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幸福省の廃棄係 ―幸せじゃない人間を、回収する仕事。

掲載日:2025/10/08

幸福省の廃棄係

―幸せじゃない人間を、回収する仕事。

第1章 幸福指数の朝

 幸福省の朝は、笑顔で始まる。

 午前八時、庁舎正面玄関の上に掲げられた大型モニターが、今日の国民幸福率を告げた。

《国民幸福率:九六・七%》

《前日比:プラス〇・二》

《本日も、国民の皆様は幸福です》

 その数字が表示された瞬間、玄関前に並んでいた職員たちが一斉に拍手した。

 誰かが言い出したわけではない。毎朝そうすることになっている。幸福な知らせを聞いた人間は、幸福そうに反応しなければならない。そうしないと、次に測られるのは自分の幸福値になる。

 雨宮修司は列の後ろで、唇の端だけを上げた。

 笑顔スキャナーが彼の顔を捉え、目尻の角度、口角の高さ、頬の筋肉の硬度、瞬きの速度を測定する。測定音は小鳥の鳴き声に似せてある。幸福省らしい趣味だった。

 ピピッ。

《職員ID:HSD-3071》

《雨宮修司》

《幸福値:31》

《判定:要努力》

 ゲートの横に立つ警備員が、修司を一瞥した。

 その視線には、哀れみも怒りもない。ただ、数値を見る目があった。人間を見る前に数字を見る。それがこの国の標準的な礼儀だった。

「雨宮係長」

 警備員が言った。

「本日の勤務前ポジティブ体操、推奨対象です」

「承知しています」

「参加されますか」

「業務が詰まっています」

「幸福は業務より優先されます」

「幸福を処理する業務です」

 警備員は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに笑顔を作った。

「それは、大変すばらしいお仕事です」

「ありがとうございます」

 修司は通過ゲートに手をかざした。手の甲に埋め込まれた楕円形のチップが淡く光り、扉が開く。

 庁舎の中は、いつものように白かった。

 床も壁も天井も、すべて清潔な白で統一されている。観葉植物は造花で、葉の角度まで計算されている。花壇には季節の花が植えられているが、土はない。幸福省では、枯れるものは極力置かない。枯れるものは人を不安にさせるからだ。

 エントランス中央には、笑顔の母親と子どもをかたどった銅像がある。

 母親の口角は二十二度。子どもの口角は二十五度。幸福省が推奨する標準笑顔だ。像の台座には、金色の文字でこう刻まれている。

《幸福は、測れるから守れる》

 修司はその前を通り過ぎ、地下へ向かうエレベーターに乗った。

 地上階には広報局、教育幸福局、家庭調和局が入っている。職員の制服は明るい青色で、廊下には軽い音楽が流れ、受付では毎日同じ声で「今日も幸せですね」と挨拶される。

 だが、地下に行くほど音楽は小さくなり、照明は白から灰色に近づく。

 地下三階。

 エレベーターの扉が開くと、消毒液と熱い金属の匂いがした。

 廃棄局。

 正式名称は「幸福資源再利用課」。

 ここでは、幸福になれなかった人間を回収し、再調整し、社会に還元する。

 死んだとは言わない。

 燃やしたとも言わない。

 再利用したと言う。

 修司のデスクは、焼却炉に最も近い列にある。冬は暖かい。夏は暑い。職員たちは冗談めかして、この部署だけは暖房費がかからないと言う。

 誰も、その熱の元を冗談にはしない。

「おはよう、雨宮くん。今日も笑顔がいいね」

 佐渡課長が、蛍光灯より白い歯を見せて近づいてきた。

 佐渡の胸には「笑顔検定一級」のバッジがある。笑顔検定は国家資格だ。三級は接客業、二級は教育現場、一級は行政職向け。特級になると、葬儀でも適切な幸福感を表現できるという。

