ありがたいお仕事?その1
神を信ずることは常識や倫理や議論の問題ではなく感情の問題である。
神の存在を立証することは、それを反証することと同じく不可能である。
――サマセット・モーム
春近しとはいえ、風はいまだ冷たい。
空は抜けるように青く、今いる神社の境内の片隅で桜が咲くのが見えるが、俺の心は暗闇に閉ざされていた。
三月吉日。
俺、佐藤宏は今、不幸のどん底にあった。
理由は分かっている。
職がなく、金がない。当てもなければ、考える気力もないのだ。
もし神がこの世にいると言うのなら、俺はそいつに力いっぱい文句をいってやりたい気分だ。確かに頭は悪かったかもしれないが、今まで人に迷惑をかけぬよう生きてきた俺がなぜこんな目に遭わなければならないのか。
――そう、それは一年前。
全ては、俺が親の反対を押し切って田舎からこの町、大阪に来たときから始まった。
一年前、高校を卒業した俺は、我流で培ったコンピューターの知識を生かし、単身ここ大阪に出ていわゆるITベンチャーの仕事に就いた。
マンションの一室を事務所にした従業員十人足らずの小さな会社。
この規模としてはかなりの成績を上げていたこの会社は、俺が入った頃は舞い込んでくる仕事に対して人手が足らず、一刻も早く即戦力が欲しいといった状態であった。
まさに戦場となっていたその会社にコネで就職した俺は、そこでがむしゃらに働き、犠牲にした時間に見合う以上の収入を手にしていた。
知り合いの同級生の数倍及ぶ収入、そして、尽きることのない仕事。
会社の評判はうなぎのぼりで、従業員も増えていく。
気が付けば増員された年上の後輩従業員相手に一年足らずで先輩と呼ばれ、会社の中でもそこそこの地位についていた。金は貯金通帳に唸るほど貯まり、ここ一年、お金に不自由することなど一切なかった。
俺は勝ち組に入った。
遊ぶ暇すらなく仕事に追われながら、俺はつい数ヶ月前でそんな事を考えていた。
ところが、つい3ヶ月前、その状況は一変する。
きっかけは、社長が資金運用と称してやっていた資産運用であった。
当時ITの仕事で得た収入を運用につぎ込んでいた社長は、慢心ゆえか、株だか仮想通貨高の投資による多額の負債を抱え、会社に数億単位の借金を作ったのである。
社長がワンマンな性格であったのが災いし、これが会社内部での不和を引き起こす。
……結果、それから一週間で会社の幹部連中は軒並み辞表を叩きつけて会社を出て行った。
当然会社の機能は麻痺し、俺は社長に泣きつかれて彼らの後始末をする羽目になる。
慣れない仕事をいきなりやらされる事になった俺は正直戸惑ったが、その心配はすぐに杞憂に終わった。
仕事が無いのである。
不思議な事に、社長が株で負債を抱えた前後から仕事がぱったり来なくなっていた事を、俺は仕事を押し付けられてから初めて知った。
それゆえにやることといえば、すでに請けた仕事の処理のみ……。
やがて俺はやることが無くなり、社長とやったこともない営業に奔走する羽目になった。
夏には大量に居た後輩たちは、あるものは社長が泣く泣く解雇を申し渡し、またあるものは他社に引き抜かれ……といった具合に次々と姿を消していった。
そして、最後の一週間にいたってはもはや事務所の掃除しかしていなかった。
社長は金策に走り回っていて一向に帰る気配が無く、営業電話をかけてもなしのつぶて、債権者と称する人たちの相手をするのにも疲れ果てた俺には、もはや会社で留守番する気力くらいしか残されていなかった。
そして本日、俺は職を失った。
正確には置手紙を残し、社長が給料未払いのまま姿をくらました。
月曜に出勤すると、事務所はいつの間にか他人のものになっており、土日のうちに机もパソコンもきれいさっぱりどこかに消えていた。最後の社員だった俺は、そこに待ち構えていた強面のお兄さんに事務所だった部屋の鍵を渡し、こうして街角の神社の片隅で呆然とベンチに腰掛けているという具合だった。
何をどうすればこんな状態になる事を防ぐ事が出来たのか?
それがさっぱり分からない場合、大抵それは一言で片付けられる。
「運が悪かった」
俺は頭をよぎるその言葉に、反論する言葉すら思いつかず。神社の片隅のベンチ一人、がっくりと首をうなだれた。
……困った。
ベンチに腰掛けて、青い空を見上げる俺の口からは、それしか出てこなかった。
3週間ほど前からうすうすこうなるのではと思っていたが、まさかここまで事態が早く進むとは思ってもみなかった。
せめて辞めるにしても、未払いの給料をもらってから、などという考えを持ったのがそもそも誤りだったのかもしれない。
……金?
