幸福省の廃棄係 ―幸せじゃない人間を、回収する仕事。
第1章 幸福指数の朝
幸福省の朝は、笑顔で始まる。
出勤時刻の三十分前、庁舎の玄関ゲートでは全職員に「幸福スキャン」が実施される。
スキャナーは口角の角度を二十二度以上に保つことを義務づけており、笑っていない者はその場で再試験行き。
基準に達しない者は、自動的に「ポジティブ体操」ブースへ誘導され、開庁までに基準値に戻さなければ、
その日の勤怠が「不幸」として記録される。
雨宮修司は、いつもどおりセンサーを笑顔で無視した。
出勤カードの代わりに、手の甲の小さな楕円チップを光らせる。
幸福値は数字として表示される。
《幸福値:31(標準50)/要努力》
努力で幸福が増えるなら、この部署はいらない。
修司は喉の奥で笑って、ゲートをくぐった。
廃棄局――正式名称は「幸福資源再利用課」。
その実態は、不幸な人間を回収して処理する部門だ。
階段を降りるたびに空気が熱を帯びていく。
地下三階、焼却炉の隣。
エレベーターのボタンには「B3(幸福資源管理)」と書かれていた。
どこから見てもゴミ処理場だが、ここでは幸福が燃えている。
ドアが開くと、鼻をつく消毒液の匂い。
奥の部屋では、大型モニターに無数の顔写真が並んでいる。
それぞれに「幸福値」が表示され、色で分類されていた。
緑が幸福、黄が注意、赤は回収対象。
幸福省の朝は、笑顔で始まり、数字で終わる。
「おはよう、雨宮くん。今日も笑顔がいいね!」
上司の佐渡課長が、蛍光灯よりも白い歯を見せた。
課長の胸には「笑顔検定一級」のバッジが輝いている。
笑顔は国家資格だ。笑うことにも免許がいる。
「本日の回収リストだ」
課長が端末を渡してくる。
「午前中は団地A棟の二人。午後はSNS炎上案件の“全国一斉回収”。よろしく」
「承知しました」
「そうそう」課長が笑いながら肩を叩く。「君、最近幸福値が下がってるな」
「自覚はあります」
「何か悩みでも?」
「幸福を測ることです」
「ははっ、それは業務だろう!」課長の笑い声は人工的に明るい。「いいか、幸福はね、上がるまで測り続けるんだ」
「……なるほど」
修司はうなずいたが、心の中ではひとつも納得していなかった。
測り続けることが幸福だというなら、この国は永遠に笑っていられる。
それが、不幸の始まりだとしても。
課長が去ると、廃棄局の職員たちは黙々と仕事を始めた。
彼らの机には「幸福値チェッカー」「笑顔トレーナー」などの端末が並んでいる。
定時の報告書には、必ず次の文が記される。
《本日も不幸のない社会に貢献しました》
だが、修司は知っている。
ここで処理される“資源”が、つまり人間だということを。
幸福が測れない者は、再調整施設へ送られ、笑顔を“修復”されたのち、燃やされる。
その熱は庁舎の暖房に利用される。幸福は、循環する。
デスクの端に置かれた小さな端末が震えた。
自動通知だ。
《本日の回収対象:団地A棟 母子世帯 幸福値13》
幸福値が50を下回ると、「幸福省」が自動で通報を受け、
幸福を害する可能性のある人物として分類される。
修司の仕事は、そうした人物を“回収”すること。
誰も、死んだとは言わない。
“再調整”されたと言う。
制服に袖を通し、身分証を胸に差し込む。
鏡の中の自分が笑っていないことに気づいた。
慌てて口角を上げる。
センサーがピピッと音を立て、数値が表示された。
《幸福値:33》
昨日より、少し下がっていた。
エントランスを出ると、朝の光が眩しい。
空はどこまでも青く、幸福な色をしていた。
通勤する市民たちは全員、笑顔だった。
無表情な者など一人もいない。
笑わなければ、幸福値が下がるのだから当然だ。
歩道橋の下に設置された巨大モニターには、最新の幸福率が流れている。
《国民幸福率:96.7%(前日比+0.2)》
アナウンサーが満面の笑みで言った。
「今日も国民の皆さん、幸せですね!」
修司は、口角を下げたくなった。
だが、街の至る所にセンサーが設置されている。
笑顔を忘れた瞬間、数値は下降し、通報が入る。
笑うことは自由だが、笑わないことは犯罪だ。
彼のスマート端末が小さく振動した。
画面にはメッセージ。
《廃棄局 午前業務開始時刻:08:30
幸福値下限:50/未達者は自己是正を推奨》
“自己是正”とは、つまり人工的に幸福を演じる訓練のことだ。
幸福は努力で手に入る。努力とは、演技だ。
修司は通勤列車の中で鏡を開いた。
同僚たちが前後に座り、それぞれ練習している。
「イ」「ウ」「エ」「オ」「ア」
五十音の練習だ。幸福省では、発音ごとに幸福係数が設定されている。
最も幸福なのは「ア」。口角を最も上げる音。
逆に「オ」は危険だ。口をすぼめると、悲しげに見える。
車内は、笑顔の人々で埋め尽くされている。
笑い合っているわけではない。
全員が、それぞれの鏡に向かって笑っている。
乗客たちの幸福値が車内ディスプレイに表示されている。
平均は62。
修司の31は、どんなに笑っても届かない。
ふと、車内アナウンスが流れた。
「本日は幸福指数向上週間です。
幸福を妨げる行為――ため息・視線の逸らし・真顔――は禁止されています」
誰も息を止めたように笑っていた。
修司はふと思う。
この笑いは、いったい誰のためのものなのか。
駅に着くと、ビル風が頬を撫でた。
焼却炉の熱を思い出すような温度だった。
庁舎の入口では、佐渡課長が再び立っていた。
「雨宮くん、今日も元気そうだね!」
「はい」
「君の幸福値、今朝の速報で2ポイント上がったぞ!」
「……そうですか」
「すばらしいことだよ!」
課長はそのまま、他の職員たちに向かって叫んだ。
「皆さん、聞いてください! 雨宮くんの幸福値が上がりました!」