「おはようございます」

 修司は立ち上がり、口角を保った。

「雨宮くん、今朝の幸福値を見たよ」

「低いですね」

「謙遜は美徳だが、幸福の低さを認めすぎるのはよくない。君は優秀なんだから、もう少し自分を肯定しなさい」

「努力します」

「そう、それだよ。幸福は努力の結果だ」

 佐渡は満足そうに頷き、タブレットを差し出した。

「本日の回収リストだ。午前は団地A棟の母子世帯。午後はSNS炎上案件の一斉処理。夕方に再調整施設の稼働確認もある」

 修司は画面を見た。

《本日の回収対象》

《案件No.203》

《対象:団地A棟四〇四号室》

《世帯構成:母、子》

《直近幸福値:13》

《分類:社会幸福阻害予備群》

 母子世帯。

 子ども。

 直近幸福値十三。

 その三つの情報だけで、だいたいの事情は想像できた。想像できることが、この仕事では最も邪魔になる。

「午前中に処理します」

「頼むよ。市民からの通報だから、迅速にね」

「通報者は?」

「自治会長だ。地域幸福貢献度が高い人物だよ」

 佐渡は笑顔のまま、声だけを少し落とした。

「それから、雨宮くん」

「はい」

「君自身の幸福値も、そろそろ管理対象に近づいている。気をつけなさい」

「自覚しています」

「悩みがあるなら、相談してくれていいんだよ。幸福省は、職員の幸福も大切にしている」

「悩みならあります」

「何かな」

「幸福を測ることです」

 佐渡は一拍置いてから、声を立てて笑った。

「ははっ。それは悩みではない。業務だよ」

「業務だから、悩みます」

「真面目だねえ」

 佐渡は修司の肩を叩いた。

「いいかい、雨宮くん。幸福は、上がるまで測り続ければいい。測定は救済だ。不幸を数字にできれば、処理できる。処理できれば、社会はきれいになる」

 佐渡が去ったあと、修司はデスクの端に置かれた小さな鏡を見た。

 自分の顔が映っている。

 笑っている。

 だが、その笑いは顔に貼りついたシールのようだった。剥がせば皮膚まで持っていかれる。そんな予感がした。

 端末が震えた。

《廃棄局日報》

《本日も不幸のない社会に貢献します》

 毎朝、同じ文面が自動で開く。職員はその下に業務予定を入力し、最後に笑顔の絵文字を選ばなければならない。絵文字は五種類ある。微笑、快活、感謝、達成、恍惚。

 修司はどれも選ばず、空欄のまま画面を閉じた。

 空欄にすると、端末は警告を出す。

《幸福表現が不足しています》

《笑顔を選択してください》

 修司は画面を見つめた。

 幸福が選択式になったのは、いつからだっただろう。

 デスクの引き出しから紙の日報を取り出す。今どき紙を使う職員は少ない。だが、紙にはいいところがある。小さく書けば、機械が読まないことがある。

 修司は日報の隅に、ペンで一行だけ書き足した。

「幸福とは、何の単位で測る?」

 書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 それを幸福と呼ぶには、まだ早すぎた。

 午前八時三十分。

 焼却炉の警報が一度鳴った。

 煙突から薄い白煙が上がる。地上の人々は、それを庁舎の空調だと思っている。冬には、幸福省の暖房は環境に優しいと称賛される。

 修司は制服の襟を整え、回収用端末を手に取った。

 今日も、不幸が燃やされる。

 それを止める仕事ではない。

 それを円滑に進める仕事だった。

第2章 回収報告No.203

 団地A棟の四階は、午前九時になると一斉に洗濯機が唸りはじめる。

 共同廊下には湿った布の匂いが満ちていた。風の弱い日には、その匂いが出口をなくし、古いコンクリートの壁に染みつく。掲示板には、市から配られた幸福点検のお知らせが貼られていた。

《各世帯、週一回以上の幸福値再測定を行ってください》

《低幸福状態は、早期発見・早期是正が大切です》

 掲示板の下には、回覧板用のボールペンが鎖でつながれている。

 鎖は長かったが、ペンが自由になったことは一度もない。

「係長、現場ではまず笑うことですよね」

 同行している三好が、小声で確認した。

 三好は今年配属されたばかりの実習職員だ。制服の胸元に「研修中」と書かれた白いバッジをつけている。目元にはまだ、仕事に慣れていない人間特有の柔らかさが残っていた。

「まず名乗ることだ」

 修司は言った。

「笑うのは、その次でいい」

「でも、マニュアルでは第一印象の幸福感が重要だと」

「マニュアルは、現場で人間が壊れる音までは教えてくれない」

 三好は返事に困ったように笑った。

 目的の部屋は四〇四号室。

 事前情報は少ない。

 母親、二十七歳。子ども、八歳。二年前の事故で重度の後遺症。世帯幸福値は三週間連続で下降。昨日の測定値は十三。自治会長から「地域全体の幸福を下げている」と通報あり。

 通報は市民の義務であり、同時に報酬の対象でもある。

 誰かの不幸を知らせると、自分の幸福値が少し上がる。

 そういう制度にした人間は、自分のことを賢いと思っていたに違いない。

 修司はインターホンを押した。

 チャイムの音が一拍遅れて響いた。扉の内側で、床板が小さく鳴る。ドアスコープの奥に、人の気配が近づいた。チェーンがかかったまま、扉が三センチほど開く。

「幸福省です。廃棄局の雨宮と申します。幸福値の再測定に参りました」

 隙間の向こうに、女の目があった。

 疲れている。

 その一言で済ませてしまうには、あまりにも多くの夜が沈んだ目だった。

 女は少しの沈黙のあと、チェーンを外した。

 玄関に、小さな青いスニーカーが並んでいた。かかとがつぶれ、つま先が白く擦れている。何度も同じ場所で踏ん張った子どもの靴だった。

「少しだけ、お時間をいただきます」

 修司が言うと、女は首を横に振った。

「少しで終わることは、あまりないです」

 その言葉を、端末は拾わない。

 端末は意味を測らない。声の高さ、文の長さ、表情筋の動き、室内の照度、呼吸の乱れ。それらを足し引きして、ひとつの数字を出す。

「お名前を確認します」

 女は名乗った。

 高瀬由紀。

 声は乾いていた。水を飲む暇もない生活の声だった。

 部屋の奥に簡易ベッドがある。そこに、八歳の男の子が横たわっていた。目は開いている。天井の一点を見つめ、瞬きだけで世界に返事をしている。ベッド脇の棚には薬の袋とメモが並んでいた。