……そして、突然連想ゲームのように降って沸いた課題に、俺は頭を抱えた。
そうだ、今の俺は金が無い。
よくよく考えれば給料が未払いになってからの3ヶ月間で俺の預金残高はほぼゼロに近い状態であった。
最初は暇になった開放感もあり、また、こんなことは一時的なものだという社長の話を信じていたのでいつものペースで消費活動を行っていたのだが、おかげで預金残高は加速度的に減少している。よくよく考えてみれば、今日約束されていた給料をもらわねば、来月あたりには飢え死にも覚悟せねばならぬ状態であったのだ。
が、社長はおそらくはそれを承知の上で、約束の日に姿をくらましたのである。
もはやこれは、俺自身の生命に関わる状況といえる。
せめて営業に行く時に払った電車代くらいは請求しておけばよかったと、俺はいまさらのように大きくため息をついた。
……どうしよう?
ベンチで首をうなだれながら俺は悲しげに前の鳩に目をやった。
いまだ寒空とはいえ、晴れわたった神社の境内でのん気に餌をついばむ彼らが、いっそうらやましくすらあった。
田舎の実家に泣きつくという方法もあったが、大学進学を勧める親に啖呵をきって出ていった手前、それはいかにもばつが悪い。
おそらく浪人させるだけの余裕はウチの家には無いだろうし、いくら親とはいえ、そんな彼らに一人暮らしの援助をさせるのはさすがに気が引けることだった。
どうしようか?
とりとめも無い思考を繰り返す俺は、再びこの言葉を呟いていた。
ため息をすれば幸せが逃げていく、と誰かが言っていた気がしたが出てくるものは仕方がない。
俺は、憂鬱な顔でまたため息をつくと、冷たくなった手をポケットに手を突っ込んで、神社の境内を眺め回した。
――?
と、その時だった。
ふと、何気なくポケットの中をまさぐっていた俺の手が、堅いものに触れた。
小さく、丸く、ひらべったくて穴の開いたもの……。
ポケットの中に感じる硬貨の感触に俺は自分の記憶をまさぐった。
……そう、それは確か。いつかコンビニで買ったジュースのおつりでもらった硬貨。
偶然財布に入らず、ポケットの中に入っていた――。
……。
……なんだ、たったの五円か。
俺は、ポケットからそれを取り出し、しみったれた額の硬貨の姿を確認して、再びため息をついた。
これっぽっちの金で出来ることなど、たかが知れている。
俺は、それをしばし眺めると、そのわずかな額の硬貨の有効な使用法について考え始めた。
折角ポケットから出てきたのだ、小銭として使うために財布の中に入れるより、もっと有効な、最大限将来のためになる使い方をしてやろう。
――と、なれば……。
そして俺は、五円玉を握り締めて立ち上がった。
大きく深呼吸して神社の階段を登る俺。
登り終えると、目の前の賽銭箱にそれ――五円玉を投げ入れる……。
神頼み。
とりあえずこの金額で、今の俺に出来ることはまぁ、せいぜいこれくらいだろう。馬鹿正直に生きてきたのが今の自分にとっては唯一の誇りだ。
そう開き直った俺は、目の前の鈴を鳴らし、ひとまず手を合わせた。
――すぐにいい仕事が見つかりますように――。
こう念じながら、俺はこういうことをするのはそういえば随分久しぶりである事を思い出していた。
自発的にこんな事をするのは何年ぶりだろうか?
……そういえば今年の冬は初詣にも行ってなかった。
まさに困ったときの神頼みと言う奴だが……まぁ強く念じれば大丈夫だろう。
俺は神様とやらの寛容さを信じて、とりあえずもう一度手をこすり合わせた。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ……」
これでよし。
ひとまず頼むだけは頼んだ。
あとは自分で何とかするしかない。
俺は神頼みしたことで気持ちに一区切りをつけ、家に帰る事にした。
神様がいるかどうかという話はさておき、春先の神社はまだ寒い。
落ち込むにもこの先の方針を決めるにも、まずは家に帰ることが自分にとっては大切なことであるようにこの時の俺には思えた。
振り返り、階段を下りると、のん気に餌をついばんでいた鳩たちが一斉に飛び立つ。
俺はその中を下を向いたまま鳥居に向かって歩きだし――。
――そして俺は「それ」に出会った。
「……?」
――それは、普通よりは一回りは大きいカラスだった。
周りの鳩が一斉に飛び立つ中、そいつは参道のど真ん中、俺の目の前にでん、と居座り、こちらを見据えている。
そしてそのくちばしには、なぜか紙が一枚……?
まるで誰かに頼まれて持ってきたかのようにそれを咥え、そいつはこちらをじっと見据えている。
その威容な姿に、俺は思わず足を止めていた。
「……なんだ?」
俺がそう呟くと、カラスはギャア、と一声鳴く。
それに伴い、はらりと落ちる口の紙切れ。
まるで俺の言葉に答えるようなその仕草に、俺は眉をしかめた。
そして、そこで見えたカラスの足に目をやった俺は、思わずその姿に目を見張る。
「……三本?」
そう、驚くべき事に、よくよく見れば、なんとそのカラスには足が3本ある。
奇形なのだろうか?
