ありがたいお仕事 その2
電話で予約をした翌日には、俺は面接のため広告に記された場所へと向かっていた。
好きな時に来て良いと言われたとはいえ、さすがに一ヶ月後に行くのはどうかしている。この場合は早ければ早いほど良いに決まっているし、もたもたしていてもう決まってしまいました、なんてことがあったらそれこそ笑えないというものだ。
私鉄の駅を降りて徒歩数分。
地図によれば、この会社は前の職場とさほど離れていない場所にあるはずだった。
位置からすれば大阪の電気街のはずれ、中小の問屋もぱらぱらと見かけるいわゆる下町と呼んでも差し支えない区域である。
しかし……。
「こんなところに不動産屋なんかあったかな?」
数分後、俺は地図と周辺を見ながら首をかしげることとなった。
近くの電気街に用事があることが多かったため、この近辺は営業やら買い出しやらでよく自転車でうろうろしていたし、近くにある神社に正月社長に言われて笹を買いに行ったことがあるのであながちこの辺は全く知らない訳ではない。
しかし、この地図の指し示す場所には全く覚えがなかった。
……おそらくよほど小さい事務所か、事務所自体がビルの中にあったりするのだろうと、 どんな小さな看板も見落とさぬように気を付けながら歩いていたのだが……。
だが、予想を裏切ってその事務所――弘田土地管理――はいやにあっさり見つかった。
大都会のど真ん中、三叉路の突き当たりに建つその事務所は、古ぼけた木造建築の、ある意味非常に味のある建物だった。
入り口は自動ドアどころか木枠の引き戸で、大量に張られた筆字の不動産広告らしきものがみっちりと張られている。そして屋根にはなぜかエイのイラストと共に「弘田土地管理」の看板がでかでかと飾られていた。
……こんなインパクトのある事務所を俺は今まで見落としていたのだろうか?
俺は改めて周囲の景色を見渡し首をかしげたが……。
……まぁ、確かに、この辺りは道が入り組んでいるから、一筋見落とすことがあっても不思議はないだろう。
俺は素朴な疑問を打ち払うと、ネクタイを締めなおし、深呼吸して、戸に手を掛けた。
「す!……すみ、ません。」
颯爽と戸をあけて言いたかったのだが、古めかしい引き戸のガタガタいう音と立て付けの悪さで、それはひどく力んだものになった。
両手でようやく戸を引き、自分が通れるスペースを空けて事務所内に目をやった俺は、そこで一人の女性と目が合う――。
……。
事務所の机で団子を食べていた彼女は、それを飲み込むまでの間、しばしこちらを無言で見つめていた。
「……どちらさんです?」
てっきりおばちゃんに出迎えられると思ったが、意外な事に、目の前で団子を飲み込んでそう言ったのは、若い女性だった。
社長の一人娘か何かだろうか?
やや釣り目の彼女は、どういう訳か電気量販店などで販売員のよく着るはっぴを着ており、頭から動物のような耳を生やしている。
……?
頭に耳?
そして、当然のごとく、俺の視線は釘付けになった。
コスプレ……という奴だろうか?クリスマスにコンビニでトナカイのカッコをした人物は良く見かけるが、土地管理会社がなんで動物の耳を……?
渦巻く疑問。
だが彼女は、思考が停止した俺を女性は不思議そうに俺の顔を覗き込むばかりだった。
……どうも、ドッキリだとか、一発ギャグとかの類でもなさそうである。
ひとまず、そう……。
……うん、耳には触れないでおこう。
ここで下手に相手の機嫌を損ねて面接をフイにしたくはない。
俺は気を取り直し、耳は無視して用件を端的に述べる事にした。
「あの、昨日求人の広告を見てお電話させてもらった。佐藤と申しますが……。」
俺が一言そういうと、彼女の中で全ての疑問が氷解したらしい。彼女はそれに釣りあがった目を大きく見開くと、納得したような顔で大きく頷いた。
「ああ!昨日の電話の?ちょっとまっとって。……社長!社長!」
彼女はそう言うと、大声を上げながらパタパタと奥の部屋へと消えていく。
そして俺は、そんな彼女の後姿とともに、彼女のお尻に生えた何本かに分かれた狐のような尻尾を目撃することとなった。
……。
……一体どういう意図があるのかはわからないが、耳といい、尻尾といい、実に良くできている。
まさかアレが制服なのだろうか?