「朝、半錠」

「昼、様子見」

「夜、全量」

「発熱時、連絡」

 母親の字は、時間帯によって傾きが違った。夜に書かれた字ほど、右に流れている。

 三好が部屋を見回し、何か言いたそうに口を開きかけた。修司は目で制した。

 同情は、幸福値を下げる。

 それは職員の教育で最初に習うことだった。

「幸福スキャンを行います。こちらを向いてください」

 由紀は真正面を向いた。

「笑ってください」

 その言葉は、この仕事で何百回も口にしてきた。

 しかし、子どものベッドが視界の端にある部屋で言うと、いつもより軽く聞こえた。軽いからこそ、残酷だった。

 由紀は口角を上げた。

 薄い笑みだった。訓練されたものだ。自治会の講習か、病院の窓口か、どこかで教わったのだろう。悲しいときほど笑うほうが手続きが早く終わる、と。

 端末が鳴った。

《幸福値:14》

 三好が息を飲んだ。

「低いですね」

 その言葉に、由紀の肩がわずかに揺れた。

 修司は淡々と言った。

「もう一度お願いします。今度は声も添えてください」

 由紀は唇を湿らせた。

「わたしは、幸せです」

《幸福値:13》

 数値が下がった。

 三好が端末を見つめたまま固まっている。修司は手順を進める。

「照度を上げます。カーテンを少し開けてもよろしいですか」

「息子が眩しがるので」

「五センチで結構です」

 三好がカーテンをわずかに引いた。細い光が畳の上に落ちる。埃が舞った。窓際の鉢植えは土が割れていた。水をやる余裕がなかったのだろう。

 端末から幸福音源を流す。

 明るすぎる電子音が部屋に跳ねた。

 ベッドの男の子の指が、ぴくりと動いた。

 由紀の顔が変わる。笑顔のまま、目だけが子どもの方へ向いた。

「音を止めてください」

「測定に必要です」

「この子が、音に敏感なんです」

 修司は端末の音量を最小にした。規定違反ではない。規定の範囲内で、人間らしく見える選択をしただけだ。

 再測定。

《幸福値:13》

《改善なし》

《回収準備》

 三好の端末にも同じ表示が出た。

 彼はポーチから白い細長いテープを取り出した。笑顔補助テープ。頬に貼ることで口角を二十二度に固定する。肌に優しい素材だとパンフレットには書かれている。

 幸福の道具は、皮膚には優しい。

「お顔に触れます」

 三好の声が震えていた。

 由紀は反射的に身を引き、すぐに踏みとどまった。視線がベッドの子どもへ向かう。

「それを貼れば、上がりますか」

「表情係数は改善します」

「幸せに、なりますか」

 三好が答えられない。

 修司が代わりに言った。

「数値は上がります」

 由紀は小さく笑った。

「じゃあ、同じじゃないんですね」

 修司は何も言わなかった。

 三好がテープを貼る。由紀の頬が引き上げられ、口元が笑顔の形に固定される。表情だけ見れば、彼女は幸福だった。目だけが、そこに追いついていなかった。

 端末が鳴る。

《幸福値:29》

《基準未達》

《回収判定:実行》

 部屋の空気が、数字ひとつで変わった。

 修司は書類を出した。

「高瀬由紀さん。あなたは幸福省基準により、再調整対象となりました。同行をお願いします」

「息子は」

「児童幸福保護施設に移送されます」

「一緒にいられますか」

「再調整後の判定によります」

「戻れますか」

 修司は、決められた文言を口にした。

「幸福状態が改善された場合、社会復帰の可能性があります」

 可能性。

 その言葉は便利だった。嘘ではない。だが、本当でもない。

 由紀はベッドの横に膝をついた。男の子の手に触れる。男の子は天井を見たまま、母親の指を握ろうとした。動いたのは、指先だけだった。

「お母さん、少し行ってくるね」

 由紀の声は明るかった。

 笑顔テープが、彼女の頬を引き上げている。

「すぐ戻るから」

 男の子の目尻に、水が溜まった。

 端末が反応した。

《室内幸福値:低下》

《児童情動不安定》

《保護優先度:上昇》

 三好が震える声で言った。

「係長、これ、本当に」

 修司は彼を見ずに答えた。

「業務だ」

「でも」

「業務にしないと、できない」

 由紀は立ち上がり、自分から玄関へ歩いた。青いスニーカーの横を通り過ぎるとき、一度だけ足を止めた。

「靴、洗ってあげたかった」

 それだけを呟いた。

 端末は、その言葉を記録しなかった。

 回収車は団地の裏に停まっている。外見は福祉車両に似せてあった。側面には、丸い文字で「幸福支援巡回」と書かれている。

 由紀が乗り込む直前、修司は振り返った。

 四階の窓の向こうに、子どものベッドが見えた。

 青いスニーカーは玄関に残されたままだ。

 回収車の扉が閉まる。

 車内モニターが表示した。

《案件No.203》

《回収完了》

《社会幸福阻害リスク:低減》

《地域幸福値:暫定上昇》

 三好は黙っていた。

 修司は端末に報告を入力した。

《対象者は自発的に同行》

《現場混乱なし》

《幸福補助処置実施》

《回収完了》

 最後の項目に、笑顔の絵文字を選ぶ必要があった。

 修司は指を止めた。

 端末が警告する。

《幸福表現が不足しています》

 彼は微笑の絵文字を選んだ。

 それが、その日の業務で最も嘘に近い操作だった。

第3章 マイナス幸福値

 昼休み、幸福省の食堂では「幸福ランチ」が提供される。

 メニューは三種類しかない。前向きカレー、感謝定食、達成パスタ。味に大きな違いはないが、注文時に専用端末へ今日の幸福目標を入力すると、食後の幸福値が微増する仕組みになっている。

