姿はスタイルはやや痩せ型ではあったが、顔は清楚を絵にしたような……テレビでアナウンサーやいい教育を受けた令嬢……と言う雰囲気を醸し出すような、目と鼻も口も謙虚で整った顔立ちで、ファッションもそれに準じた白系の色を中心とした明るい色のワンピースやシャツ、ブラウス、スカートを好んで着るのが多かった。

 その日までは、イメージどおり、怒りや涙などを激しい感情に載せて表に出しすぎることは少なかったが、

 「雄馬さんにはわからないかもしれない……。実は私の父と母が……その幸せを忘れてしまった、というか自分から手をはなしてしまったの。それぞれの欲望のために……。」

 とその言葉を言い終わらぬうちに、彼女の目から涙が次々とこぼれた。

 「私の両親は結婚式もしていないし、婚約指輪とかもしていない……。母が言っていたわ……。そういう目に見えるものをのこそ無かったから、お互いに愛や幸せを忘れ、己の欲望に走ってしまい、悲惨な離婚になったの。」

 そして彼女は続けた。ただし、それまでの彼女が見せたことが無い、恐怖と怒りの入り混じった表情に変わった。

 「母は父と離婚して、無関心だった私に暴力を振るうようになった……。そして母が可愛がっていた息子……私の弟が、学校に行く途中に私の目の前で車に跳ねられて亡くなってしまった。あのとき……。」

 彼女は、ここまで話しを進めると、顔が歪み始めた。おそらく自分の運命に対する憎悪によるものだろう。そして声はうめき声に近いような嗚咽を混ぜて、

 「……母は弟が死んだことを、弟の近くにいた私のせいにっ! ……。あなたのせいだ!あなたがしっかりしていれば、あなたさえしっかりしていれば……! あなたが代わりに死ねば……と様々な言葉による心への暴力と、火のついたタバコを投げつけたり、押し当てたり、殴ったり、蹴ったり……と身体への暴力……。痛いっ……。痛みと恐怖に耐える日々だった。」

と彼女は振り絞るように伝えた。

 いつもは落ち着いて、笑顔を向けてくれて、僕の趣味にも合わせるときにも、常に笑顔と落ち着いた仕草しか見せたことが無かった彼女が、初めて見せた憎悪と悲しみに塗れた過去……。少なくともこの時点では、僕は衝撃的で大量の鉛を飲まされたように胸が重くなった。

 「母さんは変わってしまった。父と別れてから酒と暴力ばかりの日々だった。」

とやや落ち着いて彼女は言って、

 「私は人って、すぐに忘れてしまう生き物だと思うの。それも自分に向けられた愛情だとか、日頃の幸せだとか……良いものは忘れて、嫌な事……。私が今言ったような、怖い、悲しい、憎たらしい……そういった感情は忘れづらいけど……。だから、愛情を思い出すような……なるべく忘れないような目に見えるものが必要だと思うの。」

 結局、僕は彼女にお金を貸して、彼女は腕時計を買った。はっきりいって、当時の僕には目玉が飛び出るような値段の時計をペアで買った。

 「高いものほど……、高価なものほど、忘れづらいものなるのよ。これで二人は大丈夫……、きっと……。」

 結果を言うと、このお金は現在も返してもらっていない。そればかりか、次から次へと今と似たようなことを言って、お金を借りるという名目で、色々なものをものを買い始めた。バッグ、腕時計、携帯電話、ぬいぐるみ……お金を貸す、愛情を目に見えるもので……とやらでさまざまなものを買わされた。

 いい加減、僕も懐がもたないので、その旨を打ち明けると、怒ったり喚いたり時には泣き叫んで物を投げたり、罵倒されたりしたことは前述のとおりである。

 でも、この時まではそれでも別れたくなかった。趣味を共感してくれる貴重な存在、しかも「このやり取り」さえ除けば、至って普通の恋人なのだ。別れたくない……。別れてしまっては、もう二度と「誰か」と共感できないないかもしれない……。