しかしその真っ黒で巨大なカラスは、それが余計な足というわけでもなく三本の足でしっかりと地面に立っていた。
カメラの三脚のような立ち姿のそいつは、鳥特有のきょろきょろと首を振る動作もなく、じっとこちらを見据え、手前の足で落とした紙をしっかりと踏みしめている。
ジロジロ見るなよ、とでも言いたげなその姿に、俺は気圧され、思わず後ろに下がった。
「……気持ち悪いな。」
黒いカラス、三本の足……。俺はその姿から受けた印象を率直に口に出す。
それに対しカラスはまたギャァ、と鳴き、先ほど地面に落とした紙をこつんこつんと突いてみせた。
その意味ありげなしぐさに、俺は先ほどとは違った何かの別の意図を感じ、今度は眉をしかめてその大きなカラスを覗き込んだ。
「……拾え、ってことか?」
俺がそう言うとカラスはまたギャァと鳴く。
その仕草はまるでこちらの言葉を理解しているかのような……。
……。
「……まさかね。」
俺は一瞬頭をよぎった考えにそう呟くともう一度カラスを見た。
……が、そいつはやはりこちらをじっと見据えている。
俺は、そんなカラスを無視しよう――。
――としたが、なぜかその場を離れることができず。しばしその場で奇怪な巨大カラスとにらみ合うこととなった。
しばし沈黙。
……結局、俺はしばし困惑しながらカラスとにらめっこした後、根負けして恐る恐るその紙を拾い上げる事になった。
ギャア!
そして、紙を拾い上げたとたん、カラスは鳴き声を上げ、今度は羽音を立てて空へと飛び立つ。
ギャア!
まるで自分の使命を果たし、満足したかのように飛んでいくカラス……。
唖然とそれを見送る俺には、一枚の紙切れと、そして周辺を舞う数枚のカラスの羽根が残された。
「何なんだ?一体……。」
奇怪なカラスが飛び去ったあと、何気なく拾い上げた紙に目をやる俺。
そこには、なにやら上等そうな和紙に達筆な筆字で「求人」の文字がでかでかと書かれていた。
『求人、コンピューターの使える人、求む――弘田土地管理――』
続いて書かれていた、とってつけたような内容の文面、電話番号、そして会社の位置を記した地図……。
……。
お告げ?カラスが?
「……そんな馬鹿な。」
俺はそう言いつつも、なぜか不思議とその紙を捨てる気になれなかった。
結局俺はこの日、この拾った求人広告の電話番号に電話をすることにした。
奇縁と言うべきか、ちょうど自分はパソコンの扱いには慣れていたし。今月なんとしても収入を得なければ飢え死にしてしまう状態だった。そしてなによりこの奇妙な入手方法で手に入れた広告を無視したら、何か大きな損をするような気がして仕方がない、理性とは違う何かが俺にそう言ったような……。
……いや、そんな気がしたからだった。
職種は不動産とあるが、こんな張り紙を、それも筆字でやるところから見て、おそらく小さな会社なのだろう。
「コンピューター」などという表現を使うところにも微妙に年寄り臭さを感じるが……。
まぁ、会ってから決めても遅くはないだろう。
様々な試行錯誤の末、結局俺はそう割り切る事にした。
田舎での経験で老人の相手をするのには慣れているつもりだ。
この調子ならノウハウを武器に多少職場で好き勝手できるかもしれない。
そうして俺はチラシにあった電話番号に電話をかける事となったのである。
昼食後、意を決してかけた電話には、数回の呼び出し音の後、いかにも中小企業のおじさんらしいの声の中年の男が出た。
彼は
『まいど。弘田でございます。』
などと間違えて家に掛けたのかどうなのかわからない第一声で俺を出迎える。
……多分、お得意さんばかり相手にすることの多い会社かよほど老舗なのだろう。
俺はやや訛りの入ったその声に一瞬ためらったものの、横目で広告の「弘田土地管理」という文面を念のため確認するとそう解釈を入れ、ひるむことなく用件を端的に伝える事にした。
「あの……求人広告を見たんですが。」
『ほう?で、名前は?』
「佐藤、宏です。」
『佐藤、宏……ね。はいはい、わかりました。地図は持ってはるんかな?』
「はい。」
『君自身が来るんやね?』
「はい。」
『今、仕事はしてないんかな?』
「はい。」
『ほな、好きなときに来て。場所分からんかったら電話してくれたらええから。』
「はい?」
がちゃん
最後の「はい」は、完全に疑問の投げかけだったのだが、しかし、電話はそれを無視してあっさり切れた。
当然、切れた電話は返答を返すわけでもなく、空しい電子音を奏で続ける。
俺はしばしその音を聞きながら、唖然となってしばし受話器を眺めた。
……すげぇな、中小企業。
アバウトさ全開の応対にいささか電話を掛けた事を俺は少し後悔した。
さて!始まりました。「ごっどぶれすゆー」
世は平成不況の真っただ中。
不思議ななカラスにもらったチラシ。
行くのはヘンテコ中手小企業
鬼が出るか蛇が出るか!
次回公開は近日中。
皆様続きをお待ちあれ!