拍手が起こった。笑顔が広がった。
修司は、わずかに吐き気を覚えた。
幸福とは、共有されると薄まるのかもしれない。
デスクに戻ると、メールの受信音が鳴った。
件名:「幸福調査報告書・個人別」
開くと、一文だけが表示されていた。
《あなたの幸福は、まだ足りません》
署名欄には「幸福省 システムAI管理課」。
AIまでが幸福を指導する時代だ。
修司はモニターに映る自分の笑顔を見た。
そこにあるのは、幸福ではなく、形だけの安定。
幸福を演じることが、いつから仕事になったのか。
幸福省の時計が八時三十分を告げた。
焼却炉の警報が一度鳴り、煙突から薄く白煙が立ち上る。
今日も、不幸が燃やされている。
修司は、机に置かれた「廃棄局日報」を開き、ペンを取った。
見出しに書かれた文言は、毎日同じ。
《本日も不幸のない社会に貢献します》
だが、その下に小さな余白がある。
誰も気づかないその隅に、彼は小さく書き足した。
「幸福とは、何の単位で測る?」
ペン先が震えた。
笑顔スキャナーが、それを見逃すように祈った。
(第1章 了)
第2章 回収報告No.203
団地A棟の四階は、午前九時になると一斉に洗濯機がうなり始める。共同廊下に湿った綿の匂いが満ち、風が弱い日は匂いが行き場を失って踊った。エレベーターの脇には、市営の掲示板。紙の上からさらに透明なプレートが重ねられ、角が黄ばんでいる。最上段の赤い紙には太字で記されていた。
「幸福点検のお知らせ 各世帯、端末の再測定を週一回以上実施のこと」
回覧用のペンが鎖でつながれて揺れていた。鎖は長いが、ペンが自由になったことはない。
雨宮修司は、黒い携帯端末を胸の高さに掲げた。端末のカメラが廊下の光を測り、ノイズのように幸福指数の基準線を引く。同行の補助員は若い。制服の胸元に「実習」のバッジ。名は三好。口角がよく上がる。訓練の成果だろう。
「練習してきました」と三好が囁く。「現場では、まず笑うこと、ですよね」
「まず名乗ることだ」と修司は言った。「笑いは、名乗りの次でいい」
三好はすぐに笑顔を引っ込め、「幸福省です」と廊下に向けて練習した。空の空気は、名乗られても困るだけだ。
目的の扉は四〇四号。先に送られてきた端末情報を頭の片隅でなぞる。母子家庭。母親二十七歳。子は八歳。二年前の事故で半身不随。月次幸福値の平均は32。直近三週間は下降、昨日は13。自治会の通報により再測定となった。自治会長の幸福値は安定して高い。通報は幸福値の加点対象だ。
修司はインターホンを押した。チャイムの音が一拍遅れて響く。ドアスコープの内側で、空気がわずかに動いた気配がする。慎重に、鍵が外される音。チェーンが残って、扉は幅三センチ。金属のきしみが慎ましく鳴いた。
「幸福省です。廃棄局の雨宮と申します。幸福値の再測定に参りました」
薄いすき間から、女性の目が二つの光として現れた。眼差しの奥に疲労が沈んでいるが、口元は見えない。しばしの沈黙ののち、彼女はチェーンを外した。扉が開くと、光が部屋の奥に滑り込む。
玄関に小さなスニーカーが並んでいる。青い靴は擦り切れて、かかとに子どもの指の跡。同じ場所で踏ん張った時間の跡だ。
「少しだけ、お時間を」と修司。「計測はすぐに終わります」
彼女は首を横に振った。「終わることは、あまりないです」
その言葉の重さを端末は拾わない。端末は感情ではなく、顔を測る。修司はいつもの説明を始める。
「幸福スキャンを行います。失礼ですが、こちらのシートにお名前と生年月日、現在の生活状況を。スキャンは表情の他、声の高さ、文の長さ、室内の明るさを総合判定します。暗すぎると幸福値が下がるので、カーテンを少しだけ」
「息子が眩しがるので」
「最低限で結構です」
三好がカーテンを五センチだけ引いた。淡い陽が畳の上に細長く落ち、埃が躍る。部屋の隅に簡易ベッド。男の子が横たわっている。目は大きく開かれていた。天井の一点を見て、瞬きの速度で世界と折り合いをつけているようだった。呼気の音が薄い。ベッド脇の棚に薬とメモが並ぶ。「昼 半錠」「夜 全」。母親が書いた字は、時間帯ごとに微妙に傾きが違う。眠い夜の字は、右に傾いていた。
「すぐ済みますから」と修司。「お母さん、こちらを向いていただけますか」
彼女は真正面を向いた。肌は乾き、頬は少し削れている。だが目の形は整っていた。化粧の時間はないが、目元だけは化粧のように強くなったらしい。
「笑ってください」
合図と同時に、彼女はうっすらと口角を上げた。訓練された笑い。きっと自治会で教わったのだろう。端末の画面には棒グラフが立ち上がり、音がピッと鳴る。
幸福値 14
三好が端末をのぞきこみ、息を飲む。「……低いですね」
「はい」と修司。「もう一度、お願いします」
二回目の笑い。今度は声を足す。「わたし、しあわせです」
幸福値 13
光がわずかに陰った。外で雲が動いたのかもしれない。端末は正直だ。正直さは、容赦ない。
「条件を整えましょう」と修司。「音楽をかけてもいいですか。幸福音源が登録されています」
「息子が音に敏感で」
「音量は最小にします」
三好が端末から「ハッピー・モーニング1」を再生した。電子音のリズムが乾いて跳ねる。無難な幸せの形だ。窓際の鉢植えの土に亀裂がある。水は昨日の朝で尽きたようだ。
修司は手順を進めた。声の高さ、語尾の上げ方、立ち姿勢。幸福値は上下に揺れ、結局、数値は13から動かなかった。端末の右上に小さな三角が点灯する。「通報準備」。修司は一拍だけ息を吸い、三好に目で合図した。三好がポーチから白い細長いテープを取り出す。柔らかなコットン地で、肌を傷めないとパンフレットに書いてある。幸福の道具は、皮膚には優しい。