 僕はまだ「ここで触れていないあの事実」を知るまでは、そう思っていた。



 今思えば、何て僕はマヌケなのだろう。

 そしてあの女は何て不用心だったのだろう。

 あれは忘れもしない、二〇一三年三月二十九日の金曜日の夜だった。

 その日は会社の仲間と何人かと集まって居酒屋に飲むことになり、いつもより帰りが遅く、僕が住んでいるマンションの最寄り駅から一人で帰途についていた。久しぶりに酒を飲んだこともあって、ほろ酔い気分で怪しい足取りだったのだが、ふと前に一組のカップルと思われる男女が歩いていた。

 そのカップルは女の方はグデングデンに酔っぱらっているらしく、歩いてはいるものの体のほとんどを男の方に預けていた。

 「……おいおい、のみすぎたんじゃねーの?」

 男の方は声と後姿から推測するに、年齢は四十から五十は過ぎているだろうか?声が脂ぎっていて、上品そうな雰囲気は感じられない。

 「だーじょーぶーよ!ダイジョウブ!」

 「……まあ、いいけどよー。俺の家まであと少しだから……。そこでゆっくり休もうぜ!」

 「ええー、本当に泊まるのー?!」

 「あったりっめえだー! お前オレに何をしたか忘れたんじゃあるまいな?」

 「ワースレマシター!!」

 女は明るく陽気に答えたのに対し、男はフフンと鼻で笑って少しすごむように、

 「じゃあ、思い出せてやるよー! このやろっ!」

 「きゃあ!ギャハハハ!ちょっとくすぐったーい!」

 男は女の両手首を片手に掴み、女の頭上に持ち上げた。

 「ちょっとー何するのー。」

 女には陽気さが残っている。  

 ゆっくりゆっくりと、大きな声で

 「お前はなぁ……。おととし出会ったころから、俺を散々だましていて、骨抜きにしてやがったんだなー。いくらお前に貢いだとおもってるんだ!? ここで恥ずかしい思いをさせてやろうか?」

