part-1 「こんな姉ちゃんでごめんね」
part1.2の3年ほど前のお話です。
なぜ恭子が内気なのか、なぜ洋平は姉を気遣うのか、
その理由が分かります。
ページをめくる。
参考書のページも同時にめくる。
そして一心不乱に鉛筆を進める。
この間の模試は全国で20番だった。
最近、ぐんぐん成績は上がってる。目指すは一位だ。
そんな洋平の部屋のドアがノックされた。
洋平の集中は、残念ながらそこで切れてしまった。
「あんたさぁ、少しは外で遊んだらぁ?」
いつもどおりさばさばとした声で、恭子は言った。
「うるさい。邪魔だよ」
洋平は無機質にそう答えた。
まるで、この姉は何も分かっていない、人の邪魔しかしない、そんな言い方だった。
恭子はアメリカ人のように肩をすくめ、
「あ~あ、重症だね、これはw」と笑って出て行った。
余計なお世話だ。ここのところは毎日、こうだ。
全国模試で上位になることが、どれだけすごいことか、どれだけ喜ばしいことか、
恭子は分かっていない。洋平は不満でいっぱいだった。
それなのに恭子は、外に出ろだの友達と遊べだの、本当にうるさい。
親に言われているのだろうか?
しかし、恭子にも見習うべきところはある。
中学の恭子は2年生ながら3年生の試合にも出ている。ソフトボールだっけか?
いや、もう3年は引退したんだっけ?
しかもそうやって部活に打ち込んでいるくせに、勉強でも学年で一位らしい。
いや、トップ5だっけ?
最近はほとんど話をしないから、姉周りのことは大体しか知らない。
洋平はそこまでで物思いを止め、集中しなおして、再びノートと参考書に向き合った。
何日かして、一番最近の模試の結果が届いた。
8位だった。初めての一桁。飛び跳ねたいほどに嬉しかった。
いつもと同じように勉強を終え、リビングに下りた。
両親はもう寝たらしい。恭子だけがいた。
テーブルにうつぶせて、洋平とは反対側を向いている。
「聞いてよ姉ちゃん」
恭子の反対側に腰掛けようと恭子の横を通りながら、声をかけた。
恭子は不自然に一瞬体を強張らせた。
しかし高揚感でいっぱいの洋平にはそのリアクションに反応する余裕もなく、話は続いた。
「今日模試の結果が届いたんだ。なんと8位!これならあの私立中も余裕かな~」
「へぇ、すごいじゃん」
おかしい。いつもと反応が違う。
っていうか…
「もしかして…」
洋平は気づいた。
「泣いてたの?」
恭子はまた一瞬ビクっとして、「は?」と反射的な声を出した。
「だって…目、赤いし、腫れてるし…」
「何言ってんの?」
恭子は喧嘩腰だ。まずい、臨戦体制か?
「なんかあった…?」
「あんたには関係ないでしょ?」
「関係なくは…ないけど…」
「だいたい、何?ガリベンのくせに。どうせ友達いないんでしょ?」
それは、図星だった。
勉強ばかりの洋平には仲のいい友達などできるわけもなかったし、
だから勉強にのめりこみ、さらに友達が少なくなる。
その悪循環を洋平はしっかり理解していたが、今では開き直っているところもあった。
しかし、その一言だけで、まだ幼い洋平の怒りに火を点けるのには十分だった。
「なんだよ!こっちが心配してやってんのに!」
「だから、し、心配なんかしなくていいって言ってるじゃん!」
恭子は涙声だったが、アドレナリン満タンの洋平は気づくことができない。
「あぁもういいよ!大体、友達友達言ってるけど、姉ちゃんの友達関係だって
どうせ薄っぺらなんだろ?姉ちゃんだもんなぁ!!」
恭子の動きが、止まった。
あれ?