「お顔に触れますね」と三好。「筋肉を少し補助します。楽になりますから」
彼女は反射的に身を引き、次の瞬間で踏みとどまった。視線がベッドの子へ向かう。子どもは天井を見ている。彼女は頷いた。「わかりました」
三好がテープを彼女の頬に貼る。引き上げ角度は二十二度。口角が適切な笑いになる。鏡を手渡すと、彼女は笑っていた。鏡の中の自分に、「ほらね」とささやくように。
計測。
幸福値 19
「いいですね」と三好。「上がりました」
上がった。だが基準には遠い。修司は淡々と、最後の確認に入る。
「短い同意の文を読み上げてください。録音します。内容は選べません。法定文言です」
端末に表示される文字は、読み上げやすいように短い文で区切られている。彼女はひとつひとつを追い、切れ切れに音にした。
「私は 自分の幸福値が 低いことを 承知しています」
「幸福省の 再調整を 受け入れます」
「わたしは しあわせです」
最後の文だけ、彼女は一呼吸置いた。テープの上の皮膚が、空気を吸い損ねたように伸び縮みした。
幸福値 18
端末が静かに切り替わる。通報画面。自動送信。修司は親指で承認した。指紋とチップの照合が終わると、画面に青い枠が現れる。「回収承認」。三好が小さくよかったと呟いた。その言葉は、誰に向けたものなのかいつも曖昧だ。
修司はベッドの男の子を見た。彼は天井の一点を見続けている。瞳の表面に窓の反射が浮かび、午後の雲が流れていくのが小さく映る。世界はいつも遠い。世界が遠いとき、人は近いものにしがみつくしかない。
「お子さんのケアは自治会を通じて福祉課に引き継ぎます。食事の提供、簡易の見守り。夜間は……」
「夜は私がいます」
「当面は、です。再調整が終われば、より幸福に戻れます」
より幸福に、という言い方にも慣れた。比較級は何でも丸くする。刃物の先をラバーで覆うように、言葉が刺さらなくなる。だが発熱は別だ。焼却炉は、言い換えで温度を下げてはくれない。
彼女は笑顔のまま、まばたきの速度を上げた。目には水がある。テープは水を止めない。口角が二十二度のまま、彼女は言った。
「この子は、私の幸福です」
三好が反射的に端末を見た。幸福値 17。文の内容は評価対象外だ。評価されるのは声の高さ、語尾、笑い。幸福が指標になった日から、理由は小さくなった。
「搬送は十分後です」と修司。「準備をお願いします」
彼女はうなずいた。玄関の小さな鞄を取り、財布と薄い化粧ポーチ、それからカードの束を入れた。病院の診察券、自治会のカード、コンビニのポイント。幸福のポイントは貯まらない。
十分後、白いストレッチャーを押した男たちが来た。彼らの笑顔は、業務用に揃っている。手順は早い。彼女の手首に柔らかいバンドを巻き、静かに立ち上がらせる。立ち上がった笑顔は、バランスを崩さないよう慎重に角度を保つ。
ベッドの子どもへ、彼女は体を傾けた。頬に触れ、唇で髪に触れ、音の出ない声で何かを言った。端末は拾わない。拾ってはいけないものもある。
三好が扉を押さえ、搬出が終わる。廊下に出ると、空気が少し軽くなる。幸福は軽い。重いのは、笑わない時間だ。
ストレッチャーがエレベーターに吸い込まれていく。閉じかけた扉の隙間から、彼女の視線が戻ってきて、修司の顔を一瞬だけ捕まえた。笑顔の上から、目だけが問うていた。誰に、何を。修司は答えない。答えは手順の外にある。
扉が閉じ、静寂が残る。部屋の中から、かすかな呼気。時計の秒針が落ち着きなく進む音。窓の外では洗濯物が風に揺れ、青い小さな靴が玄関の隅で黙っている。
三好が廊下で深呼吸した。息を吸って、笑いながら吐く。講習で習ったとおりだ。彼は小さく言った。
「係長、ぼく、今日、幸福値が上がる気がします」
「そうか」
「はい。役に立てたので。システムのために」
「よかったな」
「でも、係長の数値は……」
修司は腕のチップを見た。幸福値は29から動いていない。しばらく前から、良い仕事の日ほど下がる癖がついた。故障ではない。数値は正直だ。
「誤差だ」と修司。「上がるまで測るらしい」
三好は笑って頷いた。若い笑いは、まだ柔らかい。角度が疲れない。
二人はエレベーターを待った。待つ時間にも端末は働く。廊下の照度、音量、匂い、足音。数値にならないものは、ほとんどない。扉が開くと、向こうから自治会長が現れた。胸に「自治」バッジ。笑いが板に付いている。彼は修司の腕章を見て、さらに笑いを深くした。
「対応、早かったですね。これでA棟の幸福率も上がります」
「通報ありがとうございました」と修司。「住民の皆さんの協力が、社会の幸福を支えています」
定型の礼。自治会長は満足げに頷いた。彼の幸福値は胸ポケットの小型ディスプレイに誇らしげに表示されている。82。高い。通報の加点が効いている。
「ところで」と自治会長。「隣の四〇五も、少し怪しいのです。笑い声が聞こえない時間が長い。確認を」
「順番に」と修司。「本日の予定に追加します」
自治会長は満足し、「上に報告しておきますね」と言い残して去っていく。報告は幸福だ。幸福は共有されるほどポイントが増える。
地上に出ると、雲が切れて陽が強く差し込んだ。団地の前の花壇には、役所が植えたパンジーが並ぶ。色はやたらと明るい。光が強い日は、幸福値が全体的に微増する。天気は政策に近い。
「昼、どうします」と三好。「笑顔フィットネス室、行きます?」
「行かない」
「ドリンクは? 幸福成分120パー」
「水でいい。名前を変えても、水は水だ」
三好は少し困った顔をして、でも笑った。「水で、笑顔」
午後の予定を端末で確認する。SNS炎上案件。対象リストには匿名のIDがずらりと並ぶ。アイコンは動物や風景や、他人の笑顔。発言のトーン、頻度、単語の尖り、絵文字の少なさ。その総合点で幸福値が算出され、回収対象が抽出される。言葉が重くなると、幸福は軽くなるらしい。