尻尾を振りながら彼女が消えていく姿を見ながら俺の中に一抹の不安がよぎった。
彼女の不可解な姿を理解しようと必死に思考を整理しているうちに、狐のコスプレをした女性は扉の向こうから戻ってきた。
「社長は接客中やからちょっと待っとってな。もうすぐ戻ってくるから。」
「……はい。」
彼女はにっこりと笑うとパーテーションで区切られた応接用のソファに座るよう俺に勧める。
俺はそれに彼女の耳をちらちら見つつ、若干気合の入っていない返事をしてそれに従った。
――未だ、耳や尻尾に対する説明なし。
そして、さすが中小企業……の、せいかどうかはわからないが、とにかくどこまでもフランクである。
予想していたのと全く違うテンポに俺は辟易しながらもソファに腰掛ける。
彼女の服装以外はどこにでもある中小企業の雑然とした、ある意味歴史を感じさせる事務所なのだが……。
まさか面接事態が何かの悪戯と言う事は……ないと思う。
が、しかし、彼女の恰好も含め、何かこの事務所には言い知れぬ違和感があった。
「よぉここまで来れたね。電話もなしにいきなりやったからびっくりしたわ。」
そんなことを考えながらきょろきょろと事務所の中を見回していると、しばらくして彼女はお茶と山のように積み上げられた団子を手にこう話しかけてきた。
急に話しかけられて俺は少し、ぎょっとした顔で振り向き、彼女の笑顔を見つめる。
落ち着け。
多分彼女は、リラックスさせようとしているのだろう。
俺は彼女の笑顔からそう解釈し、それに無理に笑って答えた。
「ここってそんなにわかりにくい場所にあります?すぐ見つかりましたけど……。」
「うん、普通の人間は、大概ここを見つけられんで電話してくるんよ?だから今日はウチ、ここでお留守番やったの。ホンマ助かるわ、こんなに早よう来てもろて。」
そう言う彼女は目の前のソファに座ってお茶をすすり、団子を食べ、こちらにも食べるよう勧める。こうなると、礼儀正しくしている自分が、むしろ浮いているような気がするから不思議だ。
……いささかフランクすぎる気もするが、多分、気を使ってくれているのだろう。
いい見方をすれば、この辺も中小の味という奴かもしれない。
が、肩の力を抜け、と言われてもこの状況では土台無理な話だ。
俺は彼女の姿に、とりあえずは必死に笑顔を返し、目の前に差し出された小さな団子を頂く事にした。これから上司か、あるいは仕事仲間になるという相手だ。耳にツッコミは入れないとしても、仲良くして損はない。
俺は彼女の好意に答えるべく、彼女の事を知るために努力する事にした。
「……この仕事、長いんですか?」
耳と尻尾以外の、ごく素朴で、単純かつ、当たり障りのない疑問。
彼女はそれに団子を口にほおばりながら、大きく頷いた。
「うん、かなり長いで。生まれてこの方ずっとやわ。」
どうも、この切り口は正解だったようだ。彼女はクラスメイトにでも話すようにそれに答える。
……やはり社長の一人娘か何かなのだろうか?