「もういい」
それだけ言うと、恭子は勢いよく立ち上がり、階段を駆け上り、部屋に入る音がした。
今日の恭子はおかしい。が、しかし憤る洋平は、
恭子がいなくなってせいせいしていた。
実を言うと、もっとほめてほしかった。せっかく勉強して、全国8位になったのだ。
もっと褒めてくれてもいいじゃんか。
もっと勉強すれば、恭子は…褒めてくれるだろうか?
洋平は、自分の部屋に戻ると、再び勉強を始めた。
それから数週間が経った。
いつもどおり勉強をしていると、ふいに恭子の部屋から音楽が聞こえた。
というか、最近はずっと聞こえていた。夜中だ。非常識な。
洋平は、言いに行くのもめんどくさいので、耳にヘッドホンをつけて音楽を流す。
もう毎日のことだった。
あの一件以来、姉とはまともに顔をあわせていない。
気まずさはあるが、向こうから謝るまで許さないと洋平は勝手に決めていた。
翌日、模試の結果が届いた。
3位だった。
静かに一人でガッツポーズを決めた。もう少しで一位も取れる。夢じゃない。
それを褒めてもらいたくて、またリビングに降りようとした。
姉の部屋から音楽が聞こえる。部屋にいたのか。
この際、この間の喧嘩は水にながそうじゃないか。とりあえず、褒めてほしい。
「姉ちゃん!模試!すげえよ! 聞い…?」
まず目に入ったのは、恭子の腕。
細くて白いその腕から、…赤い…から…血?
右手には…カッター…?
洋平は、理解した。急いで歩み寄る。
「何やってんだよ姉ちゃん!やめろよ!」
必死でカッターを奪い、両手を押さえる。
意外にも、恭子は抵抗しなかった。
それどころか、「はは…」と涙を流しながら笑っている。
洋平の怒鳴り声を聞いたのか、両親も部屋に飛び込んでくる。
姉は、何かが切れたように、床に崩れた。
数時間後、父親からの電話がなった。
着信音にビックリしたが、深呼吸の後に洋平は通話ボタンを押した。
「洋平か? 恭子は、大丈夫だ」
父の声は切れ切れだった。
…日本人の「大丈夫」ほど信用できない言葉もない。
聞きたくなかったが、聞くしかない。
「どうだったの?」
「慢性的心的ストレス外傷症候群、だとさ」
メモか何かを見ながら話しているのだろう。病名の部分は棒読みだった。
「それって…」
洋平は、賢い。だから、その病名は分からなくても、意味は分かった。
洋平の頭の中でぐわんぐわん音がする。
中学生…そうなるってことは…まさかとは思うけど…
「父さんもあんまり詳しくはきいてないけど、どうにも恭子の学校で、その…」
言いにくそうだったので、洋平が引き継いだ。
「もしかして、…いじめ?」
父は何も言わなかった。否定して欲しかったが、父は沈黙しかしなかった。
数日後、母が唐突に部屋に入ってきた。
「間違いないの?」洋平が聞くと、母は黙ってうなずいた。いじめは確定したらしい。
「なんで?姉ちゃんのって、いじめられるような――」
母は、洋平の言葉をさえぎるように首を振った。
「恭子の学校の合唱祭があったでしょ?」
知らなかった。
「それで、恭子は学級委員長じゃない?」
…知らなかった。
「で、クラスで練習をしない子達がいたから、委員長っていう立場から、
仕方なく練習しようよって言ったんだって。そしたら、その子達が…」
あとは聞かなくても分かった。母もそれを知ってか知らずか、黙り込んでしまった。
「その人たちが、逆恨みしたんでしょ?」洋平は言い切った。
母が頷く。
「最初は、少人数で悪口を言うくらいだったらしいんだけど、
そのうちクラスにそういう空気が流れ始めて、シューズに画鋲入れられたり、
ノートに『死ね』とか書かれたりしたらしいわ」
母の話に、洋平は相槌すら打てなかった。
「でも、姉ちゃん普通だったよね?何も――」
洋平は、思い当たる節を見つけた。
そう、数週間前のあの夜。泣いていた姉。
姉は、やはり泣いていたのだ。
あの姉のことだ、親に心配をかけないように夜に泣いていたのだろう。
あの暴言は、いじめを悟られまいとする必死の抵抗だったのだろう。
そして昼間は笑顔の仮面をかぶり、
仮面を外した後はあの音楽の裏で狂うほどに泣いていたのだろう。
「いじめ自体には頑張って耐えてたらしいんだけどね、
恭子の友達が、裏切ったらしいのよ。仲間だと思ってた子がいじめる側に回ったんだって」
最後の方は声がかすれていて、聞こえなかった。
が、
ちょっと待ってよ。
『友達が裏切った』って?