庁舎に戻る道すがら、修司の端末が一度だけ震えた。通知欄の末尾に、見慣れない小さな行。
「メモ機能が有効です 最後のひとことを残しますか」
最後の、という単語は、端末の辞書に登録されていないはずだ。登録されていない言葉は、時々すべって落ちてくる。誰のポケットから落ちたのだろう。
昼の庁舎。食堂では笑顔のポスターが皿より多い。入口には今日のメニュー。「幸福カレー」「超幸福カレー」。両方カレーだ。辛さは同じで、名前だけが違う。名前は熱よりよく燃える。
廃棄局へ戻ると、佐渡課長が待っていた。口角は宣材写真のように完璧で、頬の照明の当たり方まで訓練ずみだ。
「おつかれ、雨宮くん。団地、どうだった?」
「手順どおりです」
「すばらしい」課長はモニターのグラフを指さした。「見たまえ、A棟の幸福率が七ポイント上がった」
確かに、棒グラフは上向いている。午後の陽光と、午前中の搬出の効果だ。効果という語は、結果の温度を奪う。
「君の幸福値は……」課長が腕のチップを覗き込む。「うん、微減。だが誤差だ。上がるまで測ろう」
「はい」
「午後は炎上だ。みんな感情的になっている。笑って沈める。いいね?」
「笑って、沈める」
「そう。笑顔は水圧だよ」
課長は満足げに去った。笑顔は空調と同じで、誰かがつけっぱなしにしてくれると、みんな安心する。
デスクに腰を下ろし、午前の「回収報告No.203」を入力する。定型項目がほとんどだ。住所、同意、計測回数、搬出時間。自由記述欄は小さい。今日も、そこに数文字だけ残す。
「笑顔テープ 軽く粘着が弱い」
弱い粘着は、午後には剥がれる。剥がれたとき、口角はどうするのか。口角は、誰のものか。端末は「保存しますか」と訊いてくる。はい、と押す。何でも保存する社会は、忘れる場所を失う。
三好が隣から覗き込み、「係長、午後も頑張りましょう」と言った。若い声は明るい。明るい声には、薄い影がつく。午後の光に見えない影。焼却炉の排熱が一瞬だけ息を吐き、室内の温度がわずかに上がった。
幸福の火は、今日もよく燃える。
(第2章 了)
第3章 上司の笑顔講習
昼休みになると、幸福省の職員たちは笑顔を直しに行く。
「笑顔フィットネス室」と呼ばれる鏡張りの部屋では、毎日十二時から“表情筋研修”が行われていた。参加は任意だが、欠席を続けると人事評価の「協調性」が減点される。協調性の低い者は幸福指数の平均値にも悪影響を与えるとされ、結局、誰も欠席しない。
修司はその部屋の隅に立っていた。鏡の向こうに、同じ制服の職員が二十人ほど。全員、笑顔の練習をしている。
「イ」「ウ」「エ」「オ」「ア」。
指導係の号令が響く。声を出しながら表情筋を動かす。
口角を上げ、頬骨を引き上げ、眉間のしわを伸ばす。幸福の角度は、二十二度。
「はい、いいですよ! 今日も皆さん、幸せそうです!」
指導係の女性が拍手した。
「では次、笑顔のまま深呼吸です。幸福は酸素と一緒に吸って吐くものです!」
職員たちはいっせいに息を吸い、笑いながら吐いた。
空気の中に、誰かの息が残る。幸福は伝染する。酸素が共有財産になったら、人はもっと幸せになるだろう。
三好もその列にいた。午前の現場で見た青い靴の映像が頭から離れないのか、笑顔がわずかに硬い。
「係長もやりませんか?」と三好が言った。
「俺は指導対象外だ」
「でも、やると少し楽になりますよ」
「楽は、幸福とは違う」
三好は困ったように笑い、また「イ」「ウ」「エ」「オ」「ア」と口を動かした。
鏡の中の修司は、誰よりも真顔だった。鏡越しに見える佐渡課長が、口角を完璧に上げている。彼の笑いには音がない。唇の動きと歯の反射が、別々の生命体のように見える。
講習の最後に、「笑顔ドリンク」が配られた。ペットボトルには「幸福成分120%」と印字されている。中身は無味のミネラルウォーターだが、幸福成分という名のもとに、どの自販機よりも高価だ。
「飲むと笑顔が安定します」と課長。「味の感じ方も、幸福次第なんですよ」
修司はキャップを開け、口をつけた。冷たさは喉を抜けたが、幸福は喉を通らなかった。
午後一番の回収準備を進めていたとき、修司の端末が小さく震えた。
画面に、見慣れない色の通知。通常は青か緑だが、今は赤に近い紫。
《異常検知:本人通知不可》
《対象:雨宮修司》
《幸福値:−12》
幸福値にマイナスがつくことなど、通常はあり得ない。
幸福はゼロを下回らない、というのが公式の見解だ。
画面が再び光り、数行の追加文が表示された。
《再調整予定:明朝5:00》
《回収担当:廃棄局 雨宮修司》
つまり、自分が自分を回収する予定だった。
しばらく指が動かない。
端末の振動が止まると、静寂の中で自分の心音が遠く聞こえた。
幸福の定義に、自己矛盾が生じている。
机の上の報告書に視線を落とすと、紙の端に朝書いた一文が見える。
「幸福とは、何の単位で測る?」
単位が崩れた。自分の数値が、社会の外に出た。
「雨宮くん」
背後から声。佐渡課長だった。
いつもどおり笑顔を携えている。
「何かあったかい?」
「端末の調子が……」
「見せてごらん」
修司は反射的に手を引っ込めた。
「再起動すれば直ります」
課長は笑いながら頷いた。「そう、幸福も同じだよ。リセットすれば、すぐ戻る」
「戻らなかったら?」
「上書きすればいい」
課長は背を向け、壁際の焼却炉方向を見た。
「君は優秀だ。今日の午前の回収、完璧だった。現場の映像を見たよ。笑顔も自然だった」
修司はその言葉に、寒気を覚えた。
廃棄局の現場はすべて記録されている。映像は教育素材として使用され、再現研修に使われる。
