第7話:満足
グス……奥さんの鼻を啜る音が響く。
頻りに目を擦りながら、お爺さんの言葉を待っている。
それでいい。
盛大に噛んでしまったんだからもう無理をしないでほしい。
さあ、据え膳ですよ。
期待してお爺さんを見ると、口をパクパクしていた。
うつむき加減で、顔が真っ赤だ。
何をしているんだ、この夫婦は。
口に出して突っ込んでやりたかった。
会えなかった時間があるとはいえこうも初心な頃に戻れるものなのか。
いや、それでも冷めることなく燃え続けた愛を讃えるべきなのだろうか。
気まずい。
いっそ目をそらしてしまいたいが約束もあるので出来ない。
私には黙って待つことしかできなかった。
結局最初に動いたのはシロだった。
微妙な距離を保ったまま動かない2人の間を不思議そうに行ったり来たり。
やがて焦れてしまった彼は勢いよく奥さんに突っ込んだ。
尻尾を振り乱し、全身で甘えている。
奥さんは驚きながらも受け止め、しかし、たまらず尻もちをついた。
ペロペロと顔を舐められる奥さん。
「ちょっと、シロ!今は違うから!」
ギクシャクした笑顔がみるみる自然なものへと変わっていく。
それを見ていたお爺さんも驚きから呆れ、そしていつもの微笑みに戻っていた。
「先を越されてしまったよ。まったく、うらやましいなあ」
奥さんのそばまで近づきそっと手を差し出した。
「あなた」
奥さんも手を伸ばし返した。
やっとだ。
夫婦らしい団欒が頭をよぎった。
それなのに。
「おいしそう」
伸びかけた手が、止まった。
奥さんの喉が鳴る。
お爺さんの手を、物欲しそうに見つめる奥さん。
その顔は目線が定まらず、初めて会った時のようにチグハグだった。
シロも異変を感じて奥さんから離れる。
ぐるぐると2人の周りを回りながらくーんと高く鼻を鳴らした。
出番が、来てしまった。
それでも、ギリギリまで邪魔をしたくない。
そのギリギリを見極めるため、私は距離を詰めた。
お爺さんだけが変わらない。
手を差し出したまま微笑みを浮かべている。
そんなお爺さんに、奥さんは釘付けになりつつも抗うように震えている。
「あ、なた」
懇願するように、奥さんの目元だけが緩んだ。
大粒の涙がほおを伝う。
限界なのだろうか。
せっかくの再開なのに、こんなにも早く止めるしかないのだろうか。
重い足を踏み出そうとしたとき、おじいさんがチラリとこちらを見た。
優しい目だが、眉間が険しい。
まるで謝るような、昨日の儚さも併せ持った表情。
差し出していた手が奥さんのほおに添えられる。
まずい。
走り出した私を置いてけぼりにして、お爺さんが身を屈め、そのまま奥さんの唇を奪った。
えっ?
奥さんと私、2人同時に固まった。
あまりのことに私の足は止まり、奥さんも正気というか……素に戻っている。
それでもお爺さんの情熱的なキスは終わらず……いや、長いな。
離れた頃には奥さんはすっかりトロンとしていた。
なんだこれ?別の意味でアブナくなってきたぞ?
「きみが悪夢にうなされたとき、いつもしていたのを思い出した」
「…ぁう」
奥さんは声が出ないようだった。
でも、その顔は人間に戻っていた。
かわりに真っ赤だったけれども。
でも、直前のあの顔。
たぶん確信はなかったんだよね…?
肝座りすぎじゃない?
「きみが正気でいるうちに、渡したいものがあるんだ」
「な、なんですか?」
奥さんはまだ立ち直れてない。
胸を抑えておどおどしている。
お爺さんは微笑んだまま落ち着くのを待って、懐から掌大の小さな箱を取り出した。
「指輪。もう一度受け取ってほしい」
「でも…私…」
伏目がちになった奥さんを見て、お爺さんが笑みを深めた。
どこまでも優しく、慮るように。
「死が二人を分かつまでじゃあ全然足りなかった。だから改めて誓いたい。ずっとずっと、愛してる」
奥さんが顔を上げる。
すぐに応えようとして、涙が邪魔をする。
目元を拭って、お爺さんとよく似た、柔らかな笑顔を作った。
「私も、愛してる」
奥さんが左手を差し出す。
お爺さんは愛おしそうに、そっと手を添えて、その薬指に指輪を通した。
それから、どちらが速かったか。
二人の距離がなくなって、ギュッと抱き合った。
「マリア。必ず迎えに行く。少しだけ待っててくれるかい?」
「…うん。でも急がないでね?ちゃんと待てる」
頷いた奥さんは少しだけ半目気味で、お爺さんをからかうようだった。
ひとしきり笑ったあと、でも目元を険しくして、満たされたような、苦しいような、不思議な顔を作った。
「こんなになった私を変わらず愛してくれてありがとう」
奥さんの頬を大粒の涙が伝う
頬に朱色がさす。
美しい。
自然に思った。
きっと今が生前の、本来の姿なんだろう。
ピシッ
眺めていたら変な音がした。
なんだろうと目を凝らすと奥さんの顔に、表情はそのまま黒い線が走っていた。
ヒビだ。
腹の底が冷える。
アンデッドが満たされた先にあるもの。
私には明るい想像ができない。
気のせいであってくれ。
そう思うのに、ヒビの拡大は止まらない。
私の予感が当たっているなら、奥さんは未練がなくなって天に帰ろうとしている。
やめてほしい、それは理不尽だ。
もっと話したいことがあった。
お爺さんともっと過ごして欲しかった。
シロだってどうするんだ。
それなのに、お爺さんは目元こそ潤んでいるが、止めようとしない。
私に気づいて、いつもの微笑みのまま首を振るだけ。
そのまま、見送る気だ。
私だけなの…?
約束したから?
そんなの…
振り返って、そこには私を見る奥さんがいた。
「バイバイ」
慟哭する間すらなく奥さんの声が崩れ去った。
そのままサラサラと風に運ばれて、遠く、私には見えないところに行ってしまう。
誰も、何も言わない。
お爺さんは両手を組んで祈っている。
腹の立つ自分と、どこかこれで良かったのだと思う自分が争っている。
私も、ああなるのだろうか?
疑問がよぎった。
いつか声のもとに帰って、満たされたら、解放される?
そして、声の主にこんなふうに祈ってもらうんだ。
ーーイヤだ。
イヤだイヤだイヤだ。
"ワタシ"はそんなの望まない。
死にたく、ない……




