第二話:代償
ワタシ……?
落ち着け、"私"だ。
私の名前は?
……思い出せない。
記憶が自分のものではないような気がして、どうしようもなく気持ち悪い。
吐き気から逃れたくてゴロゴロと転がり、土の匂いが鼻についた。
ぼんやりと、誰かの顔が浮かぶ。
声も。
だが、そのすべてにノイズがかかって何を言ってるか聞き取れない。
それでも、その声を聞いていると少しだけ落ち着くことができた。
軽く体を起こし、空を見る。
いつの間にか遠い空に薄い明かりが顔を出し始めていた。
「帰りたい」
誰だかわからない、私を落ち着けてくれる者の元へ。
私は両手を握りしめていた。
何かを取りこぼすまいとするように。
「だから死にたくない」
表情だけが凍りついていたことにその時は気が付かなかった。
日が昇る。
その頃には私もすっかり落ち着いた。
帰りたいという願望がある。
あとは手段だ。
ここはどこで、私はどこから来たのか調べなくては。
そうすれば、きっと……。
投げやりに踏みしめた焚き火には、温かいだけの燃えかすが残った。
山は斜面が多くて危険だ。
川を渡れば比較的緩やかな地形が広がっている。
渡ろう。
迷いは足かせだ。
ジャブジャブと水の中に入る。
冷たさを感じられないのが残念なことのような気がする。
ゆっくり歩みを進め、川の中ほどまで来たときには、胸のあたりまで水につかっていた。
ガリッ
右足から衝撃が響き、同時に体勢が傾く。
ボチャン。
溺れる。
死ぬ。
動いてもいない心臓が縮み上がって思考が散り散りになり、無様にも全身でもがく。
そんなことしても水面は遠くなるばかりで、早とちりした心が喪失感でいっぱいになる。
狂ったようにもがいて、ふと気づく。
苦しくない。
酸素のかわりに水を吸い込んだ痛みも感じない。
呼吸を、していない。
はは…
笑おうとして頬が動かない。
呼吸すら必要ないのか。
確かに心臓も動いていないもんな……。
動きを止めると、右足の違和感が戻ってきた。
なんだ?
見ると、あるはずのものが無かった。
膝から先、すねの中ほどから無くなっている。
叫んだ。
叫んだはずなのに口からは泡すら出なかった。
木の葉のようなシルエットに鋭い歯が並ぶ。
恐ろしい形相をした巨大な魚。
人の胴回りほどのサイズがある。
そいつの口から、ドス黒い液体が溢れていた。
逃げろ。
心が叫ぶ。
対岸を目指して両手を振り乱す。
思うほど身体が進まない。
バタ足をして、なくなった右足が空振る。
幸い奴はそれなりの餌を咀嚼するのに夢中だったようで、追撃はしてこなかった。
とはいえ、対岸に着くまで生きた心地がしなかった。
ジャリ。
丸っこい石ころを掴み取る。
必死に掻き寄せて自分の体を前に進めた。
やっとの思いで水から上がっても、しばらく動くことができなかった。
薄ぼんやりした意識がはっきりしてきたとき、自然と足を見ていた。
断面がギザギザに抉り取られている。
自分の存在を削り取られた不快感が私の心を支配した。
また、あの声がする。
私に安心をくれる誰かの声。
輪郭は相変わらずぼやけているが、心が暖かくなるのを感じた。
ーー死にたくない
強く、願った。
川のせせらぎが聞こえる。
木の葉を揺らす風の音も。
いつの間にか閉じていた目を開けると、私は河原に座り込んでいた。
足を見る。
ある。
なくなったはずの足が確かに生えている。
食いちぎられたはずなのに。
見ると、足だけでなく昨日負った怪我までもが再生していた。
体中の細かな傷も、剥がれた爪も綺麗に元通りで、すべて悪い夢だったのかと思った。
しかし、衣服だけはボロボロだった。
河原が赤黒く染まっている。
私の血なのだろう。
空っぽの胃がひっくり返るような吐き気がした。