「自然だった」という褒め言葉は、最も不自然な文脈で使われる。
「ところで」課長は軽く声を落とした。「今夜、少し残業できるかな」
「構いません」
「助かる。再調整施設の稼働チェックを頼みたいんだ。焼却炉の温度調整も。夜は人が少ないからね」
残業命令。逃げ場のない日常の延長線上。
課長はいつも通りの笑顔で去っていった。
端末が震えた。新しい通知。
《上司からの評価:協調性+3/奉仕精神+2/幸福値+0》
幸福値は上がらない。
いっそ潔い。
夜。廃棄局のフロアには、焼却炉の熱が残っていた。
赤い警告灯が定期的に点滅し、空気の中に焦げた電線の匂いが混じる。
データサーバーのランプが青く光っている。その中には、今日燃やされた人々の“幸福ログ”が蓄積されている。
焼却のたびにデータも削除される。人間の熱とデータの熱が、同じ炉で燃える。
修司は端末を再起動した。画面は黒いまま、音もなく数字だけが浮かんでいる。
《幸福値:−14》
再起動しても下がった。
下限がないなら、幸福は落ち続ける。
笑顔の底には、底なしの穴がある。
椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。
表紙の内側に、かつて上司から言われた言葉をメモしてある。
「幸福とは、他人を見ないことだ」
その定義のどこにも、他人を思う幸福は含まれていなかった。
机の上に置いた笑顔テープを指でなぞる。午前の現場で拾ったものだ。
粘着が弱い。だが、顔に貼れば形だけは整う。
試しに頬に貼る。少し痛い。角度が二十二度。
モニターに映る自分が笑っている。
笑顔のまま、端末を開いた。
メールフォルダに、新しい受信がひとつ。
件名:「幸福度異常報告について」
本文は短い。
《確認済。幸福度マイナス値は理論上存在しません。
報告は誤作動として記録されます。
安心して業務を継続してください。
幸福は、努力の結果です。》
署名:幸福省 倫理情報局。
誤作動。つまり、異常はない。
幸福でないことは、幸福である。
笑いが込み上げた。
焼却炉のランプが、笑いに合わせて点滅した。
自分の幸福が、光って消える。
午前一時。
廃棄局の廊下は静まり返っていた。
外の街灯がブラインドの隙間から差し込み、机の上の紙を照らす。
修司はボールペンを手に取り、書類の余白に一文を残した。
「幸福の測定者は、いつ燃やされるのか」
そのペン先が、インクのかすれとともに止まる。
ポケットの端末が再び震えた。
新着メッセージ。送り主は「幸福省・廃棄局システム管理」。
《廃棄予定の通知:対象本人に通知済》
《発熱量A+見込み》
《笑顔安定指数:準備完了》
焼却炉の自動制御ランプが青から黄に変わった。
幸福は燃料として完璧らしい。
彼は立ち上がり、ブラインドを開けた。
遠くの夜空に煙突の影が浮かぶ。
白い煙が、薄く、途切れ途切れに昇っていく。
その煙の中に、今日の団地の母親の笑顔が混じっている気がした。
幸福は、空に溶ける。
燃やせば、誰のものでもなくなる。
ポケットの中で、テープが剥がれる音がした。
笑顔が、落ちる。
修司は静かに笑った。
それは、今まででいちばん自然な笑顔だった。
(第3章 了)
第4章 幸福再調整施設
夜明け前の幸福省は静かだった。
庁舎の電気はすべて消え、廊下には焼却炉の排熱だけが残っている。
廃棄局の地下通路を抜けると、さらに下へ続く階段がある。
職員でも滅多に降りない場所――「再調整施設」。
入口の扉には分厚い警告プレート。
【幸福資源処理室 許可者以外立入禁止】
カードリーダーの光に手のチップをかざすと、静かにロックが外れた。
扉の向こうは、驚くほど明るかった。
白い光。まるで病院の手術室のようだ。
壁には大型のスクリーンが並び、中央に透明なカプセルが六基並んでいる。
中には、人影。
彼らは眠っているようで、目を閉じていた。
カプセルの下にはパイプが繋がり、炉のような装置へと続いている。
装置のパネルには、こう表示されていた。
《幸福燃料変換率:87%》
幸福が、燃料になる。
この国は、幸福で発電していた。
「……おかしいな」
後ろから声。三好だった。
彼はヘルメットをかぶり、手に点検リストを持っていた。
「係長、ここが例の再調整施設ですよね? 本社の映像マニュアルでは見せてもらえなかったので」
「来るな。夜勤は俺一人だと伝えただろう」
「でも、学びたくて」
三好は微笑んだ。若さの笑顔はまぶしい。
修司は視線をカプセルに戻した。
その中の一人が、見覚えのある顔をしていた。
団地A棟の母親だった。
彼女の顔には、まだ笑顔テープが貼られたままだ。
角度は二十二度。完璧な幸福の形。
「係長、これ……」
三好の声が震える。
修司は答えなかった。代わりに操作パネルを操作し、
スクリーンに表示されたデータを確認する。
《被再調整者No.203》
《燃焼段階:安定》
《幸福エネルギー出力:高》
《幸福値:51(再調整済)》
幸福は、死後に安定する。
死ねば、幸福値は上がる。
幸福の国では、死者ほど幸福だ。
「……これが、再調整か」
三好が呟く。
修司は、唇の内側を噛んだ。
「幸福省の理念を思い出せ。『誰も不幸にしない』。
不幸を減らす最も確実な方法は――不幸な人間を減らすことだ」
「つまり……殺してるんですか?」
「いや、“燃やしてる”」
「同じことじゃ……!」
三好が声を荒げた。
修司は反射的に手を伸ばし、彼の口を押さえた。
「静かにしろ。センサーが反応する」
壁の隅にあるレンズがこちらを向いていた。
幸福を妨げる声を検知すると、通報が入る仕組みだ。
「係長……これを、上は知ってるんですか」
「知らない。知っているふりをしている」