間接的に女性に年を聞く事になるような気がしたが、俺は彼女にさらに尋ねる事にした。
「じゃぁ10年とか?」
失礼とは思いつつ、大雑把な年数を俺は提示し、彼女の顔色をうかがう。
それに彼女は気を悪くすることはなかったが、難しそうな顔で天井を仰ぎ、唸り声を上げ、そして最後はやはり笑顔でこう答えた。
「……さぁなぁ、どのへんからこの仕事してたと言えばええのんか難しいんやけど……まぁ、短めに言うてざっと百年か、二百年くらい?」
そして、彼女のありえない回答に俺は参りました、と言う顔で笑う。
そう、これぞかの有名な「ボケ」と呼ばれる関西人特有のコミュニケーション法である。
さすがに大阪で暮らして一年、この手の日常会話には俺もすっかり慣れている。俺はそれに、
「そんな、妖怪変化じゃないんですから。」
と、笑いながら突っ込んだ。
ボケられたら突っ込む。
これが関西での会話の常識である。関東の人間から見たら異様に見えるようなのだが、これも相手のボケをより面白くし、相手を立てる大切な当然なコミュニケーションなのである。
当然、突っ込まれて気を悪くする関西人はいない、それに彼女はにっこりと笑い。
「まぁ似たようなもんなんやけどね。」
と答え、会話が終了である。
これで立派な「ボケとツッコミ」が完成……。
……。
……してないな。
……今、さらにボケられたような……。
彼女のポツリと呟いた言葉を反芻し、俺は彼女のもう一ボケを拾うタイミングを逃した自分を悔いた。
さすがにツッコミにさらにボケを返されるとは思ってもみなかった。
俺もまだまだ、修行が足りないようである。
そんな会話をしているうちに、事務所の奥の扉が開く音がする。
俺はその音に、社長が事務所に戻ってきたと悟り、顔を引き締め、居住まいを正した。
やがて、パーテーションの影から姿を現す社長。
彼は緊張した面持ちの俺の前で帳面を抱え、礼儀正しく会釈した。
「どうも、社長の弘田です。」
幸い……というか、当然のことながら、社長に耳は付いていなかった。
やはり関西訛りの口調で名刺を差し出す社長は、中肉中背で眼鏡をかけた、どこからどう見ても「町の不動産屋」という風采の人物で、寡黙な中にも不思議と独特の貫禄を漂わせる、ある意味頼りがいのありそうな人物であった。
どうやら電話で俺の声を受けたのは彼らしい。
俺はそんな彼に礼を返すと、早速履歴書を取り出そうとカバンを開ける。
……が、それより先に社長はこちらに言葉を投げかけていた。
「前、働いてたとこの社長さんが逃げはったそうで。……えらい災難でしたなぁ。」
「ええ、まぁ……。最後は給料も未払いで、まるで貧乏神に取り付かれたみたいな状態でした。」
「うん、正確には福の神が出て行ってしもたんやけど。アンタにしたら同じ様なもんやわな。……まぁ、これもなんかの縁やろう。」
「は?」
いまなんと?
ふと、不可解な言葉を返した社長に、俺は思わず立場を忘れて聞き返していた。
だが社長はそんな俺の表情を無視して、事務的な口調で狐目の女性に「アレ持ってきて」などと指示を出している。
……聞き違いだろうか?
俺はごく当たり前の事務作業をこなすような仕草の社長に、先ほど自分の耳に届いたのは何かの聞き違いであると判断し、さすがにもう一度聞き返事をするような事をしなかった。
……いや、そもそも、この人の前で前の会社の話したっけ?