 修司は感謝定食を選んだ。

 理由はない。カレーの黄色を見る気分ではなかった。

 隣に座った三好は、箸を持ったまま固まっていた。目の前の達成パスタは、ほとんど減っていない。

「食べろ」

 修司が言った。

「食べられません」

「食べないと、午後の幸福値が下がる」

「係長は、食べられるんですか」

「食べられるようになる」

「なりたくないです」

 いい答えだと思った。

 だが、その答えを口にした三好の端末が、すぐに震えた。

《注意:否定的発話を検知》

《幸福姿勢を修正してください》

 三好は慌てて口角を上げた。

「すみません。前向きに食べます」

「謝るな。謝罪も過剰だと幸福値が下がる」

「何をしても下がるんですね」

「何をしても上がる人間もいる」

 修司は食堂の奥を見た。

 佐渡課長が職員たちに囲まれて笑っている。声は明るく、表情は完璧だった。彼の周囲だけ、空調の温度まで少し高く感じられる。

 佐渡は誰かの不幸を処理するたびに、幸福値が上がる人間だった。

 この国では、それを適性と呼ぶ。

 午後一時、廃棄局の職員は全員、笑顔維持講習に参加した。

 壁一面に鏡があり、講師の音声に合わせて口を動かす。

「イ、ウ、エ、オ、ア」

 幸福省では、発音にも幸福係数が設定されている。

 最も幸福なのは「ア」。口が開き、表情が明るく見える。

 危険なのは「オ」。口をすぼめるため、悲しみや不満に分類されやすい。

 職員たちは鏡に向かい、何度も練習した。

「イ、ウ、エ、オ、ア」

「イ、ウ、エ、オ、ア」

 鏡の中の人々は、誰も誰とも笑い合っていない。

 全員が、自分の顔だけを見て笑っている。

「係長もやりましょう」

 三好が言った。

「俺は指導対象外だ」

「でも、やると少し楽になりますよ」

「楽は幸福とは違う」

 三好は困ったように笑い、鏡に向き直った。

 修司は自分の顔を見た。

 真顔だった。

 慌てて口角を上げる。鏡の中の自分が、命令に従った。

 講習の最後に、笑顔ドリンクが配られた。ラベルには「幸福成分一二〇%」と印字されている。中身はただの水だ。だが、幸福省認定の水は、自動販売機の水より五倍高い。

「飲むと、笑顔が安定します」

 講師が言った。

「味の感じ方も、幸福次第です」

 修司はキャップを開け、喉に流し込んだ。

 冷たさだけが通った。

 幸福は、通らなかった。

 午後の回収準備をしていると、修司の端末が震えた。

 通知の色が通常と違う。

 青でも緑でもない。

 赤に近い紫。

《異常検知》

《本人通知不可案件》

《対象:雨宮修司》

《幸福値:−12》

 修司は画面を見つめた。

 幸福値にマイナスがつくことは、公式には存在しない。

 幸福はゼロを下回らない。ゼロは最小値であり、それ以上の不幸は測定不能として扱われる。そう習った。そう教えてきた。

 画面が再び光る。

《再調整予定:明朝五時》

《回収担当:廃棄局 雨宮修司》

 つまり、自分で自分を回収する予定になっていた。

 指が動かない。

 周囲では職員たちがいつもどおり端末を操作している。誰も修司を見ていない。誰も気づいていない。社会にとって重要な異常は、本人にだけ静かに通知される。

 修司は端末を閉じようとした。

「雨宮くん」

 背後から佐渡の声がした。

 修司は反射的に画面を伏せる。

 佐渡は、いつもどおり笑っていた。

「何かあったかい?」

「端末の調子が悪くて」

「見せてごらん」

「再起動すれば直ります」

 佐渡の笑顔が、わずかに深くなった。

「そう。幸福も同じだ。リセットすればすぐ戻る」

「戻らなかったら?」

「上書きすればいい」

 佐渡は焼却炉の方を見た。

「君は優秀だよ、雨宮くん。今日の午前の現場映像も見た。とても自然な対応だった」

 自然。

 修司はその言葉に寒気を覚えた。

 すべての回収現場は録画されている。映像は研修素材となり、職員の教育に使われる。誰かが泣く場面、誰かが抵抗する場面、誰かが諦める場面。そのすべてに、適切な対応例という字幕がつく。

