街灯の瞬きと、僕の知らない彼女の微熱
この物語の背景には、スティーヴィー・ワンダーの名曲『Lately』が流れています。
もしお手元に音源があれば、ピアノのイントロと共に読み進めてみてください。
誰かを深く知っていると思っていた自分が、実はその表面しか触れていなかったことに気づかされる。そんな、都会のどこにでも転がっている、けれど本人にとっては世界の終わりのような「一瞬の剥離」を切り取りました。
冬の夜の冷たい空気を感じながら、少しだけお付き合いいただければ幸いです。
1. 予兆
東京の二月は、まるで誰かが使い古した剃刀の刃のように冷たい。
新宿駅の喧騒を抜けて、西口の地下道を歩いていると、僕は時々自分が透明な液体になったような錯覚に陥る。壁に貼られた色褪せた広告や、足早に過ぎ去るサラリーマンの群れ。それらすべてが僕の身体を透過していく。世界と僕の間には、かつてあったはずの確かな膜が失われてしまったみたいだ。
彼女の待つ家に向かう小田急線の車内で、僕はカバンから使い古したiPodを取り出し、スティーヴィー・ワンダーの『Lately』を再生した。ピアノの静かなイントロが耳の奥に滑り込んでくる。スティーヴィーの声は、深い夜の底で震える光のように繊細だ。
Lately I have had this strangest feeling...
(最近、奇妙な予感がしてならないんだ)
その歌詞をなぞるように、僕の胸の奥で、小さな針がチクリと刺さる。それは痛みというほどのものではない。ただ、そこにあるべきではない違和感だ。
ナオコ(仮にそう呼ぶことにする)と付き合い始めてから、もうすぐ二年になる。僕たちは静かな、凪のような関係を築いてきた。古いジャズのレコードを聴き、週末にはパスタを茹で、二人で選んだリネンのシーツで眠る。そこには完璧な調和があるはずだった。
でも、最近の彼女は何かが違っていた。
彼女が鏡を見る時間が、ほんの少しだけ長くなった。ほんの数秒のことだ。でもその数秒の間、彼女は僕の知らない誰かを見つめているような目をしていた。僕が声をかけると、彼女は深い霧の中から戻ってきた旅人のような顔をして、無理に作ったような、少し歪んだ微笑みを浮かべるのだ。
2. 観察
彼女のマンションは代々木上原にある。エントランスにはいつも沈丁花の香りが漂っている。ドアを開けると、彼女はキッチンでコーヒーを淹れていた。
「おかえり」
彼女の声はいつも通り、少し低くて心地よい。でも、その背中が語っている言葉は違った。彼女の肩のライン、無意識に指先で触れるネックレスの鎖。それらが、僕の知らない物語を綴っている。
「いい匂いだね」
「コロンビアの新しい豆を買ってみたの。少し酸味が強いけど、悪くないわ」
彼女がカップを置いた時、微かに鼻を掠めたのは、いつもの清潔な石鹸の香りではなかった。もっと密やかで、どこか湿り気を帯びた、夜の森を連想させる香り。
「香水、変えたんだね」
僕が尋ねると、彼女の手が一瞬だけ止まった。
「……そう? 試供品をもらったから、なんとなく」
嘘だ、と僕の中の冷静な観察者が囁く。
彼女の嘘は、雪の上に落ちた一滴のインクのように鮮明だった。彼女は嘘をつくとき、必ず左の耳たぶに触れる。そして、視線を少しだけ右下に落とす。彼女の心臓の鼓動が、部屋の空気をわずかに震わせているのが僕には見えた。
As I look into your eyes...
(君の瞳を覗き込むと)
彼女の瞳の奥には、僕が踏み込むことのできない深い穴が開いている。そこには僕が知らない男の言葉や、僕が知らない手の温もりが堆積しているのだろう。
3. 剥離
それからの数週間、僕たちは「完璧なカップル」を演じ続けた。
朝には焼き立てのトースト。夜にはパスタやムニエル。会話の内容は、近所の野良猫がいなくなったことや、新しくオープンした駅ビルのテナントについて。核心には、指先一つ触れない。僕たちは、ひどく壊れやすいガラス細工の街に住んでいる住人のようだった。大きな声を出せば壁が砕け、真実を口にすれば地面が裂ける。
ある火曜日の午後、僕は予定より早く仕事が終わり、新宿の紀伊國屋書店で時間を潰していた。エスカレーターを上がっているとき、視界の端に「既視感」が過った。
一階下のフロアを、二人の人物が歩いていた。
一人は、僕がよく知っているベージュのカシミアのコートを着た女性。僕が去年の誕生日に贈ったものだ。もう一人は、僕の知らない男。
男は背が高く、少し猫背で、清潔そうな濃紺のジャケットを着ていた。彼は時折、彼女の肩を抱くようにして何かを囁き、彼女はそれに応えて、僕には見せたことのない「少女のような、無防備な笑い」を零した。
僕は立ち止まり、その光景を眺めていた。
心臓が激しく波打つかと思ったが、意外にも心は凪いでいた。それは、ずっと前から知っていた結末が、ようやくスクリーンに映し出されたときのような、奇妙な安堵感に似ていた。
4. 終焉
その夜、仕事から帰ると、部屋は驚くほど広くなっていた。
玄関にあった彼女のヒールはなく、クローゼットからはカシミアのコートが消えていた。洗面台にあった二つの歯ブラシは、僕のものだけが孤独に一本、プラスチックのコップに刺さっていた。
テーブルの上には、一枚の書き置きと、僕が贈ったネックレスが置かれていた。
『ごめんなさい。もう、あなたの優しさに甘え続けることはできないわ』
それだけだった。
理由も、相手の名前も、行き先も書かれていない。
僕は、部屋の真ん中に立ち尽くした。
窓の外では、東京の夜景が相変わらず冷たく、無機質に輝いている。僕はスピーカーのスイッチを入れ、再び『Lately』を流した。ピアノの旋律が、空っぽになった部屋に響き渡る。
Lately I have had this strangest feeling...
「……遅すぎたんだよ、スティーヴィー」
僕は独り言を呟いた。
予感はもう、過去のものになった。それは今、確かな「不在」として、僕の目の前に横たわっている。
僕は冷蔵庫から一本のビールを取り出し、ソファに深く腰掛けた。
彼女の香水の匂いは、もうほとんど消えかかっていた。代わりに、冬の乾いた空気の匂いが、部屋の隅々まで満たしていく。
僕は目を閉じ、暗闇の中に沈んでいった。
そこには、僕がかつて愛した彼女の残像と、これから僕が一人で歩いていく、色彩を失った東京の地図だけが広がっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
予感というものは、時に残酷なほど正確です。
『Lately』の歌詞にある「奇妙な予感(strangest feeling)」が、確信に変わる瞬間の静けさを書きたくて、筆を執りました。
新宿の雑踏や、代々木上原の沈丁花の香り。
それらは日常的な風景ですが、一度「不在」が確定してしまうと、それまでとは全く違った色を帯びて見えてくることがあります。
ナオコがいなくなった後の部屋で、主人公が次に選ぶ曲は何でしょうか。
バッハの数学的な秩序か、それともまた別の、誰かの残り香を消してくれるような音楽か。
もしこの物語を読んで、あなたの心の中に少しでも冷たい冬の風が吹き抜けたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
またどこかの、都会の片隅でお会いしましょう。