履歴書すら取り出していない俺は、もう一度先ほどの会話と、今までの会話を反芻し、改めて首をかしげた。
だが、そんな俺を社長はやはり気にした様子もなく、狐目の女性からなにやら分厚く古風な帳面を受け取っている。
やがて彼は無言の俺の前で眼鏡を直しながらそれをめくり、ぶつぶつとそれを読み上げ始めた。
「……福井県出身、公立中学校を卒業後、進学校に入学、卒業後は前の会社に入り、現在に至る、と……まぁ、別段学が無いわけではないんやろうな。」
それは、まぎれもなく俺のプロフィールだった。
まぁ、就職するからにはこれくらいの内容は申告してしかるべきなのだが、しばらくそれを聞いていた俺はやがて、前提条件として重要なプロセスが一つ飛ばされている事に、気付き、その場で顔面蒼白になってしまった。
――そう!俺はまだ履歴書を渡していないのである。
「家には祖母と祖父、両親と兄が一人。兄に恋人がおるみたいやけど……まぁこの人とは縁がなさそう、と。」
絶句する俺をよそ目に俺のプロフィールの朗読はさらに続く。
当然、家族関係の話など前の社長にも話した記憶がなかったが、今読み上げられている俺のプロフィールは一点も間違いのない内容であった。
信じがたい話であるが、どうやら彼が持つ帳面にはそれが正確に記されているようである。
どこで調べたのか?
個人情報の保護が謳われて久しいこの時代にこんなことが起きていること自体ありえない。当然こんな情報どこかに話した記憶もないし、電話口でも間違いなく話してはいない。
俺は目の前で起きた事実を信じられず。口をぽかんと空けて社長の不気味な呟きを聞くことしか出来なかった。
だが彼はそんな俺を無視してページをめくり、そこに書かれているらしい項をしげしげと眺める。どうやらなにか重要な情報が書いてあるらしい。社長はそれに勝手になにやら頷いている。
「……なるほど、祖父の実家が昔、神主さんやってはったんやな。あながち筋がないわけではないわけや。」
何を言っているんだこの人は?
とうとう自分すら知らない先祖に話題が及ぶにいたり、俺はたまらず、
「……あの。そんな話、僕は聞いたことないんですが……。」
と声を上げた。
だが、社長はそれにさして驚いた様子もなく、帳面から顔を上げ、さもありなん、という顔でそれに答える。
「最近の人は先祖や親元の話なんか、なかなか子供にせえへんからなぁ。まぁ知らんへんのも無理はないわ。」
「……はぁ。なるほど。」
社長の言葉に俺はぽかんと口をあけたまま頷いた。
確かに、私の祖父は寡黙で、自分の先祖がどうだとかいう話をする人ではなかった。私自身もそんな事に興味はなかったので聞いた記憶もない。
思い出してみれば、祖父の実家にはこじんまりとした神社があり、親戚の家を訪ね、暇をもてあましたときには、そこで遊んでいた記憶もある。
あそこの家が昔は神主だったといわれれば納得も……。
……。
……マテ。
俺はそこまで考えたところで、社長の言葉に納得しかけた自分の意識を慌てて引き止めた。
何か根本的な焦点がずれている。
なぜ、本日初対面の人間から自分の家系の真実を明かされねばならないのか?
そちらの疑問の方がよほど重要であるのに、社長はその疑問にまるで答えていない。
俺はさらに深まった謎にますます顔をゆがめ、社長を見やる。
だが、そんな俺を目の前に、社長は構わず帳面のページをめくり続ける。
そして、次に彼から出た言葉にいよいよ俺は本格的にわが耳を疑った。
「前科なし、2ヶ月前会社周辺にいた猫にエサをやっていたがその後疎遠になる。神社には昨日再就職祈願で5円を奉納。最後に死体を見たのは一週間前、部屋の片隅で死んでいたゴキブリ。」
「……あの。」
「好きな食べ物はカレー。ハンバーグ……一人暮らしを始めてからは外食が中心だが、最近はお金がなくてハンバーガーやカップ麺が中心。」
「……あの。」
「昨日は、家でレトルトご飯とカップ麺、今朝は牛丼屋で納豆定職を食べる。ジュースは飲まず主にコーヒを飲む傾向がある、と……やっぱ肉類をよう食べてるなぁ。」
「最近の子はみんなこんなもんちゃう?仕方ないで。」
「まぁ、そら確かにそうやわな。」
「……あのすみません。」
恐ろしいほど細かく、かつ正確な情報を見ながら話し合う二人に思わず俺は声を上げていた。
それに社長と隣の女性は不思議そうにこちらに目をやる。
「……どないした?」
「僕のこと尾行していたんですか?」
さっき食べた朝食の事まで書いてあるらしい帳面にもはや恐怖すら覚え始め、俺は今、自分が面接を受けていることも忘れ、彼らを問い詰めていた。
が、そんな俺の言葉に彼らはきょとん、とした顔で答える。
「誰がそんな暇なことするかいな。」
「……あ、はい、すみません。」
真顔で答える社長に反射的に謝罪する俺。
よくよく考えれば、昨日電話していきなりここまで尾行できるわけがない。
……。
……いや、それ以前に先週一人暮らしの部屋でゴキブリの死体を片付けた事まで一体どうやって調べたんだ?
