ブルーアンバー
午後6時すぎ。仕事帰りの駅のホームに、僕はひとり立っていた。コートのポケットの中には、小さなキーホルダー――青い琥珀。透明なその石は、夕暮れの光を透かしながら、わずかに揺れていた。
風が吹き抜けるたびに、誰かの気配を探してしまう。もういないはずの、君の姿を…
ただの恋愛ではなくてもっともっと複雑な作品です読み終わりには新鮮な気持ちになれるはずです。
ブルーアンバー ―消えない色―
午後6時すぎ。仕事帰りの駅のホームに、僕はひとり立っていた。コートのポケットの中には、小さなキーホルダー――青い琥珀。透明なその石は、夕暮れの光を透かしながら、わずかに揺れていた。
風が吹き抜けるたびに、誰かの気配を探してしまう。もういないはずの、君の姿を。
君と別れたのは、春だった。桜が咲いていて、でもその花びらの舞う音さえ、僕には寂しさに聞こえた。
君は「じゃあね」と言って、いつも通りの笑顔で手を振った。でもその笑顔は、まるで、もう戻らないことをわかっていたようだった。
僕は、君の小さなサインに気づけなかった。いつも後回しにしていた。“忙しい”を言い訳にして、大事なことから目をそらしていた。
だから君がいなくなったときも、ちゃんと泣けなかった。認めてしまえば、すべてが終わってしまうようで。
季節が巡って、今はもう冬の入り口。それでも、時々ふと、君のことを思い出す。
街の灯りが滲むガラス越しに、笑っていた君の顔が映る。あれが幻なのか、記憶なのか、もうわからない。
その夜、なぜか帰り道を変えた。ふと足が向いたのは、昔、君とよく通った小さなカフェだった。扉を開けると、変わらない木の香りと、ジャズの音。
空いている席に腰を下ろし、ぼんやりとテーブルに手を置いた。
「――やっぱり、来てくれたんだ」
不意に、懐かしい声が聞こえた。
顔を上げると、そこに君がいた。
何かの見間違いかと目をこする。でも、君は確かにそこにいた。グラスを持つ手。癖のある髪。優しく笑う口元。
「元気そうだね」と僕が言うと、「あなたもね」と返ってきた。まるで何も変わっていないように、自然に。
ただ、君の手元にだけ、影が落ちていた。
カフェを出て、少しだけ歩いた。
懐かしい街並みが、やけに静かに感じた。
「私さ、本当は最後にちゃんと謝りたかったんだ」「……俺も。伝えられてなかったことが、たくさんある」
「でも、もう遅いよね」その言葉の意味を、君は説明しなかった。
僕も訊かなかった。
それがどういうことなのか、本当は、もうわかっていたのかもしれない。
歩道橋の上で、君がポケットから何かを取り出した。それは、あの日と同じ――青い琥珀だった。
「これ、まだ持っててくれたんだね」
「うん。捨てられるわけないよ」僕も、自分の琥珀を見せた。二つの光が、寒空の下でふわりと揺れた。
「これ、奇跡みたいな石なんだって。覚えてる?」
「覚えてるよ。君がそう言って、笑ってたの、はっきり覚えてる」
「じゃあ、これも、奇跡だよね」君がそう言ったあと、ふと、あのときと同じ微笑みを浮かべた。
でもそれは、どこか儚く、触れたら消えてしまいそうだった。
それから、どれくらい歩いただろう。気づけば君の姿はもうなかった。名前も、香りも、すべてが静かに溶けていた。
あの時間は、夢だったのか。現実だったのか。
部屋に戻って、僕は机に向かって、古いニュース記事を開いた。ちょうど一年前――交通事故で、君は帰らぬ人になっていた。
読みながらも、どこか心は静かだった。もう知っていたから。たぶん、ずっと前から、わかっていた。
でも、もしあれが夢でも幻でもなく、ほんの一瞬でも君が“そこにいた”なら。それは、やっぱり奇跡だと思いたい。
僕は青い琥珀を、窓辺に置いた。朝日が差し込むたび、ほんの少し、君がそばにいる気がしたから。
たぶん、もう会えない。でも、忘れない。忘れたくない。
