その21
ドアが閉まり、電車が発進した。まだだ、諦めるにはまだ早いぜ……。アヤちゃんがこの車両にいるのは確かだ。車内を捜せば絶対いる。人と人の隙間を縫って歩く。せまい、若干押し広げるように道を開ける。
その時だった。
「この人痴漢ですっ!」
スーツを着た女の人が甲高い声でそう叫んだ、おれの手をつかんで掲げながら。乗客の視線が一斉におれに集まる。
はあ? はあ⁉
「ちょっ、違います、おれ痴漢じゃないっす!」
「ふざけんな、お尻触ったじゃないの!」
「触ってねえ! 片手で鞄持って、片手で道開けて、どう触るっつうんだ!」
「子供なら何してもいいとでも思ってんの⁉」
「だから、違うっつーの!」
まずい、騒ぐなって! 他の人めっちゃ見てるじゃん! 身の潔白を誰か証明してくれないかと、周りを見回した。みんな怖い顔してるし、誰か……あっ。
目が合った。その人はおれが追いかけていた、憧れていた、アヤちゃんだった。席にちょこんと座っている。
ああああああぁぁぁぁああ! 一番見られたくない人に見られたあああ! アヤちゃん誤解だ、おれは無実なんだっ! ……もう終わった、こんな変態に誰が振り向くんだ。
ユウヤも卓球辞めそうだし、いっそのこと別の部でも創ろうか。そうだなぁ……枕投げ部! これだ、枕投げで全国を目指す!
「あの、その人痴漢じゃないです」
くらえ、低反発シュートォ! 凄まじい威力だ、おれはなんて恐ろしい技を編み出して――ええええ⁉ アヤちゃん、今なんて? 現実逃避してる場合じゃねえ!
「私見てましたが、あなたの体に当たってたのは、後ろの人のバッグでした」
……なんだって?
おれとスーツ姿の女が振り返る。見ると、若い女性が大きめの革製のバッグを手にしていた。服越しとはいえ、手のひらとバッグの柔らかさを間違うか?
「……ごめんなさい、私てっきり!」
さっきまで騒ぎ立てていたスーツ姿の女が頭を下げた。電車がちょうど停車し、ドアが開いた。
「あ、いえ、気にしないでください」
助かった~、アヤちゃんのおかげで誤解が解けた。アヤちゃんの方を向く。だがさっきまでアヤちゃんが座っていた席には、別の乗客が腰掛けていた。ドアが閉まり、電車が動き出した。
家に着いたら昼の十二時半になっていた。鞄を置き、ラフな格好に着替えた。冷蔵庫から冷えた緑茶を出し、コップに注ぐ。一気に飲み干した。
ありがとうを言えなかった。アヤちゃんのおかげでどうにか済んだけど、下手すりゃ警察沙汰だったよな? お礼を言わなきゃ。けど、次話せるのっていつになるんだ?
携帯のアドレス機能から、ユウヤの番号を選択した。電話をかけるものの、一向に出ない。
うーん、他にアヤちゃんの携帯知ってそうな人に聞いたら、変にちゃかされそうでやだな。でも他に連絡先なんて……そうだ! クラスの連絡網に家の電話番号が……あった! 見つけたものの、電話するのこええええ! 落ち着いて深呼吸して、番号を押す。冷や汗出てね? 大丈夫、いきなりコクるとかじゃないんだから。
トゥルルルル、トゥルルルル。
ドクンドクン、ドクンドクン。
「はい、霧島ですが」
誰か出た。アヤちゃんじゃない、男の人だ。
「あ、あのっ、おれ、同じ高校の戸田というんですが、アヤさんはいらっしゃいますか?」
何故か相手は返事をせず、しばらく黙り込んだ。数秒だったのかもしれないが、おれにはひどく長く感じた。
「俺はアヤの兄なんだけど、悪いがまだあいつ帰ってきてないんだ。もしかして君、アヤの彼氏?」
「いいえっ、まだそんなんじゃなくて、あ、いや、まだも何もないんですけど!」
ぎゃああ、何言ってんだ!