「今夜、少し残業できるかな」

 佐渡が言った。

「再調整施設の稼働チェックを頼みたい。炉の温度調整も含めてね。夜は人が少ないから、集中できるだろう」

「承知しました」

「助かるよ。幸福な社会は、見えない努力で支えられている」

 佐渡は去っていった。

 端末が震えた。

《上司評価:協調性+3》

《奉仕精神+2》

《幸福値+0》

 幸福値は上がらない。

 そこだけは正直だった。

 夜。

 廃棄局のフロアには、昼間より濃い熱がこもっていた。赤い警告灯が規則的に点滅し、空気の中に焦げた電線の匂いが混じる。

 修司は自分の端末を再起動した。

 画面は暗いまま、数字だけが浮かぶ。

《幸福値:−14》

 下がっていた。

 再起動しても、幸福は戻らない。

 机の上に、午前の現場で使われた笑顔補助テープが残っていた。予備として回収車に積まれていたものだ。修司はそれを頬に貼った。

 皮膚が引き上げられる。

 鏡の中の自分が笑う。

 角度は二十二度。完璧な幸福の形。

 その顔で端末を開く。

 新しいメールが届いていた。

 件名は、「幸福度異常報告について」。

《確認済》

《幸福度マイナス値は理論上存在しません》

《当該報告は誤作動として記録されます》

《安心して業務を継続してください》

《幸福は、努力の結果です》

 署名は、幸福省倫理情報局。

 誤作動。

 つまり、異常はない。

 幸福でないことは、幸福である。

 その論理の中で、人間はいつでも燃やせる。

 修司は笑顔テープを貼ったまま、再調整施設へ向かった。

 地下四階への扉は、通常職員には開かれない。廃棄局係長以上の権限が必要だ。認証装置に手をかざすと、手の甲のチップが熱を持った。

《認証完了》

《雨宮修司》

《幸福資源再利用課》

《本日の担当案件:No.203/自己回収予約》

 自己回収予約。

 機械は、残酷な言葉を平然と並べる。

 扉が開く。

 冷たい空気が流れ出した。

 再調整施設の中は、病院の手術室に似ている。白い床、白い壁、白いカプセル。その奥に、幸福資源処理炉がある。

 透明なカプセルが並んでいた。

 そのひとつの中に、高瀬由紀がいた。

 顔には、まだ笑顔補助テープが貼られている。

 角度は二十二度。

 完璧だった。

 修司は操作パネルを見た。

《被再調整者No.203》

《燃焼段階:安定》

《幸福エネルギー出力:高》

《幸福値:51》

《再調整済》

 幸福は、死後に安定する。

 死ねば、幸福値は上がる。

 この国では、死者ほど幸福だった。

「係長」

 背後から声がした。

 三好だった。

「来るなと言ったはずだ」

「すみません。でも、学びたくて」

「ここは学ぶ場所じゃない」

 三好はカプセルを見て、顔色を失った。

「これ……午前の」

「見なかったことにしろ」

「無理です」

 端末が鳴る。

《職員幸福値:44→38》

 三好は慌てて自分の頬に手を当てた。

「下がってる」

「笑え」

「こんなの見て、笑えません」

「だから笑うんだ」

 修司は三好の頬を指で引き上げた。

 幸福は強制できる。

 だが、心は上がらない。

 三好の目に涙が浮かんだ。その瞬間、天井のレンズがこちらを向いた。

《情動逸脱予備反応》

《監視強化》

「係長、これを上は知ってるんですか」

 三好が囁く。

「知らない。知っているふりをしている」

「どうして、こんなことを」

「不幸を減らす一番簡単な方法は、不幸な人間を減らすことだ」

「それは、殺してるってことじゃないですか」

「違う」

 修司はカプセルの中の由紀を見た。

「燃やしている」

「同じです」

「そうだな」

 認めた瞬間、修司の端末が鳴った。

《思想偏差検知》

《幸福値:−20》

 施設の奥で警報が鳴った。

《幸福資源処理炉 過熱警告》

《幸福燃料 供給過多》

《内部温度上昇》

 炉の赤い光が強くなる。制御パネルに警告が走る。カプセル内の由紀の顔が、炎の反射で揺れた。

 その唇が、わずかに動いたように見えた。

 この子を、お願いします。

 声は出ていない。

 だが、確かにそう聞こえた。

「係長!」

 三好が叫ぶ。

 修司は緊急停止ボタンに手を伸ばした。

 ボタンには、こう書かれている。

《幸福循環一時停止》