君の「じゃあね」は、本当に最後のさよならだった。そして僕はようやく、その言葉に「さよなら」を返せた気がする。
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ブルーアンバー ―灯る場所―
それから数日、僕はふとした拍子に立ち止まることが多くなった。人の笑い声、信号の音、風に揺れる木々のざわめき。どれもが、彼女の「気配」をまとっている気がした。
夢だったのかもしれない。でもあの夜の会話、手に触れた琥珀の冷たさ、君の声は――あまりにも“現実”だった。
ある日、職場の帰り道、僕はいつもと違う通りを歩いた。無意識のうちに、足がある場所を目指していた。
小さなギャラリーだった。君が昔、よく立ち寄っていたあの店。
店の中は静かで、照明に照らされた作品たちが壁にかかっていた。ふと、ひとつの写真が目に留まる。
それは、透き通るような青の光が写った作品だった。画面の中心に、小さな琥珀のようなものが浮かんでいた。
タイトルには、こう記されていた。
「Still Here(それでも、ここに)」
思わず目を閉じた。まるで、君の答えを受け取ったような気がした。
その日から、少しずつ、日常が変わっていった。君とよく歩いた道を歩くとき、ただ懐かしさだけじゃなく、あたたかい記憶が心を包んだ。
ひとりでいる時間も、寂しいだけじゃなくなった。それは、君がくれた最後の優しさだったのかもしれない。
ある日、部屋の窓辺に置いていた青い琥珀が、朝日を受けてきらめいていた。その光が机の上に小さな輪を作る。
ふと、その光の中心に何かが見えた。小さな文字だった。
「大丈夫、もう行っていいよ」
目を凝らしても、それが本当にあったのか、ただの反射だったのか、わからなかった。でも僕は、微笑んで頷いた。
街は少しずつ冬から春へと向かい始めていた。次の季節が来ることに、僕はもう怯えていなかった。
ポケットに琥珀を入れたまま、駅のホームに立つ。風はまだ冷たいけれど、頬をなでるそれは、どこか優しかった。
電車がやってくる。ドアが開く。
僕は迷わず、その中へと足を踏み入れた。
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ブルーアンバー ―君がいた証―(続編)
それからしばらくして、僕の生活は少しずつ色を取り戻し始めていた。職場では雑談に加わるようになり、週末には散歩が日課になった。
毎朝、窓辺に置かれた青い琥珀に触れる。それはお守りのようであり、ある種の儀式のようでもあった。
“もう君はいない。でも、僕は進んでいい”
そう信じることで、僕はようやく立ち上がりかけていた。
そんなある日、ポストに一通の封筒が届いた。差出人不明。けれど、見覚えのある筆跡。
驚きとともに指が震えた。
封を切ると、中から一枚の便箋と、もうひとつの――青い琥珀のキーホルダーが落ちてきた。
便箋には、こう綴られていた。
「あなたがこの手紙を読んでいる頃、私はもうこの世界にはいません。」
「でも、きっとあなたは、私に会いに来てくれた気がしてるでしょう?」
「それは“思い込み”じゃない。あの夜、ほんの少しの時間だけ、私はあなたのそばにいた。」
「最後に、ありがとうを伝えたかったの。私の一部は、ずっとあなたの中に生きてる。」
「どうか、今度はあなたのための人生を歩んでね。」
「P.S. 本当の“最後のお願い”があるの。この琥珀を、あの場所に返してくれませんか?」
最後に書かれていたのは、僕たちが初めて出会った湖の名前だった。小さな、誰も知らないような静かな場所。
手紙を握りしめたまま、僕はしばらく動けなかった。これは、いつ書かれたのだろう?なぜ今届いた? なぜ、二つめの琥珀がここにある?
そして、なにより――
“本当に、あの夜の彼女は幻じゃなかったのか?”