「その、今日電車の中で、おれが痴漢に間違えられたのをアヤさんに助けていただいて、そのお礼が言いたくて電話しました」
必死に言葉をつなぐ。すると相手はまたも黙り続けてしばらくしたあと、言葉を返してきた。
「……良く分からないけど、話があるなら直接相手に言ったほうが良いと思うんだが、違うか?」
「いいえ、そのとおりですっ」
「じゃあ、今日にでも家に来な。アヤも待ってるから」
家の住所を教えてもらい、電話を切った。切る寸前、受話器越しに含み笑いが聞こえた気がしたが、そんなわけない、聞き間違いだろう。
携帯を置き、胸を撫で下ろした。ふう、どうにか済んだ。アヤちゃんのお兄さんがいい人で良かった~。手はずを整えてくれて、本当に感謝しないとな。
午後三時、暑さ最高潮の時間。アスファルトが太陽に焦がされる。おれは門の前に立ち尽くしていた。教えられた住所に指示どおりの時間に。アヤちゃんの家は外壁が白くきれいなのと、公園のブランコが置けそうなほど広い庭があるのが印象的だった。なかなかのお金持ち?
インターホンが、押せませんっ! すんげえ緊張、暑い以外の理由で汗ダラダラ。礼儀正しく制服とかの方が良かったかな? 普段着のジーパンとTシャツ着てきちゃったけど……。いいや大丈夫、この服はおれのタンス内ランキングでも一位二位に君臨するエリート。何度もこいつらには世話になったんだ、趣旨がずれている気もするが、いけるはず! それに安物だけど、箱に入ったお菓子も買ってきた、マナーは守れてる。ポテチとか以外のお菓子買うのなんて初めてだ。そいうや人の家に訪問するときは相手を急かさないように少し遅れていくべきとか聞いたことあるけど、時間どおりの方がよくね? 礼を言う立場で遅刻とか態度悪くね? どっちにすりゃいいんだあああああ⁉
よし、もうインターホン押しちまえ! ずっと人ん家の前に立ってたらそれこそ勘違いされる。指震えるんじゃねえ、根性見せろや!
指を前に突き出そうとしたその時、門の奥のドアが開いた。
「あ、違うんです、怪しいものではなくて、今日こちらに来る約束をしていた者です!」
咄嗟に頭を下げ、まくしたてた。相手の反応がない、そろりと見上げた。そこにはおれより年上であろう男が立っていた。上はタンクトップで、下は短パンを履いている。ガタイが良い、アヤちゃんのお父さん?
「あの、もしかして電話に出て下さった方ですか?」
「……おう、おれがアヤの兄貴だ」
この人がアヤちゃんのお兄さんか。ゆっくりとこっちに近寄ってくる。
「そうですか、今日はこのような機会をつくっていただきまして本当に――」
アヤちゃんのお兄さんはおれの言葉を遮って、野太い声を吐き出した。
「てめえがアヤを付け狙う痴漢野郎か、殺す!」
なんか勘違いしてるうううう!
「あの、そうじゃなくて――」
「問答無用っ!」
おれ目掛けて門越しに拳を突き出してきた。しゃがんで避けたものの、頭のてっぺんかすりましたよ⁉
「避けんなよ、殴れねえだろ?」
まずい、目が本気だ。
「違うんです、お兄さん落ち着いてください!」
「てめえに兄呼ばわりされる覚えはねえっ!」
アヤちゃんのお兄さんが門に手をかけた瞬間、おれは全力で走り出した。
ハジメ視点その2。
この話から1年後、ハジメ率いる枕投げ部が考案した投法「トップオブザテンピュール」がアメリカ代表に猛威を奮い、世界大会を制したとか制さないとか。