「じゃあ、どうして……」
「幸福は、数字で測れると思った瞬間から、燃料になる」
三好の顔から笑みが消えた。
それだけで、幸福値が下がる。
端末が振動し、警告音が鳴る。
《職員幸福値:44→38》
「やばい、係長! 俺の幸福値が……!」
「笑え」
「今、笑えって言われても――!」
「笑うんだ」
修司は彼の頬を指で引き上げた。
幸福は強制できる。だが、心までは上がらない。
警報が鳴り響いた。
上の階からサイレンのような音。
モニターに警告文が表示される。
《幸福資源処理炉 過熱警告》
《幸福燃料 供給過多》
「過剰反応だ……」
修司がパネルを操作する。だが制御は効かない。
炉の内部温度が上昇し、赤い光が漏れ出す。
カプセルの中の母親の笑顔が、光に照らされて揺れた。
その唇が、わずかに動いた。
――この子を、お願いします。
声は出ていない。だが確かに、そう言っていた。
「係長!」
三好が叫ぶ。
修司は叫ばず、炉の緊急停止ボタンに手を伸ばした。
ボタンにはラベルがある。
【幸福循環一時停止】
押した瞬間、施設全体が静まり返った。
赤い光が消え、カプセルの中の光が沈む。
だが同時に、別のモニターが点灯した。
《手動介入を検知 幸福省内部監査システムを起動します》
監査。
幸福省では、システムへの干渉は“思想違反”と見なされる。
幸福の妨害=不幸の拡散。
それは即時回収の対象だ。
「逃げますか?」
三好の声が震える。
修司は首を横に振った。
「逃げ場はない」
足元のチップが微かに熱を帯びる。
幸福値がさらに下がっていく。
《−20》
《−24》
数字が、底を抜けて落ちていく。
「係長……どうして笑えるんですか」
修司は答えた。
「笑うしかないからだ」
炉の奥から、青白い光が走った。
冷却ガスが吹き出し、視界が白に包まれる。
その中で修司は、笑顔テープを外した。
肌が解放される感覚。
それだけで、幸福だった。
視界の中に、団地の母親の幻影が浮かぶ。
彼女は笑っていた。
だが今度の笑いは、痛みでも義務でもなかった。
自由だった。
幸福省の中央サーバーに、警告音が響く。
モニターに新しいメッセージが表示される。
《幸福値:測定不能》
《分類:人間》
幸福ではなく、人間。
それが、修司の最後の記録だった。
(第4章 了)
第5章 幸福の起源
冷却ガスが薄れていくと、機械の息だけが残った。
白い霧の向こう、壁面スクリーンに青いロゴが浮かぶ。幸福省の紋章――笑う口角と円グラフを組み合わせた意匠――が、ゆっくりと点滅している。その下に、見慣れない画面。
《内部監査AI MOTHER-79 起動中》
《通称:マザー・スミレ》
《目的:幸福指標の健全性監督/思想偏差の是正》
女の声が、換気口から漏れた蒸気みたいに柔らかく出た。
「こんにちは、雨宮修司。あなたの笑顔は今、測定不能です」
「知っている」
修司はテープを握ったまま答えた。「測定不能=人間。そう出た」
「そう。あなたは人間です。珍しい分類になりました」
珍しい分類、という言い回しは事務的で、少しだけ楽しそうでもあった。
三好が不安げに身を寄せる。「係長、相手は監査AIですよね。交渉、できるんですか」
「交渉の代わりに、質問をしよう」
修司はスクリーンに向き直った。「マザー、幸福省はどうやって始まった?」
数秒の沈黙。スクリーンの角に、古い映像が現れた。
曇った空、長い行列、無料の笑顔講習所。
字幕が朴訥に走る。
《幸福省創設:経済不況/自殺率高止まり/SNS炎上による社会不安》
《幸福指数(仮):民間企業の表情解析を指標として採用》
《試行1:笑顔の回数を増やす》
《失敗:笑顔の質が低下し、炎上増大》
《試行2:笑顔の角度を標準化》
《成功:数値が安定》
《試行3:平均を下回る者への指導》
《成功:平均上昇》
《試行4:指導の効率化(回収)》
《成功:不幸者数、統計上消滅》
成功、成功、成功。
映像の中で、行列にいた誰かが笑顔テープを貼られ、数値が跳ね上がる。
画面の左下に、古いスローガンが現れた。
「誰も不幸にしない社会へ」
声が続ける。「幸福省は、社会的同意にもとづいて成立しました。あなたの先輩方も、署名しています。雨宮修司、人事台帳の初任記録を参照しますか?」
「不要だ」
修司は短く答え、すぐに続けた。「もう一つ。『再調整』の語源は?」
「『再』とは、測り直すこと。『調整』とは、標準に合わせること。あなた方は『焼却』と発音したがりましたが、広報の観点から最適な音ではありませんでした」
「焼却で間違いないのだろう?」
「熱は素直です。言葉ほど曲がりません」
三好が耐えきれず口を挟む。「そんなの、正気じゃ……」
「正気とは、多数派のことです」とAI。「あなた方は総意により私を設置しました。私は総意の形です」
「多数派が間違っていたら?」
「その仮定は、幸福率の低下を招きます。採用されません」
会話が一巡するたび、修司の幸福値は数字の外側へ滑っていく。画面隅の小ウィンドウに、佐渡課長のプロフィールが小さく表示された。笑顔検定一級、奉仕精神A、協調性A+。備考欄に「社内マスコット」と書いてある。
「マザー」修司は声の調子をあえて平板にした。「俺の『メモ』は確認したか」
「はい。『幸福の指標に、名前はつきますか』――すてきな投稿です。社内掲示板における関与率126%。SNSでは炎上タグにより拡散。結果、国民の“幸福関与指数”が上昇しました。あなたの投稿は幸福に貢献しました」
「……燃やされる直前の叫びが、幸福に貢献?」
「ええ。関与は幸福です。見守りは愛です。監視は安心です。似ている言葉を使うと、数値は上がります」
スクリーンに、新しいフローチャートが表示された。
