王家にクレーム入れたら王様がエスコートしてくれた件
陽光はやわらかな絹のように降りそそぎ、庭のテラスに心地よい影を落としていた。バラのアーチをくぐる風は甘く、ほのかに花の香を運んでくる。赤、桃、白に咲き誇るバラが、まるで時を忘れたように静かに揺れていた。私は籐椅子に身をあずけ、ひらりと風に舞う花びらを眺めながら、そっと息を吐いた。
侍女のリリィが静かにティーポットを手に現れ、銀のトレイをテーブルに置く。
やわらかな音を立てて紅茶が注がれると、香り高い蒸気がふわりと立ちのぼった。
「いつもながら、美味しいわ。ありがとう、リリィ」
「光栄です、エメリア様」
穏やかな時間だった。――そこまでは。
「エメリア、いる?」
足音とともに、テラスの向こう――庭園の小径から、聞き慣れた声が届いた。
婚約者にして、王国の第二王子・セシル殿下である。
「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけになって」
にこやかに迎えた私に対し、彼は少しバツの悪そうな顔を浮かべていた。
「ちょっと言いにくいんだけど、次の夜会……僕、同行できないんだ」
「……は?」
ティーカップを口に運ぼうとしていた手が止まる。
「なんですの、王子。今、なんと?」
「えっとね、男爵令嬢が“誰もエスコートしてくれない”って困ってたから……僕が付き添うことにしたんだよ」
「……」
私は笑った。
いえ、笑うしかなかった。
この婚約者、まさかとは思っていたけれど――
**“婚約者を差し置いて浮気相手を優先する”**という、上級貴族として最大級の非常識を、本当にやらかすとは!
「君も夜会には慣れてるし、適当に誰かに頼めば――」
「それ、本気で言ってます?」
(この王子、脳みそのネジが一本どころか、二本も三本も抜け落ちてるんじゃなくて? この不良品がー!!)
……と叫びそうになったのを、ぎりぎりの理性で呑み込み、エメリアは静かに声を落とした。
「――承知いたしました」
「え、ほんとに?」
「ええ。王子のお気持ちは、よくわかりました」
「……そちらがそのつもりなら、私にも考えがありますわ」
浮かれた王子の耳には、その最後の一言は届いていなかった。
「殿下、失礼いたしますわ」
私はにっこりと微笑んで立ち上がる。
「リリィ、支度を。今すぐに」
「えっ? ええっ? どちらへ……?」
「決まってるでしょう? 王家にクレームを入れに行くのよ」
「……えぇぇぇぇっ⁉︎」
* * *
石畳の道が幾筋も交差する城下町の中心に、それは威風堂々と佇んでいた。
漆黒の屋根と白亜の壁を持つその城は、時を重ねた石造りの建造物でありながら、一点の曇りもない荘厳さを放っている。
高く積み上げられた城壁の内側には、尖塔をいくつも戴く主城がそびえ、まるで空をも支配せんばかりに町全体を見下ろしていた。
そして今、その威容の一端が静かに動き出す。
重厚な鉄の門がゆっくりと開き、きしむ音が石畳に響いた。
門の内側に広がるのは、城内の広場――整然と敷かれた石畳、中央に噴水のある庭園、そして奥にそびえる主城の塔。
高くそびえる城壁に囲まれたその空間は、まるで外界とは別の世界だった。
甲冑に身を包んだ衛兵たちが左右に控え、視線をこちらに向ける。
馬車の車輪が静かに石畳を踏みしめ、ゆるやかに広場へと進み出る。
御者が軽く手綱を引くと、馬が鼻を鳴らして立ち止まった。
純白の馬車の扉には、王家に連なる貴族のみが許される紋章――金糸で刺繍された百合の紋が、陽光を受けてかすかに光を放っていた。
それを目にした衛兵たちは、すぐさま表情を引き締め、胸に手を当てて一礼し、静かに道を開けた。
馬車は広場を横切り、城の正面玄関前でゆるやかに止まった。
すでに控えていた従者が駆け寄り、手際よく扉を開ける。
「お迎えにあがりました、エメリア様」