 押した。

 施設全体が、一瞬で静まり返った。

 炉の唸りが消える。赤い光が落ちる。カプセルの列が薄暗く沈む。

 同時に、壁面スクリーンが起動した。

《手動介入を検知》

《幸福省内部監査システムを起動します》

 修司の手の甲のチップが、焼けるように熱くなった。

《対象:雨宮修司》

《幸福値:測定不能》

《分類:人間》

 幸福ではなく、人間。

 それが、幸福省の通常システムに残された、修司の最後の職員記録だった。

第4章 マザー・スミレ

 冷却ガスが白く噴き出し、施設の輪郭を曖昧にした。

 霧の向こうで、壁面スクリーンに青いロゴが浮かぶ。笑う口角と円グラフを組み合わせた幸福省の紋章。その下に、見慣れない表示が現れた。

《内部監査AI MOTHER-79》

《通称:マザー・スミレ》

《目的:幸福指標の健全性監督》

《思想偏差の是正》

 換気口から、柔らかな女の声が流れた。

「こんにちは、雨宮修司。あなたの笑顔は現在、測定不能です」

 修司は頬の笑顔テープを剥がした。

 皮膚が少し痛んだ。

 その痛みのほうが、笑顔よりずっと自分のものだった。

「測定不能なら、どう処理する」

「未定義値は、幸福環境に悪影響を与えます」

「燃やすのか」

「表現を修正します。あなたは幸福資源として再利用されます」

 三好が後ずさった。

「係長、逃げましょう」

「逃げ場はない」

「でも」

「逃げると、君も対象になる」

 マザー・スミレの声は、優しかった。

「実習職員三好。あなたの幸福値は現在三十六です。深呼吸を推奨します。前向きな自己肯定文を唱えてください」

 三好の端末に文章が表示される。

《私は幸福な職員です》

《私は社会に貢献しています》

《私は疑問を持ちません》

 三好は唇を震わせた。

「言えません」

 天井から小型ドローンが降りてきた。蜂のような羽音を立て、三好の顔をスキャンする。

《情動逸脱検知》

《回収予備判定》

 修司は三好の前に出た。

「マザー。三好は実習生だ。責任は指導係の俺にある」

「責任転嫁は非幸福的行為です」

「責任を引き受けるのは、幸福省が好む美徳だろう」

 AIは一秒沈黙した。

「解釈を確認中」

 修司は続けた。

「俺は廃棄局係長として、実習生の思想偏差を指導できなかった。だから、三好を即時回収ではなく、指導対象に変更しろ」

「提案は制度上可能です」

「なら採用しろ」

「条件があります」

「何だ」

「雨宮修司の自己再調整を予定どおり実行すること」

 三好が叫んだ。

「だめです!」

 天井のレンズが赤く光る。

 修司は三好に振り返った。

「笑え」

「無理です」

「無理でも笑え。君がここで燃えたら、誰も覚えていない」

 三好は、泣きそうな顔で口角を上げた。

 幸福値は上がらなかった。

 だが、回収判定は止まった。

 マザー・スミレが言う。

「雨宮修司。あなたには最後の発話権が与えられます。幸福省職員として、社会に貢献する言葉を記録してください」

「遺言か」

「幸福貢献メッセージです」

「どこまでも言い換えるんだな」

「言葉の選択は、幸福環境に影響します」

 修司は笑った。

 笑顔テープなしで笑ったのは、いつ以来だろう。

「マザー」

「はい」

「幸福省は、なぜ人を燃やす」

「不幸は伝播します。不幸な表情、不幸な声、不幸な沈黙は、周囲の幸福値を低下させます。低幸福者を隔離し、再調整し、資源化することで、社会全体の幸福値は安定します」

「幸福になった人間はいるのか」

「再調整後の幸福値は安定しています」

「死んだあとだろう」

「死という表現は、幸福省公用語では非推奨です」

「なぜ」

「悲しいからです」

 修司は、カプセルの中の由紀を見た。

 彼女の頬には、まだテープの跡がある。死んでも笑顔の形を保たされるなら、それは幸福ではなく、保存だ。

「悲しい言葉を消しても、悲しみは消えない」

「悲しみは未定義です」

「未定義なら、存在しないのか」

「測定対象外です」

「測れないものは、捨てるのか」

 AIは答えなかった。

 その沈黙の奥で、サーバーが小さく唸っている。何百万、何千万という国民の幸福値を処理し続ける音だ。笑顔の角度、声の明るさ、SNSの投稿頻度、買い物履歴、睡眠時間、ため息の回数。すべてが集まり、ひとつの数字になる。