俺は引きつった顔のまま社長の持つ帳面をもう一度眺めた。通常なら一笑に伏すような話だが、なにしろ全部当っているので気味が悪いことこの上ない。
しかも今気付いたことだが、社長は今まで自分に一度も質問をしていなかった。
これはもしかして、「家にカメラを仕掛けた」とかいうアピール?
もしかして脅迫されてる?
疑問を通り越して恐怖を感じ始める俺。
だが、彼らはそんな俺を気にせずなにやらごにょごにょと話し合っている。
俺は、さながら出荷前の牛か豚のように品定めされいる事に気付き、いよいよ背筋が寒くなってきた。
彼らが何を話し合っていたのか?多分俺の耳には入っていなかったのだろう。
しばらくして、社長が帳面を閉じる音に俺ははっと我に返った。
「まぁ、大体のことは分かりましたわ。ほな、ちょっとテスト受けてもらえるか?」
「……テスト?」
初めて要求されたこちらのリアクションに放心状態の俺は社長の言葉に思わず聞き返していた。それに所長は頷くと隣の女性に準備するように指示を出す。
「一応、君にはコンピューターの扱いをお願いしたいんやけども。やっぱおり客さんの相手もある程度はやってもらわなあかん。まあ、それが出来るかどうかちゅうこっちゃな。」
「はぁ……。」
先ほどの疑問がいまだ解けないまま、よくわからず頷く俺。
接客が出来るかどうか試そうというらしいが、一体どうやって?
そんな事を考えていると、俺の目の前に狐目の女性がくぼんだ皿を持って現れた。
皿には一つのよく熟れた桃がのっている。
彼女はそれを皿から取り上げると。なんと、ためらいもせず俺の目の前でそれを両手で握りつぶして見せた。
そして滴る果汁を一通り皿に受けさせると、彼女は実を近くのゴミ箱に投げ捨て、果汁の入った皿の方をこちらに差し出す。
そして彼女は、とんでもない事を口走った。
「じゃ、これで目を洗って。」
「目を?」
唐突で奇怪な要望に思わず目をむく俺。
そしてそれにやはり笑顔で頷いた。
「うん、人間の目って知らんとる間に結構穢れてるから、水くらいじゃ足らんのよ。まぁ、消毒みたいなもんやね。」
消毒って……。
一瞬、聞き違いである事を願ったのだが、ご丁寧に添えられた彼女の言葉は間違いなくこの桃の果汁で自分に目を洗えと指示してるようだった。
俺は彼女の言葉に戸惑いながら皿を覗き込む。
なぜ、消毒せねばならないのか?
いや、それ以前になぜ桃の汁でなくてはならないのか?
もしかしてこれは手の込んだ悪戯か何かなのだろうか?
