FILM.9 『こころ』
新学期が始まってあっという間に時間が経った。1ヶ月もすれば小テストにも新しいクラスと出席番号を書くことや、クラスの人たちとの会話も慣れてくる。
「次の授業って文学国語だっけ?」
「うん、多分、あれだよね?えっと……なんだっけ……、夏目漱石の書いたやつ……」
「『こころ』ね」
「あっ、それだ。それ」
茉由は瞬時に顔を上げた。
「『こころ』は面白いよー」
「莉桜読んだことあるの?」
「もちろん……!!今までに、小説を何周したことか」
「へー、そんなに面白いんだ」
この名作は何度も読んだ。小学生の頃、どういうわけか、親から『こころ』を貰った。はじめは渋々目を通していたが、読んでいくうちに徐々に小説を開いている時間が長くなっていった。ハマりすぎたあまり、作品の読書感想画を描いたことだってある。学校から支給される教科書の『こころ』はクライマックスしか載っていないため、作品で張られている伏線の回収もまともに出来ていない。『こころ』が好きだからこそ、残念だった。
「茉由は読んだこと無いの?」
「うん……、あんまり無い。けど、莉桜が面白いって言うなら楽しみかも」
「なら、良かった」
友人の「楽しみ」という言葉は嬉しかった。
授業が始まり、今日から『こころ』に入った。国語の授業で、小説『こころ』が配られた。嬉しかった。その結果、この日の私の授業ノートは右側に縦書きで「『こころ』夏目漱石」とだけ書いて終わっていた。授業終了のチャイムが鳴って初めてその事に気付いた。
「ごめん、茉由。ノート見せて貰ってもいい?」
「いいよ」
「ありがとう、ノート書いてなくてさ」
「もしかして、お絵描きしてたのかー?」
「いや、……『こころ』読んでたら授業終わってて……」
「え、嘘でしょ」
茉由は私の言葉に笑いながらノートを見せてくれた。
「え、莉桜って意外と馬鹿だったりする?」
「そんなことはないでしょ」
「そんなことあるでしょ、『書き忘れた』とか『書き逃した』なら分かるけど、『書いてない』っておかしいでしょ。聞いたこと無いわ」
「確かに、自業自得ではある……ってか何でそんなに笑ってるの」
「ごめんごめん。ちょっと、面白すぎて」
茉由の言いたいことも分かる。私がノートを書かないでずっと『こころ』を読んでいた。完全に私が悪い。私がノートのページを開いたとき、茉由は「本当に何も書いてない」と大笑いしていた。
「ありがとう、ごめんね」
「いいよ、別に。こっちは莉桜の意外な一面知れたからね」
「分かったよ、もう」
自分のノートを手にした茉由はロッカーにノートを戻しに廊下へ出た。私はこの日、「今後はきちんとノートを書こう」と心に決めた。その時、後ろから肩を尋ねるように優しく叩かれた。
「ん?上田くん?」
「問題。先生が毎月お墓参りに行くその場所は、どこでしょうか?」
「え、何、急に……」
「どこでしょう?」
「それは、雑司ヶ谷だけど……」
「ふふふ。正解」
突然のことに、何を求められていたのか理解できなかった。
「で、何?」
「ちなみに、今日の授業で雑司ヶ谷出てきてないからな」
「え?」
彼の考えていることがよく分からない。
「じゃあ、何で……」
「俺は、前半だけ読んだことあるから、この辺は知ってる」
上田くんは、右肘をついて青年の笑顔で言った。
「いや、市川ってそういうところもあるんだなーって思って」
「……え?」
「ごめん、2人の会話、ちょっと聞いてた。」
「聞いてたの?」
「うん。ねえ、お前のノート見せてよ」
「え、何でよ。ちゃんと書いたよ」
「いいから、見せて」
彼は私のノートを見てちゃんと書いたことを褒めてくれた。
「市川、ちなみに授業聞いてなかっただろ?」
「……うっ…」
耳が痛い。
「……聞いてませんでした」
「あはは、だろうな。」
「え?だろうなって……」
上田くんは口を開けて楽しそうに私のノートを開いた。
「後ろから見てて、気付いてた。『授業聞かずにずっと下向いて何かしてるな』って」
「そうなんだ……」
「俺も最初は絵でも描いてるのかと思ってたけど、まさか読んでたからだとはね。原田の言う通り、お前、抜けてるよな。ポンコツだよ」
「上田くんまで……」
自分の世界に入っていた故に私はさまざまなことに気付かなかった。
「次からは気を付けろよ?」
「分かってます」
「俺のノートでもよかったら見せてやるからな」
「それは、ありがとう」
私はロッカーにノートをしまった。彼は茉由の言っていた「意外と馬鹿」という言葉に賛同していた。でも彼の心はどこか心配してくれていたように思った。