鬼子母の茶碗
突然の雨を避けるため、見知らぬ路地で古道具屋のくぐり戸を抜けたのが、全ての始まりだった。
薄暗い土間には、古い紙と黴、それに微かなお香の匂いが澱んでいた。外の雨音すらひどく遠くに聞こえる静寂の中、雑然と積まれた古物の奥、棚の最下段に伏せられていた大ぶりの茶碗の前で、妻がふと立ち止まった。
吸い寄せられるように手に取ったそれは、驚くほど軽く、乳白の素地に淡い緑が薄氷のように滲んでいる。
「ボーンチャイナですよ。それも、かなり古い品だ」
いつの間にか音もなく背後に立っていた店主が、枯れた声で言った。
「普通、ボーンチャイナには牛など獣の骨灰を使いますがね……この器は、違う」
店主は、妻の手にある茶碗をじっと見つめた。窓からの僅かな光に透けた茶碗の底には、摩滅しかけた梵字と共に〈鬼子母〉という文字が彫り込まれている。
「……安産と、育児の神様」
妻がひどく乾いた声で呟いた。
私たちは三年間に及ぶ不妊治療の末、心身ともに限界を迎え、半ば諦めかけていた。度重なる落胆は妻の精神を確実に摩耗させていた。
「これを焼いたのは、女の陶工だったそうです。彼女は、陽の光を浴びることなく自らの腹の中で冷たくなった小さな命を……その柔らかい骨を灰にして、土に練り込んだ」
私は息を呑んだ。だが、妻は茶碗から目を離さない。
「狂おしいほどの哀しみか……あるいは、子を成せなかった己を、鬼と呪ったのか。何を思ってその名を刻んだのやら」
「……だから、こんなに軽いのね」
妻がひどく静かな、そして甘りにも優しい声で呟いた。
陽の光を見られなかった命で出来た、滑らかで冷たい器。妻はそれを取り憑かれたように胸に抱き寄せた。私は、妻の虚ろな瞳に宿った暗い熱に気圧され、言い値でそれを買い求めるしかなかった。
その夜、妻は寝室の窓辺に茶碗を置いた。
深夜、ふと目を覚ますと、隣に妻がいなかった。
見ると、窓から差し込む青白い月光の下で、妻が茶碗を両手で包み込むように覗き込んでいた。寝る前に彼女が注いだはずのただの水道水が、ひどく白濁し、表面にうっすらと膜を張っている。部屋の中には、古い粉ミルクと鉄錆を混ぜたような、吐き気を催す甘い匂いが充満していた。
妻は茶碗に口をつけ、ちゅるり、と音を立ててその粘り気のある水を啜った。
「おい、何を飲んで……」
私が身を起こして声をかけると、妻はゆっくりと振り返り、自らの平坦な下腹部にそっと右手を当てた。
「……今、動いたわ」
その瞳孔は異常に開き、焦点の合わない目で私に向かって微笑んだ。見たこともない、ひどく歪な顔だった。
その日を境に、妻の様子は決定的におかしくなっていった。
毎晩、茶碗の底にはどこからか白濁した水が湧き、妻はそれを赤子を抱くように愛おしそうに啜った。日を追うごとに彼女の腹部はなだらかな曲線を描いて膨らみ始め、歩き方すら妊婦のそれへと変わっていった。
だが、産婦人科の医師はエコー画像を見ながら「妊娠の兆候は一切ありません。強いストレスによる想像妊娠でしょう」と冷酷な事実を告げた。
帰りの車内、泣き崩れるかと思った妻は、逆にふふっと穏やかに微笑んでいた。
「お医者様には、この子の鼓動は聞こえないのね。かわいそうに」
助手席の彼女からは、あの粉ミルクのような異様な甘い匂いが立ち昇り、狭い車内を満たしていた。
妻は家事の一切を放棄し、一日中寝室で茶碗を撫でながら子守歌を口ずさむようになった。異様だったのは、腹部が風船のように膨張していくのに反比例して、彼女の四肢が枯れ木のように痩せ細っていったことだ。髪はパサパサに乾燥して抜け落ち、肌からは水分が完全に失われ、触れるとチョークのように白い粉が吹いた。
まるで、胎内の「何か」に、自らの養分を根こそぎ吸い取られているかのように。