 女は男に両手首をつかまれ、身をくねくねさせてもがきながら、

 「やだよお、やだやだ! きゃははは!」

 男はフフンと下品に笑って

 「じゃあ、おとなしくついてきな! 少しくらいお礼をお貰ってもバチは当たらねえだろ?」

 「はああい!お邪魔しまーす!ヒャハハハハ!」

 「言っておくが、オジサンのお仕置きは厳しいぞー! 覚悟しとけよー! がははは!」

 男の両手は女の両手首から、上半身の方へ滑り込んでいった。

 「ちょっとー! おうちいってからでしょ!」

 女は男に呼応するように下卑た笑い声を響かせ、

 「いやあ、男はバカで本当にあたし助かるわー! 利用できるものは本当に利用させていただきままーす! それが運命の交差点! あはは!」

 男は女の力が入らない手首あたりを突かんで、そのまま背中に回しこんで、

 「こういうおバカさんは、たーっぷりしつけないとな!」

 「あたしでも、オジサンが好きなことは嘘だったけど、ベッドの上は本当上等! ファーストクラスねえ!」

 「この馬鹿野郎が……。好きは嘘だったなんて堂々と言いやがって! 覚えておけよ! がははは!」

 「はあい! 忘れないでおきますー!ああ、頭痛ーい……。きゃはは」

 うっとおしいな……。サッサと追い越そうか……。

 僕はそう思い、カップルの横を追い越そうと、歩調を速めて、ちょうど横に並んだとき……、

 「ああー、きもちわるっ!」

 女が大きな声出を出したので僕は驚いて、おもわず女の顔を見た。ちょうど街灯の真下で顔も表情も良くわかった。

 このとき僕は息をするのを忘れていたのではあるまいか……と言うほど凄まじい衝撃を受け、そこに立ち尽くしてしまった。

 その女はユリだった。

 ユリを連れた男は、こちらの様子に気がついて、

 「おお、何かようかい!」

 案の定、ガラが悪い口ぶりだったが、そんなに悪態づくような態度ではなくむしろ不思議そうに男は僕に尋ねた。

 「……いや……、いえ……。」

 その時、ユリはこちらを見て、少し不思議そうにして

 「あれ?どこかで会ったような…どこかのバカでヘタッピに似ているような……。」

 そう聞こえた。バカでヘタッピ……。この部分は声が少し小さくなり、はっきりとは聞こえなかったがそう聞こえた。僕のことと確信した。

 バカでヘタッピ。

 これが彼女の本性、そして僕への真実なる想い……。それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 僕はたまらなくなり逃げ出すように走り去った。

 そして、その日から僕は考えた。何らかの報いを彼女に受けさせなければ……。あの男との会話の内容から察するに彼も騙されていたのだ。

 自分だけじゃない。自分だけじゃない。騙されたのは自分だけではない。苦しい屈辱的な思いをするのは自分だけじゃない。

 僕やあの男……と同じ被害者が増えないように……。あの男も笑ってはいたが、内心ショックなはずだ……。相当ショックなはずだ……。

 僕はある結論に達した。

 そうだ……。いなくなればいいんだ。こんな嫌な……こんなに苦しく屈辱的な思いをさせることがないように……。

 あの女は悪だ……。邪悪な欲にむさぼる悪鬼……。自分の利益のためだけに「弱さ」や「やさしさ」につけ込み、踏みにじる……。放っておけば、僕と同じような被害者が現れる可能性がある。

 こんな事を悶々と考えていた。もちろん彼女にはこの心を悟られないように……。

 そして何気なく、つけっぱなしだったテレビのニュースでゴールデンウィーク最終日は何やら爆弾低気圧とやらが来るらしく、荒れ模様の天気になると、激しい嵐になる恐れが高いと伝えていた。

 これはもしかしたら……とある思いが僕の胸に去来していた。嵐…、運命が後押ししているかもしれない。不思議とそう思えてならなかった。

 そして実際にその嵐が予報がされていた前日にユリを家に呼び、泊らせるような算段を僕はとっていた。

 今は何をネタに彼女を呼び出したかははっきり覚えていないが、確か「プレゼントがあるから、直接渡したい。うちに来てくれ」とか何とか言って自宅のマンションに連れ込んだのだと思う。

 「あれ? おかしいな……あっ! まさか……。」

  僕は声を大きくしていった。

 「……どうしたの?」ユリは手にある雑誌に視線を向けたまま言った。

 「……カードを落とした! たぶんあそこだ! あの河川敷の鉄橋の下だ!」

 「……カードを落としたって、何のカード?」

 「……クレジットカード……。」

  僕はか細い声で答えた。

 「ええ!?」

  ユリはそこで初めて、雑誌のページを閉じ僕の顔を見た。 

 「何やっているのよ!」

  彼女は僕の不注意を叱責した。当然その叱責の声音にはエゴイスト……いや邪悪に身を委ねる悪鬼そのものだった。

 「悪いけど、探すのを手伝ってくれないか? たぶんあの橋の下だ……。」

僕はユリに頼んだ。

 「え? 探す? 冗談でしょ? 一人で探してきなよ!?」

 「……今現金が手元に無い……。カードが無いとプレゼントも……。」

 「ええ!? プレゼントも一緒なの?」  

 「……最近橋の下の……川が流れる音と橋の上を列車の音にもはまりつつあって……。浸っていたら、その場にカードとプレゼントを……もし、その場所を探して見つけられなかったらカードを使用停止手続きして……。」         