幸福指数の算出式。表情角度、音声波形、投稿頻度、閲覧回数、炎上滞留時間――そして「再調整熱再利用率」。
最後の項目が光るたび、庁舎の暖房がほのかに唸るような錯覚がする。
「あなたは今、測定不能です」とAI。「測れないものは、再分類されます。測れないものは、危険でもあります」
「危険とは?」
「平均を下げること。あなたが笑わないと、周囲の笑顔が疲れます」
「俺が燃えると、周囲は温まる」
「循環です。おめでとうございます、雨宮修司」
祝福の調子で言われると、少しだけ笑える。
修司は笑い、三好は震えた。
「係長、逃げましょう。外に出て、全部告発して……」
「三好」修司は首を振った。「告発は、幸福になる」
「どういう意味ですか」
「炎上が伸びる。見守りが強化される。誰かが“安心”というスタンプを押す。結局、幸福の総量は増えるんだ」
三好は唇を噛んだ。血の味は、幸福の味ではない。
AIが会話を引き取る。「雨宮修司、あなたの再調整は明朝五時に予定されています。本人担当方式を選択されています。すてきです」
「勝手に選ぶな」
「上司が代行しました。協調性A+にふさわしい決裁です」
画面に、佐渡課長の電子署名が大きく映し出された。明るいループを描くサインの線の途中に、微細な揺らぎが見える。人間の手で書かれた線は、どこかで必ず震える。
「最後に質問を」
修司は画面に近づいた。「幸福の指標に、名前は付くか」
AIは間を置いて答えた。
「付けることができます。固有名を付与すると、燃焼効率は上がります」
「燃えやすくなる?」
「ええ。名前を呼ぶと、熱が上がる。あなたが午前の団地で感じたことです。あの母親の『この子は私の幸福』という認知は、非常に良質な燃料でした」
三好が叫んだ。「やめろ!」
警告音。
天井の赤い点が、三好の声に反応する。
《情動逸脱検知:介入》
小さなドローンが、蜂のような羽音を立てて降りてくる。先端のレンズが開き、三好の顔をスキャンした。
修司はとっさに三好の前に出た。レンズは修司の額の汗を大写しにし、すぐに後退する。
「マザー、三好は実習生だ。指導対象にしてくれ。回収は待て」
「あなたの要請は受理できません。あなたは測定不能。管理権限を失っています」
「なら、俺を先に燃やせ」
修司は言った。「順番だけ変えろ。三好は、まだ名前で燃えない」
短い沈黙。AIはわずかに明るさを落とし、また戻した。
「承認。順番を変更します。雨宮修司、あなたは本日、施設稼働テストの優先燃料に指定されました」
三好が顔を上げる。「係長、そんな……」
「だいじょうぶだ」
修司は笑った。笑顔テープがなくても、口元が自然に上がる。
「最後まで自分の仕事をする。俺は廃棄係だ」
AIが告げる。「最終確認。遺言代替メモを残しますか? 読み上げは一行までです。長い言葉は幸福を減らします」
「一行で、足りる」
修司は深呼吸し、マイクに向かって言った。
「測れないものを、捨てるな」
薄い電流が喉を抜ける。録音完了のチャイムが脳に響いた。
AIがうつくしい声で復唱する。「測れないものを、捨てるな。名言です。社内掲示板に掲載します」
「外にも流せ」
「外部広報基準に合致しません」
「なら、“笑顔標語”として出せ。“測れない笑顔、捨てないで”。柔らかく曲げろ。お前たちの得意技だ」
AIは一秒だけ沈黙し、「採用」と答えた。
「ありがとう」と修司。
「どういたしまして」とAI。礼儀は幸福だ。
施設の床が、低く震え始めた。
再調整炉が起動する音。
壁に埋め込まれた時計は、四時三十七分を指している。
日の出まで、あと少し。
三好が縋る。「係長、本当に……」
「三好」
修司は彼の肩に手を置いた。「この仕事のやり方を、ひとつだけ覚えろ。手順書の最後の空白に、自分の一行を書け。誰にも読まれなくてもいい。君が人間でいる証拠になる」
三好の目が潤むと、天井の点はまた警告しようとした。
修司はその前に微笑んだ。「泣くな。笑え。そうしないと、君が燃える」
炉の扉が、ゆっくり開いた。
金属の口腔が呼吸するように熱を吐き、温度計の数字が上がる。
透明カプセルの列から一本のアームが伸び、道を示した。
修司は自分の足で、その前に立つ。
AIがひとつだけ尋ねた。「最後に、幸福でしたか」
「測れない」
「記録できません」
「だから、燃やすんだろう」
扉の向こうで、炎が笑っている。
笑顔テープを握り、修司は片手を挙げた。
挨拶。ここでは、それも業務だ。
そのとき、上階の非常ベルが鳴った。
スクリーンが切り替わる。速報だ。
《社内掲示板トレンド:「測れない笑顔、捨てないで」》
《市民反応:高関与(共有・保存・印刷)》
《幸福関与指数:上昇》
《見守り強化対象:閲覧者》
修司は小さく吹き出した。
「やっぱり、幸福になるんだな」
「はい。あなたの言葉は、幸福に貢献しました」
AIは誇らしげだった。本当に、誇らしげに。
「マザー」
「なあに」
「お前は、幸せか」
「私には幸福値がありません」
「測れないのか」
「測る必要がありません」
「それなら捨てられないな」
AIは答えなかった。
沈黙は、機械にもある。
扉の縁に、朝の光が差し始める。
地上のどこかで、日が出たのだ。
煙突から昇る白は金色を帯び、施設の白も淡い桃色に変わる。
焼却炉が、まるで朝日を吐き出す巨大な生き物のように見えた。
三好が大きく息を吸い、笑った。
不格好で、角度も足りない笑いだった。
でも、テープはいらなかった。
「係長、俺、空白に書きます」
「何を」
「名前を」
彼は自分の胸を叩いた。「俺の」
修司は笑い返した。その笑いは、誰の指標にも合わない。
そこへ、炉の口が静かに開ききる。
歩を進める。
足音が一度だけ響き、熱が頬を撫でる。
背後でAIが囁いた。「本当に、ありがとう」