軽やかにドレスの裾を整え、エメリアは馬車から降り立つ。
石畳の上を歩むたび、彼女の足音が静かな回廊に反響した。
廊下の壁には見事な彫刻が施され、金の縁どりの燭台には魔石のような青い光が灯っている。床は磨き上げられた大理石。歩くたびにヒールの音が静かに反響し、そのたびに彼女の胸が少しずつ高鳴った。
回廊を抜け、大扉の前にたどり着くと、左右に控える衛兵たちが無言のまま槍を引いた。
正面には、重厚な木製の扉。王家の紋章が中央に刻まれ、金属の細工が荘厳な存在感を放っていた。
侍従が静かに囁く。
「この扉の先が、謁見の間でございます」
エメリアは小さく息を吸い、背筋を正した。
扉が、ゆっくりと開かれる。
光が差し込む先に、玉座が見えた。
私は王と王妃の前に出て、深く一礼した。
「エメリア、よく来たわね。今日はどういったご用件かしら?」
「王陛下、王妃殿下。
不敬と承知の上で――ひとこと言わせていただきます」
私は静かに顔を上げ、はっきりと言い放った。
「婚約者の返品を、お願い申し上げます」
「……エメリア⁉︎」
「返品とは一体どういうこと⁉︎」
「私の婚約者である、第二王子セシル殿下が
“誰もエスコートがいないから”という理由で、男爵令嬢に付き添うと仰いました」
「そして、私には――“他の者を頼めばいい”と」
王妃の表情がぴたりと固まり、王の目が細められる。
「これまでにも、何度も約束を反故にされ、
誕生日には何一つなく。
礼節も、思いやりも、責任も、欠けた態度に――私はただ、耐えてまいりました」
私は一度、深く息を吸った。
「ですが。
今回の仕打ちは、いかに私とて――我慢がなりません」
一拍置いて、私はまっすぐに王と王妃を見据えた。
「つきましては、
この婚約者――返品をお願い申し上げます」
部屋に静寂が落ちた。
その沈黙を破ったのは、王妃だった。
「――ふふ。返品、ですって。なんて素敵な言葉でしょう」
王も目を細めて笑う。
「なるほど、確かにこれは不良品であったか。だが……返品となると、王家のメンツにも関わる。どうだ、修理ということで手を打たせてもらえぬか?」
「修理……?」
「うむ。矯正、指導、再教育……呼び方は何でもよいが、要は、“王家の責任としてきっちり直す”ということじゃ」
「えぇ、あの子には“痛いお仕置き”を施す必要がありそうですものねぇ。
王族としての品格とは何か、しっかりと叩き込まなくてはなりませんわ」
私は一瞬だけ考えたフリをしてから、にっこりと微笑んだ。
「……それでは、“修理期間”中は、代替品を支給していただけますか?」
「む?」
「例えば、王陛下ご自身など」
「ほほっ、それは手厳しいな! よかろう、我が王家の威信を示すためにも、
その夜会――わしがエスコートしようではないか」
「では、決まりですわね」
その瞬間、王妃が「楽しみですわぁ」と呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
* * *
天井高くそびえる舞踏会場には、無数の水晶のシャンデリアが灯りを宿し、床を柔らかな光で包んでいた。
空気は静かだが、沈黙の中に華やかさが満ちている。貴族たちはすでに集まりつつあり、談笑の輪がいくつもできていた。
柱の間には香炉が置かれ、白檀と薔薇の香りが混じった空気が、ゆっくりと広がっていく。
彩り豊かなドレスの裾がそっと揺れ、衣擦れの音と、小さく抑えた笑い声が会場を満たしていく。
まだ音楽は始まっていない――しかし、楽団はすでに準備を整え、楽器に手をかけている。
「第二王子セシル殿下、男爵令嬢クラリス様のご入場でございます」
アナウンスに会場がざわつく。
「えっ……クラリス嬢? あの男爵家の……?」
「エメリア嬢は? 今日はお一人?」