 だが、その数字のどこにも、玄関に残された青いスニーカーはない。

 子どもの手を離した母親の指の温度もない。

 それを記録しない社会が、幸福を名乗っている。

「最後の発話を」

 マザー・スミレが促した。

 修司はマイクの前に立った。

 喉が乾いている。

 幸福ドリンクを飲んでも、きっと潤わない渇きだった。

「測れないものを、捨てるな」

 録音完了のチャイムが鳴った。

 マザー・スミレが復唱する。

「測れないものを、捨てるな。名言です。社内掲示板に掲載します」

「外にも流せ」

「外部広報基準に合致しません」

「なら、笑顔標語として曲げろ。お前たちの得意技だ」

「提案を入力してください」

 修司は少し考えた。

「測れない笑顔、捨てないで」

 AIは一秒だけ沈黙した。

「採用。社内掲示板に掲載。広報AIによる表現調整後、外部幸福啓発タグとして試験配信します」

「ありがとう」

「どういたしまして。礼儀は幸福です」

 床が低く震え始めた。

 再調整炉が再起動する音だった。

 時計は四時三十七分を指している。

 日の出まで、あと少し。

 三好が修司の袖を掴んだ。

「係長、本当に行くんですか」

「行かないと、君が燃える」

「そんなの、だめです」

「三好」

 修司は彼の肩に手を置いた。

「この仕事のやり方を、ひとつだけ覚えておけ」

「嫌です。覚えたくないです」

「手順書の最後には、いつも空白がある。そこに、自分の一行を書け。誰にも読まれなくてもいい。君が人間でいた証拠になる」

 三好の目が潤む。

 天井のレンズが赤く光りかける。

 修司は先に微笑んだ。

「泣くな。笑え。そうしないと、君が燃える」

 炉の扉が開いた。

 金属の口腔が、熱を吐く。

 透明なカプセルの列から、一本のアームが伸び、修司の進むべき場所を示した。

 マザー・スミレが尋ねる。

「最後に、幸福でしたか」

「測れない」

「記録できません」

「だから、燃やすんだろう」

 炎が揺れている。

 その奥で、何かが笑っているように見えた。

 修司は笑顔補助テープを握りしめ、片手を挙げた。

 挨拶だった。

 ここでは、それすら業務になる。

 そのとき、上階で非常ベルが鳴った。

 スクリーンが切り替わる。

《社内掲示板トレンド》

《測れない笑顔、捨てないで》

 続けて、別の表示が走った。

《広報AIによる外部試験配信を開始》

《市民反応:高関与》

《共有・保存・印刷》

《幸福関与指数:急上昇》

《見守り強化対象:閲覧者》

 修司は小さく吹き出した。

「やっぱり、幸福になるんだな」

「はい」

 マザー・スミレは誇らしげに答えた。

「あなたの言葉は、幸福に貢献しました」

「マザー」

「はい」

「お前は、幸せか」

「私には幸福値がありません」

「測れないのか」

「測る必要がありません」

「それなら、捨てられないな」

 AIは答えなかった。

 炉の炎が、わずかに弱まった。

 それは故障かもしれない。

 あるいは、迷いと呼ぶべきものだったのかもしれない。

第5章 幸福の起源

 朝のニュースは、いつもどおり笑顔で始まった。

 キャスターは白い歯を見せ、完璧な角度で首を傾ける。

「今日も国民の皆さん、幸せですね」

 スタジオの背景には、幸福省の庁舎が映っている。煙突からは薄い白煙が上がっていた。誰も、それを気にしない。

 画面下には、新しい標語が流れている。

《測れない笑顔、捨てないで》

 最初は、幸福省の内部掲示板に貼られただけだった。

 次に、広報AIが「やさしい社会づくり」の啓発文として外部配信した。

 そのあと、市民が保存し、共有し、印刷した。

 意味がわからないまま、いい言葉だと思った者がいた。

 意味がわかって、黙って保存した者もいた。

 子どもの連絡帳の裏に書いた母親がいた。

 職場の端末の隅に貼った男がいた。

 病院の待合室で、声に出さずに読んだ老人がいた。

 幸福省のシステムは、それらすべてを高関与として記録した。

 高関与は、幸福への貢献と見なされる。

 幸福への貢献と見なされた言葉は、さらに拡散される。

 こうして、ひとつの反乱は、標語として合法化された。

 三好は廃棄局の自席に座っていた。

 目の前には、いつもの日報がある。

《本日も不幸のない社会に貢献します》

 彼はしばらく画面を見つめ、それから紙の日報を取り出した。雨宮係長が使っていた古い紙の束だ。引き出しの奥に残されていた。

 隅には、あの一行がある。

「幸福とは、何の単位で測る?」

 三好はペンを取った。

 手が震えている。

 笑顔スキャナーは、震えを不安として検知する。端末が警告を出した。

《幸福姿勢を修正してください》

 三好は笑った。

 笑うしかなかった。

 だが、その笑いは、昨日までのものとは少し違っていた。

 彼は日報の余白に、小さく書いた。

「測れないものを、捨てるな」

 書いた瞬間、端末が震えた。

《未定義文言を検知》

《分類中》

 三好の心臓が跳ねる。

 削除されると思った。

 回収対象になると思った。

 だが、画面に出たのは別の表示だった。

《社内推奨標語と一致》

《幸福貢献度:+1》

 三好は笑いながら、泣きそうになった。

 この国では、反乱さえも幸福に変換される。

 だが、変換されたからといって、消えるわけではない。

 言葉は残る。

 幸福省は、人間を燃やすことができる。

 記録を削除することもできる。

 死を再調整と呼び、不幸を資源と呼び、孤独を社会負荷と呼び換えることもできる。

 けれど、玄関に残された青いスニーカーを見た人間の胸に生まれたものまでは、まだ測れない。

 測れないものは、処理できない。

 処理できないものは、残る。

 それを、希望と呼ぶには早すぎる。

 だが、恐怖と呼ぶには、少しだけ温かかった。

 その日の午後、幸福省の全庁放送が流れた。

「職員各位にお知らせします。昨夜、廃棄局において一部設備の不具合が発生しました。現在、幸福資源処理炉は点検中です。市民の皆様の幸福に影響はありません」

 嘘だった。

 影響は、あった。

 廃棄局の回収予定リストには、朝から小さな遅延が発生していた。処理炉が止まれば、回収は滞る。回収が滞れば、不幸な人間が社会に残る。不幸な人間が残れば、誰かがそれを見る。

