【8】脱走失敗
移動先は屋敷の中で、そこにいたのは、寝巻に一枚羽織った姿のアヒムだった。
アヒムはエラの姿を見ると、流石に文句をいう気持ちが失せた。目を血走らせて涙を流し鼻から血を流しながら暴れているのだ。言葉もなくなるという話だ。
「精霊様。おろしてください」
アヒムはジュラエル語でそう告げた。
そうすると見えない何か――精霊は、あっさりとエラとビルを下におろした。その時、精霊はビルを括っていたシーツの結び目をするりとほどいたので、ビルは一人でころんと床に転がった。
「ヒューッ、ヒューッ、カヒュー……」
倒れこんだエラは荒い呼吸を繰り返した。そんな彼女のすぐ横にアヒムは腰を下ろした。
「何故逃げるような真似を?」
エラはもはやピンクではなく赤くなり、涙でうるんだ瞳でアヒムを見上げた。しかし何も言わず、唇をかみしめた。鼻血は知らぬうちに、止まっていた。
はあ、とアヒムは溜息を吐き、パンパンッと二度手をたたいた。
夜中だったが、サッと人が集まってくる。
「一度風呂に入れて、寝させなさい。もう一度逃げ出さないように見張りを置くように」
アヒムの指示はジュラエル語だったので、エラには理解できなかった。
自分一人で、何人もいる使用人を振り払って逃げる事などできない。
エラは力なく肩を落として、そのまま連れていかれた。使用人たちは丁寧にエラの体を洗い、新しい清潔な服に着替えさせ、部屋に寝かせた。ビルはエラよりも先に洗われて、スースーと寝息をたてていた。
同じ部屋の中には、数人の侍女がずっと壁際に立っていた。先ほどエラが逃げ出した窓の外には、騎士がいた。廊下にも騎士がいるのだろう。
エラは逃げる事を諦めて、目を閉じた。同時に、もっと分からなくなった。
(あの貴族は、なんでここまでするんだ……)
◆
その後、たまに会いに来るだけだったアヒムは毎日エラたちの所にやってきた。恐らく監視を強めるためだろう。
絶えずエラとビルの周りには人がおり、エラが一人になる事は殆どなくなった。さすがのエラももう逃げ出すのは無理だと諦めている。
ビルは周囲の異様な雰囲気に気が付いていないのか、いつも通りだった。ごはんがおいしいから、ここの事を気に入っているのだろう。
エラは窓際で足を雑にあぐらに組んで、外を眺める。その光景には絶えず騎士がうろつくが、部屋の中で天井などを眺めているよりかはましだ。
「アヒムさんにキラキラさんだっ!」
今日もアヒムがやってきて、ビルはそう喜んだ。
あれから暫く立ち、さすがのエラも理解した。ビルのいうキラキラさんとは、あの夜、エラには見えない何かであった、という事を。
エラは入ってきたアヒムにちらりとだけ視線を向けたが、すぐに窓の外に視線を戻す。彼と話したい事はない。
(売り払うでもなんでもいい。……ビルと引き離されなければ)
アヒムとビルが会話をしたり遊んでいる音を、ぼうっとしながら聞いているのがいつもだが……今日のアヒムの発言は、聞き逃せなかった。
「ビル。きれいな服に着替えましょう。君のお母さんに会いに来た人がいますからね」
「ママに?」
エラは眉をひそめてアヒムやビルを見た。ビルはきょとんとしてアヒムを見上げてから、エラの方を見ている。わずかに体に力を入れながら、エラはアヒムを睨んだ。
「……あの国には帰らねえ!」
ついにあの国から、エラたちを捕まえに伯爵の手の者がやってきたのか。そう警戒しながらエラは叫び、慌てて立ち上がるとビルを腕の中に抱えた。
そんな様子を見ながらアヒムは落ち着いた様子で首を振った。
「隣国の人とは関係ありませんよ。この国のある貴族です」
アヒムの言葉に、エラは混乱する。
この国にエラは知り合いなどいない。貴族ともなれば猶更だ。一体誰が会おうとしているのか……エラには、さっぱり分からなかった。