 彼女は部屋の窓の外をみた。予報通り雨が土砂降りで風もすごい。

 「……この天気よ?! 本気なの?」

 「……これ以上天気が悪くならないうちに……。頼む急いで……。」

  僕は言った。

  それから彼女は何かと渋ってはいながらも、薄手のコートを着て外出の準備を始めた。

 「駅までタクシーで行こう。タクシー代くらいはあるから……。」

 「それなら最初っから呼んでおいてよ!? この天気じゃない!」

 駅までタクシーで行き、ダイヤが遅れ始めた鉄道に乗り、ようやく目的地の鉄道鉄橋がある河川敷にやってきた。河川の水は獣のごとく飛沫を立て暴れまわている。

 「……どのへんよ!? この雨の降りようじゃ、ここも危ないかも……。」

  ユリは声を絞り出すようにしゃべっているが、叩きつけるような雨の音と増水した河川のしぶきの音でかき消されそうになっている。

 「もう少しこっちかな……。確か鉄橋の下で」

 と僕は彼女を鉄道鉄橋の下に誘い込んだ。

 「ところでなんでその鞄持ってるいるのよ?」

 彼女は僕の右手に持っている片手を見て言った。

 「タオルとか着替えとか……。」

 「ふうん。それでどこよ?もうっ!」

 彼女はかがみこんで足元を探し始めた。当然二人とも雨でずぶぬれな状態になっている。

 確かにタオルは入っている。着替えもある。だが着替えは一人分だ。その代わり鉄パイプにタオルが縛って巻いてある。

 僕は決して彼女にに見えないように、手袋を両手にはめて、鉄パイプに縛ってあるタオルをほどき、彼女にゆっくり近づき後ろから力いっぱい頭へ振りおろした。。

 彼女は声にならないような悲鳴をあっげ、その場に倒れこんだので、さらに僕は馬乗りの状態になりさらに彼女の頭部に振りおろした。

 1回、2回、3回、4回、………………。

 何回振りおろしたのだろう、しかし嫌な感触だ。早く終わってくれ!と思っていたらいつの間にかピクリとも動かなくなった。

 しかし、血があまり出ていないが大丈夫だろうか。死んだのだろうか?僕は不安だったので、念のため首を五分くらい絞めておいた。

 そして動かなくなった彼女の体を増水した川へ投げ入れた。

 あらかじめ、下見をしていて人がいなくなる時間帯や見えにくい角度は調べておいていた。

 僕はさっさとその場で着替えて、さらにレインコートを着てその場を去った。

 もうこれ以上彼女に泣かされる男は出ないのだ。僕は自分の試練と運命に勝った! 彼女へのおぞましい思い出もこの豪雨が流してくれる。

 僕の胸の中は外の天気とは対照的に晴れ晴れとした気分だった。

 

 十一

 

 「もしもーし、忘れちゃいました?」

 潮崎さくらは左手で電話の受話器をまねて陽気に話しかけてきて、僕ははっと我に帰った。

 何を話していたのだろう? つい僕は自分の物思いにふけってしまい、彼女との会話を忘れかけていた。

 あ、そうだ。僕がいつ別れたと言った? と言う類の質問だった……。

 しかし、この質問に何の意味があるのだ?     

 何か僕の言っていることに矛盾があったのか? なぜこのことがユリを殺している事がバレテしまったのか?

 僕は口を開こうとした。しかし、また閉じてしまった。

 駄目だ……。これらの意味を理解しないと、ただでさえまずい状況なのに、生半可な答えをしたら墓穴を掘ってしまう……。

 そう考えていたら、とうとう忌々しい元子役、潮崎さくらが口を開いた。

 「あれー、さっき言っていたじゃないですかー? 何で答えられないんですかー?」

 と彼女は陽気に……僕から見るとあざ笑うように言った.そしてこれまでの陽気さを打ち消して、低い声で

 「……まさか、答えられないんじゃないですか? あることに気がついてしまって……」

 と続けた。

 あること……。あることって何だ? 何なんだこの女! 人を見透かしたように……。

 息が苦しい。息をするのを忘れてしまう程、緊張してしまっていたのだろうか?落ち着かねば……、落ち着かねば……。

 ここでこの二人に出会わなかったら……。いやこの忌々しい元子役にいなかったら……。こいつさえいなければ……。

 そうだ! こいつと周りの隙を見てこいつを殺してしまえば……。とりあえず今の状況を出し抜ける? しかし……。

 僕は川村絵里のほうをみた。彼女は先ほどの元気な様子はすっかりなくしてしまい、下をうつむいて僕を見ないようにしているようだ。

 この廃墟好きの子まで手にかけなければいけなくなる。それを僕が出来るか?