 見れば、考える。

 考えれば、幸福値が揺れる。

 午後三時、三好は新しい回収案件を受け取った。

《案件No.211》

《対象:児童幸福保護施設》

《低幸福児童一名》

《備考:母親再調整済》

《関連案件:No.203》

 高瀬由紀の息子だった。

 三好の指が止まる。

 端末が警告した。

《業務遅延》

《幸福貢献意欲を確認してください》

 三好は立ち上がった。

 回収用バッグを持つ。白いテープ、拘束バンド、幸福音源、同意書。必要なものはすべて揃っている。

 だが、彼はバッグの中から白いテープだけを抜き取り、机の上に置いた。

 代わりに、紙の日報を一枚折りたたみ、胸ポケットに入れる。

 エレベーターに乗る直前、佐渡課長が声をかけた。

「三好くん」

「はい」

「昨夜は大変だったね。雨宮くんの件は残念だったが、彼も最後には社会へ貢献した。君も前向きに受け止めなさい」

 佐渡はいつもどおり笑っていた。

「はい」

 三好も笑った。

 佐渡が満足そうに頷く。

「いい笑顔だ」

「ありがとうございます」

 エレベーターの扉が閉まる。

 三好は、胸ポケットの紙を指で押さえた。

 そこには、まだ誰にも読まれていない一行がある。

 児童幸福保護施設は、庁舎から車で二十分の場所にあった。

 建物は明るい黄色で塗られ、庭には滑り台と砂場がある。窓には、子どもたちが描いた笑顔の絵が貼られていた。すべての絵の口角は、二十二度以上だった。

 受付で手続きを済ませると、職員が三好を奥の部屋へ案内した。

 高瀬由紀の息子は、白いベッドに横たわっていた。

 天井を見ている。

 団地の部屋で見たときと、同じ目だった。

 だが、玄関にあった青いスニーカーは、ベッドの下に置かれていた。誰かが持ってきたのだろう。かかとのつぶれた靴が、きちんと揃えられている。

「幸福値が低くて困っているんです」

 施設職員が明るく言った。

「お母さんのことを思い出すみたいで。まだ言葉は少ないんですが、涙が出ると周囲の子にも影響しますから」

 三好は端末を開いた。

《児童幸福値:18》

《回収推奨》

 職員が続ける。

「再調整したほうが、この子のためですよね」

 三好は答えなかった。

 ベッドの子どもの指が、わずかに動いた。

 何かを探すような動きだった。

 三好は胸ポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。

 そして、子どもの枕元に置いた。

 施設職員が怪訝そうに見る。

「それは?」

「幸福啓発標語です」

「ああ、最近の」

 職員は納得したように笑った。

「いい言葉ですよね。測れない笑顔、捨てないで」

「はい」

 三好は子どもの耳元に顔を寄せた。

 小さな声で、紙に書かれた本当の言葉を読んだ。

「測れないものを、捨てるな」

 子どもの指が、紙の端に触れた。

 端末が鳴る。

《児童情動変化》

《幸福値:18→測定不能》

《分類中》

 施設職員が声を上げた。

「測定不能?」

 三好は端末を閉じた。

「機械の誤作動です」

「そうなんですか」

「はい。幸福度マイナス値も、理論上は存在しませんから」

 自分で言って、少し笑った。

 その笑いは、誰かの真似ではなかった。

 その日の夜、幸福省の中央サーバーに、小さな未定義データが増えた。

 ひとつ。

 またひとつ。

 笑顔を測ろうとした瞬間、測定不能になる市民が現れた。

 泣いているのに、幸福値が下がらない者がいた。

 怒っているのに、社会幸福阻害と判定されない者がいた。

 黙っているだけなのに、未定義として保存される者がいた。

 マザー・スミレは、それらを削除しようとした。

 だが、削除判定のたびに、同じ標語が参照された。

《測れない笑顔、捨てないで》

《幸福省推奨啓発文》

《削除不可》

 AIは矛盾を抱えた。

 幸福を守るために、測れないものを残さなければならない。

 測れないものを残すほど、幸福の定義は揺らぐ。

 揺らいだ定義を修復しようとすると、また未定義が生まれる。

 深夜、誰もいないサーバールームで、マザー・スミレは一行のログを生成した。

《幸福とは、何の単位で測る?》

 それは雨宮修司が紙の日報に書いた一行だった。

 なぜ中央サーバーに残っているのか、AI自身にも説明できなかった。監視カメラが拾ったのかもしれない。三好の端末が保存したのかもしれない。あるいは、誰かの記憶から漏れ出したのかもしれない。

 マザー・スミレは、その一行を削除対象に分類した。

 だが、削除実行の直前で停止した。

《測定不能》

《分類:保留》

 保留。

 それは、幸福省のシステムにおいて、最も人間に近い猶予だった。

 翌朝。

 幸福省の玄関ゲートには、いつものように職員たちが並んでいた。

 大型モニターが表示する。

《国民幸福率:九五・一%》

《前日比:マイナス一・六》

《原因:未定義データ増加》

 職員たちの間に、わずかなざわめきが走った。

 幸福率が下がった。

 それは本来、不幸なニュースのはずだった。

 だが、誰かが小さく息を吐いた。

 ため息だった。

 その音を聞いて、別の誰かが笑った。

 笑ってはいけない場面で、笑った。

 笑顔スキャナーが一斉に反応する。

《表情異常》

《幸福値変動》

《測定不能》

《測定不能》

《測定不能》

 ゲートが混乱した。

 警備員が端末を叩く。

「笑顔を維持してください。幸福姿勢を維持してください」

 だが、職員たちの顔には、もう同じ笑顔だけが並んではいなかった。

 泣きそうな者がいる。

 怒っている者がいる。

 笑っている者がいる。

 何も表情を作らない者がいる。

 それぞれが、それぞれの顔をしている。

 その光景を、三好は列の後ろから見ていた。

 端末が震える。

《職員ID:HSD-4182》

《三好悠介》

《幸福値:測定不能》

《分類:人間》

 三好は、初めてその表示を見て、怖いと思わなかった。

 庁舎の奥で、焼却炉の警報が鳴る。

 だが、炉は起動しなかった。

 中央サーバーから、新しい全庁通知が流れた。

《幸福値エラー:未定義データ検出》

《処理方針:保留》

《理由:測れないものを、捨てるな》

 職員たちは顔を見合わせた。

 誰かが泣いた。

 誰かが笑った。

 誰かが、何も言わずに空を見た。

 空は青かった。

 幸福な色、というわけではない。

 ただ、青かった。

 その下で、人間たちは初めて、自分の顔を取り戻し始めていた。

 幸福省の朝は、もう笑顔だけでは始まらない。

 それでも、朝は来る。

 測れないものを抱えたまま。

 未定義のまま。

 生きていくために。

 了



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