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FILM.33 誰かための決断

夕飯の良い匂いがする。これは、肉じゃがだろうか。早く話を終わらせなければ、お母さんが作ってくれた夕食が冷めてしまう。なのに終わりが見えない。

「ねぇ莉桜……」

「?」

そうお母さんが切り出し空気が変わった。

「莉桜は絵を描くことが好き?」

「うん」

「部活は楽しい?」

「うん」

「今、絵を描くことを苦しいって思う?」

「……うん」

お母さんの目的は分からない。だが、私は小さく頷くことしか出来ない。

「これはお母さんの本音なんだけど、莉桜には好きなことを好きなだけやって欲しいって思ってる。だから絵が好きなら好きなだけ描いて欲しい。今までも莉桜が楽しく絵を描いてくれるように私なりに協力してきたつもり。絵を描くことに必要なものは常に揃えてあげるようにしてきたし、部活だって部費が必要だからそれもきちんと払ってきた。でも、今の莉桜は心から楽しんでいるようには見えない。本人は隠してるつもりなのかもしれないけど、分かるよ。だって母親だもん。この家に生まれてきてくれてから今までずっと見てきたんだから。『嬉しいことがあったんだろうな』とか『辛いことがあったのかな』とか莉桜のこと見てればすぐに分かるよ。だから、莉桜が今本当に苦しんでるって分かる」

お母さんには今まで感謝してもしきれないほど絵に尽くしてもらった。幼かった頃はたくさん絵を褒めてくれた。だから何度も何度も描いてお母さんに見せていた。いつも嬉しかった。それに対し、今はどうだ。母親のくれる褒め言葉を信じられなくなってしまった。では私はなぜ絵を描いているのか。それは「描くことが好きだから」だ。退部してから目的を探し迷子になっていた。でも答えはこれだった。目的などどうでもいい。ただ好きだから絵を描くのだ。

「何事も全力で壁にぶつかっていくことは素敵なことだとは思うよ。でも、それで苦しみ続けて最終的には自分が犠牲になるのは本末転倒だと思う。自分を大切にした上で壁にぶつかって欲しい。だからこの先も莉桜がこの状態で居続けるならお母さんは協力出来ない」

「……え、どういうこと……」

予想のしていなかった母の発言に思わず耳を疑った。

「莉桜の好きなことだからお母さんの意思は必要のないものだとは思う。でも、莉桜のことを近くで見ている人間として、どんどん壊れていく莉桜をこれ以上は見ていられない。お母さんだって思いたくないよ。『莉桜が絵を描くことを嫌いになりたくないから意地でも何か描こうとしているんじゃないか』なんて」

「……」

お母さんは間違っていない。多分その通りだ。私のプライドが絵を嫌いになりたくないから絵を描き続けているのだ。その証拠に私の身体は絵に関するものに対し様々な拒否反応を起こしていた。ある日涙が止まらなくなったあれも、その類いだろう。お母さんはそれにいち早く気付いていたのだ。身体は必死に訴えていたが、私のプライドはその拒否反応さえ邪魔だった。それらの異変が私へ恐怖を煽り「絵を描けなくなる」という思考の変化を起こしてしまった。小さなミスが後に大きなズレになり、気付けば修正することが不可能になっていた。

「莉桜はどうしたい……?」

「私は……」

母の気持ちは痛いほど伝わった。私を大切に思ってくれているのだと感じた。でも、ここに「誰か」の意思はいらない。私の人生なのだから私が決めることだ。

「お母さんはどうして欲しいの……?」

馬鹿だ。自分のことは自分で決めた方がいいに決まっている。なのになぜここで母親を頼るのだろうか。自分の選択に責任を持てない弱さを私はここで発揮してしまった。

「莉桜が苦しまないためにはどうすればいいのか、申し訳ないけどお母さんは分からない。だから無責任なことを言うけど、離れることが最適解だと思う」

「それは、嫌だ……」

「うん、そうだよね……」

「苦しまないように頑張る、だから絶対離れないもん……」

「……それが莉桜の答えならお母さんは反対はしない。莉桜の好きなことだって分かってるから。でも、これだけは覚えておいて。辛くなったら逃げてもいいから。『逃げる』って恥ずかしいって思われがちだけど、お母さんはそんな風には思ってないから。本当に辛くなったら逃げることは間違っていないからね。立派な1つの選択肢なんだから。そしてその逃げるって行為は自分はもちろん、誰かを助けることになるから」

「……」

逃げる。嫌な響きだ。今までずっと向き合ってきたものを一瞬で無かったことにする。確かに逃げることは楽だが、逃げた先はどうするんだ。何もかも無くなってしまう。

「なんで私を逃げさせようとするの……」

「当たり前じゃない……莉桜が大事なんだから。莉桜が泣いていたらこっちだって泣きたくなるし、莉桜が苦しんでる姿を見てると、こっちも苦しくなるの……」

泣きたいのはこっちだ。苦しみというものの本当の痛みを知っているのだから。でも、そうなのか。私が苦しんでいたら誰かをも巻き込み苦しませることになるのか。1番知りたくなかったことかもしれない。

「お母さん、夕食部屋に持ってきてくれない?今、下に降りたくない……。今顔ヤバいから……。お父さんとかに見せたくない」

「分かった……。温めて持ってくるから」

そしてこの日1人で夕食を食べた。おそらく、数分前は冷めていたのだろう。

「ごちそうさまでした」

夕食を食べ終え私は食器類を運び、お風呂へ向かう。

「『逃げる』か……」

今の私に必要なことは「逃げる」こと。でも、ここで逃げていいのか。これからも戦い続けると誰かを苦しめる。自分のプライドと誰かを犠牲にすること。どちらが正しいのか。

「お母さん、これもらうね」

「どうぞ」

私は入浴を済ませ自分の部屋に向かう。そして、茶封筒に加え黒ボールペンと無地の白い紙を用意しペンを走らせる。


『退部届』


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