 この様子を見ると、既に彼女は僕に対して疑惑あるいは恐怖の念を抱いている事だろう。ここから二人で仲良く……という状況はもはや不可能と見た方がよい。ではいっそのこと、悪いが二人とも……。

 それとも全力で逃げるか……。そうすると、彼女二人は警察に通報して、僕は追跡されることになる。

 いや、全てを自白し彼女たちに許しを請うか? 見逃してくれ! 見なかったことにしてくれ! さもないと二人とも殺さなくてはいけない……。

 「あのー、何考えているか知りませんけど、既にお巡りさん呼んでいますからね。」

と忌々しい元子役は冷たいまなざし、そして低い声で言った。

 「え!」

  川村絵里はびっくりしたように、潮崎さくらの顔を見た。

 「まだ荒橋さんが、何をしたって決まったわけじゃ……。」

 川村絵里は声を震わせて言った。

 「……念には念を入れて……ね。」潮崎さくらは答えた。

 僕は決めた。決めてしまった。もうもたない、疲れてしまった。もうここで全てを言ってしまおう。それがあとにも先にも一番楽な気がする、そんな気がした。

 「僕が……そうだ。殺した。殺されて当然だ! 何人もの人間の思いを踏みにじり弄んだんだよ!! ぼくがやらなくても……、そのうち他の誰かに……。」

 続いて、僕は前に書いたような体験談を詳細に彼女たちに伝えた。そして

 「僕は法律では殺人罪で裁かれるだろう。でも僕は自分がしたことに……」

 ここまで話したところで、何人かの男がこちらにやってきて、そのうちの一人が警察手帳らしきものを見せるや否や、

 「失礼、すいませんが、この辺で刃物を持った男が現れたと通報がありました! すぐにここから避難してください!」どうやら私服警官のようだ。

 「あ……通報したの私ですー。」駆け付けた警官達の緊張感とは対照的に、あっけらかんとして潮崎さくらが言った。 

 「えっ!?」警官達は一斉に目を丸くして、潮崎さくらの方を向いた。そして口々に

 「その刃物を持った男はどこです!? お怪我はありませんかっ!?」

 「全然大丈夫でーす。ここにいる全員無傷ですよー。ただこの人は……。」潮崎さくらは僕を向いて、

 「殺人を自白しましたよー。」

 今度はすかさず警官たちは僕を向いて口々に、

 「あなたっ! この人の言っていることは本当ですかっ!?」

 僕は警官達を無視して真っ先に潮崎さくらを見た。たぶん憎悪のまなざしで彼女を見ていたに違いない。

 僕は彼女に

 「もう正直に言ったぞ! あの答えをまだ聞いていない! なぜ僕が殺したってわかったんだ!?」と声を荒げた。

 「ええと、まずはなんか袋に入った手袋を持っていたましたよね?ちょっと男の人が袋に入った手袋って何だろう……って、それがきっかけでした。」

 僕はそれを聞いてはっとした。確か写真や本を彼女に見せるときに、袋の入った手袋があった。あれはユリを殺したときにはめていた手袋……。なんとなく捨てるにも怖く、家にしまうにも怖くてつい持ち歩いてしまった。

 「あと警察やっている姉からメールで、ユリさんがこの辺の写真を持っていたことと喉元に人の手で絞められたような跡があること、事故より事件性が高いことを聞いたのです……。それでもしや……ここのなじみが深い人物……、もしくはその人物と関係する人物か?」ここで一旦潮崎さくらは話しを切った。続けて、