………やってしまった。言ってしまった。
『薄っぺらな友達関係』と。
「母さん…俺、やっちゃったよ…」
どこからか震える声が聞こえた。俺の声か…?
今まで明るかった恭子がまったく予想だにしなかった状況に陥って、
いったいどれだけ怖かったのだろうか。
毎日のように洋平の部屋に来ていたのは、相談をしたいだけだったのかもしれない。
恭子はそれを跳ね除けられて、いったいどれだけ寂しかったのだろうか。
いったいどれだけの勇気で学校に行っていたのだろうか。
笑顔の仮面の下で泣くことはいったいどれほど悲しかったのだろうか。
洋平に『薄っぺら』と言われていったいどれほど傷ついたのだろうか。
いったい、どんな気持ちで泣いていたのだろうか。
気が付くと、洋平は声を出して泣いていた。
母が、力強く抱きしめてくれた。
でも、抱きしめる力が強くなればなるほど、洋平は心に痛みを感じた。
それからは大変だった。
恭子は狂っていた。突然泣き出したりするし、夜は何度もうなされる。
極めつけは自傷行為だ。
リストカットはほぼ毎日。睡眠薬を大量に飲もうとしたこともある。
父が見つけてなければ首を吊っていた。
母が止めていなければ病院の屋上から飛び降りていた。
病院に見舞いに行くと、そこにはやつれて元気のない恭子がいた。
恭子は洋平を見ると、顔をしわくちゃにした。
「こんな」
その声はただの単語であるにもかかわらず、洋平の心を揺さぶった。
「姉ちゃんで」
この人が『姉』であることを、実感してしまう。
「ごめんね」
恭子らしからぬ弱々しい声だった。
声というより、音に近かったかもしれない。
それは絞り終えた雑巾から、さらに水が搾り出されるような音だった。
二人で枯れるまで泣いた。
その翌日に、学校に行くことを断固として拒否していた恭子は
転校するなら、という条件付きで学校に行くことを決めた。
登校初日、恭子は「頑張ってくるから」と、洋平にだけ言った。
退院後極端に口数の減った恭子の口から、「単語」ではなく「文章」が発せられた瞬間だった。
声は震えていた。肩も震えていた。
でも、弟を心配させまいと恭子は学校に行った。
ちなみに、このあと恭子はめっきり喋らなくなった。
喋ったとしても両親や洋平と軽く意思疎通をするくらい。
友達などは誰も信じられず、しかしそれでも学校へは行った。怖かっただろう。
そして、恭子は極端に奥手に、極端に人見知りに、
そしてそれが転じて極端な恥ずかしがり屋にもなった。
通知表には「成績良好だが、コミュニケーション能力が乏しい」と厳しい言葉が書かれた。
父が学校へ行って事情を話すと、先生は父に謝り、電話で恭子にも謝った。
洋平は勉強をやめた。参考書を捨てた。
授業意外でノートに触れることもなくなった。
勉強なんかして何になる。
いくら重要語句を覚えても、姉の気持ちを考えることはできなかった。
難しい方程式が解けたって、姉を守ることはできなかった。
どれだけ点数を稼いでも、姉の涙を止めことはできなかった。
そして洋平は、これからは恭子のために生きることを静かに誓った。
今では人間不信も大分直り、健康に学校に通えている。
友達とはまったくしゃべれないらしい。が、苦ではないらしい。
頑張れ、姉ちゃん。