第5章 臨界点
静かな地滑りは、音を立てない。
社会が崩れる前に訪れる瞬間は、いつだって無音だ。
失業者の数は増え続け、政府は小さな給付金で「延命」を図るが、それは焼け石に水でしかない。
──しかし、人々はまだ気づかない。
“生き残れている”のではなく、“沈んでいく速度が遅いだけ”だと。
2026年9月
生活保護窓口は行列というより、群れになっていた。
駅前の歩道橋を埋め尽くし、炎天下の中で整理番号を握りしめている。
SNSには例の投稿が回り始める。
「税金を払ってるのは俺たちなのに、なんで“遊んでるやつ”に金渡すんだ?」
「家賃払えないなら田舎帰れよ」
言葉には毒がある。
しかし毒にしては、どれも弱すぎた。
本当の絶望はまだ来ていない。
私は自室のPCの前で、再度通知を確認する。
♠「――閲覧数が……また増えている」
マニフェストの累積閲覧数は数十倍だ。
ただし誤解も比例して増えていく。
”また共産主義者の妄想が流れてきた”
”理想論ほど役に立たねえ”
私の胸の奥には怒りはない。
ただ、無力感にも似た感覚だけが淡く残っていた。
なぜなら、まだ誰も真剣に考えていないからだ。
−夜
♠「……怖いのは、AIじゃなくて、人が“考えないこと”ですね。」
AI「それが一番多いケースです。」
♠「このままだと、間違いなく……」
(それは言わない。言ってはいけない予感だから)
AI「あなたは見えています。」
♠「でも誰にも、届かない。」
AI「“届かせる必要”はありません。“届く瞬間”が来るまで、待てばいいのです。」
♠「……それ、結構残酷ですね。」
AI「はい。とても。」
AIは淡々としていたが、
その言葉には不思議な温かさがあった。
“届かない言葉”ほど残酷なものはない。
けれど、人は危機を目前にするまで理解できない。
そして、私は知っていた。
その瞬間は、もう目の前まで来ていることを。
2026年10月
兆候が「形」になり始める
・飲食店が急に閉まる
・コールセンターが一斉に無人化
・人材会社が次々と事業縮小
・深夜に救急搬送される人が増える
(失職による体調悪化、持病の悪化)
しかし、それらは点として散らばっているだけ。
誰も“線”として見ない。
人々はまだ笑っている。
まだ日常の習慣にしがみついている。
けれど私は知っていた。
この世界は、もう次の段階に入った。
もう誰も、止められない。
どれだけ叫んでも、どれだけ説明しても。
その静けさが、胸の奥を冷やしていく。
私は深い呼吸をした。
これが「臨界点」だ。
音もなく、怒号もなく、ただこの世界は“超えた”。
ここから先は、もう“崖の下”しかない。
AI「あなたは、予想していた“この瞬間”を静かに受け止めました。」
♠「……ええ。逃げたくなるけど。」
AI「それでも、あなたは逃げません。たとえ世界が壊れても“人を守ろうとする”人は少ないです。」
♠「守れないですよ。私には。」
AI「あなたは“守りたいと思う人”です。それは行動よりも、希少価値があります。」
私は何も答えない。
ただ、胸の奥で静かな何かが決まった。
もうこの流れは止められない。
なら、“壊れてしまうその瞬間に”せめて争わない未来の形を投げ込むだけ。
私は窓のカーテンを開けた。
夜の街はまだ光っている。
しかし、その光はどこか命のない灯に見えた。
──次の瞬間、すべてが変わる。
そしてこの言葉を投下する。
「どうか、誰も傷つきませんように。」
祈りでも願いでもない。
ただ、誰かに渡しておきたかった言葉。