 「それで失礼を承知でおまじないやらで、視線を片手に集中させ、もう片方の手でメモをポケットにいれたり、何点か質問してどのくらい動揺するかな?って……。荒橋さんが潔白だったら、大変失礼なのですが、そのときは絵里ちゃんと二人がかりで全力を出して謝れば良いかな?なんて……。」

 川村絵里は真っ赤に目を充血させていて、潮崎さくらに驚いた視線を向け、

 「さ……さくらさん、わたしも?」

 潮崎さくらは、少し微笑を向けただけで、その質問には答えずまた僕を見て言葉を続けた。、

 「そしたら結構動揺していたので……、これはなんかあると思っちゃいました。それでいつ別れたって言いましたっけ? とききました。」ここで一旦潮崎さくらは言葉を切る。

 「でもいつ別れたかなんて、具体的なことは何もいっていないのですよね……。」

 僕は唖然としてしまった。また息が止まりそうになった。これは怒りによるものだと思う。この卑劣なペテンに向かって……。

 「あわよくば動揺して本性出してくれないかな?自白してくれないかな?ただそれだけです……。」

 僕は頭がくらくらするのを何とか取り持ち、何かを言おうとしたが、言葉が浮かばない。

 「はい! ここまで! 続きは車に乗って警察署まで全員着てもらおうかな。ぜひとも詳しい話を聞きたい。とても興味深い。殺人の自白がどうのって。」

 「携帯に録音もしてあるので、ばっちりですよー。」

 だんだん意識が遠のいていく気がした。このあたりはもうあまり記憶がない。

 そのとき、彼女……川村絵里はどうしていたのだろう?

 どういう気持ちで僕を見ていたのだろう?

 運命という言葉を本気で信じつつあったのだが、ひどい裏切られようだ。

 僕は何かもがどうでもよくて、心と体から僕の感情が非常に薄くなっていたのだが、それだけが……彼女に対しての想いがわずかに名残惜しさが残った。

 ただあまりにも、絶望的過ぎて彼女に視線を送ることなどできなかった……。


 十二 

 

 それからすぐに二人の警官に挟まれて僕は車に乗り込み、地元の警察署まで連行され、小さい部屋の中で取調べを受けた。僕はありのままに包み隠さず素直にしゃべった。殺すときに何も躊躇がなかったこと、そして現在も後悔がないこととその理由も含めて……。僕は正義のためにこの手を汚さざるを得なかったのだ。さもないと、ほかの人間の手によってどっちみち殺されたか、だまされた男たちの心が殺されていったことだろうと……。

 それを警官は真剣にとってくれたか、それとも相手にせず受け流していたか定かではないが、ともかく僕は殺人を自白したものとみなされ、逮捕されることが決まった。

 「二十三時四十八分に準現行犯で逮捕……。」

 準現行犯って言うんだ……。人って、こんなにすぐ逮捕されちゃうんだな……。

 とぼんやり思っていた。

 そして、いろいろなものを没収されてしまい、留置所入りとなってしまった。テレビ等でよく耳にする留置所だがまさか僕が入るとは……。とはいうものの特に起伏した感情は伴わずぼんやりと考えていた。

 やがて次の日に検察に僕は身柄送検となったようだが、引き続き留置所で拘留、夜に弁護士を連れ添って母親がやってきた。

 ありのままの事実を話すと母親は感情あらわに怒ったり泣いたりしながら、最後に励ましの言葉をかけた。

 ユリとユリの遺族へ償うために一緒にがんばって生きていこうという旨、そして女性から預かったという手紙を渡してくれた。可愛らしい犬のキャラクターのイラストに封筒で、あて先は若い女性の筆跡で自分の名前が書かれていた。差出人を見ると住所は書かれておらず潮崎さくら、川村絵里と連名で書かれていた。

 僕は母親達の後姿を見送った後に急いで中身を取り出した。あらかじめ中身は検閲とやらをされていたらしく、封は開けられていた。

 中身は封筒と同様に可愛らしい犬のイラストがプレ印刷されて便箋を僕はいささか興奮と緊張が入り混らせながら内容に目を通した。便箋を持っているその手は震えていた。

 文面は若い女の子らしいでしたためられ、内容は次のとおりだった。

 荒橋さんへ

 こんにちは!!もしかしたらご覧になっているタイミングによっては、おはようかもこんばんはかもしれませんが、許して下さいネ!!