ふと、あの骨董屋の言葉が脳裏を過った。
――陽の光を浴びることなく冷たくなった、小さな命の骨。
あの茶碗の底に沈んだ情念が、妻の胎内を借りて「何か」を成そうとしているのではないか。私は気味の悪さと、正気を完全に失った妻への恐怖から、夜は寝室を別にするようになっていた。
十一月の冷気が忍び込み始めた、ある夜のことだ。台所の方から聞こえる異音に、私は目を覚ました。
ジョリ……ジョリ……。
硬いものを、金属に擦りつけるような一定のリズム。
私は恐る恐る冷たい廊下を歩き、台所を覗き込んだ。流し台の前の暗がりで、妻がしゃがみ込んでいる。彼女の手には、日常的に使っていた金属製のおろし金が握られていた。
ジョリ……ジョリ……。
妻は、自らの右手の人差し指を、おろし金の鋭い突起に強く押し当て、前後に動かしていた。肉が削れ、その下の骨までもが、乾いた石膏のように削り落とされている。指先からどす黒い血がどくどくと滴り落ちているというのに、削り落ちて受け皿に溜まる粉は、眩しいほどに純白だった。痛覚はとうの昔に麻痺しているのか、彼女の顔に苦痛の色はない。
「何をしてるんだ!」
私が叫ぶと、妻は手を止め、ゆっくりとこちらを見上げた。血まみれの指先を隠そうともせず、彼女は母親そのものの、慈愛に満ちた空虚な笑みを浮かべた。
「この子、どうしても骨が足りないのよ」
数日後の深夜だった。
隣の寝室から響いた、バキッ、メキョッという、太い生木を無理やりへし折るような鈍い音。私は跳ね起き、ふすまを乱暴に開け放った。
部屋に飛び込んだ瞬間、むせ返るような血の匂いと、酷く乾いた石灰の匂いが鼻腔を焼いた。
妻は布団の上で海老のように身体を反らせ、激しく痙攣していた。その腹は、薄い皮膚が限界まで引き伸ばされ、皮膚の下で何かが蠢いているのが透けて見えた。
バキ、ボキボキッ。
妻の体内から、絶え間なく何かが砕ける音が鳴り響く。彼女の四肢が、あり得ない方向へ捻じ曲がっていく。肘や膝といった関節の概念を完全に無視し、体内の支柱がドロドロに砕け散っているかのように、ぐにゃりと波打った。
「あ……あ……」
私が一歩踏み出した瞬間。
妻の大きく膨れ上がった下腹部が、陣痛のように激しく波打った。ゴフッ、と口から空気が漏れる音に続き、彼女の下半身が激しく痙攣し、命の通り道であるはずの股間から――温かい破水の代わりに――酷く乾いた真っ白な粉が、爆発的に噴き出した。それは、微細に砕かれた骨の粉だった。
噴水のように舞い上がった膨大な量の白い粉が、月光を乱反射して部屋中に濃密な霧を作る。粉はまるで明確な意志を持っているかのように空中を流れ、窓辺に置かれたあの茶碗の中へ、サラサラと音を立てて吸い込まれていった。
最後の粉を吹き出し尽くした妻の身体は、べしゃり、と重たい水袋を落としたような音を立てて床へ崩れ落ちた。それはもう、人間の形を保っていなかった。皮膚の下の骨格が一本残らず抜け落ちた、ただのぶよぶよとした肉と皮の袋だった。
部屋は、死んだように静まり返った。 充満する血と石灰の匂いの中、窓際の茶碗からだけが音がしている。
カチッ……ザリッ……。
なみなみと満ちた乳白色の濁り水。
その底で、無数の白い欠片が緻密に噛み合い、小さな骨格を組み上げていく。
空になった妻の皮袋から甘ったるい死臭が漂い始める中、茶碗の底から、ゴボリと大きな気泡が浮き上がった。それは、ようやく骨を得た赤子の、粘り気を帯びた産声のように聞こえた。
ずるっ、と床の上の皮袋が自重でわずかに崩れた。上を向いた妻の萎びた顔面は、すべてを成し遂げた聖母のように満足げに歪んで笑っていた。
〈了〉
「……だから、こんなに軽いのね」
――なぜ、「妻」は茶碗が軽いことに得心したのだと思いますか?