セシル王子はどこか誇らしげに胸を張り、隣のクラリス嬢は上気した顔で腕にすがっていた。だが、空気は思ったほど華やがない。
その沈黙を破ったのは、一人の青年だった。
「殿下。エスコートのお相手が男爵令嬢ということは、エメリア様との婚約は解消されたのですか⁉︎」
突然の直球。セシルの顔が一瞬ひきつる。
「それはご英断でしたね。正直、私も思ってたんです。ポンコツ王子にエメリア様は勿体ないって」
「ちょ、ちょっと待て……」
「だって、婚約者とのお茶会をすっぽかして男爵令嬢と街に行ったり、誕生日にも何も渡さず、代わりにクラリス嬢にはホイホイ贈り物してたんですよね?」
「常識では……ちょっと考えられませんね」
「うちの妹、エメリア様に憧れてたんです。あれを見て泣いてましたよ、“エメリアさまがお気の毒すぎます”って」
会場が静まり返り、次の瞬間――さーっと空気が冷えた。
セシル王子の顔は真っ青になり、周囲の視線に耐えきれず、わずかに後ずさる。
そこへ。
「国王陛下、王妃陛下、侯爵令嬢エメリア様のご入場でございます!」
澄んだ声が響く。
続いて姿を現したのは――国王陛下と、エメリアだった。堂々たる立ち姿で、王の腕をとり、ゆるやかに一礼して入場する。
会場がどよめいた。
「陛下が……?」「なんで王様が……?」
セシル王子の顔が引きつる。
「父上、これはどういうわけです? なぜ父上がエメリアを?」
王は静かに答えた。
「そなたがエスコートできぬと、エメリア嬢から申し出があったのだ。
ならば、我が王家として責任を取るのが筋であろう?」
ざわ……ざわ……
「で、でもっ……!」
何かを言いかけた王子に、王の怒声が飛ぶ。
「大馬鹿者! お前は自分が何をしでかしたか理解しておるのか!」
会場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「今まで、私も王妃もお前には甘すぎた。今後は厳しくする所存だ。
ここにいる者たちよ、王子がまた愚かしい真似をしようとしたら、遠慮なく力ずくでも止めてくれ!」
その勢いに、クラリス嬢が一歩下がる。
王は振り返り、エメリアの前に立った。
「エメリア嬢。そなたの怒りは尤もだ。そなたは聡明で、周囲への配慮も行き届いている。
私も王妃も、そなたが王子を諭す姿を何度も見てきた。うまくやっていると思い込んでいた……そなたの心を思いやれなかったこと、深く詫びよう」
そして、王は――頭を下げた。
「だが、どうかこの通りだ。
あやつには、そなたのようなしっかり者が必要なのだ。
我らも目を光らせ、今度こそ厳しく躾けよう。
だから……このままあやつの婚約者でいてはくれまいか」
エメリアは一瞬、目を閉じた。
(……してやられたわね。王の口から、これを言わせるとは)
(公衆の面前で王に頭を下げられたら――返品なんて、できるはずがないじゃないの)
(……けれど)
(このまま引き下がる私だと思って?)
(“不良品”を押し付けられた以上、正当な見返りを要求するのは当然の権利よ)
(返品が無理なら――特典サービス、しっかり全部つけていただきますから)
(さぁ陛下、どこまで対応していただけるのか、楽しみにしてますわ)
私は微笑を浮かべた。
優雅に、完璧に。けれどその裏で、計算機はフル回転中である。
――クレーマー令嬢の戦いは、まだ終わらない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『クレーマー令嬢、婚約者を返品しに行ったら王様が神対応してきた件』は、「我慢にも限度がある」を令嬢スタイルで貫いたお話です。
婚約破棄を申し出に行っただけなのに、まさか国王が“代替品”になるとは――
作者自身も書きながらニヤニヤしてしまいました。
エメリアの一撃が皆さんの気持ちをちょっとでもスッキリさせられたなら幸いです。
それではまた、どこかの物語で。