 あの時は時間が無くなってしまい、言いたいことが最後までいえなかったことがあるので、手紙を書くことにしました。

 もうわかっているかもしれませんが、やはりどんな理由があっても、どんな人でも殺してしまうことは良くないことだと私達は思っています。

 殺人は当然殺す人がいて、殺される人がいます。殺す人は今痛みを感じないかもしれませんが、心に深い傷を負い、ゆくゆくはその傷が痛み始めることがあるとおもいます。そして忘れてはいけないのが、荒橋さんの事を愛しているお母さんやお父さん、兄弟や親類と友人の方々を悲しませてしまうと思うのです。そして荒橋さんが将来、好きな人が出来て、そして子供をもし授かった時も色々と悩み考えなければいけない時が来ると思います。

 人は感情を持っています。他の動物も感情を持っていますが、違うのは良いものも悪いものも残っていく事です。その中でも恨みや妬み、憎しみはあまり持ってはいけないと思うのです。

 戦争の悲劇がそうです。戦争はたくさんの人が殺しあいます。戦争が終わっても今もなお色々な人々が悲しみ、中には自分の先祖がヒドイ目に合わされた……という思いが恨みとなって今もなお抱いています。こうした負の感情が受け継がれてしまっている事が、本当につらい事だと思うのです。

 だからどんなに正義を語っても、被害者の方が悪い人でも荒橋さんの考え方には賛成できないです。

 荒橋さんはこれからまず罪を償っていくこととなり、つらい事があるかもしれませんが、がんばって生き抜いてください。そしていつかは許されるような時になったいつかは……どろーんとした廃線でこしをかけて、旅行や廃墟の話をできればと思っています。どうかがんばって生き抜いてください。恋人や好きな人同士ににはなれないと思いますが応援しています。

 潮崎さくら 川村絵里

 

 僕はその手紙を読み終えた。少し悔しかったのだけど、真冬の曇り空に薄日が差し込んできたように、少しだけ心が温まっている気がした。

 それは本当に不思議なぬくもりで、泣きはしなかったが少しだけ目頭がいたくなった。

 いつかはドローンとした廃線で……。彼女とまた廃墟、廃線や良好の話を自由に出来るのだろうか?

 音楽で形式に捉われないものを狂詩曲……ラプソディというらしいけど、

 何も制約や遠慮することなく、彼女とまた話が出来るのだろうか?

 短い時間だったが、本当に楽しいラプソディだった。何も気にすることなく、捉われることなく自分達の趣味に意気投合できる数少ない仲間……。その仲間……彼女と出会えたのが本当に幸福だった。さらに彼女の優しく明るい性格がその思いを強くさせる。

 またいつか話したい。彼女と廃線でラプソディを……。

 それにしても……。僕は奥歯に物が挟まったような、やや納得が出来ないものが残った。

 潮崎さくら

 この名前がこの手紙に無かったら、もっと幸せな気分になれただろうに。……というよりも、どう考えてもこの名前は僕にとって不要としか思えない。

 そう思うと、僕は思わず苦笑いを禁じえなかった。 






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[一言] ツイッターより失礼します。 最初から中盤にかけての主人公の恋模様から一転、唐突に明かされる衝撃の事実。まさにミステリーといった感じで面白かったです。 もしもさくらがいなければ、もしも連絡先だ…
[一言] 読み始めました^ ^ もしかすると木曽の辺りがモデルかなあ。
[良い点] あらすじを読み旅、出会い、事件と私の好みだったので読み始めました。実際電車で旅をしている気分を味わいながら、出会いにワクワクしていると、、一転。やられました。最後までスラスラ読めて展開もオ…
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