僕はその答えを探すように、すぐに湖へ向かった。
湖は変わっていなかった。水面は静かに揺れ、空と山を映していた。
僕は手紙にあった琥珀を取り出し、水辺にそっと置いた。
風が吹いた。まるで、彼女が「ありがとう」と言っているような気がした。
と、そのときだった。
僕のスマホが震えた。知らない番号からだったが、なぜか胸騒ぎがして出た。
「…もしもし?」
少し間をおいて、若い女性の声が聞こえた。
「…あなたが、彼女の“青い琥珀”を持っていた方ですか?」
僕は一瞬、言葉を失った。
「…はい、そうですが…どちら様でしょうか」
「…私は彼女の妹です」
――妹?
「…ずっと探してたんです。姉が遺していった“誰か”を」
「え…」
「実は、亡くなる前に姉が撮っていた映像があって…最後にこう言ってたんです」
“私の琥珀がもう一つ、まだ彼の手の中にある。だからきっと、私はまだそこにいる。”
「もしよければ…お会いできませんか?姉の“最後の願い”を一緒に叶えてほしいんです」
その瞬間、止まっていた時間が再び動き出すのを感じた。
幻だと思っていた再会。夢だと思っていた言葉。それらすべてが、現実と繋がり始めていた。
彼女は、確かにもういない。
でも、本当に大切なものは、姿を消しても“灯り”のように、誰かを導き続ける。
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ブルーアンバー ―境界の灯―(最終章)
湖の水面は、まるで鏡のようだった。青く澄んだ空と、淡く霞む山がそこに浮かんでいた。
僕は、手の中の琥珀をそっと握りしめたまま、湖畔に立っていた。風が吹き、記憶の底に眠っていた光景がよみがえる。
――君と笑い合った日。――君が泣いた日。――そして、“あの夜”のことも。
妹さんとの電話のあと、僕は約束の日を決めた。湖畔のカフェで会うことになっていた。
けれど、その日、僕はどこか落ち着かなかった。心の中で何かが揺れていた。
まるで――自分が“そこに行ってはいけない”ような気さえしていた。
午後3時、約束の時間。僕は湖畔のカフェの席に座っていた。
けれど、いくら待っても、彼女は現れなかった。
やがて、店員が申し訳なさそうに話しかけてきた。
「お客様…本日、貸切のため、そちらのお席はもうお片付けを…」
「……あれ? 今日ここで…人と待ち合わせをしていたんですが…」
「貸切のご予約は14時からでしたが…どなたもお見えになっていませんよ」
僕は思わず時計を見た。――もう15時を回っている。
その瞬間、ふと、周囲のざわめきがすべて遠のいた。
まるで、自分だけが別の空間にいるような感覚。
外に出て、湖を見た。すると、向こう岸に一組の親子の姿が見えた。
母親が、子どもの手を取りながら、そっと何かを水辺に投げた。
…それは、青くきらめく、小さな石のようだった。
琥珀。
僕の胸の奥が、急に強く締めつけられた。
「まさか…」
その夜。僕は、衝動のままに自分のスマホで検索をかけた。事故。湖。青い琥珀。手紙。断片的なキーワードを並べる。
すると、ある記事がヒットした。
それは――自分の名前が載った死亡記事だった。
『○○○○さん、湖畔で交通事故により死亡』『発見当時、青いキーホルダーを手に握っていた』
身体が震えた。指先の感覚が薄れていく。
そのとき、背後から、声がした。
「やっと気づいたんだね」
ゆっくり振り返ると、そこに――彼女がいた。
優しく、穏やかな笑顔。どこか誇らしげで、少しだけ寂しそうな表情だった。
「あなた、ずっと私のことを忘れなかったから。 だから私、行けなかったんだよ。 …でもね、本当は、あなたのほうが先に旅立っていたの」
僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。
「それでも、あなたの“想い”が強かったから。 だから、私はあの夜、あなたの“世界”に一度だけ戻ったの」
「……」
「でも、もういいよ。今度は、一緒に行こう?」
彼女が手を差し伸べる。
琥珀の光が、僕たちの影を包み込んでいく。
気がつくと、湖には誰の姿もなかった。ただ、夕日だけが、湖面を青く照らしていた。
その光は、静かに、静かに沈んでいった。
やがてすべてが闇に包まれ、ふたつの琥珀だけが、最後までその場所に――淡く、光っていた。
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sakanaです初投稿でへんなとこがたくさんありますが頑張りました!