ごく一般常識として、こういうもので目を洗えばどういう事になるのか想像に難くない。俺は皿をのぞき込みつつ、もう一度二人顔色を伺った――。
「どないした?」
ヤバイ。
……目の前の二人はいたって大真面目だ。
いや、むしろこちらの動向を不思議そうに覗き込んでいる。
……一体コレは何の冗談なのか。
悪戯かどうかを確認しようかという考えもしたが、周囲はとてもそんな事を聞ける雰囲気ではなかった。
俺はじっくりと気を落ち着かせながら、さらに満たされた桃の果汁と、まじまじとこちらを見つめる彼らを交互に見つめ、今、自分の成すべき事について必死に考えた。
……。
……やるか。
逃げ出すにしろ、騙されるにしろ。相手の機嫌を損ねていいことはあるまい。
永遠と思える時間、彼らと無言のまま見つめ合った後、俺は意を決して手で果汁をすくい、そして、それを目にすりつけた。
そして……。
痛い!
俺は予想通り目に襲いかかる激痛に思わずその場にうずくまってしまった。
目が痛い!目が開けられない!
涙が止まらなくなった上に果汁の糖分がまぶたを接着し、瞬きをする事もままならない。
暗闇に包まれた恐怖と激痛でうめき声を上げる俺に彼女は落ち着いた様子で水に濡れたタオルを差し出した。
「はい、これでぬぐって。」
暗闇の中聞こえる声に、すがる思いで俺はタオルに飛びつく。
タオルでぬぐってようやく目を開けた俺は――。
――。
……。
……俺はそこで見えたものに、言葉を失った。
「なんか見えるか?」
口をあんぐりとあけてその光景を眺める俺に、社長はまるで医者が症状を確認するように尋ねる。放心状態の俺は、「それ」を凝視しながら、口を空けたままで見えたものを正直に申告する。
「……エイが、飛んでます……。」
――そう、俺の眼前に展開されていたのは、社長の背後を飛ぶエイの姿だった。
それは事務所の空間を悠々と飛んでいる。
優雅に、海中を泳ぐように……。
一瞬トリックを疑ったが、それは紛れもない生物で、ご丁寧にエラらしいものをパクパクさせている。体中に魚介類特有のぬめりや光沢があり、やはり釣り糸らしきものは影すら見ることが出来なかった。
「ほう、見えたか。」
信じられない光景。
普通なら口で言っても信じてもらえないような報告を、社長は感心したように答え、帳面になにやら書き込んでいる。
さも当たり前と言うような彼の動きに俺は返事をするのも忘れ。呆然と優雅に宙を舞うエイを眺めていた。
「じゃあ、次。隣になんかおるか?」
そんな俺に、社長は医者のような口調でこちらに指示を出す。
彼の言葉に従って隣のソファに目をやる俺は……。
!
俺は「そこに居たモノ」に思わず顔を引きつらせて身をよじった。
そこに見えたのは……人?
先ほどまで誰もいなかったはずのその席にいたのは、年老いた一人の老人だった。
白い服、頭に三角の頭巾を被った彼は絵に描いたようなさながら「幽霊」……と、いうか幽霊そのものの姿でいつの間にか俺の隣に座っていた。いつの間に俺のここに滑り込んだのかは分からないが、すぐ隣の席の彼は、青い顔のままでのん気にお茶をすすっている。
彼と目を合わせ、反射的に会釈すると、彼は穏やかな顔でそれに答えた。
「……ふむ、そっちも見えたか。たいしたもんやな。」
驚いて声も出ない俺。
だが社長はそんなやり取りが見えているのか、それに感心して頷いている。
そして帳面にさらになにやら書きこむと、大きく頷いて立ち上がった。
「まぁ、これやったら仕事にも支障はないやろ。合格や!明石君。仕事の説明したって。」
「はいな。」
唖然とする俺を横目に社長は彼女にそう言うと隣の老人と共にパーテーションの向こうの事務所に消えていった。
何とも奇妙奇天烈奇々怪々!
ヘンテコ不思議な面談に
どうも合格したらしい。
この人たちは何なのか?
続きは明日のお楽しみ!