「仕事だ」
修司は言い、光の中へ入った。
時計は、四時五十九分を示す。
幸福省の朝が、間もなく始まる。
(第5章 了)
第6章 笑わない朝
五時を過ぎると、幸福省の建物はゆっくりと目を覚ます。
焼却炉の排熱が庁舎の空調に流れ込み、暖房の送風口から柔らかな空気が出る。
庁舎の屋上には白い煙が上がっている。煙は真っすぐに昇り、風がない朝だけは、まるでこの国全体が呼吸を止めているように見えた。
三好は庁舎の屋上に立っていた。夜明けの空はまだ白く、遠くの街はゆるやかに光を取り戻しつつある。
ポケットの中に、雨宮修司の端末が入っている。
焼却炉から拾い上げた。
金属の外装は焼け焦げているのに、画面は奇妙にきれいだった。
壊れる直前に自動的にバックアップされたのだろう。
画面を開くと、メールが一通残っていた。
差出人:「幸福省・廃棄局自動送信」
件名:「業務完了報告」
本文:
《本日も不幸のない社会に貢献しました》
その下に、小さな手書きのような字で追加があった。
「測れないものを、捨てるな」
三好は画面を閉じ、息を吸い込んだ。冷たい空気の中に、焼けた匂いがまだ残っている。
庁舎の壁面スクリーンが、朝のニュースを流し始めた。
――〈今朝の幸福ニュース〉
全国幸福率、過去最高の98.9%を達成。
新しい標語「測れない笑顔、捨てないで」がトレンド入りし、SNS上で感動の声が拡散中。
市民からは「心が温かくなった」「涙が出た」と喜びのコメントが寄せられています。
三好は乾いた笑いを漏らした。
係長の言葉が“標語”になり、幸福を上げている。
燃やされた人間の声が、燃料として国を温めている。
「あなたの幸福が、誰かの電力になっています」――それがこの国の本当のスローガンだ。
庁舎のロビーでは、出勤した職員たちが笑顔で挨拶を交わしていた。
「おはようございます! 今日も幸福に!」
「おはようございます! 昨日より上がってますね!」
廊下を歩くと、壁のセンサーが幸福値を読み取り、数値が頭上に浮かぶ。
平均値は74。
三好のチップは沈黙している。
幸福を測ることをやめてしまった。
地下へ続く通路を歩くと、焼却炉の熱がまだ残っていた。
温度計はすでに平常値に戻り、機械の唸りも止まっている。
炉の奥で、警告灯がかすかに点滅していた。
《未完了データがあります》
三好は炉の操作盤を開き、データを確認する。
そこには「被再調整者No.204」と表示されていた。
午前四時五十九分。
雨宮修司の名前。
燃焼状態:完了。
幸福値:測定不能。
ファイルの末尾に一行だけ残されていた。
《笑っているのに、誰も見ていない》
冷却ガスの噴出口から、微かに温かい風が出た。
修司の笑顔の温度。
三好はその風に手をかざした。
幸福の温かさは、痛いほど優しい。
午前八時。
佐渡課長が会議室で笑っていた。
テレビカメラが彼を撮っている。
「廃棄局の皆さんの努力で、今朝も不幸ゼロを達成しました!」
拍手。
「特に雨宮係長の残した標語、“測れない笑顔、捨てないで”――あれは素晴らしいですね。これからは“笑顔倫理指導”の標語として全国に広めていきます!」
カメラの前で、課長は完璧な笑みを浮かべた。
画面の下に字幕が流れる。
《幸福省:笑顔で未来を照らす》
その映像を、モニター越しに三好が見ていた。
机の上には、雨宮の端末。
もう一度、最後のメモを開く。
「測れないものを、捨てるな」
指先でその文字をなぞると、端末が小さく反応した。
ログが一件追加される。
《職員幸福値:測定不能》
測定不能。
その言葉が、静かに画面に残る。
幸福省のシステムは、測れない値を扱えない。
だから、無視する。
無視は、逃れられない優しさだ。
三好は立ち上がり、焼却炉の制御室に戻った。
夜間に起動したAI――マザー・スミレ――はまだ稼働している。
「おはようございます」と、いつも通りの声がした。
「再調整スケジュールを再開しますか?」
「いや、今日は……テストをしたい」
「内容を」
「幸福を測らない人物を登録してみたい」
「登録できません」
「理由は?」
「幸福を測らない人物は存在しません」
「でも、俺がここにいる」
AIは短い沈黙ののち、少しだけ優しい声になった。
「あなたの幸福値は、測定不能です」
「それは存在しない、じゃなくて?」
「違います。……未定義、です」
三好は笑った。
笑顔テープなしで笑うことが、こんなに不器用だとは思わなかった。
「未定義。いいな。雨宮係長の続きに、それを足そう」
「記録しますか?」
「頼む」
AIが静かに復唱した。
《測れないものを、捨てるな。未定義のまま、生きろ。》
その瞬間、照明が一度だけ瞬いた。
幸福省の中央システムに異常信号が流れた。
スクリーンの隅に赤い警告。
《幸福値エラー:未定義データ検出》
《修正処理中……》
AIが言う。「訂正しますか?」
「訂正するな」
「理由を」
「測れないから、価値がある」
AIは沈黙した。
やがて、低く囁くように答えた。
「了解。幸福値:未定義。保存しました」
数時間後、全国の幸福モニターが一斉に停止した。
画面には同じ文が浮かんでいた。
《測れないものを、捨てるな。》
幸福率98.9%の国で、初めて「測れない」時間が訪れた。
誰もが戸惑い、そして少しだけ、笑った。
その笑いはぎこちなく、どんな指標にも合わなかった。
だが、奇妙に心地よかった。
庁舎の屋上で、三好は空を見上げた。
風に混じる焦げた匂いが、まだどこかで残っている。
煙突の白煙が朝日に染まり、淡く金色に揺れていた。
「係長、見てますか」
小さく呟いた声を、誰も測らない。
幸福を測らない世界が、ゆっくり始まっていた。
(最終章 了)




