FILM.32 異変
あんなことになっても私のやることは変わらないはずなのに。
「……やっぱり、あのときパンは食べておくべきだったな……」
自信の無さと空腹でやる気にならない。なぜ私は置いて帰ってしまったのだろうか。頭が働かない。「絵を描く」というノルマだけが私の元に残る。その時、部屋の扉を叩く音とお母さんの声がした。
「莉桜、ちょっといい?」
「……うん……」
今にも死にそうな声で答えた。お母さんも違和感を覚えたことだろう。私が絵を描かずベッドに横たわっていることに。先生は今日、母に連絡したのだろうか。私の階段からの転倒を知っているのは母なのだろうか。今の私は絵を描くよりもこのように無駄なことを考えている方が身体にはいいのだろうか。
「今日、学校から連絡があった。大丈夫?」
連絡は母の元へいったのか。
「大丈夫……。全然平気……」
「そう?お母さんには全く平気そうには見えないけど……」
母の勘は侮れない。いや、母には勘など不要かもしれない。むしろ私の状態を見て何とも思わない方がどうかしてるだろう。
「……学校も大袈裟だよね。ただシンプルに足を踏み外しただけなのに。よくある話だよ……」
そこには母親の心配に淡白な答えで対応する私がいた。あの瞬間、自分の身に何が起こっていたのか未だに分かっていない。今ぼんやりと覚えているのは、落ちたんだろうなという既成事実だけ。踏み外したのか体調不良で倒れそのまま落ちたのかは私にも分からない。
「本当に平気?顔色悪いとは思ってたけど」
「……」
「ねぇ莉桜、何かあったなら話して……」
―無理しないでいいよ。話したいと思ったら話してね
口調からも伝わってくる。当たり前のことだ。自分の子供の様子が明らかにおかしいと分かっているのだから。何があったのか知りたいと思うのは当然だ。
「絵が描けないだけ……」
「絵?」
「納得出来る絵が描けないし、なんかもう、物理的に描けなくなった。筆とか握ると手が震えるし、怖くなって視界が滲む……。でも描かないと周りに置いていかれる……、周りに抜かれるって焦ってた。斉藤先生は、『絵は人生を描くもの』とか言うから絵を描くことが余計に怖くなった。それからいろいろ全部上手く行かなくてそれがまたストレスになって負のループ……」
堰を切ったように言葉が溢れる。この日初めて自分の気持ちを声にした。自分の中で頑張って抑えていた不満。そして言葉にすればするほど溢れてくるのは言葉だけではなくなっていった。
「そっか、苦しかったんだね……」
なぜお母さんが泣いているのか。本当に苦しいのは私なのに。聞いただけでこの苦しみを誰かに共有出来た気がしない。
「なんで……」
「話してくれてありがとう……」
目線を合わせ私を抱き締め、背中を優しくさすってくれた。話したところで全てが解決したわけではない。正直話したくなかった。自分のダメなところが出てしまうから。
「ねぇ莉桜……」
「?」
そうお母さんが切り出し空気が変わった。




